変化5
ミコト様は神様なので、多分何かの成分が出てるんだと思う。絹の着物の気持ちよさとか、それ越しに伝わってくる腕の温かさとか、声とか、他の何にも似ていない良い匂いのお香とか、そういうのから何か滲み出ているんだと思う。
だから、イライラしてただけなのに勝手に涙が出てきてしまったのだ。
何だか悔しくてしがみついて高そうな着物に涙を吸わせていると、軽い足音が2つ廊下を近付いてきていた。それが近くで止まると、ミコト様がまだ少し湿っている私の頭にそっと触れながら声を出した。
「しばし人払いせよ。呼ぶまで誰も寄越さぬよう」
「かしこまりました」
「主様、ルリ様、あの」
「後にするがよい」
「すずめ、行こう。主様、向こうのお部屋でお過ごしくださいませ。調えております」
芯のあるよく響く声は、あまり大きな声を出しているわけでもないのにどこか強制力があった。何か言おうとしていたすずめくんも、しばらくしてからはいと返事をしてめじろくんと一緒に静かに歩き出す。その足音が聞こえなくなったあたりで、ミコト様は私の髪を優しく指で梳いた。
「ルリよ、立ったままでは辛かろう、向こうで休まぬか」
「……」
「動きたくないか? どれ、しばし……」
子供をあやすような優しい声でそっと問いかけて、ミコト様が私の腕を持って自分の首に回す。それから屈んで、背中と膝の後ろに腕を回してそのまんま子供のように持ち上げた。体が揺れて、私はミコト様の肩に顔を伏せて抱きつく。
揺れるがしばし我慢するがよい。どこも苦しくはないかと問いかけながら、ミコト様が廊下を歩く。顔を伏せていたからわからないけれど、少し行った大きい部屋のところで曲がって中へと入ったようだった。板の床を歩いていた足音が、入ってしばらくすると畳に上がって柔らかい音になる。
「ルリ、このまま座るゆえ、少し揺れるぞ」
よっこいしょと掛け声を出しながら、ミコト様は私を抱っこしたまんまで座る。私の足に気を付けながらあぐらをかいて、そっと私をその上で横になるように乗せた。体の左側がミコト様に密着していて、右側には腕が回されている。私は相変わらず抱きついたまんまで、あやすように撫でる手を甘んじて受けていた。
ミコト様はそのまま私に話を聞くでもなく、言葉で慰めようとするでもなく、そっと背中を撫でたり髪を梳いたりしながら黙っていた。僅かな衣擦れの音だけしかしなくて、鼻を啜るのにも気を使うくらいの静かな空間だったけれど、ミコト様がゆったりと撫でてくるので少しずつ私の涙は少なくなっていった。
ずいぶん長い間そうしてから、私はほんの少しだけミコト様から顔を離す。
「……お母さんのお葬式のすぐ後くらいの日、」
声が泣いた後のものになっていて、少し咳払いをする。ミコト様が顔にかかっていた髪を耳にかけてくれた。
「家に帰って、ずっと泣いてたら、あ、の、人が、」
「ルリ、無理をせずとも構わぬ」
「せ、背中、撫でて、下着の線のところ」
そんなに昔の話ではないのに忘れていた。もしかしたら、無意識に思い出さないようにしていたのかもしれない。忙しくて、悲しくて毎日がよくわからないまま過ぎていて、あれも気のせいだったのだろう、と思い込んでいた。
服の上からなぞられただけなのに、自分が物凄く嫌な存在になったように感じたのだ。
「気持ち悪かった。き、汚いって」
「ルリは汚くなどない。だが、辛かったろう」
「別に援交もしてないし、気持ち悪いギャクタイもされてない。でも、何か、」
嫌だった。自分が汚いと思うことが。
頭ではわかっているのに、いつまでも汚れが取れないような気がしていたのだ。
あの陰口で、何より気持ち悪く感じたのがそれだった。
「ルリよ、可哀想に。自分をそう思う必要など何もない」
「気持ち悪い」
「穢れなどつこうはずもないのに……。いたわしや」
気にしていなければ、いつかは慣れて何とも思わなくなっていくようなものだったのかもしれない。部屋に一人で閉じこもって、音楽でも聞いてしばらくすれば気持ちはおさまる。いつも通りに過ごせるはずだった。
人に知られるのが恐ろしいとすら思っていたのに、ミコト様が自分の痛みのように心配して声を掛けてくれるのを聞いていると、本当はこうして慰めて欲しかったのだと気が付いた。汚くなっていなかったと、誰かに言ってほしかった。
「ルリよ、そなたに汚れているところなど何もないが、望むのであれば私が祓ってもよいぞ」
「……祓うって?」
「一応神の末席、浄化など容易く行える。……あ、いやその、自分のことを棚に上げてと思うかも知れぬが……」
お屋敷は、ミコト様の神域そのもの。そこに入るだけで大抵のケガレというのは落ちてしまうらしい。だけど、もし私の気が済むのであれば、ミコト様がお祓いのようなことをしても良いと言ってくれた。
「我が身に穢れを持っておれど、ほれこれはまた違うものというか、何かを浄化するというのは私もこなしてきておるし、きちんと仕事は仕事でやっておるというかなんというか、」
あれこれと言い訳のように喋っているミコト様の聞き慣れた声音を聞いていると、それだけでも随分ホッとする。何だかんだと品質アピールを続ける声を聞いている内に、泣いたせいなのか私の瞼は段々と重くなっていった。




