変化4
個室のドア越しに聞こえてくる声に耳を澄ませながら、音を立てないようにゆっくりと鞄に手を伸ばす。
ここがすずめくんが入ってこない女子トイレでよかったと思った。流石にこんな噂を報告されたら、ミコト様が激おこになって大変なことになるかもしれない。
「何か見た目そんなんじゃなさそうなのにねー」
「そう? でもあの子さー、何か家がフクザツらしいよ?」
「あーお母さん死んじゃったんだっけ?」
私のお母さんが死んだことは、去年同じクラスだった人は知っている話だ。もともとお父さんも早くに死んじゃってたので、他人からかけられるカワイソーの言葉はそれほどこたえるものではない。だけど、流石に半笑い混じりで言われているのを聞くとちょっと腹が立つ。
「それだけじゃなくてさー、何かギャクタイ受けてたんだって」
「えっ! そーなの? 可哀想じゃん!」
「父親と血繋がってないらしいから、ギャクタイってほら……」
「うわ」
そろそろと静かにシャツを脱いで、体操服を着る。聞いてて気付いたけど、この声、委員長だ。こんな風に陰口を叩かれるなんて、私は気付かないうちに彼女の家族を踏み潰したりとかしていたのだろうか。
「でもさー、今なんか違う人の家に引き取られてるんだけど、男の人とベタベタしてるらしいよ?」
「へー」
「だから案外そういうの好きなんじゃ」
そーっと内鍵を開けて、ドアを思いっ切り蹴った。
大きな音で悲鳴を上げて会話が止まる。
スマホを持ったまま、鞄を肩に掛けて個室から出ると、女子3人組と目が合って相手がヒッと息を呑んでいた。一人がうちのクラスの女子委員長、もうひとりがその友達、あと一人は違うクラスの知らない女子だった。顔を強張らせている3人を、そのままスマホで撮影する。
「は? 何いきなり」
「証拠」
「はぁ? 勝手に撮んないでよ気持ち悪い」
いち早く体勢を立て直したのはさすが委員長。しらないけど。普段はあんまり気の強いタイプは相手にしたくないけれど、私は今怒っているので最大限バカにした顔と声でそのマネをしてみた。
「はぁ? 勝手に人の事情で頭おかしい妄想しないでよ気持ち悪い」
「なっ」
「喋ってるのも録音したから。名誉毀損ってやつじゃない? クラスで皆に聞いてもらうし、担任にも言うし、何だったら警察だって行くから。委員長が酷い噂流しましたって」
「あ、あたしが噂流したんじゃない!! されるようなことするから悪いんでしょ!」
「してないし、悪意ありまくりだったよね。皆に聞いてもらって判断する?」
委員長の両脇にいる女子が「やめなよ」と言いながら、小さくなってこちらを伺っている。委員長も含めて皆顔色が悪い。反撃されて怯えるようなことならしなきゃいいのにと思うけれど、ちょっとすっとしたので口には出さなかった。
「あなた達が犯人じゃないんだったら、誰が噂流してんのか突き止めて。今週中にやらなかったらこの音声皆に聞いてもらうね」
「えっ……」
「ちょっと、やめてよ!」
「やってくれないんだったら今から言いふらすから。あのさ、自分がそういう噂立てられたらどう思うかとかちょっとは想像したら?」
スマホをしまって、わざとゆっくり手を洗う。冷たい水が手に触れて少しだけ冷静になったような気がした。それから黙り込んでじっとしている3人にわざと「どいて」とつっけんどんに言って、真ん中を通ってトイレから出た。
すぐ近くに留まっていたすずめくんが素早く飛んできてちゅちゅと鳴いた。心配しているようだったけれど、気にしないでグラウンドへ向かう。学校にいるときはすずめくんは男の子の姿にはならないので、何か言葉で訊かれることはないのが救いだった。
みかぽん達に顔色を心配されながら体育をこなして、それからあとの授業も普通に過ごしたと思う。実際頭の中が何か煮えたドロドロしたもので渦巻いているような感じがして、全然集中できなかった。グルグルムカムカしたまま、バイバイもそこそこに早足で学校を出る。肩に乗せているとすずめくんがバランスを取るために羽ばたくほどだったので、途中からは指に乗ってもらって帰っていた。
暗い木の陰になっているおんぼろ社に靴を脱いで潜り込んで、一旦そこに座り込む。
「すずめくん、帰ったらすぐお風呂入りたい。ミコト様にはお迎えいらないから部屋にいてって言っといて」
随分態度が悪い言い方だと口に出して後悔したけれど、上手く謝る言葉が出てこなくてそのまま口を閉じる。今お屋敷の誰かに会っても、同じように酷い態度になってしまいそうで会いたくなかった。
人差し指をきゅっと薄ピンクの小さい足で掴んでじっと見上げていたすずめくんは、ちゅっと小さく鳴いて羽ばたいて先にお屋敷まで飛んで行った。
溜息を吐いて、スマホの画面を見て、ゆっくり立ち上がる。とりあえず、暑さで汗が肌に張り付いたようになっていて気持ち悪い。
だるい体で足を動かして渡り廊下のような場所を歩き、お屋敷の門をくぐる。
尻尾を振って待ってくれていた狛ちゃん達にも今は立ち止まる余裕がなかった。
最短距離でお風呂場まで行って、脱ぎ散らかしたままシャワーを浴びる。熱めのお湯を痛いくらい出して、何度か体を洗った。イライラしているせいで、シャワーを浴びているのに汗がまだ体に張り付いているような気がする。
さっぱりして気持ちを立て直そうと思ったのに全然変わらないまま、しばらくしてから脱衣所に出た。いつ入ってきたのか、脱いだ制服がなくなっていて代わりにタオルと着替えが置いてある。パジャマ代わりにしているTシャツと短パンは過ごしやすいようにという気遣いだろうけれど、今は何だか上手くその優しさを受け取ることが出来なかった。
黙々と着替えて、鞄を持って廊下へ出る。主屋にあるミコト様の部屋へ行くかどうか迷って、東の建物に作ってもらった私の部屋に戻ることにした。せめて絶対顔を合わせないといけない夕食までには、気分を持ち直さないといけない。
裸足のまま磨かれた廊下を歩いて自室へ向かっていると、すっと通ったすぐ横の襖が開いた。視線を向ける前に、くいっと腕が掴まれる。
暗い色の着物を着たミコト様が、まっすぐ見透かすかのように私の目を見ていた。
「ルリ、ここへ」
痛くないけれどしっかりと掴んだ手に引っ張られて、迎えるように開かれたミコト様の胸への中へと飛び込んでしまう。しっかり抱きしめてくる腕と耳元で聞こえるミコト様の優しい声音と胸を一杯にした香の匂いに苦しくなって、私はミコト様にしがみついた。




