こいのたより4
「グ……グゲェーガァ、グゲェガァアー」
最初は呻き声のようなものだったものが、数日でしっかり大きい声になっていた。
やっぱりこの黒い鯉、他となんか違う。
餌を撒き終わっても泳ぎ去ることはなく、池の側にいればじっと近付いてきて鳴き声を上げている。池の円周に沿って移動してもついてくるので、こっちに向かって鳴いているらしい。
「ね、鳴いてるでしょ?」
「鳴いてますねえ」
隣り合ってしゃがんだすずめくんが黒い鯉の頭を指でつんつんと突きながら同意した。
「これどうしたらいいの? エサあげないほうが良いのかな?」
「グゲァ!」
「エサはあげたほうが良いんじゃないですか? ほら、これ多分エーサーって言ってますよ。ね、エーサー」
「グゴェグガァ」
「ええぇ……無理やり過ぎない?」
「そんなことないです! ほら、エ・サ! 言ってごらんなさい。エーサー!」
「グガァ」
エサをチラつかせつつ、すずめくんは鯉の発音を正そうと試みている。ふくっとした可愛い男の子が一生懸命鯉に話し掛けている光景はとても微笑ましい。鯉が変な声を出していなければ。
「グゲァガァ、ゲーガァ……グェーダ、ゲーザアァ」
「うわ、わりとエサっぽい発音になってきてる。怖っ」
「きちんと発音するのですよ。ここで言の葉を得たからには、正しく主様にご挨拶出来るようにするのです。綺麗に喋れるようになるまですずめが教えます」
「グェザァ」
「エ・サ! エーサ! 簡単ですよ!」
「ひえぇスパルタァ……」
意外に厳しいすずめ先生の熱血教育により、その日が終わる頃には黒い鯉が「エ゛ザァ」と鳴くようになっていた。グエグエ言っていた時より数倍怖いけれど、すずめくんは非常に満足そうなのが印象的な一日となった。
「というわけで、庭の鯉がエ゛ーザー! って鳴くようになっちゃいました」
「うむうむ。ルリは今日も頑張っていたようで何よりだ」
「いや私はエサをすずめくんに渡してただけですけど」
「うむ、それも立派な仕事だ」
夕食の席でミコト様が褒めてくれたものの、特に頑張ってはいない。すずめくんは熱血指導でお腹を空かせたのか、十五穀米をもりもりと頬張っていた。今日のお肉は鶏肉の塩麹唐揚げである。実際の雀になれると知った時に「鶏肉は共食いでは」と不安になったけれど、すずめくんは気にしていないどころか鶏肉メニューは好きらしいので気にしないでおく。ふくっとした可愛い見た目に美味ければ何でも良いという男前な精神を持ち合わせているのがすずめくんという生き物なのだ。
「この屋敷に長く身を置いていると、たまにそうして人語を解するようになるものが出るのだ。流石に魚が喋ったのは初めてだが、あそこの鯉はここへ来て長いからな。おおかたルリと喋りたいと思ったのであろう」
「私か……」
「ルリがその、もちろん魅力的であるというのはそのあれだが、そもそも人間というのは我々にとって特別な存在でもあるからな、そのもちろん私にとってルリはそれだけではないが」
「なんで人間が特別なんですか?」
「う、うむ、我らは人の目によってこそ姿形や性を定むるのでな」
私のハァ? って顔を察したミコト様がやさしく噛み砕いてくれた説明によると。
神や妖怪、幽霊とか呼ばれている存在というのは、人間がその存在を認識して初めてそれ自体が自覚を持つらしい。人に会うまでは非常にぼんやりした輪郭の曖昧な存在で、見る目を通して初めて自分というものを意識するのだそうだ。
「へえぇー何で人間だけなんですかね」
「それはわからぬ。私のような神と呼ばれるものでさえ、拝む人間がいてこそ力を発揮できるのだ」
お屋敷の中で季節を好きに変えたり太陽の上る時間をずらしたり出来るミコト様だけれど、人間に参拝されなければ少しずつその姿が消えていくことになるらしい。どれだけ力があってもそれは変えられなくて、人間は何にもできなくても、そうやって神様や妖怪や幽霊の存在を明確にすることができる。なんだか不思議な話だった。
昔は神様や妖怪のことを信じている人が多かったけれど、それはだからこそそういう存在がたくさんいたのかもしれない。
「じゃあ、ミコト様も消えちゃうかもしれないんですか? だってあの神社、ぶっちゃけボロボロでほとんど知ってる人いないみたいだし」
「私を心配してくれるのか。大丈夫だ、ルリがいるからな」
「でも私一人だけですよ」
「一人だけでもよい。ルリは私に助けてくれろと願ったが、それを叶えて助けられたのは私の方なのだ」
「でもほら、私そんなにちゃんとお願いしたわけじゃないし、あんまり宗教とかよくわかってないし」
「ルリが立派であるとかそうでないとかの問題ではない。誰かの願いを叶えて感謝を受けるというのを長らく忘れていたのを思い出させてくれた。私はそれがとても嬉しかったのだ」
別に、本当に神様に助けてほしくてお参りしたわけじゃなかった。
あの神社がある小さい森は薄暗くて、存在感がなくて、誰も入ろうとは思えないような入り口で、だから隠れるのに良いと思って通っていただけ。そういう気持ちだったのにミコト様は穏やかな声で嬉しそうに言うから、なんだか私の方がいたたまれない。
気まずい気持ちになったのに気付いたのか、ミコト様が慌てて明るく付け足した。
「とにかく! その鯉もきっとルリと喋りたい一心で声を得たのであろう。今度からエサをやる時にでも声を掛けてやると喜ぶぞ」