八話 日常の戯れ
誕生日の翌日、朝からもう一泊して欲しいだとか、もう一度スワンレースをするだとか一悶着ありそうだったが、クラッカーや梓達のこともあり、和頼が折れることはなかった。
何より、子供達が退屈そうに飽きていたのと、翌日は誰の誕生日でもない普通の日なので遠慮なく断ち切った。
あの日からおよそ三週間が経っていた。
美輪家にはいつもの日常が戻り、今日までに一度だけイベントが開かれた。内容は柔らかなフライングディスクを使った競技で、バスケットとゴルフとボーリングを足したようなゲームだ。
ソフトディスク、いわゆる柔らか素材のフリスビー、それを指定した様々な的や輪を狙い得点を競う、ごく簡単な遊びだ。ただ、それを行う場所は外ではなく、美輪家が所有する六階建てのビル内。
吹き抜けやエスカレーターなど内装が独特な世界観で、ゲームコース自体は凄く複雑だ。
元々このビルは別のイベントの為に用意したもので、このフライングディスクゲームの為に購入したワケではなかった。
例の如く賞金は約一千万を六位まで振り分けてあった。
一位が五百万。二位が三百万。三位が百万。四位が五十万。五位と六位が二十五万ずつ。合計一千万円。それとは別に景品なども用意されていた。
いつもの常連が参加してくる。別の大会で活躍する者も。
例のホスト達も来ていた。
子供達は、見た目通りに非力でパワーも強さもない。あるのはスピードと身軽さだけだ。
エアーケンカでも分かる通り、か弱いその体は大人と戦うどころか、同級の男子にも負けてしまうだろう。この時期の場合、女子の方が男子より強いことも多いのだが、美輪家の子供は違う。間違いなくか弱い。それは格闘技で最も重要視される体重が、小鳥のように軽い。しかし、それゆえに、それを活かせるものでは無敵。
コリスの如く身をこなし、小鳥のように羽ばたく。しなやかに軽く、無重力にさえ感じる。
仮に鉄棒にぶら下がるような競技があれば、永遠にぶら下がっていられるようなバランスのとれた姿。だが、それはあくまで見た目のイメージであり、か弱いという意味は、その指先も同じであり無理だ。あくまで身軽さの例えである。
あえて付け加えれば、ハヤブサでもなくツバメでもなく、言葉通り、小鳥。
和頼が用意するそのすべてのイベントは、子供達に有利で、楽しく遊べるものしかない。安全でいてスリルと迫力があるもの。パワーではなくテクニック重視のゲーム。
もちろんジェットスキーの様な、一見危険に見えるゲームもあるが、他のスポーツや遊びと比べても、安全度は確保してある。世にあるスポーツや遊びこそ、時には危なく、よく事故も起こる。だからこそ、そこを意識して改善したルールが重要となる。
和頼にすれば、一般的にドッチボールで使われているボールの固さは石と変わらない。当てて避けるゲームに固さは要らないはずだと。しかし、どんなスポーツも得てしてパワーのある者が、思いっきり気持ちをぶつけて、豪快にストレスを発散させるようになっている。
もしプロ野球のボールがスポンジであったなら、素人との差が一瞬で無くなる。しかしその先に第三、第四の要素が必ず生まれてくる。
今のプロよりも遥かにテクニックのあるくせ者が現わる。それは間違いなくパワーとは関係ない技の世界。
ボール一つでこれだ。ルールもいじれば大化けする。
そういうことを「それじゃ詰まらないだろ」と否定する者は本物を知らない。
半端なルールで、パワーや体格でどうとでもなるくだらぬもの。本当の駆け引きも戦略も技やテクニックも知らぬ者。
大人が子供に敗れてしまうほどのゲームこそ、男子が女子に平気で負けてしまうような遊びこそ、すべての要素が必要となる。
バレーボールが風船になっただけで、男子バレーは女子に負けるだろう。ヘタをすれば中学生にも。
ヘトヘトに続くラリー、強引さではまったく勝てる要素がない。背も高く全てをブロックできるのに、そのブロックした風船もまた、簡単に拾えるのだから。
そうなると物を言うのは、身軽さや持久力や第三のテク。体の有利不利が逆転し、つき過ぎた筋肉が邪魔となる。自然なバランスがなければ勝てなくなる。
だが、ただ柔らかく、ソフトにすればいいということではない。今あるルールの本質、その中和。
だから、ボクシングなどは真逆だ。グローブを柔らかくすればするほど、パンチ力の弱い者が散る。だが、それが素手なら、拳に凶器を装着したなら、中学生の悪ガキの拳が世界最強を仕留めることもある。
今のルールしか見たことなければ不可能に感じるが、たったの一発で終わる拳の勝負では、パワーでもスピードでも避ける上手さでもない、新たな要素のみがかけ引きとなる。それこそフェイントやだまし討ちのような。
ボクサーのフットワークも避けもガードも無と化す。分かりづらければ、ナイフの刺し合いと思えばいい。
真剣での果し合いに、スポーツのセオリーは何一つ通じない。
ボクシングの元を辿れば、行きつく起源は喧嘩だ。
そこには、体の大きさも体重も関係ない。そんな縛りもない。そして、大きくて重い奴が、必ずしも最強だったとは限らない。
グローブが凶器になるだけで、フェンシングや卓球の様な、パワーではなく、一見スピードが鍵のようでいて、実はそうではない第三の要素が必要となる。
つまり何が言いたいかと言えば、世の中にある殆どのスポーツは、ある特定の者だけが勝利するような、仕組まれたルールのゲームなのだ。
上手いもヘタもない。ただの出来レース。
和頼もまた、意識的にそうやって子供達に有利な遊びを考えていく。安全かつ全力で遊びつくせるような遊びを。
名もなく馬鹿にされそうな、ただの遊びだが、至る所でそれらは流行し、とある学校では部活にまでなっている。
それは、無理矢理に下とされていた者が、上であぐらをかいている者をぶち抜けるゲームだからだ。
身体能力や体格にハンデのある者達は思う。差を埋める為に試行錯誤し、せっかく機転がきいているのに、他を出し抜くトリッキーさもあるのに、結局、今までのスポーツでは、一部の恵まれた体の者が圧倒的にかっさらう。
仕組みが分かれば凄くつまらない。
今まで凄いと思って憧れた選手も、偽物にさえ見えてしまう。
なにせ、勝負どころが、体を鍛えるでは……、結局一周回って、そういう体質や遺伝が有利なだけとなる。
なるべく、普段のそのままで、けして鍛えることなく勝負できるルールの方がゲームとしての質が要求されて面白い。
研ぎ澄ますのは心、技、と知恵と経験のみ。心技体の体はさほど要らない。
当然、和頼の考えるそれらは、ボールを代えるだけの単純なものではない。
「梓ばぁ~。いないの? 茜ばぁ~は?」
「何~。その『ばぁ~』ってやめなさい」奥から茜が出てきた。
「どうしたのまやか? 何かあったの?」
「また。また変なの届いてるよ」
茜はまやかから小包を受け取り、宛先を確認する。
「本当、しつこいね~この女も。振られてるのが分からないのかしらね。まやか、これ捨てといていいよ」
まやかが任しといてと、蹴っ飛ばしながらゴミ置き場へと向かう。
数週間前から、和頼宛に女性からアプローチが来ていた。元々、たまにそういう類の物は送られて来ていたが、ここまでしつこいのは三度しかない。
結婚をしていないフリーの和頼。というより、結婚経験自体ない。
お金もあり、いいパパを頑張っている和頼、和頼の本質を知らない者であれば、数百人に一人くらいは、本気で和頼とお付き合いを考えたりもする。
そしてアタックをしかけてくる。
何年か前はその割合はずっと多かったが、今はたまにという安定した割合をキープしていた。そんな中、美輪家の一大事として少し波立っていた。
当の和頼は、そんな事態になっているとは露知らず、恵と共に服のデザインをしている。
いわゆる本業。
仕事をしている和頼は、食事を忘れてしまうほど集中し、心配する子供が食事を運ぶまで食べない。
今はその仕事期間に入っている。
今季の新作を四十品ほどデザインする予定だが、残り五つがどうも気に入らないらしく、手直しや、何度も一から考え直している最中。一方恵は、順調にデザインも済ませ、和頼よりも十品ほど多い、五十品をデザインした。
デザインが済んでも、糸や生地などをカタログから選ぶ作業もあり、それこそ、まだまだ仕事は山済み。
金銭面からいって、本当なら仕事などしなくていい状況のはずだが、和頼も恵も梓も茜も良く働く。
とはいえ、その仕事が好きでやりたいからと言う訳でもない。和頼はやはり、好き嫌いでいうのなら、音楽関係が好きなよう。でも、そういう気持ちは除外しして働いている。
「捨てておいた。ホント、やばいよね」まやかが、茜とみよにいう。
みよも少し困っている。このしつこさには経験がある。いわゆるストーカー。
今より数年前、梓と茜と恵が対処していた。当時は、子供達もまだ小さく、役に立ちたくても術がなかった。
色々な策を練ったり阻止をする中に、和頼がホモやゲイだという噂を流せば一件落着すると踏んだ三人が、警備の者が管理する、美輪家のネットサイトやブログに書き込み大変な騒ぎになった。
和頼が三人に注意したのは、その件が初めてで、今の所それ以外お叱りはない。それほどの厳重注意だった。
『別に世の中にそう思われるのは全然構わない。けど、もし、このことが子供の耳に入ったり、それで虐められたらどうするんですか? ホモって何? って聞かれたら俺は、なんて教えてあげればいいンですか? 至急削除して、何処からかサイバー攻撃されたとでも、適当に言い訳して下さい』
大体そんな内容のことを言われ、三人は強く反省している。
だから今回はそういう類の対策はできない。
何より和頼は、前回も今回も、自分の身に何が起きているのかも知らない。これらは全て秘密裏に実行されている、機密事項だ。
和頼はなぜ、ホモだゲイだと書き込まれたかの意味も知らないのだ。
更に、大見得きって『たとえ世界にどう思われようとも』的な発言をしたが、当時、その筋の男性に何度も誘惑されて、誤解が晴れるまでの数ヵ月間は、逃げ回る日々に怯えていた。
またもそんな事件が起きているとはつゆ知らず、和頼は真面目に仕事をする。
和頼が裕福になってモテてしまうことが要因かもしれないが、わざわざ子供達が心配しなくても、和頼は女性になびくことはない。
女性になびくということは、付き合うということであり、その延長には結婚がある。当然、それを子供達も茜達も気にしている。和頼自身、そんなことをすれば、その先に出産があるとか色々な問題があると重々分かっている。
子供との入浴問題だけで、何年も悩むタイプだ。だからこそ和頼は、ヘタなことに流されたりはしない。
しかし、生憎、美輪家の面々はそういうことがまるで分かっていない。分かっているのは、同じ女がどういう生き物で、世間でいう『男』がどういうイメージかということ。それらを総合すると一大事という答えが導き出される。
まやかとみよがどうしたものかと困惑する中、ゆりながキッチン方面から慎重に丁寧にと歩く。手にはコーヒーの入ったコップを持っている。それをせっせと和頼の仕事場へと運ぶつもりなのだ。
と、そこへみよとまやかが「どうしたの? それ運ぶの?」と邪魔をする。
近くに寄り過ぎる二人に、ゆりなの手はプルプルと震え、コーヒーが縁から零れていく。
「ちょっと、アンタ達邪魔。ばっかじゃないの? 危ないから~、どいてよ」
「へっ、別に邪魔してないよ。ただ聞いただけジャン」
相当な量が床へと零れている。それ見て、茜が笑いながらフキンを持って寄ってくる。
「バカね~ゆりな。ちゃんとお盆に乗せないからよ。前にも教えてあげたでしょ、飲み物を運ぶ時はお盆に乗せなさいって。火傷したらそれこそ大変よ」
まやかとみよがイケナイんだもんと言いながら、キッチンへと戻るゆりな。そしてもう一度コーヒーを入れ直し、今度はお盆の中央に乗せてやってきた。まるで水平を保つバランスゲームでもやっているように必死に歩く。
そこへまた二人が近寄る。
「今度はこぼしちゃダメだよゆりな。せっかく作り直したんでしょ。頑張れ」
「どいて。もぅ。放っといて。邪魔しないでよね~」
ゆりなの台詞をお構いなしに邪魔する。まるでバスケのディフェンダー。
まやかとみよが必殺の千手観音という舞いを出した時、床を拭いていた茜が、次ぎ零れたら、和頼に二人がワザと汚したって言いつけると脅かす。すると、二人は仕方なく手を止めた。
子供の悪ふざけとは、どうしてこうまで言わないといけないのかと嫌気がさす、ほどのしつこさ……。
まやかとみよを止めてもまだ危なっかしいゆりなは、必死に歩く。そして――。
「パパ。パパ、ドア開けて~」
「おっ、ゆりなか?」そういってドアを開けると、お盆にコップを乗せたゆりなが部屋へと入ってきた。
そのまま、和頼と共に大きな仕事机へと戻る。
「はいパパ、コーヒー。熱いからね」
そういうと和頼がデザインしている絵を、背中越しに眺める。和頼はふぅふぅと冷ましながら、ズズズッと音を立てて飲む。
「おいし~ぃ。染み込むぅ」
和頼が飲むのを嬉しそうに見ている。半分ほど飲むと、コップをテーブルに置きまた作業に入る。ゆりなは邪魔にならないように後ろで見ていた。
が、たぶん邪魔……。
「ゆりな、おいで」作業を見ているゆりなを膝へと乗せ、自分が描いているものを見せてあげる。
「ゆりなは絵に興味あるのか? この中ならどれがいい?」
ペラペラとめくりながら色んな絵を見せる。ゆりなは自分がいいなと思うものを指さしていく。それを和頼はチェックし、更に細かなポイントに印を付ける。
「それじゃ~、これとこれをくっ付けちゃおうか。それとこっちとこっちも」
ウンと可愛く笑うゆりな。とそこにノック音。和頼が返事するとまやかとみよが入ってきた。そして膝に乗るゆりなを見て「ズルぅ。ありえない」と一言。
みよは和頼へと近寄りバナナを手渡す、そして、ゆりなに代わってと言う。
まやかも板チョコバニラを手渡し「私も座りたいパパ~」と甘える。
和頼は「それじゃ、順番ね」とまずはそのままゆりなを膝に置いて作業する。
みよとまやかは机の上の物を弄る。部屋中を探索する。とてもじゃないが集中など出来るはずがない。しかし、まったくそれを苦にせず、それどころか、音楽でも聴きながら作業するかのように、子供達の全てを受け入れていく。
「はい、次ぎ私ね」ゆりなとみよが入れ替わった。
膝元から見上げ、和頼にデザインのことを話しかける。和頼は作業しながらしっかりとその意見を聞く。少ししてみよとまやかが入れ替わると、今度は恵と茜がノックと共に入ってきた。
「どう? 出来た? あら。まやかもみよもゆりなもお仕事の邪魔しちゃダメじゃない」
「邪魔じゃないよ。お手伝いしてるの」
「どこら辺が? 邪魔しているようにしか見えないけど」
部屋中を漁り、膝の上ではしゃぎ、何度も話しかければ邪魔以外のなにものでもない。しかし、最初に「おいで」と膝へ乗せたのは和頼だ。
「いや、ホントに意見なんか聞いていて、結構参考になったというか。恵さんの方は素材決まりました? できれば布付のカタログ持ってきてもらえると助かるンですけど。もう一気に決めちゃおうかと思って」
「それ、子供が来て、仕事が雑になっているとかじゃないよね?」
和頼はもちろんという。
実際、滞っていた思考が流れだし、行き詰まったものがリセットされた感じだった。スッキリして絶好調だ。
恵も茜もその場に残る。それに関しては、ちょっとだけ和頼も困っている。
更にそこへ、他の子供達が訪れた。
「皆どこにも居ないからどうしたのかと思った~」
なずほとれせともえみが庭の土の匂いを運んできた。クラッカーの匂いもする、というよりは、仕事場のドアをカシャカシャと犬の爪がひっかく音がする。
賑やかに騒ぐ子供達。
「そう言えば梓さんはどうでしょうね?」
「どうかなぁ~」茜が言う。
梓は今、お弁当屋のお客の男性に求婚されていた。相手の男性は七十二歳。梓の二つ上だ。仕事はなく年金暮らしで、熟年離婚者らしい。
成人した子供とその孫も居るらしいが、殆ど会いには来ない関係だとか。
今、美輪家では、恵意外、そういう話が多々ある。茜にしても、託児所の子供をスタッフと共に公園で日向ぼっこさせている時に出会った男性に、お付き合いして欲しいと言われたとか。
子供達にしても、成見直哉、富蔵光徳、幸坂智輝の三人がまだ十歳で、誕生日会にはぜひ来て欲しいと、しつこいほどのアタックを受けている。
そして本人は良く知らないが、和頼も常に女性の陰が忍び寄っている。
三人の女性陣では、一番若い恵が何もない。
確かに仕事場にも出会いなどないし、恵の立場は、基本和頼のすぐ下。誘える男がいる訳がない。
美味しいお弁当屋さんで働く女性らしさもなく、異彩を放つデザイナーだ。
そして、美輪家で堂々と暮らすセレブと映る。もっと隙があるような、家庭的な何かがないと、六、七十代の男性には高過ぎる壁。
今は亡き瞳も、かつてはそういった誘いが一度だけあった。
その相談をされた和頼は、例えいつでも、それが何歳でも、そうしたければ怖がらずに前に進むべきだとそう答えた。
が、瞳の答えは違った。
『和頼。私はね、この歳まで色々なことを経験したし、本当に怖いくらいの孤独を味わったの。私の運命は、か細い年金と共に誰にも知られることなく孤独死するはずだった。和頼に会うまでは。私に好きといった人はね、お弁当屋を成功させた私、良い服を着ている私、美輪家と関係のある私の姿を見て、好いてくれたのさ。本当の私なら、誰もハナにもひっかけないよ。そういう中で生きていたの、私は。でもさ、和頼はあのままの私と共に暮らして、今も日々を共に暮らしてる。お金も無くて服も今みたいじゃない。部屋だってそう。覚えているでしょ? これが三十代ならそりゃ考えるけど、もうそうはなれない。こんなダメな私だけど、和頼君、このままずっと一緒に居ても……いい?』
和頼はそう言われた。そして「もちろんイイよ」と満面の笑みで答えた。
茜もなんだかんだで誘いを断ってしまったようだ。しかし、梓は揺れている。
和頼に相談した時、瞳に言ったことと同じように「そうしたければ、怖がらずに進むべきだ」と言った言葉に悩んでいる。
普通なら、七十歳では残りの人生は、わずか。今更リスクを犯してもと不安なだけだが、ただのお弁当屋のお客だった梓は瞳に雇ってもらい、更に今では、和頼の手続きでそのお弁当屋を引き継いでいる。自分の物として。
何もかも全てががらりと変わった。信頼する和頼に背中を押されれば、不安など消える。
問題は、自分の中でこの場所から出たくないと思う自分と、遅過ぎる春だけど、そのささやかな幸せに夢見ていた自分が居ることだ。
この美輪家で自分は何でもないただの居候……。赤の他人。最後までこの場所に居ていいはずない他人なのよと苦しんでいた。
「あなた達はお誕生会に行ってあげないの? また押しかけてくるわよ」
騒がしい子供達に、茜が言う。
「いかないよ。大体、お誕生会って、うひゃひゃっ」
美輪家では誰一人お誕生日を祝わない。もちろん誕生日が無いわけではない。
誕生日は、その日から翌日の朝まで和頼を独占できるのだ。二人きりで買い物やお泊りに行ったり何をしてもいいという、美輪家の子供達が決めたルール。
なぜかそのシステムに、茜や恵達も便乗する。かつては瞳もそうであった。
残された者達には最悪な一日。
ただ暇で詰まらないというだけではなく、楽しいであろうその光景が浮かび、お留守番させられる犬のように、居ても立ってもいられない。
「あ~あ~、早く私の誕生日来ないかな~」
待ち遠しいようにみよが言うと、ほかの皆も、自分の誕生日があとどれほどか指折り数える。とはいえ、毎日二人ずつ、和頼のベッドで順番に寝ている。
和頼が一人でのびのび手足を伸ばせるのは、週に一度あるかないかだ。
昼寝できる日でさえ、誰かしら横へと潜り込んでくる。
お出かけは、家族皆で月に一度は必ず出かける。これは最低でもの話で、多い時は数回ある。つい最近は某県にある温泉へ行き、有名旅館で金目鯛と高級なイカなどを食べたばかり。
旅館のロビーに敷かれた絨毯のあまりのフカフカさに足元を取られ、梓となずほが転んだ記憶もまだ新しい。
子供達に関して言えば、色々なイベントもあり殆ど暇などないはず。それでも足りないと感じるほど甘えたいのだ。
ごった返す仕事場にも関わらず、和頼は完璧に仕事をこなした。
「終わった~。ふぅう、くたびれた~。さて、御飯にしようか」和頼が席を立つ。
膝の上に乗るもえみをお姫様抱っこすると、他の姉妹が「私も」としがみ付く。それを笑顔で見ながら部屋を出る。
「あら、もう七時過ぎているわ。急いで支度するから」恵がキッチンへいく。
「恵ばぁ~。私ね、カルボナーラのやつ作っといたよ」ゆりながいう。
恵と茜とゆりながキッチンへ行くと、数分で料理を運んできた。ゆりなのおかげで、ソースを温め直すことと、スパゲティーを茹でただけで済んだ。それと冷蔵庫にあるサラダやお豆腐、と、唐揚げをレンジでチンして添える。
「頂きます。うほっ」フォークで撒いた麺を口へと入れた途端、子供達がむせる。
大人は何ともない。
ただ、口元に広がるニンニク風味と鷹の爪の刺激が半端ない。大人にしたら凄く美味しいが、子供はびっくりしている。
「何コレゆりな。失敗してんじゃん。辛いし濃いよ~」
皆が文句をいう。だが、大人達は今まで食べたものの中でも、相当上位に入る味だと確信がある。
「ゆりなはこれ、何を見て作ったの? 随分と大人の味で美味しいけど」
和頼の台詞に子供達は半信半疑で「え~、まずいよ~」という。一方ゆりなは、料理のレシピを束ねた紙を持ってきた。
「これね、学校のさ、同じクラスの子のお父さんがしてるお店のレシピなんだよ、美味しい料理の作り方知ってるか聞いたら、お父さんに聞いてくれて、他にももらったの」
和頼はそのレシピを見る。凄くよく書かれている。シンプルで、子供にも分かり易いし、分量も順番も丁寧に示されていた。
だが、肝心なことがごちゃごちゃだ。これはカルボラーナではなく、ぺペロンチーノだ。
目次にある出来上がり写真を見て、そのレシピページに飛ぶようになっているようだが、小学生の子には、途中から似ている写真とごっちゃになったようだ。
たぶん、目次としての完成写真は、急きょ子供用に後付けしたのだろう。まぁ、何度も作れば解決することかも知れないけど、ちょっとだけおしいと言えた。
「これは凄いね。いいのかな。これ、お店の料理なら極秘レシピだよ」
料理好きなゆりななら、このレシピで忠実に作れそうだと感心する和頼。
「ああ~おいしい。あ、そうだ、いつも言っているけど、油を使った揚げ物は危ないからしちゃダメだからな。それと……」
「分かってる~『火が出るコンロはダメだぞ』でしょ。ちゃんと電気のコンロでしてる。そうだ、パパ、油を使わないで揚げ物が出来る料理器具があるんだって」
ゆりながテーブルに前のめる。
すると恵も「あるある」と食いつく。和頼が知っているのと聞くと「もう大分前から、そういうのいくつかあるよ」と笑う。
「ホントに? 俺は~そういうの全く知らないからな。それなら買ってあげるよ。仕事もすんだし、近いうちに家電屋に行こうか」
盛り上がるゆりな。
雑談しながら夕食を終えて、食器も下げ、コーヒーや飲み物で一息ついた九時ちょっと前、家に梓が帰ってきた。
皆が「お帰りなさい」というと、元気なく「ただいま」と言う。
食事は済ませて来ているようだが、悪いことでもあったのかと様子を覗う。鞄を持ったままソファー横に立ち、部屋へは戻らず、皆に声をかける梓。
「皆に話したいことがあるのだけど、まずはその前に和頼と二人で話したい」
和頼は飲んでいたコーヒーを置き立ち上がると、梓と二人で、梓の部屋へと向かった。そして部屋へと入ると少しの沈黙。その沈黙を先に破ったのは――。
「今日はどうでしたか梓さん」
「ええ、まぁ、楽しかったです。でも」そう言って少し沈黙する。
しばらくし……。
「今日、改めてプロポーズされました」
「良かったじゃないですか。おめでとうございます」
梓は、ありがとうと言うが、あまり嬉しそうではない。
「和頼は……どう思う? 私、お受けしようかなと思うのだけど、どう、思う?」
梓は、ある言葉を期待していた。決して出るはずのないその言葉を。
「それが正解だと思います」和頼はきっぱりと言う。幸せになってと。
梓の期待するような言葉は最後まででなかった。――行くなと。一緒にいろと。
「そうね。今まで本当にありがとうね和頼。凄く楽しかった」
どこか吹っ切れたような微笑みで、梓の顔に表情が戻ってきた。
「私は瞳さんの様にはなれなかったわ。あの人は……」そう言って言葉に詰まる。
瞳と和頼の関係と自分では違うと。もっと言えば、茜や恵とも。
皆はそれぞれ和頼の仕事のパートナーや何かの繋がりがあった。でも梓は違う。瞳との繋がりでこの家に転がり込んだだけ。
寂しくて辛くて孤独な日々から皆が助けてくれて。始まりもきっかけも瞳であって、和頼との関係は誰よりも薄く、そして法的にも世間的にも他人。
瞳の最期を看取る和頼を見て、自分もそうなれたらといつも思っていた梓。毎朝毎晩仏壇に手を合わせる和頼、子供達もまたそう。
でも自分は瞳とは違う。和頼にそうして貰う繋がりも義理もない。
子供のことに関しても、和頼を独占する態度に何度も腹を立て、心の中で養子の話なんてご破算になっていればと思ったほど。けど、その話があってこそ、自分がこの家に入り込めたということ。それさえ忘れてしまう時があるほど、自分の筋道は真っ直ぐではないと。
せめて、和頼の口から家族として「居ろ」と引きとめられたら喜んで居るのに。それさえあれば迷ったりなんてしなかったと。
しかし、恩のある和頼は言った。普通の幸せを選び、穏やかに暮らしなさいと。ようやく掴んだ幸せだよと。
「私、和頼にも瞳さんにも、今までいっぱい良くしてもらって、でも私は何も、何も返せてなくて。何でもないただのおばさんだった私に……ありがとう」
「そんなこと。それよりも、どうぞお幸せに。瞳さんも喜んでますよ」
「なんか、嫁ぐ娘が、お父さんに感謝してるようだわね。和頼の方が全然年下なのにね」
そういって笑い、話は終わった。
和頼と梓はリビングへと戻り、そこでもう一度梓が話した。
もえみとれせは、少しおねむ時間だったが、それ以外は笑顔で祝福した。そしてすべて言い終えると仏間へと一人で入り、瞳へと報告する。
「良かったわね。で、いつ家を出るのかしらね」
「それが明日には向こうへ引っ越すって。大切なモノだけをまとめて、持って行ける物だけで、後は処分していいって」
それは急ねと驚く。
だが、出ると決まった状態でこの家に居れるほど、梓の心は強くなかった。
今さっきまでの揺れる心では、壊れてしまう。嫁ぐ女性は、そうやって思い出から次の旅路へと歩き出す。
そう、一歩ずつ幸せを目指して。
「パパ~もぅ眠いよぅ。一緒にネムネム」
和頼は、皆を各部屋へと抱っこして運ぶ。そしてベッドへ寝かせると、今日一緒に眠る二人を連れて、自分の寝室へ向かう。
「恵さん茜さん、それじゃお先に寝ますね」
「あら、今日はお風呂入らないの?」
「子供達がこれなので。明日は休みですし、朝方皆で入ります。お二人は?」
「私達は入るわよ。で、この後、梓さんと少し話でもして、それで寝ます」
「そうですか。それじゃ、宜しく。おやすみなさい」
「はい、おやすみ和頼」