神様の初恋1
傷が疼く。針を刺しているような鋭い痛みと熱を持った鈍い痛みが張り付いていて、雨の日は好きではなかった。なくしてしまいたいけれど、庭を世話している者が困るというので我慢している。庭など、荒れ果てても構わぬと言うのに。それでももう長いことろくに顔を見せぬ主にこうして仕えてくれている者達ばかりなのだから感謝せねばなるまい。
「主様、お客人が参りました。東の大天狗様のお見習い様だそうです」
「……都合が悪いと言え」
「今日で百日のお参りでございます」
めじろが告げた客はここのところずっと訪ってきては願いを叶えよと求めてきている。門前で追い払っているが、懲りる気配がないらしい。私のような力のない神を頼るよりも他の方法もあるというのに。
「夜明けから日暮れまで、途切れることなくご請願なさっておいでです」
「……わかっておる」
音もなく入ってきためじろが、辺りに散らかった書物を集めて片付けている。薄暗い中で小さい影が動くのを眺めながら、私は溜息を吐いた。
私は人が恨めしい。
己の欲を叶えよと願い、叶わなければ恨み、それでも叶えよと願う人が。
それでも未練たらしく人を見捨てることが出来ないでいる。
願いを叶えて返される小さな信仰を、短い生で力強く生きる人と笑った日々を忘れることも出来ない。
力が弾け傷が出来、恨みでその傷が膿んでなお、束の間の楽しさに思いを馳せることもある。
私が悪かったのか。争わぬように導くことも出来たのではないか。どうすればよかったのか。
そうして自問しているうちに世の中は移ろい、私だけが取り残されていた。
「お見習い様はもとは人の子だったとか。現し世に遺した我が子を憂えて、主様におすがりしたいのだそうです」
「……」
「ひとり娘で、母親の寿命も近く、悪しきものの気配がすると」
「……」
「街をしっかりとお守りくださるだけでも構わぬと」
「わかった、わかった」
「お支度なさいますか?」
唸ると、めじろが心得たように頭を下げた。梅が着替えを持ってきて、顔を出さずに下がる。それを持ってめじろが私に近付いた。
「灯りはひとつだけにせよ」
「心得ております」
部屋の遠くに灯された火から顔を背ける。暗い中でもめじろは慣れたもので、私を見上げぬようにしながら手早く衣を整えた。櫛は手にとって己で適当に纏め、重い足取りで広間へと向かった。御簾の向こうにいる男は、目で見るのはこれが初めてである。頭を下げて微動だにしない男から発せられる願いの気は、長らく感じることのなかった切実で強いものだった。憂鬱だが、胸が締め付けられる懐かしいものだ。
「顔を上げ、そなたの口からそなたの願いを述べてみよ」
「……は、わたくしは未だ名もなき天狗の見習い、東の大天狗様のところで修行中の身でございます。このたびは、わたくしが現世に遺した未練をお救いいただきたく……」
「人の縁から外れたのであれば、例え我が子であれ忘れるべきではあるまいか? 心残りはそなたの足を引っ張るものぞ」
「承知しております。元より人の道を外れたのは、愛する者を守りたいと思ったからでございます。しかしわたくしの力ではまだ人を救うことができません。どのような苦難であろうとも、叶えられるのなら甘んじてお受けいたします。何とぞ、お力をお貸しください」
「そなたもわかっておろうが、私は穢れを持つ身。力も弱まっておる。それでも願うのか?」
男の瞳が、御簾ごしに暗いこちらを見透かすように真っ直ぐに向けられる。
「我が子はこの地で生まれ、この地で育ちました。あなた様より他にお頼りする方がおりましょうか」
「……わかった。東の天狗の顔も立てて悪縁を払う手助けくらいはしてやるが、過分な期待はするでないぞ」
「ありがとうございます」
「してその娘の名は」
「箕坂瑠璃、齢十五の娘でございます」
娘のことを書いた紙を差し出した男を帰らせると、自室が綺麗に磨き上げられていた。御帳台は取り払い、書物は仕舞われて、塵一つなく磨き上げられている。灯台も増やされていた。
「お仕事をなさるようなので清めておきました」
「……灯りはいらぬ」
「おひとりでいらっしゃるときにお使いくださいませ。めじろはこれで失礼いたしますので」
めじろは熱い茶の入った湯呑を差し出すと「今日は夕餉をご用意いたします」と頭を下げて素早く消えた。勝手なことをと思うが、久々に神としての仕事をこなすことを喜んでいるのかもしれない。
茶を飲むと、久方ぶりに食べ物が喉を通った。若く甘みのある茶の香りが懐かしく舌に広がる。人に会って疲れたのでしばらく休もうかと思っていたのに、熱い飲み物が体を目覚めさせ、きちんと片付けられた部屋に急かされて文机に向かった。
名や生まれ年、住まいの書かれた紙を眺めて、意識を土地へと集中させる。随分と様変わりした街が流れるのを見ながらまず家を見つけ、そこに繋がる娘を見つけた。くっきりした黒い目が印象に残る顔立ちをしている。
何やら食材の入った袋を抱え、器用に扉を開けて家に入る。慌ただしく立ち回って夕餉の支度をしているようだった。
短い黒髪を高く結びあげ、書物を眺めながら野菜を切っている。深い鍋にすべてを入れて蓋をすると、今度は家を掃き清め、風呂場を磨き、それからようやく椅子に座った。何やら書き付けながら、幼い顔がうとうととまぶたを重そうに持ち上げては閉じている。大きな音が鳴って鍋の火を止めると、しばらく玄関の方を見てからため息を吐いていた。
ぐっと伸びをしてから立ち上がり、着替えを持って風呂場に入ったところで、慌てて目を戻す。灯りの揺れる部屋に意識が戻ってきてから、加護をつけるのを忘れていたことに気付いた。
「あ、いや」
もう一度外を見ようとして、それから止める。人の娘の風呂場を垣間見するなどと。
そう、時間が悪かったのだ。長らく籠もっていたせいで人の営みがわからず、また今様の暮らしも物珍しくてついつい眺めてしまった。
残り少ない湯呑を飲み干して溜息を吐き、加護を付けるのは娘が寝静まってからにすることにした。




