倉庫の怪4
手に取ってみると鞠は割と丁度良いサイズだった。
ドッジボールよりも小さく、けれど野球ボールよりは少し大きく、片手で上から掴み上げられそうだけれど、綺麗な糸がつるつるしていて少し難しい。とても軽いけれど、中は空洞ではなさそうで、少し樟脳の匂いが付いてしまっている。
「儂らはみな人の手に長くあって、情の移ったものばかりなのじゃ」
「はあ」
空気を掬うように少し丸めた両方の手のひら、その少し空けた隙間をぽんぽんと移動する鞠とバッテリーが少なくなってきているスマホだけが私と一緒に絵の中に入ってきたようだ。正直鞠はどういう仕掛けなのかよくわかってないけれど、もうこの際気にしないことにした。
「情が移るというとな、人はそれを気にかけているということじゃろう。これは本当に気を移しておるでな、多く気を貰った物はやがてそのものが情を持つようになる」
「えっとつまり大事にされたから気持ちが生まれたと。あのあれですよね、付喪神的な」
「よう知っておるな。付喪神ともなれば動くことも出来るが、あれは稀なことでな。人の世では情を持ったはいいが物のままなのが多い。情けを貰った持ち主に感謝を伝えることも出来ず、ないがしろにされた恨みも晴らせず、壊れて朽ちていくか捨てられてしまう」
「それはちょっともどかしそうですね」
長年大事にしたことで一見何も変わらなくても物に気持ちが芽生えることがあるなら、ちょっと今までのものに対して色々と気持ちが変わってきてしまう。ランドセルとか鋏とか机とか、もしかして色々と私に鬱憤が溜まっていたりしたのではないだろうか。これからはもっと大事に扱おう。
「とは言っても人の命も儚いでな、人と物、いつかは離れる定めにある。そうして情が芽生え、主も無くした物がいつからかここへ身を寄せるようになったのじゃよ」
「へぇ」
「ここはかのお方の神気に満ち溢れておる。人の世では成せなかったこともなせるようになった」
だけどここには人間は住んでいなくて、神様であるミコト様か、お仕えしているすずめくん達しかいない。人に対して報いたい、また人に大事にされたいという気持ちを抱えたまま、おじいさんをはじめとする情を持った物達は倉でじっと待っていたらしい。
ん? ということはやっぱり、すずめくんやめじろくんも人間じゃないのか。そうっぽいなとは思っていたけど。
「かのお方も人の世に交わって様々な苦労をされた。我らの欲でもう一度現し世と渡りを持てなどと到底言えなんだ」
「ミコト様が?」
おじいさんは頷いて、釣り竿をもう一度川へと投げる。長い眉が心なしかしょんぼりしているように見えた。
「ここへ来て幾年が過ぎたか、もう人と会うのは諦めておったものも多い。そこへ現れたのだからあの喜び様はわかるじゃろ」
「そうですけど、普通はびっくりしますよ。真っ暗な中で閉じ込められたら」
「倉もずっと閉じ込めようとは思わんよ。ただもう少しここにいてほしかったのであろ」
「倉自体もそうなんかい」
スケールの大きい話だ。倉はどうやってこのお屋敷に来たのだろうか。気になる。
「ここには悪しき情を持ったものはおらん。誰も人であるそなたを傷つけようとはせんよ。娘さんを招いたのは、それをお許しになるお方でもなかろう」
「そうですね」
「かのお方は物にも怪にもなりきれん儂らを受け入れて下すったお優しい方。我々はあのお方が真に幸福を取り戻す日も待ち望んでおる」
幸福を取り戻すというのはどういう意味なのだろう。
訊いてみようか迷っていると、どこからか名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ルリーッ!」
「あ、ミコト様の声だ」
「お迎えにいらしたな」
もわんもわんと空が揺れ、黄緑色の服を着たミコト様が大きく映し出される。まあ、ほとんど袖しか見えていないけれどあの慌て具合はミコト様で間違いないと思う。
「ミコト様ー」
「ルリ、ルリよ、おおそんな屏風に入って……少し待つがよい」
もわんもわんした空に裂け目が出来て、でっかい手がゆっくり降りてきた。これに捕まればミコト様が引っ張り上げてくれるらしい。スマホを落とさないようにポケットに入れて、鞠もしっかり脇に抱え込む。
「じゃあ帰りますね」
「楽しかった。またいつでも遊びに来ると良い」
「今度はビビらせないように他の物にも言っておいて下さい」
「ルリ、良いか? 持ち上げるぞ」
皺の多い顔で笑ったおじいさんが遠くなり、めまいがしたと思ったら濃い香りに包まれていた。
「ルリ……」
美声が降ってくる。すべすべの上等な布が頬に気持ちよかった。腕の中でムズムズと動いている鞠を手放すと、ぽんぽんと転がって床へ落ちていく。
「目上の来客がおったので遅くなって済まなかった。ここの物らがルリに害をなすことはないと思ってはいたが、暗くて怖かったろう」
「はい」
屏風の外はひんやりしていて暗い。けれどしっかりミコト様が抱き寄せてくれているので温かくて、不思議な良い匂いのお陰で埃っぽくも感じない。
けれど、その良い匂いの中になんだか変な匂いがした。
くんくんと嗅いでいると、ミコト様が「ホァア!!」といきなり叫んでエビのような勢いで離れていく。
「なななぬ!! ぬ! す、すま! ぬ!! べべべべつに!! そんなつもりは!!」
「耳元で叫ばれると結構うるさいです」
「すまぬ! 色々とすまぬ!!」
多分抱き寄せていたときは顔が見えていたのだろうけれど、我に返ったミコト様はもう既にちゃっかりと袖のベールを下ろしていた。残念。
「すまぬ! と、とに、かく、外へ……!!」
「そうですね。いい加減寒くなってきました」
「そそそれはいかん。風邪を引かないと良いが」
倉の扉はミコト様が近付くとあっさりと開く。自動ドアである。眩しい光から目を守りながら下駄を履くと、倉の中からガタガタと色々な音が聞こえてきた。てんてんと、闇の濃い中で鞠が大きく跳ねている。
「またね」
手を振ると、倉はゆっくりと閉じていった。