こいのたより7
「エ゛ェ……」
部屋の開けてある襖から覗く廊下の向こうに、びちゃっ、びちゃっ、と濡れた音が響き渡る。私とミコト様は袖で作られたカーテン越しに目を見合わせ(?)てから、見えている廊下を見つめた。
「ェエ゛ェー……ザァー……」
「ゾンビみたいな声ですけど、あのあれ、鯉の声ですよね?」
「そのようだな」
「廊下、近付いてきてますよね?」
「そのようだな……」
びちゃびちゃと廊下を濡れ雑巾で叩いているような音が近付いてくるけれど、鯉は普通歩けない。
「うぅむ……長く修行すれば自力で人の姿を得る者もいるが……」
「鯉が人になった姿……」
黒っぽく、口はガボガボ開閉して、瞼がなく虚ろな視線。そして結構なデカさ。あの鯉が人間っぽくなるというのが想像できない。すずめくんやめじろくんは鳥だった頃の可愛い雰囲気をどこかしら残しているけれど、鯉もあの若干不気味な雰囲気を残した姿になるのだろうか。
「エ゛サァ……ゥル゛ウゥリ゛ーィィ!!」
「え、ちょっと今私の名前みたいなのを」
「呼んでおるな……」
びちゃっと音を立てながら近付いてくる声が、ルリと発音したさそうな声を上げている。陸上に慣れていないせいか歩みが遅く、姿がまだ見えないので不気味さが倍増している。
ミコト様を盾にするように後ろに隠れながら廊下辺りを見ていると、ミコト様がングゥと噎せていた。ミコト様も怖いのはダメなのだろうか。紅梅さん達がいたら心強いかもしれない。
逃げるべきか迷ってるうちにびちゃびちゃと音が響いて、とうとう部屋のすぐ近くまで迫ってきた。
「ル゛ゥウリィィー、エ゛ェェサー!!」
びちゃん、と音がして、部屋から見えている廊下へと姿を表した鯉。
そう、鯉だった。
どこも変化することなく鯉だった。
「……鯉じゃん!!」
黒い鯉は、「エ゛ゥ……」と声を漏らしながらパクパク口を開閉させつつ、ビタン、と身を跳ねさせる。水揚げされた魚そのものだった。
「みみみミコト様!! 鯉、水!」
「う、うむ! 誰ぞー! 大桶を持て!」
「はぁい」
とてとてと大きな桶を抱えながら走ってきたのはすずめくんだった。お仕事の途中だったのか、いつもより汚れても良さそうな布の着物で、袖をたすき掛けにしているし、足元も高い位置で括って膝から下は裸足である。
「うわぁ、なんですかコレ!」
「何か鯉がねここまで来ちゃったらしくて」
「もう! こんなに汚して!! 掃除は誰がすると思ってるんです!」
「あぁそっちなんだぁ……」
廊下を跳ねて移動した結果、水の跡が点々と残っているのを見て、桶を置いたすずめくんがぷりぷりと雑巾を取りに行ってしまう。たすき掛けを結んでいる背中の結び目に鞠が挟まっていて、途中でぽんと落ちてこちらに転がってきた。
「ミコト様、水ないですよ。コレにいれて池まで運ぶ?」
「ルリよ、しばし」
大きな桶にミコト様が右手をかざすと、桶の底がゆらりと歪んで水面が盛り上がってきた。おお、と思わず拍手するとミコト様はもじもじと照れ、鞠がころころと転がり、鯉がビタンとジャンプする。
「じゃあ、こいつを……うっ……」
大きい魚が横たわっている姿、よく見ると割と怖い。どこを見ているかわからない目、大きい鱗がびっしり並んだ体、口を開閉するたびに動くエラ。パクパクしている口からは、断続的に「エ゛サ……」とか「ル゛ゥリ゛ィ……」とか漏れ出ているのである。
思わず戸惑うと、代わりにミコト様がむんずと尾ビレの根本を掴んで桶へと入れた。横倒しになっていた鯉は水面を波立たせながら身を起こし、狭い桶の中で2周ほど円を描いた。
「ミコト様……」
「うむ」
「手拭いたほうが良いですよ。生臭くなるし」
「うむ……」
戻ってきたすずめくんが、抱えていた水桶と手拭いでテキパキとミコト様の右手を拭う。そのまま手拭いを水桶に付けて廊下に消えたすずめくんが廊下掃除をしているように聞こえるけれど、あんまり深く考えないようにしておこう。
私とミコト様と鞠が覗き込む桶の中で、黒い鯉が水面に口を出して「エ゛サァ」と鳴いた。