こいのたより1
春の庭の朝は少し肌寒い。やうやう白くなりゆく山際は見えないけれど、まだ日が見えていない空はグラデーションになっていて綺麗だった。夜露を溜めた葉っぱに濡らされないように飛び石の上を歩いて池の近くまで行くと、端の方でゆったりと動かずにいる鯉の姿を見つけることが出来た。その中の一匹、黒い鯉だけが元気にこちらへ近寄ってくる。
「お前は朝から元気だねえ」
ガボガボと音を立てながら口を開ける鯉にエサをやる。紙コップに入っているのを傾けてバラバラと水面にこぼすと、水を飛ばしながらそれに食らいついていた。今あげているのはお麩ではなくて鯉用のエサなので、手で掴んであげるとちょっと臭うのだ。前にミコト様にお麩だけだと栄養が偏るのではないかと言うと用意してくれたものである。
「色鮮やかになるらしいけど、君は黒いしね……」
水面に波立ってようやく起きてくる錦鯉組と比べて、黒い鯉は貪欲にエサを食べている。原種に近いほうが生命力が強いのだろうか。
「……食用じゃないよね?」
秋の庭から鹿の声が聞こえるという話をミコト様にした翌日、夕食が鍋だった。美味しいけれど赤みの変わったお肉で何気なく何のお肉か尋ねるとすずめくんが笑顔で「もみじです!」と答えたのだ。もみじ肉というのは、つまり鹿肉らしい。キュンキュンと鳴いていた鹿が土鍋にインしていることを考えると、思わず遠いところに気持ちを飛ばしてしまった。
ミコト様的には親切で提案してくれたメニューらしいけれど、今度から食用になりそうなものの話題には気をつけようと思った出来事だ。
全部のエサを撒き終わって立ち上がると、黄緑色の着物を来ためじろくんがそっと近付いてきた。手には梅の枝をそっと抱いている。
「ルリさま」
「めじろくんおはよ。まだみかん採ってないよ」
「いいえ、めじろはこちらをお届けに参りました」
白い手に持っている枝をうやうやしくこちらに差し出してくる。赤い花のたくさんついた梅の枝の途中に白い紙が結んである。
「主様からの文にございます」
「……ってね、貰ったわけですよお手紙を」
「素敵ね」
「恋文ね」
今日のオヤツは落雁である。スズメとメジロの形をした小さいお菓子は、口に入れるとほろっとなって甘い。東の建物の春の庭が見える部屋で私と梅美女ズはお茶タイムとしけこんでいた。
キャッキャとはしゃぐ紅梅さんと白梅さんがそれでそれでと促してくるけれど、私はそれ以上話すことがなかった。
「読めない」
枝にゆるく結んであった和紙を破かないようにとって開いてみると、出てきたのは墨で書かれた縦書き。草書とかいうやつだと思うけれど、私にとってはどう見ても筆の試し書きというか、曲線の練習というか、まあ、全然読めなかった。文字が上手なのかすらわからないのだ。どの文章を見ても、たまに何か漢字がある、あとは「し」をいっぱい書いてあるのか? くらいしかわからない。多分違うと思う。
「1番左に書いてあるのが多分、私の名前だと思う。それはわかった。その横が日付で、だからこの下のが多分ミコト様の名前? みたい? あとはもうぜーんぜん何を書いてあんのかわかんない」
「ルリさまはいつもくっきり途切れた字を読んでいるものね」
「文を読むのが難しいのね」
梅に結ぶとかさすがミコト様は雅だなーとか思いながら開いた瞬間、くにゅくにゅした文字が並んでいた私の気持ちも考えて欲しい。
全然解読できないまま、もうお昼過ぎである。
「読めないのは大変よね」
「読んで差し上げたいわ」
「あーうん……でもめじろくんがこれ恋文だって言ってたし……」
よくわかんないのでめじろくんにミコト様が他になにか言っていたか訊くと、「ここのところ悩みまくっていた結果捻り出された恋文です」とさらっと言われたのだ。
恋文なのであれば、他人にほいほい見せる訳にはいかないだろう。私が読めるようになるべきなのだろうけれど、くにゅくにゅしているくらいしかわからない状態からどれだけ時間をかければいいのかすら見当がつかない。
「しかもミコト様、返事待ってるし」
「向こうから覗いているわねえ」
「じっとみているわね」
「いやこれどないせいっちゅーねん……」
紅梅さんの枝っぽい梅はみずみずしく香りがついていて、和紙にも鼻を近づけると僅かにお香の香りがする。墨も滲んでいるところがなくて、多分素敵なお手紙なんだと思う。ただ、ミコト様は送る相手を間違えたよね。
「ルリさま、悩んでいるのもかわいいわ」
「ルリさまはそれでどうするの?」
「とにかくお返事を書こうと思う。わかんなかったという内容のお返事を」
「お返事ね! 素敵ね!」
「主様もきっと喜ぶわね!」
「私は紙を持ってくるわ」
「私は墨を摺るわね」
「あぁ……返事も筆なのか……」
書道の授業なんかもんのすごい適当に受けてたけど、まさか活用する時が来るとは。
上手とか下手とか意識せず、わかりやすく、大きな字で書こう。伝わるように。
私はとりあえず主屋が見える部屋から引っ込んで、白いシャツから着替えることにした。