十一話 仕事帰り
朝早くに家を出た和頼は、大阪の支店を訪れ、様々な仕事のチェックをした後、今ようやく帰りの新幹線に乗り込んだ。
月に二度はこうして支店を回る。恵は三度ほど回る。
会社の状況を自ら作ったマニュアルの項目に照らし合わせ、事細かに確認する。海外支店には、年に四、五回ほど足を運ぶようにしていた。
その時は泊まりになるので、子供達もついてくる。
疲れているのかぐっすりと眠る和頼。横の席には警備の垣根がいた。
「美輪さん。着きましたよ」
「ふぉ。どこ? もう少し、の……みぃ、だな」
「何を言っているンですか? 品川ですよ。起きて下さい」
半目のまま寝ぼける和頼を垣根が少し揺らす。
「あ、着いたの? ごめん。完全に眠っちゃったよ」
「大丈夫ですか? 随分お疲れの様で」
凄いイビキでしたよと口に出そうになるが、垣根はギリギリで、星丘の顔を思い浮かべ止まった。つい、砕けた会話や一言多めに話してしまいたくなる雰囲気を、和頼が持っているのだ。
だが、それに乗ってしまうと、星丘から身分を弁えろとお叱りを受ける。
二人は新幹線を下り、迎えの車が来るまで品川の街をぶらつくことにした。
「そうだ。俺、買い物してかなきゃ」
和頼がキョロキョロと辺りを見る。そしてその理由を話し出した。
「いやね、昨日さ――」
お風呂上り。なずほが物凄くショックを受けた顔で「私のプリンがない。ミルクたっぷりプリンが~」と絶望して冷蔵庫前にへたり込んだ。すると今度は「あ~、私もヨーグルトプレミアムがないよぉ」とまやか。
一瞬にして事件の予感。
なずほとまやかは、機嫌も膝も崩れ落ちる。和頼はどうしていいか分からずに、ただ必死に頭を撫でながら慰めていた。
お風呂上りの楽しみだっただろうにと。
他の姉妹が自分の物を食べ終わり、更に数分間落ち込んでいた二人が「あ~あ、なんで私すぐ食べちゃうんだろ」や「私も~。ペース配分がね~」という。
「え? プリンとヨーグルトは自分達で食べたの?」と和頼。
「そうだよ。間違えてさっき食べちゃったの。最悪」とヘコむ。
和頼はそこでようやく理解した。
髪も乾かさず悲しむ二人を必死に慰めていたが、フタを開ければ、自分で食べて、ないないと騒いでいたわけだ。
確かに誰かが取ったとも、食べられたとも言っていなかった。
よく考えれば、これまでそんな事件は一度もない。だからこそ大事件になる予感がしたが……違った。
「ってことは、なずほ嬢様とまやかお嬢様は自分で食べて騒いでいたわけですか? それで湯冷めしてあまり体調が……。なるほどです。その、プリンとヨーグルトを今から。あ~分かりました」
垣根は携帯電話を取り出し、和頼から聞いた商品名を検索する。
「コンビニでも置いてありそうですね。行ってみましょう」
二人は急いでコンビニへと飛び込む。最初に入ったそこで、いきなりプリンはあった。しかしヨーグルトはない。
垣根が店員に聞くと、この店の系列店では扱ってないらしく、他のコンビニか別の店でないと、と教えてくれた。
ネット地図で調べた近場のコンビニは殆ど回ったが、そのどこも扱っていない。駅中などを通り抜け、右へ左へ行ったり来たりし、少し疲れが足にくる。
「垣根君。悪いンけど、向こう側を探索してくれるかな? 二人で行ったり来たりするよりも、手分けした方が要領がいい」
「でも。それでは警護できませんし、そんなことが星丘さんに知れたら一発でクビですよ」
「いやいや、クビはないでしょ? それに俺がちゃんと説明するから大丈夫」
垣根は思う、クビはあると。
確かに和頼が言えばクビは防げる。代わりにきつい説教があるだけで済む。
ただしそれは、和頼が無事に星丘へ伝えれる場合だ。
問題は、何か起きてしまったらそこで全てが終わるということ。それこそ和頼が負傷して、何も言えない状況になってしまうことだって充分ある。
これが和頼の会社ならば、それでもまだ分かるが、ボスは星丘であり、美輪家とは独立した会社。
それこそ、和頼が自らが望んだ仕組みだし、裏でのトップが和頼と知りつつも、そういうわけにはいかない。
警備会社の社訓である第一が、美輪家の子供達を守り抜くこと。第二が美輪家の財産を守る。次が和頼で、それら美輪家関連が第五まできて、ようやく警備関連の通常社訓へと入る。
ここで離れて何かあれば、それこそ今日までの全てが崩れ去る。会社自体の存続も大きく傾く……どころか。
「という訳で頼むね。垣根君の頑張りに期待しているからさ。もし見つけれたら、星丘さんに特別手当お願いしとくから」
「特別手当ですか? あの例の」
つい最近、子供達の我がままな依頼をやり遂げた銀錠が貰ったボーナスだ。お金というよりも昇進に近い名誉というか、自分の率いる部署のランクや立場が大幅にアップする。
低い部署ほど、美輪家や大企業などの仕事依頼から離れ、任務度の軽い警備へと回されるのだ。つまり実力主義。
垣根の担当する部署が、そう簡単に落ちたり抜かされたりはしないが、新人達が活躍して下から昇ってくる勢いは、常に感じている。
誰もが様々な警備現場で、結果を残し、よりランクの高い企業案件を任されたいと励んでいる。
どの会社にもノルマがあるのと同じで、警備会社にも当然ある。
「でも。やはり離れる訳には……。その」
「平気だよ。星丘さんは子供達と居るし、ここを見張っているとかそういう無駄なシステムはないから。俺と垣根君さえ言わなきゃ誰も分からないよ」
それは分かっている。問題は事件に巻き込まれないかだ。
和頼がどれほどのお金持ちで、どれほど危ういか。いわば歩く宝箱。
「それじゃ、俺は~、この近くのビル内を見て回るから。多分外にある店はないと思うンだよね。頼むね垣根君。なるべく見つけて、期待してるから」
そういうと和頼はすぐさま走り去った。二歩ほど後を追いかけたが、一瞬出遅れた垣根の気の迷いで、人ごみに消えゆく和頼を見失ってしまった。
「こうなったら仕方ない。見失ったし、ヨーグルトも見つけられないでは話にならない」
自分に言い聞かせるように呟き、気持ちを切り替える垣根。そして垣根もまた、行き交う人ごみの中へと飛び込み、ヨーグルトの探索を始めた。
平日とは思えないほどの人ごみの中で、和頼は手当たり次第に店を当たる。目的の物は見当たらないが、代わりになりそうなヨーグルトを購入し、鞄へとしまう。
会計の時に一応、店員に情報や確認を取った。
「えっ、今さっきまであったのですか? それじゃ在庫は? そうですか……」
あと一歩の所で逃したようだ。
もう少しでまやかの喜ぶ笑顔をゲットできたのにと、和頼は残念そうに、垣根の頑張りにかける。
めぼしい店は全てチェックしたし、仕方なく駅前へと戻ることにした。
行き交う者達の中に、ヨーグルトを買った者が居るかと思うと、つい視線が持ち物にいく。しかし、その手には、見るからに違う袋や、水族館らしき所で買ったであろう縫いぐるみなどが持たれていた。
どうやら近くに水族館があるようだ。
大勢と共に横断歩道を渡り、品川の駅前へと戻ってきた。
垣根はまだ戻ってきていない。
自分で見つけることができなかったが、あと一歩まで近づけたことで、垣根への期待が膨らむ。
辺りを見渡しドキドキして待つ和頼。すると、トントンと誰かが肩を叩く。
「あった?」
「はい。あっ、いえ、あの、……美輪さんですよね」
振り返ると、二十代前半くらいの地味な女性が立っていた。和頼がびっくりして目を見開くと、相手も同じように返してくる。
自分から肩を叩いておいてその表情は何、と和頼が様子を覗っていると、またも別の女性が話しかけてきた。
「エ~やっぱり。うそ~。美輪さんですよね」と、テンションの高い声と口調。
周りの者も徐々に和頼に注目し始めた。
自分が他人から声をかけられる存在とは、少しも思っていなかったが、いざそうなると、トラブルアンテナが危険を感知し、ここから離れろと緊急指示を出す。
和頼は何かを思い出した素振りで、その場を離れる。
信号を渡り、とりあえず場所移動を始めた。だが、自分を追ってくる気配。振り返ると数人の女性。
このまま人の多い場所に居ると、人溜まりが出来てまずい、が、人のいない所も相当まずいと予想する。
歩いている間は声をかけてこない。
あまり駅から離れるのもまずい気がして、結局、中途半端な場所で止まった。
すると早速、女性達が話しかけてきた。
「あの、私、ずっと美輪さんのファンで、手紙も何通も出したのですが、読んでもらえたりしましたか? あっ、でも忙しいですよね?」
勝手に完結させる相手の話に、愛想笑で受け流す。次々に、ファンだとか和頼のデザイン会社の面接を受けてきたなどと語ってくる。
それにしても、話の中におかしなセリフが混じっている。美輪家の住所は、学備学園の一部の者しか知らない。会社関係は全て、会社が宛先だ。
更に直接の届け物は、駐車場にある警備会社宛にしてある。
だが、一般の女性が、もし仮に手紙を会社ではなく美輪家に送ったのであれば、それはどこからか手を回して手に入れたか、車の後を付けたかのいずれかとなる。だとすると、限りなくストーカーに近い。和頼はそんなことを考えていた。
馴れ馴れしく話しかける者と、一定の距離を保ちながら真面目に話す者、その更に外側で話せずに佇む者。
そして、この光景を遠巻きに見ている一般の傍観者もいる。
和頼を中心に、水面に揺れる波紋の層が出来ていた。その最も小さな輪は和頼に触れる三人、その外側に十人ほどの輪、その更に外側に、相当な人数の輪があり、最後は輪というよりも、全てを囲うような無関係の群集達。
「信じられない。お一人ですか? 何方かと待ち合わせですか?」
和頼は愛想笑いで受け流す。
先程のように、移動するという逃げの選択肢はもうない。これ以上駅から離れる訳にも行かないし、仮に離れても意味はないだろう。
一方的に話続ける女性達。
大勢いる場所でこうした行為をされるのは本当に困ると悩む。これが、夜の高級クラブの席でのことなら何の問題もないが、ここでは迷惑でしかない。
かといって、女性一人一人は別々であり、一色単にしていいかも難しい。
ただ、どう見てもベタベタと触れて甘える女性三人は別だ。よく言う、女性同士で嫌われるタイプ。
猫なで声で、かつ、歳よりも若く振る舞いブリブリと可愛さのアピール。
媚びる。甘える。触れる。見つめる。キメ顔する。等々。
しかし、残念ながらこれで落ちない男はまずいない。悲しい性だ。
頼られ甘えられ褒められて、嫌な気分になる奴は、余程心に何かがあるひねくれた者だけ。実際、頭で『別に』と言い聞かしても、目の前で誘惑されれば、オセロは黒から白へと簡単にひっくり返る。
和頼もまた、迷惑だと感じながらも少し心は揺れている。けど、少しだ。
普通ならば簡単に落ちてしまいそうなテクニックをいくつも味わい堪能するが、美輪家の子供達に比べたら、全てにおいて三流の偽物。
ダイエット食品のような味わい。気の抜けた炭酸ジュース。
だが、しいて魅力があるとすれば、それは胸とお尻が、子供達とは大違いということ。でもそれだけだ。お尻と胸のセクシーさ。
けれどそれは、その場に居る女性達全てに言えることで、三人だけの特別な魅力ではない。
そこに居る女性達が、ベタ付く三人の女性の態度に苛立った目をしている。
女性同士が何に腹を立てるかの細かな理由は、男にとって謎めいたままだけど、大まかなことは、雰囲気から見て取れた。
色々なことに戸惑いを隠せない和頼は、必死に、どうしたらと考える。
こういう注目の浴び方は初めての経験。今までは、日陰の恋花といったモテ方。
この行列のできる店的なモノは、初めての感覚、一体相手が何を欲しているのかまるで見当がつかない。これが異性ではなく、人気商品に対してなら確かに分からなくもない、そうぼんやり感じている。
「ちょっと、そろそろ解放して頂けると助かるのだけど……」
遠慮気味にいう和頼。
それに対して、弄ぶように「介抱して欲しいの? いいわよ」と腕に抱き付く。
これは口で言っても多分駄目だろうと理解した。
少しずつエスカレートする三人の女性達。まるで何かを競うように、百戦錬磨のテクニックを惜しみなく放ってくる。
このまま相手のペースで行くのは……、どうにかしなきゃまずいなと悩む。
和頼は一瞬目を閉じ深く息を吸い込む。そして、もう何年も封印していた本来の自分をほんの少しだけ出すことにした。
――パパではない自分を。
最も触れてくる、一番テクニックを駆使している女性の腰に手を回し、軽く引き寄せた。そしてゆっくりと相手の耳元へ近づくと囁く。
「誘ったのはお前だぞ。ホントにいいンだな」低い声を喉で響かす。
「えっ、あっ、ててっ……」相手はびっくりして瞬きしている。
さっきまでの和頼とはまるで別人。
あまりの変化に、周りで見ている者さえドキドキしている。しかし、抱き寄せられた女性はそうはいかない。完全にテリトリーの中で絡まっている。
今さっきまでは、いつもの余裕さでか、カッコイイと和頼の羽を触っていたが、その和頼が、突然自分の部屋へと入ってきてしまったのだ。そしてバサバサと羽を広げて、部屋中をぶつかりながら暴れ飛ぶ。その光景にどうしていいか分からず、小さな部屋の隅で、ただ怯えるしかない女性。
和頼は女性の目の奥を数秒覗き込むと、そっとほっぺたにキスをした。
「どうした? 見せつけてやれよ。怖いのか? 怖がりなんだな。ふふっ、怖かったら目を閉じてな」
そういうと今度は唇に優しくキスをし、更にもう一度キスをする。二度目のキスは強く深く、まるで唇を覆い尽くす様な厚い唇。
男なんて簡単だと思っていたそれが震えている。
何人もの男性を落とし、虜にしてきた経験が全て剥がれ落ちる。
和頼は手を腰に回したまま女性を自分から少しだけ離す。そして女性が目を開けるとまた、目の奥を覗き込む。完全に瞳が震えている。潤む目で驚いている。
途切れた言葉に戸惑い動揺し、何かを話そうと唇を開く、が、和頼のしたキスの感触がそれを許さない。
仮面でかくしていた本当の姿を露わにされて、あまりの恥ずかしさに心を抱えるように慌てて覆い隠す。
だが、もうとっくに女性は、奥手だった少女の頃に戻されていた。
「無理して背伸びはしない方がいい」
和頼はそういいながら、その女性の頭をポンポンと撫でて、腰から手を離した。その途端、その場にへたり込み、真っ赤な顔で放心状態になっている。
それを大勢の者が見ている。
想像内の対応を期待していたが、今までの経験や展開、出会ってきた男性とは、あまりにもかけ離れていた。
なぜ、自分の魅力に落ちないのか? どうして和頼のペースなのか、それが全く理解できないまま、ただ恥ずかしそうに座る。
腰に回された鉛のように固く強い腕の感触、声、そして唇の余韻が体から消えてくれない。こんなことは生まれて初めてとドキドキしていた。こんな大勢の前で、まるで公開セックスでも行われたような感覚。
「それじゃ、道、開けてくれるかな?」
和頼の言葉に道が出来る。そこを通り抜け、信号を渡り、もう一度駅前へと向かった。残された者達は皆、驚きで放心状態。
大好きな特撮ヒーローと、駅ビルの屋上で直に会ってしまったような感覚。
例え好意があっても、なぜか怖い。
それが近ければ近いほど、まして触れ合うなら尚更。
抱っこされた子供が、その怖さで泣き叫ぶアレと同じ。しかも、和頼は怪人の方かも知れない。
とにかく、正義も悪も優しさも関係なく……なぜか恐怖が勝ってしまう。
人ごみをすり抜け駅前に着くと、垣根が立っていた。和頼を見ると、先程の者達と同じように、いやそれ以上に驚いている感じだ。
どうやら今の光景を見ていたようだ。
「あ、すみません。ヨーグルト、ありませんでした」
ぎこちなく謝る垣根。何に謝罪しているのかも分からないフラフラ感。
「そうですか。仕方ないですね。ま、代わりのヨーグルトはいくつか買ったので、それで我慢してもら……」
和頼が垣根と話していると、またも背中をトントンと叩く者が。和頼は誰だと振り返る。すると、最初に和頼に話しかけてきた女性だ。
「あの、ちょっと、これを――」
そういうと鞄の中をさぐり、ビニール袋を取り出した。
そしてそれを和頼に手渡す。
「それ、あげます。それですよね、お探しのヨーグルト」
和頼は渡されたビニールの中を見る。すると、探していたヨーグルトプレミアムが五つも入っていた。
「えっ、なんで? いいの? ありがとう。でも、よく俺がこれを探しているって分かったね。いや、でも有難い」
和頼が喜んでいると、その女性が説明し出した。
「私、さっきまでそこのコンビニでアルバイトしていた者です」
つまり話は簡単だった。
和頼と垣根が、まだ一緒に行動していた時に入った店の内の一つで働いていて、このヨーグルトのことを聞かれて、ないと答えたが、大分困っている様子と、まだ探すであろう会話から、仕事しながらどこかにあったようなと考えていた。
そしてようやく思い出したのだが、はたして、今更買いに行って手に入れたとしても、再度出会えるかも分からないし、とも思ったが、思い切って仕事を早退して買い出しに出た、という訳だ。
「あの、なんでそこまでしてくれたのかな?」
「私、美輪家のファンというか、私も姉も学備学園の卒業生です。姉はかつて大学で放送部でして、よくイベントを撮影していて、その放送を家族で見ていました」
「ということは、娘達の先輩だね」
「はい。あ、でも、私は高校までで、ちょっと家庭に色々ありまして学費の方が」
もちろん事情など聞けないが、和頼なりに、親の仕事の関係でか、それとも両親の離婚で、なのかと想像した。
「アルバイトということは……お仕事の方はされてないのかな?」
「はい。高卒なので……。一度、姉に紹介して貰ったイベントの下請け会社に就職したのですけど、失敗というか怒られてばかりで、務まりませんでした。紹介してくれた姉にも迷惑かけちゃって」
「そう。……イベント的なものに興味あるの?」
「はい。姉のように、大学でネット放送部に入るのが夢でした」
「ちょ、ちょっと待ってね」
そういうと和頼はどこかへと電話をし始めた。
「もしもし、美輪ですけど。井辺さんいる? おっ、井辺さん。悪いンですけど、そちらで一人雇って欲しい娘がいまして。あ~、そうそう。ウンそう。オ~ケイ。どうも。それじゃ直接、はい、宜しくお願いします。は~い。では」
和頼は携帯電話を切ると、垣根に「井辺さんの名刺持ってない?」と聞く。それに対しありますと、透かさず内ポケットから名刺手帳を出した。
それを受け取ると、名刺の裏に『美輪』というサインを書き入れ、目の前の女性に手渡す。
「それ見せれば、直接、井辺さん、いや、社長さんの所まで行けるから、それを持って訪ねてみて」
「え、えっと、どういうことでしょうか? もしかして、私が雇って貰えるという話でしょうか?」
和頼は優しい顔でニッコリと笑う。ついさっき見せた男の顔とはまるで別人だ。すっかり子供達に見せる類の顔に戻っている。
「本当ですか? あの、私みたいな見知らぬ者に、こんな」
「見知らぬ者じゃないよ。まず第一に学備学園の卒業生だし、お姉さんは付属先の大学で、ウチの撮影を請け負ってくれていた訳だ。そして、このヨーグルト。これで関係ないなんて誰も思わないよ。君は一期一会を大切にした、そのことで自らチャンスを掴んだだけ」
世の中はそういうものだと微笑む。一つ一つの出会いで運命は変わると。
自分の体験も踏まえて、それがチャンスだと。
雨の中で差し出す傘で物語は始まる。どう転がるかは別として、何もしなければ何も起きない。このヨーグルトも同じだった。
何もしなければ、何も起きてはいなかったはずと。
コンビニでの些細な質問に対し、早退してまで行動に移した。しかも先程の和頼の行いを、たぶん三列目辺りの輪で見て、それでもなお、ヨーグルトを届けた。
これで何も起きないはずがない。
目の前の女性は、渡された名刺を見て驚いている。それはどんなに入りたくても決して入れないほどの大きなイベント会社。その社長の名刺。更に美輪のサイン。
夢のようなことが起きている。
知り合いや友達、姉が入った会社よりも、遥かにランクの上な会社。
「嘘みたいです。本当にいいのですか?」
「ああ。これからウチのイベントの時に会うこともあると思うけど、その時は宜しくね。しっかりと頑張って、昔に夢見た放送部と思って、もう一度歩いてごらん」
女性は和頼の言葉に、突然笑顔から顔を崩し、三歳児の様な顔で泣き出した。
声は出していないが、抑えていた感情が溢れてしまったようだ。
和頼は慌ててその女性をよしよしと慰める。それが逆効果だったのか、しばらく泣き止まなかった。
その光景を色々な者達が見ている。
きっとこれらの出来事を、面白おかしくインターネットに書き込まれるかも知れないと覚悟しつつ、ただただ慰めていた。
そして泣き止んだその女性と別れ、迎えに来た車に乗り込むと、久々に出した男の部分を思い返して、急にくすぐったく思えて動揺する。
でもあれで、へたり込んだあの娘も懲りただろうと思う和頼だったが、女性は男が思うようなものではない。これは嫌われたと、これで懲りただろうと思っても、その予想とは裏腹に、ベタ惚れして止まらなくなっていることもある。
逆に、カッコいいと思われ、好かれていると思っても、生理的に受け付ないほど嫌われていることもある。
今回はベタ惚れされた方であった。だが和頼にはそれを知る由もない。
元から、男が女性の本質を見抜くなんて無理な話。人類が誕生してから今日まで経っても無理なのだから、これから先も永遠に無理だろう。
ただ、女は女を知っている。
そして和頼の周りに居る女性達は、その中でもとびきりヤバイ。
好きな相手に、姉妹や母の影があるだけで、女性はその弊害さに怯える。だとすれば、和頼の傍を固めているのは、姑や小姑程度ではなく、八人の魔女と言っても過言ではない。それこそが、簡単に手玉に取られない理由の一つでもあった。
和頼はプリンとヨーグルトを手土産げに、一仕事終えたと、家路を急いだ。