十話 一、二歩、散歩
周りからの視線を軽くすり抜けながら、子供達は颯爽と歩く、和頼もまた雑踏の風を払いながら進む。ただ、我が物顔というよりはその逆で、他人の敷地内を遠慮して歩く気分。
だが、美輪家は目立つ。痛いほどに見てくる。
時には、ペンギンやカルガモの行進でもみるように、またある時は、海外からのスターが、お忍び旅行へ来ているのを発見してしまったかのように。
それが美輪家であると気付く者もいる。更に、古傷でもあるワルツ和頼だということに気付く曲者もいた。
和頼自体がかつてテレビをかじってしまったことで、まったくの一般人だといい切れないことがどれほど辛く苦痛かは、長い歳月の中で何度も味わっていた。
今もまた痛い視線を浴びて、あの頃、ヘタな誘いに乗ってしまった愚かな自分を叱りつけたいと、そう切に思う和頼。
今日の目的は、昨日行われた学備学園小等部運動会の打ち上げへ招待され、軽く顔だけ出す為に仕方なくやってきたのだ。
先生や校長、更に学園に関係する多くの来賓方が来るようで、今更断れない、なので最低でも参加者名簿に記入だけは済まそうということだ。
本当は、誰かに代筆をお願いしたいところだが、そんなことがまかり通るはずがない。美輪家が来たか来ないかは一発でばれる。
見知らぬ他人とこうして道ですれ違うだけで目立つのに、まして会場ではネット放送部のカメラが控えているはず。
ちらりと画面に映ればそれでいい。逆にアリバイが出来る。
そう和頼は考えていた。
運動会自体は、何組の何色が何点で勝ったかは知らない。知っているのは、自分の子供達がどの競技でどんな笑顔で頑張っていたかだけだ。
子供達の順位なら事細かに分かっている。運動会の始まりから終わるまでの行動すべてを、記憶に焼きつけていた。
元々、運動会の主役は六年生で、次が新入生である一年生、その次がようやく、子供達の学年の五年生なのだ。ついで三、四年生が同じくらいで、一番盛り上がらないのが二年生。
競技も親御さんも、全てがそのセオリーだ。
でも、一部の因縁がある者達は、競技の中の更に限定されたレースで盛り上がりを見せることはある。なので、競技全体が盛り上がるということではない。
あくまで一部なら。
どんな詰まらない競技でも、華のある子や、もしくは因縁のある子同士、そしてハプニングが起こるケースだけは、その注目度と歓声が記憶に残る。
和頼達は今、約束の時間よりも二時間ほど早く来て、ショッピングをしていた。
色々な店を見て回り、気に入った物を買っていく。
最終目的は家電屋さんで、ゆりなが欲しがっている、油がいらない調理器具なるものと、勝手にお掃除してくれるロボなるものを、恵と茜に頼まれていた。
梓が居なくなって大分経ち、掃除当番がきつくなったようだ。
ちなみに美輪家は、殆ど洋服屋へは行かない。それは自分達の着る服は、自社の会社でデザインしているからだ。ただ、絶対かといえば、そうでもなく、何着かは高級ブランドの服も常備している。
星丘と友居の二人が、前後で子供達をガードしてくれている。しかし、ガードとは名ばかりで、友居に限っては本業ではなく、買い物の荷物運びが趣旨だ。とても誰かを守れる体制ではない。
この後、友居が乗ってきた別の車で警備所まで持ち帰るてはずになっている。
あっちこっちと歩き回り、予定の時間ギリギリにすべての買い物を終えた。
「それでは、私は先に帰りますので。では失礼します」友居が不器用にお辞儀しようとする。だが、荷物が多く上手くできない。
「いいから、荷物を落とすから。荷物を守ることも警備会社の重要な役目。現金輸送のトランクだと思って、壊さないよう大切に頼むな」
星丘の言葉に気を引き締める友居。その顔の変化が面白かったらしく、子供達がケタケタと笑う。それに気づいた友居も照れて顔が崩れる。
と、星丘が「ほら、言っている傍から気を緩めやがって」と一喝。
友居は再度ニヤケ顔から気合いの入った顔へ戻す。それに子供達が爆笑。
友居は子供達の可愛い笑い声につられないように必死になる。道行く周りの者さえニッコリする笑い声に、プルプルする友居。きつい目でみる星丘。
「友居さん。ほら、そろそろ行った方がいいですよ。次笑ったら星丘さんに怒られますよ」
冗談ぽくいう和頼。そして和頼は子供達にも「友居さんが叱られちゃうから、皆も笑うの我慢しなさい」という。それに子供が「だって~顔が~、急にクッってなるから~」
星丘自体、こんなことはいつも耐えている。一番子供達と居るのは星丘だ。
笑って気を抜きたい時もある。でも、それで大好きな子供達に何かあるのは絶対に嫌なのだ。そしてプライドを持ってやっている警備の仕事を、おろそかにするのも嫌だと考えていた。
職務中は例え何があろうと気は抜かない、緩めない。
それが安全第一のモットー。
世の中の人為的事故はすべて、気の緩みだと自負している。
「顔が~こうなってからぁ、クッって。こぅ~クッって。パッて」
「やめなさいまやか」和頼が止めるが……。
友居はもう真剣な顔を保てなかった。
友居がスミマセンと星丘に謝ろうとしたが、星丘は「目にゴミが」と顔を両手で覆っている。声は低く渋いが、動きはおかしい。手で塞いだまま上を向いたり下を向いたり、まるで悶え苦しんでいるようだ。
どう考えても笑っている。
しばらくすると、手をゆっくり外す星丘、そして一言「もう早く行くんだ友居」真っ赤な顔でまだ何かを堪えている。
「はい。では、お先に失礼致します」友居は一礼し、去っていった。
最重要であった買い物も終わり、あとは本来の用事を済ます為、某ホテル会場へ向かう。
会場の近くからすでに込み合っている。
和頼達は買い物があったことで、別の場所に駐車し徒歩だったが、ここへ車で乗り入れていたら、とんでもない渋滞に巻き込まれていた。
苛立った者達が、横を通り抜ける美輪家を見て次々に下り始めた。
「車、頼むわ。もう、歩いていく」少し切れた感じでいう。
ドアも自分で開けて出て来たことで、当然、不快感が半端なく漂う。
「あら、美輪さん。ごきげんよう。昨日はお互い、子供達が頑張りまして~」
「ごきげんよう」和頼は、ご機嫌の意味を知っているのかなと心で笑う。
だが、ごきげんようが学備学園で多用される挨拶の一つ、なのも分かっているから、すぐに笑みは消えた。
ゾロゾロと緩い坂道を上がり、ホテルのロビーへと入る。そして案内通りに進むと、チケット受け渡し場所に記帳する物があった。
和頼が、チケットを出し、筆を取ると。
「あ、そちらは、チケットの無い御付きの方がご記入される……」
と受付の者が言う。
「知っていますよ」和頼は言葉を遮り、取った筆で、星丘翔と記入した。
本当は知らなかったが、不思議なことに知っていると嘘を付いた。
普段なら「あ、すみません」と認めて流すはずが、変なプライドというか、何かを偽ったことに少し驚き、自分もまたくだらないことに争う、流せない大人だなと反省した。
チケットも顔も出し、アリバイもできた和頼は、すぐにでも帰りたいと会場へは入らずロビーへと向かう。その姿を皆が不思議そうに見る。
「美輪さん? 何処へ行かれます。会場はこちらですよ」
振り返るとそこに富蔵家がいた。和頼は困った様子で、喉元まで「お手洗いに」と出掛ったが、先程の記帳の件が活きて、寸でのトコで踏みとどまれた。トイレが出口や外にあるワケがない。
「人が多いので、居やすい場所をと思いまして」
和頼の言葉と実際の状況に、確かにと頷く。
此処には、学校側の委員会などに選ばれた者だけが、招待されているのだが、それでも一年生から六年生までの家族からなる選出なので、溢れかえっている。
おもに寄付金が関係している。
「確かに込んでいますが、中へ入りませんか? ねっ。行きましょうよ」
富蔵謙司に促され、仕方なく会場内へと入る。
会場にはテーブル席も立見席もある。
前方の舞台は既に幕が開き、この会の看板が綺麗に飾られている。その舞台上を先生や役員が行き来する。
「美輪さんの席はあそこですね」
富蔵の指さすそこは舞台前の更にド真ん中。
和頼は絶対行きたくないと思う。
「どうしました? 私達も席近いので行きましょう」
「いや、その、あの席はちょっと」
不思議そうにする富蔵家。あの席は一番寄付している美輪家が座るべき特等席だという。
「まぁ、毎年空っぽで、ネームプレートだけなのですけどね」と笑う。
美輪家は基本、学校行事などで開く会には参加しない。それでも席は用意されていたわけだ。
それを聞いて更にゾッとする和頼。子供達も少し嫌な空気を察知する。
美輪家は、大人も子供も、用意された場所でじっとしているのが苦手で、雰囲気を見ただけで自由が阻害されそうと感じる。
きっと、かしこまざるおえない状況になると。
「パパ。あの席って舞台に近過ぎて埃が凄そうだね。席、替える?」
「そうだな。帰ろうか」
「帰る? ちょっと美輪さん、待って下さいよ。そんな、席なんて言えばすぐ替えて貰えますよ。他のいざこざと違って、悪い席をイイ席に替えろというのとは違いますから。一番いい席から移るのに、何の問題もなく移れますよ」
そのセリフが聞こえた他の者達も、どうかしましたかと集まってきた。
「ああ~埃。それじゃ二つほど後ろへ下がってもらえばいいのでは?」
もう、この状況がキツイ。我がままを言ってまで居たくないと和頼は困る。
しかし、話は勝手に進む。
「具体的にどこがいいですかね? 美輪さんのご希望は?」
「いやぁ、もう、立見席で。というかここで良いんですが」
「ここ? ここって、美輪家が居るような所じゃないですよ。それはいくらなんでもランクが違い過ぎます。美輪家がこんな所に居たら、それこそ埃塗れですよ」
意味が分からない。
「パパ。席、替えてくれたし座ろうよ」みよに手を引かれ歩く和頼。
二つほど後ろになったテーブルで、子供恒例のあっち向いてホイが始まる。
和頼の横は、ゆりなともえみがゲットした。その横がなずほとれせ。舞台を真横に見るはめになったのは、みよとまやかだった。
美輪家が席へと着いた途端、がら空きだった席が一気に埋まり、舞台で、見覚えのある先生が司会を始めた。更に、校長先生が舞台に上がる。
「――ということで、今日は皆様でランチを楽しみ、そしてお互い親睦を深めましょう」
校長の長い話が終わるとすぐランチが始まった。
立ち見の者はビュッフェで、並べられた豪華料理を自分で手に取り、おまけに立ちテーブルで食す。それも子供達もであった。
美輪家なら普通に平気だが、他の家は相当な屈辱かもしれない。これを見てようやく、先程の者が、美輪家が埃塗れになるという言葉を発した真意を理解した。
和頼は、皆が適当に言葉を発しているのではなく、それなりに意味があって言っているのだなと少しだけ感心した。さすがに立ち食いしながら優雅に座って食べる者達を見ている気にはなれない。
そんなことなら、家族で仲良く、レストランで食事する方がイイ。
テーブルへと運ばれてくる料理は凄く豪華で、各テーブルによっても違う。
和頼は、海老は駄目なのでチェックして貰えますかとお願いする、運んできた者が「畏まりました」と急いで厨房へ向かった。
和頼の気遣いに、隣をゲットしたもえみが嬉しそうに「パパ~」とくっ付く。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。嬉しいだけ」もえみはそういって微笑む。
料理が運ばれると「頂きます」と挨拶して食べる。周りでは一切挨拶はない。
生演奏ではなく、どこかから穏やかな曲が流れる中での食事。
メインが終わりデザートになる頃、再度、舞台上に先生が上がり、スクリーンに運動会の時のハイライトシーンが映し出された。
司会者が、競技や学年名前などを解説しながら進める。
ハプニング映像には会場に笑いが起き、美輪家の娘達も何度も映った。
和頼的に、娘達以外の競技で一番気を引いたのは、喜多河大護、奏枝孝宗、成見直哉、財前雅幸、富蔵光徳、幸坂智輝による、障害物レースだ。
麻袋ジャンプから始まり、ハシゴ抜け、網潜りに平均台、跳び箱越え、マットでの連続でんぐり返し、そして最後にパン食いでゴール。
最後の最後まで気の抜けない、逆転に次ぐ逆転で凄みがあった。
喜多河家の誕生日会の船に乗った者は、あの因縁を知っているから尚更だ。普段から何かしらの競いはあるだろうが、あの借りを返す絶好のチャンスとばかりにヒートアップした。
一位は富蔵光徳だった。スワンでは二位に終わり悔しさもあっただろうし、高々と掲げた拳に、両親も満面の笑みで拍手していた。
二位が成見直哉。三位が幸坂智輝。後はダンゴ状態で、順位はあって無いようなゴール。
美輪家の子供達の小鳥のように舞う姿が何度もスクリーンに映ると、あちこちで「本当に可愛い」と囁かれる。
そんな美輪家の娘達に、敵意剥き出しで争う、吉形綾音、豊増奈緒、柴宮優美、その他多くの少女達が、順位こそ、娘達に次いで、二位や三位を取っているレースもあるのだが、あまりに必死過ぎて、可愛さの欠片も無くなっていた。
おまけに転んで、ひざまで真っ赤に染めては可哀そうと同情するしかできない。
映像も食事も終わると、場所を移して親睦を深めましょうと皆が動き出した。
和頼はもう完全に帰りたいモードマックス。ランチも食べたし充分だった。本当なら、名前記入だけで帰るつもりでいたくらいだ。
今居た部屋を出ると、隣の部屋からもぞくぞく人が出てきた。つまり、食事場所は一ヵ所ではなかった訳だ。
和頼は、自分が居た場所でも立ち食い客が居たことを考え、別の部屋ではどんな状況だったのだろうとゾッとする。
確かに軽いお昼御飯ではあるけど、学備学園に通う親御さんはとにかくプライドが高いから、そこが引っかかるのだ。
そうまでして、こんな運動会の打ち上げや親睦会に意味などあるのかと、なかば呆れにも似た感覚を味わっていた。
人の流れに乗って進む。この流れからはみ出なければ絶対に帰れない。
だが、監視でもされているように、美輪家の周りはがっちり固まっている。
美輪家最強警備の星丘でさえ、傍へこられず顔を引き攣らせていた。
別の部屋に着くと、いくつかのテーブルにお菓子やケーキが用意されていて、ジュースも飲み放題。ただ、お菓子も飲み物もテーブルから直接取るのではなく、係の者がお盆に乗せて運んでくる物を、受け取る形になっているようだ。
「パパ、ケーキ食べていい?」
「いいよ。走って転ばないようにね」
「は~い。パパは?」
和頼は、美味しそうなのを選んでと頼んだ。本当はそんなに乗る気じゃないが、子供に選ばせてあげたいのと、子供が選んだものなら食べたい気がした。
子供達が居なくなると、一気に大人達が和頼へと押し寄せてきた。そして、運動会で何組が勝ったとか、どこの子が凄いとか、当然美輪家の子がどうという話にもなる。
和頼にとっては、殆ど見知らぬ者ばかり、しかし向こうにしてみれば、五年連続子供同士が同じクラスだというつもりで接してくる者も当然いる。
なにせ美輪家は六姉妹。
和頼はこうして声をかけられる度に、いつも思う。一体、何のメリットがあってこんなことをするのだろうと。
先程の場所では、わざわざ立ち食い状態になってまで居るしと。
自分の親も、そんな繋がりを必死に結んでいたような気もするけど、結局、子供が卒業すれば縁は切れて、無駄骨だったと記憶していた。
しかし和頼は、まったく何も分かっていなかったのだ。ここに居る者達が、そこら辺にいる、ごく普通の学校に通う父兄とは違うということを。
ここ学備学園は、お金持ちが通う特別な学校。つまり、これ以下の者とは余程のことがない限り、繋がることはない。
更にそれは、子供達も同じこと。もっと言えば、子供の結婚相手は、このレベルでなければならないということ。
一般の子も、学校生活で恋をし、卒業し、アルバイト先や就職先での出会いでゴールとなる。もちろん他にも出会いはある。これは一般論。
つまり学備学園は、小等部、中等部、高等部、大学と卒業したら就職だが、この就職が自分の親の会社もしくは修行の為に知り合いの会社となる。そこでの出会いで結婚というのは避けたい。
となると、自社と関係なく同等かそれ以上の相手と結ばれて欲しいワケだ。
できれば大企業の子供と。
ここに居る子達は、普通一般の出会いで平社員と結ばれる訳にはいかない。
まして、他にも出会いがあるという言葉に含まれる『ナンパ』などは最悪だ。
その運命一つで、自分の家族だけじゃなく、会社に通うすべての家族が路頭に迷うことにも繋がる。
だからこそ、身元のしっかりした、由緒ある家柄同士で仲良くし、親睦を深め、より子供達の結婚相手にふさわしい者を探す意味がある。
そういう意味では、小学校の頃から、許嫁ほどの仲になれば、他の者に取られずにも済むし、色々と都合もイイのだ。
他にも色々な思惑があるのだが……、和頼には分からなかった。
分かるはずがない。それは、和頼は一度も結婚を経験したことがない。そして、我が子を産んだこともない。血の繋がりに深い執着もない。
つまりそれらを察知するすべての知識が無に等しいのだ。
和頼にある知識は、十九歳までの幼い恋愛で止まっている。
誰かを愛して結婚しようと告白し、夫婦の間に生まれた子を育てるプロセスもない。いきなりガキの恋愛から、今の状況まで吹っ飛んでいる。
もちろん子供を大切に思う気持ちはどこの親にも劣らないくらいあるが、ここでいうそれは、結婚や後継ぎ、更に会社などへの利益と様々なことへ波及する。
何度もいうが、和頼には到底分からないことだ。
例え普通に暮らす親にそれが簡単に分かっても、和頼には自分の結婚の意味さえまだ分からない未知の世界だから。
何も分からない和頼に、まるで家族になる為の接近、お見合い、土砂降りの親睦が全身に降り注ぐ。
必死に相槌を打つ首も怠いと垂れている。
ただでさえ他人と関わりたくないのに、話される内容は、昔ワルだったという告白や後輩に芸能人やスポーツ選手がいて仲が良いという話。他にも誰がこんな賞や資格を持っていて、誰の奥さんが大学でミスに選ばれたと。
雑音のようなそれを、顔に砂をかけるほどぶつけてくる。
横に居る者が言えば、負けじと自慢する。
しかし和頼は、その自慢話をどうでもいいよとは流せない。自分が女性であれば、男の戯言ねと流せるが、和頼はそうできないでいた。それは。
これを平気で流せるような男もまた、それはそれで『負け犬』と感じている節がある。
そんなくだらないことを自慢するような男も情けないし女々しいが、くだらないと流す男は底辺の男だ。何もない空っぽな者。プライドも実績も生きた証もない、小者だと。
元高校球児同士の会話なら、高校名や甲子園へ出たと言われれば、それだけでどれほどか理解する。それだけで尊敬に値する。更に細かなポジションなど様々。
これは他の部活でも一緒だ。吹奏楽であれ、不良の学校であれ。
ただ確かにくだらない。
でも流せないのは、その話が仮にホントであった場合の凄さが分かるからだ。
和頼もまた、そういうモノが分かるプライドの中でもがいていた時期があった、哀れな人生の持ち主。だから言葉が勝手に絡んでくる。
くだらない拘り。女性には笑われるどうでもいいこと。それでもそれをどこかでカッコイイと思い憧れては夢見た。そして目指した。
笑えばいい。誰に認めて貰えなくてもイイ。和頼もかつては、そんなバカな男の一人、だから当然女性にはモテない。
一部の変わり者の女の子にだけ好かれるような……。
自慢げにうそぶく過去の武勇伝に、和頼のお馬鹿な部分が共鳴していく。他人の自慢話ほど不愉快なものはないのに。
ただもう帰りたい。耳を塞ぎたい。関係がない。そんな先輩は知らない。ゴルフのハンデの凄さ以前にゴルフをしたことがない。
一対複数の組手でもしているようで、和頼はヘトヘトになっていく。そして改めて周りを見ていく。
周りを見ても子供達の姿がない。ケーキを持ってくるはずの子供さえ諦めるほどの要塞が出来上がっている。どんな侵入も許さない人溜まり。
競い合う序列、プライドの嵐がビカビカと放電する。
「ちょっと、あの、もうこの辺で。ケーキ、ケーキが食べたいので」限界を越えていた。
皆が美輪さんは御茶目だと笑うが、そういうレベルの問題ではなく。もう言い訳や言葉遣いに気を回すことさえできない疲労感に、心をヤラレていた。
「パパ。パパ。ケーキあるよ。こっちおいで」
何度か挑んでも持って行けなかったからか、子供達はパパから来てと呼ぶ。
和頼は、どんな理由でもいいから、この要塞を割って、新鮮な空気を吸いたいと掻き分ける。
「パパはい。美味しいよこれ」
フォークも使わずパクリと咥え、三口で食べ終えた。口いっぱいに頬張るそれに子供達が「おいしいでしょ~」と可愛く笑う。たったその笑顔で全てが浄化されていく和頼は、とりあえず目の前のれせの顔をじっと見つめた。約五秒間。
「なに? れせの顔、何かついてる?」
「ん~、可愛い目がついてるぞ」完全回復。不思議だ。
こうして子供の笑顔に心が癒されると、病院や老人ホームなどで活躍する動物セラピーなどが本当なのかもと思えてしまう。
嘘くさいと思っていたのに、自分がそれに似たことを体感して、信じざるおえなくなる。そうなると、人がペットを飼うことにも、安易に批判をできなくなる。
ケーキを食べるそこへ、他の者も「私も食べてみようかな。どれどれ」とつまむ。しかも和頼同様素手で。その食べ方がどんどん広がる。まるでこのケーキに関してはそれがマナーと言わんばかりに。
普段ケーキなど食べないから分からないのか? それとも別な理由があるのか?
付きまとう者達が、自分の息子の誕生日会へと誘ってくる。喜多河家の話を絡めながらどうにかと誘う。他にもイベントをやるので来ませんかと。
「釣り? 釣りって、お魚を釣るの? パパやったことある?」
「へ? 釣りは、……ない」本当はあるけど、話を断ち切りたい。
まさか子供達が釣りに反応するとは予想外だった。
釣りなら、自分の家族だけで行けばいい。他の家族を絡める必要もないし、それどころか楽しめなくなる。
「え~っと、ゆりなちゃん、あと、なずほちゃんは釣りに興味あるの?」
「ないよ」
でかした。さすがゆりなと和頼が心で喜ぶ。なずほもさほど興味まではない。
なにせ女の子。
他の姉妹も生粋の少女だ。ただ釣りという言葉を発してみたかっただけだ。子供なんてそういう生き物だ。何でも知りたがりで聞きたがりなだけ。
「釣りの大会開くから来てくれないかな? 楽しいこととか美味しい物をいっぱい用意するけどどう? パパと一緒にさ」
「パパと? パパとかぁ。パパと一緒なら~」
「ちょっとゆりな? 釣りの話だぞ。よ~く聞いてな。パパの話じゃなくて、釣りだよ、釣り」
「釣りかぁ。あまり興味ないかな? 私は料理には興味あるけどね」
「それじゃあ料理大会は?」
「ん~、それ、興味ない。大会でしょ? パパ意外に食べさすの嫌い」
「そっか。それじゃやっぱパパと一緒に釣りがしたいのかな? でしょう?」
「パパと一緒に釣りしたいかも。パパは、パパはゆりなと一緒に釣りしたい?」
なんて質問だ。したいに決まっている、家族だけでならしたいに決まっている。
と、そこに他の家族が割り込んできた。
「それじゃあ、ウチの所有している寝台付の豪華な列車で、パパと一緒に秋の紅葉を見に行きたくない? 綺麗だよ。電車の中から、凄く綺麗な風景も見られるし、パパとお泊りもできるし、おいしい御馳走いっぱいだよ」
その誘いに、子供達がドドドと雪崩れる。
「パパと電車に泊まるの? 電車ってあの電車? 何処に寝るの?」
興味津々だ。その質問に楽しそうに答えていく。子供も乗り気だ。
紅葉や景色がというより、和頼と電車に泊まるという不思議さに。
更に説明は続く。
混んでいる電車ではなく、自分達だけで乗るから、空いているとアピール。お家みたいな快適さだと。
首都圏ではなく、関東近郊のローカル線で、一日中走り続ける鉄道運行ダイヤを一つを借り切るようだ。
景色もよく、行き交う運行ダイヤも少なく、ゆっくりとのんびり出来るとか。
「へぇ、凄いよねパパ。電車にお泊り出来るンだって。信じられない」
確かに子供達には信じられないかも知れない。
今どきは新幹線であっという間。寝台列車もあまり見ない、というか、ないかも知れないほど。大分前に無くなったと噂で流れたような、ないような。
鉄道に詳しくない者にはピンとこない。ネット検索すれば分かることだが、普通の者はそこまですることもない。
子供達の心を鷲掴みしていく。
他の家族も「いいですねそれ」と話しに加わり出す。
中古電車を四車両ほど、改装し保有しているらしく、和頼は驚いていた。
和頼も、大型のトレーラーハウスをいくつか持ってはいるが、それは少し意味が違う。和頼は別荘として所有している。
しかし、なぜ別荘ではなくトレーラーハウスかと言えば、まず固定資産税がかからないことと、当然移動可能だということ。
普通の者が聞いて思うより、遥かに大きくて機能も充実。移動時にはコンパクトになるが、家となる時には数倍に広がる可動式。金額は一台数億円という代物で、子供達名義で一台ずつある。
「どう? もうすぐ息子の誕生日なのだけど。いや、無理にその日じゃなくても、パパと一緒に電車でビューしない?」
何が電車でビューだ。
空いている? はずはない。嘘だ、この状況なら込むだろう。自分の家族だけならば、それは嘘無く真実だが、ここに居る中から何家族来るかで、朝のラッシュと同等にもなりかねない。
和頼は否定的な目で状況を見守っていた。
「パパ~どうする? 私達はパパに任せるよ。良く分からないし。別に景色も興味ないから。ただ、ちょっと電車でお泊りには興味あるけどね」
子供達の言っていることは本音だろう。子供だから素直だ。電車でのお泊りと聞けばそういう興味は湧くし、かといって凄く電車に惹かれるかと言えば、そうでもない。
電車の魅力は薄い、やはり子供達は女の子。これが男の子なら何倍も違う反応がくるかもしれない。現に周りで聞いている男の子達は、親にすがっている。
女の子は、お菓子の家やお城の方が興味ある。逆に男の子で「ボク、お菓子の家にお泊りしたい」と言われても困る。男の子は「お菓子の家か、興味はあるけど、どっちでもいいよ、お父さんが決めて」くらいでないと。
つまりそういう感じだ。
仲込という者が、和頼にどうですかと丁寧に聞いてくる。断りたい気持ちが殆どだが、子供達が興味を示しているのも事実だ。
和頼が迷っていることを的確に感じ取り、更にいい条件をたたみ掛けてくる。
他の家族もこの話に乗ろうと、必死に右往左往する。そんな中、和頼は段々と、全身に寒気を感じ始めた。
ゾッと冷汗が浮く。色々と話される会話の中で、あることに気付いたのだ。その瞬間、何とも言えない不思議な気持ちと不安が、心を覆っていった。
それはここに居る者達が、初めから、当たり前のように思い感じていることで、ごく普通のこと。和頼にだけ欠落していた思考であった。
――繋がり。
先ほどまで、何度も聞かされた自慢話や栄光、武勇伝、そして、自社と我が家の権力を。
しかしこれが、そこらの坊やが嘘で言っている戯言かどうかが重要だ。現に私鉄の鉄道と伝手があったり、他にも現地のどこどこで何を御馳走するとか、あらゆる伝手が出る。更に、ここに居る者達もそうだ。
自分達だけでもそれなりに金持ちだが、それぞれに伝手がある。
和頼は今感じている何かを、必死に整理整頓していた。基本的には、物事に疎いが、危機管理能力に関してはそれなりのレベルがある。
目の前で見ている光景と、話のスケールを一つずつ紐解く。
こうした繋がりを見聞きしていると、テレビドラマや映画でよくある、不正や事件事故などに、上からの圧力がかかって揉み消される、そういう隠蔽が、それらの繋がりが同級生や先輩後輩関係なのかもとはっきり分かる。
学校の延長上というか友達関係なのではと。
今、この場所で、美輪家より上の者は確かにいない。だが、美輪家以外のこの繋がりがすべて結ばれたとして、美輪家とガチでぶつかったらどうであろう。
各機関に顔が利き、仲間や友達や知り合いで徒党を組んだのなら。
和頼はそんなことをこれっぽっちも考えたことが無かった。
まだ、子供達も五年生で、親付き合いも始まったばかり。だから大した問題も起きてはいない。が、これがこの先、この甘さで行ってしまったら、いつか子供達の将来にとんでもない障害になるのではと。
和頼の背中の寒気が引かない。
何気ない会話から、とんでもないことに気付き怯えているのだ。
そのことに気付けたのもまた、和頼の周りで似たようなことがあるからである。
瞳の元弁当屋、今は梓の物だが。茜の託児所。そして自分と恵のデザイン会社。星丘の警備会社。和頼のイベントを請け負う会社。そして弁護士や税理士会社。
他にも、海外での仕事で必要な会社が幾つかある。
これらが、和頼と深い関係を持ちつつ、独立している会社である。
そのどれも、深い所で固く繋がっていた。
ちゃんと考えたことはなかったが、それら会社の強さとそこから波及する相互作用で、確かに仕事がグルグルと回って潤ってもいたのだ。
「子供達も、少し興味があるようですし、お言葉に甘えて遊びに行こうかな?」
「え? 本当ですか美輪さん。それは凄く嬉しいです。ぜひ」
和頼は自分が吐いた言葉で、一気に寒気が取れていくのが分かった。その和頼に子供達がくっ付いて「ホントに~。お泊り行けるの~」と喜んでいる。
しかし、周りに居る者達の背中に、和頼が振り払った恐怖が飛び散った。和頼の突然のそれに、見えない不安、何とも言えない疎外感、人脈の暴落しそうな予感が走る。
この列車に絶対に乗らなければいけないといった危機感が走ったのだ。
そこまでのものではなかったはずの紅葉見物。しかし、和頼が繋がりの大切さを知ったことで、完全に場の空気が張り詰めたのだ。
ドラマや映画で、どんなに癒着だ天下りだなんだと言われても、普通に暮らしている者には、あまりピンとこない。
だが、こうして限られた状況下に置かれると、少しずつ見えてくる。
今もその足音がする。これから大学を卒業するまでに、しっかりとした繋がりを築けなかったお家は、間違いなくライバル社に潰されると。
ここでの負けは、社会での負けにも繋がるかも知れないと……。
だとすると、ぽっと出の会社などは、よほどの伝手がないと、しばらく繁栄したのち消える運命かも知れない。生き残る為には、自社で深く根を張るか、他社ときちんと繋がるか、ズルイこと悪いことを要領よくこなせるかだ。
――当たり前のこと、なのかも知れないけど。
富蔵家も成見家も財前家も喜多河家も、他の学年の親御さん達も仲込家に取り入る。だが、そうやすやすと話を受け入れない。まるで仕事上の駆け引きのよう。
「そう言えば喜多河さん。この前の船上パーティーは楽しく盛り上がったようで。ウチは招待して貰えなかったようですけどね」
これは皮肉ではなく、嫌味でもなく、直接的な攻撃だ。権力のバランスが違う。
和頼もそのことにもう気付いている。
美輪家が他の家になびけばそこが権力を持ち、この先の命運が大きく変わる。
もし仮に「やっぱ釣りに行きたい」と言えば、それだけで何もかもひっくり返るわけだ。
和頼は初めて思った。本当のセレブの様な、先を見通せる本物の目が欲しいと。
子供達が幸せに生きていけるような、穏やかな道を用意してあげたいと。
世の中の上流に立つ者達は、こういう駆け引きに長けていて、偏差値では計れないほど、とてつもなく頭がきれる。
とてもじゃないが、普通に暮らす者では及ばないだろう。
とはいえ、この地位での逃げはない。どこへ行っても、いずれ出会うのだから。
そして、今日この会場に来られていない者で、権力や財力が劣る者達は、いずれ散りゆく運命と分かった。立ち食いする意味が分かった。
パーティーは踊りや食事を楽しむ場所じゃない。テレビから流れる華やかな催し事も、そうした戦いの場であり、そこを流してしまう者は、例えチャンスに恵まれても失敗し散りゆく。
どの世界でも、繋がりがポイントとなり、それが生き残りの道となる。
「美輪さん。釣りは嫌いですか? 楽しいですよ」
「はぁ、まぁ興味がないわけではないンですが。川や海となると、子供には危ないですし」
しばらく考え込んだ相手がいう。
「実はウチが所有している旅館に、大きな池がありまして、普段は錦鯉などを泳がせているのですが、それらを一度どこかへ移しまして、代わりに野生の巨大鯉を入れてですね、それを釣堀のように釣るのではどうでしょう? 安全ですし、お部屋から竿を垂らせますので」
手に持ったタブレット端末で旅館の映像を出し、見せてきた。
「うわ、凄い旅館。床がガラス張りの所もあるンですね」
「そこは、温泉も凄く良くて、色々な効能がありまして、傷やアトピーにも凄くいいんですよ。子供にも良いかと思い、別荘というつもりで買い取った物件でして」
どうやら旅館としては使っていないようだ。仮にそうしたくとも、その地域自体の客足が悪く、寂れてしまっていて、一軒でどうということはできないらしい。
地域での活性化なくしては、無駄な足掻きに終わると。
旅館もまた、繋がりや伝手が生き残りにものをいうということだ。新参者は参入しても消えゆく運命。
つまりは別荘として割り切って使うのは、正解ということだ。
今は地域の回復を待ち、寝かせているのだという。経済や円の動きで、国内旅行に目が向く時期が来るかも知れないと。その波を待っているようだ。
子供達も画像を見る。
「パパ、ここに別の鯉を入れて釣るの? なんか~残酷ぅ」
「釣りってそうだよ。針でひっかけて釣り上げるから」和頼は笑う。
子供達はブルブルと身震いする。そこはさすがに女の子だ。
よく考えれば残酷だし、酷い行為とも言える。ただ、そこに善悪のような否定も肯定もない。
世の中、残酷など石ころ同然に、どこにでも転がっているものだから。
「釣りは怖いかも」子供達が怯える。
綺麗な鯉が泳ぐ画像を見て、それを釣り上げるイメージをしてしまったようだ。
「そっか。それじゃ釣りはやめておこう」和頼が決断した。
良い所まで来て失敗に終わり、せめて旅館にと誘うが、別の者達の出す条件の方が魅力的であり、敗北感は否めない。
ただ、和頼的には、巨大鯉を部屋から釣るというのは面白そうだなと、ちょっとだけそそられていたが、そういう残酷な遊びは、娘を持つ親は控えるべきかなと思った。
色々な誘いがあるが、和頼や大人の思惑とは別に、やはり電車に泊まれるというシンプルな魅力が子供達のハートを掴んでいた。
実際に行った時に、イメージとどういう誤差が出るのかは分からないが、やはりイベント性は抜群ではあった。
「本当に、来てくれますよね美輪さん」
「ええ。そちらが御招待してくれるのであれば、ですけど。こちらはお言葉に甘えさせてもらおうかなと思います」
「ぜひ。本当に、ですよ」仲込家が家族総出で喜んでいる。
他の家族が完全に仲込家に張り付く。そしてどうにかして入り込む隙間を探す。仲込家もまた邪慳に扱ってはいけない家を見極めている。
大半の者達が仲込家へ流れ、美輪家に少数家族が残り、くっ付いてくる。和頼はそれを卒なく受け流し、会場を後にした。
「美輪さん、まだ昼間ですし、どこか一緒に行かれませんか?」
「いえ、ちょっと、買い物がありまして」
和頼の言葉に子供達も星丘も不思議そうにしていた。
買い物ならすでに終わってるはずだと……。
緩い坂を下り、ホテルから少し離れた、車を駐車した場所へと向かう。
和頼は本当に何かを買いたい様。
車へと着き、乗り込むと、和頼は運転士にいう「あのさ、ここの近くに釣具屋さんないかな? 一番近くの釣具屋に行ってくれる」と。
「釣りするの? パパ行かないって言ったよ」
和頼はヘヘヘッと笑いながら子供達の頭を撫でた。やがて、三駅ほど別の街へと来た国道沿いにある大きな釣具屋へと入り、色々な釣り具を買い漁った。
そして家路へ急ぐ。
「ただいま」
「ちょっと、大分買い物してきたみたいね。先に片付けておいたわよ」
出迎えた恵が、大変な作業だったという。
どうやら、警備所に置かれた荷物を先に運んでくれていたようだ。というより、自分達がお願いした、自動で掃除する掃除機を、一秒でも早く見たかったようだ。その証拠に、充電を済ませたそれがすでに部屋中を動いている。
「恵ばぁ、私のノンフライヤーとホームベーカリーはどこ?」
「キッチンに置いてあるよ」
ゆりなが急いで走る。
子供達もそれぞれが買った物を確認していく。和頼は、買ってきた釣り具を弄り始めた。すると、荷物を部屋へと運び終えた子供達が興味深げに近寄ってくる。
茜や恵もまた興味深々だ。
「それ、釣り竿よね。和頼も釣りとかするのね~」
「いや、まぁ、そうだね」
話しながら黙々と何かを用意する。
「出来た。ほら、皆横においで、今から釣りの仕方を教えてあげるから」
そういうと、竿の持ち方やリールの使い方をそれぞれに教えた。
「この鉄の金具を~パカッて?」
「そう。上手。そしたら、指で糸を押さえて投げる。投げると同時に指を放して、でね、またこのワッカをカチンと戻すわけ。やってみて」
子供達がそれぞれ試す。そして「できたよ~」と元気よく笑う。
すると和頼が、恵と茜に自動掃除機を片付けてと言い、外に居るクラッカーを呼び寄せた。和頼の呼ぶ声に猛スピードで飛んでくる。
小窓の前にある足拭きマットで、自ら足を蹴るようにして拭くと、クラッカーは皆の元へと嬉しそうに来た。
「よし、それじゃ、今からクラッカーと遊ぼう」
そういうと和頼は、子供達の竿を手に取り「クラッカー行くぞ」と声をかけた。そして竿を振る。何かが飛んでいく。
糸の先には、テニスの練習で使うゴムの付いたテニスボールが付いていた。ゴム部分をボールから十センチで切り、小さな金具で糸としっかり結んである。
弾むボールをクラッカーが全力で追いかける。すると、和頼は竿をまやかに手渡し「まやか。さっき教えた通り、リールを巻いて」と笑う。そう言った和頼は、別の方向へと向かいクラッカーにもいう「クラッカー。こっち持ってこい」
少しボールにじゃれた後、クラッカーが嬉しそうに和頼へとボールを運んだ。と、次の瞬間、クラッカーの口からボールが外れ、それをまやかが巻き取る。
焦り追いかけるクラッカー。素早く追いつきまた咥えた。
クラッカには、短距離なら世界一と言われるウィペットの血が濃く流れている。しかし、せっかく咥えたボールが、和頼に持って行きたいボールがなぜか子供達の方へと物凄い勢いで引っ張られることに戸惑う。そしてついに――。
唸るクラッカー。首を左右に振り荒ぶる。
唸るが、しっぽは絶好調に喜んでいる。リールを巻くまやかもまた初めての釣りの感触に興奮している。
竿から伝わるブルブルとしたバイブレーションと強い引き。お互いに必死だ。
それを皆が口を開けて見ていた。
クラッカーが、まやかのギリギリまで寄せられた所をみて、和頼が言う「まやか、まやかの勝ちだから、ゆっくりと竿を倒して、鉄のヤツをパカッと開けて」と指示した。
まやかが言われた通りに行動すると、糸は放たれ緩む。
クラッカーは急いでボールを和頼に届けた。
「よし、偉いぞクラッカー」そういっていつものおやつを一粒与えた。
「皆、分かった? こうやってさ、クラッカーと仲良く釣り遊びして」
普段から綱引きが大好きなクラッカー。やり方は全然違うが、和頼の言っている意味はそこに居る皆にはっきりと伝わった。そして早速第二ゲームが始まる。
今度はまやかがクラッカーを呼ぶ側で、みよが竿を操る役だ。
それが上手に出来るかを見守る和頼。
何度もローテーションし、大丈夫だと確認すると、和頼は幾つかの注意事項などを教えてから、どこかへとフェードアウトした。
コーヒーとお菓子を持ち、三階のベランダで外を見ている。
自分用の竿を手に取り、何かを呼び待っている。そして何かを見つけて「よし、やってみるか」と口元を吊り上げた。
糸先に唐揚げを結わい付け、遥か遠くへ目がけ竿を振る。唐揚げが宙を舞い、糸がシュルシュルと音を立て、透き通る蛇が宙を泳ぐように遠くへと飛ぶ。
唐揚げが、地面へと落ちると、和頼がゆっくりリールを巻き始めた。
するとそこへ、物凄い速さで黒い影が襲いかかった。
「よし、来た」
カラスだ。二羽の烏が和頼の投げた唐揚げに食らいついた。
それをリールで巻く。
地面を引き摺られる一羽と、唐揚げに攻撃する一羽。
しばらく格闘するが、軍配は烏に上がった。唐揚げが食い千切られたのだ。
まんまとせしめた烏は、それを咥えてどこかへ飛んでいく。しかし、引き摺られた烏が和頼に向かって「ガァ、ガァ」と催促する。
「分かってるよ。待ってな。今、遊んでやるからよ」
そういって巻き取った糸に唐揚げを結ぶ。コーヒーを飲み、お菓子を煙草のように咥えて、次の勝負の支度をする。それを烏が待ちきれないと騒ぐ。
この烏、元々は美輪家の外敵であった。庭にある、子供達の大切な畑を荒らす、黒い最悪。
庭に設置した監視カメラを少しの期間畑に向けたことでこのことが発覚した。
畑を荒らしていた根源は烏だった。
烏の襲来に当然黙っていないクラッカー、だが、さすがに羽があるモノに空へと離脱されては手も足も出ない。そんな悔しさと空腹の中、烏にほじくられたお芋やナスやトマトなどの残骸。クンクン匂いを嗅いでパクリというシーンが何度も映像に残されていた。
つまりクラッカーのそれはあくまで二次災害的で、自分からは決して畑には入らないし荒らさない。例えそれがおいしいと覚えても。
この映像を見た警備が、エアガンを手に、烏を何度もハチの巣にしたが、車や人へのフン攻撃に始まり、時には石の雨が落ちてくることもあった。
そんなお手上げ状態の中、和頼は子供の畑を守るべく、代わりに貢物を差し出した。それが唐揚げだ。
鶏の唐揚げを上げることで少しだけ皮肉を交えつつ、着々とそれを続け、ついに手なずけた。
後はいつでも、毒を盛り殺せると。
しかし……、和頼には出来なかった。少しずつ慣れていく烏。
更に鳴き声でコンタクトも取ってくる。
顔や言葉も認識いるようで、美輪家の子供達には手を出さない。もちろん和頼が乗る車や所有している物にも。そして畑にも。
つまりしっかりとした知能があるのだ。それも犬や猫以上の。
それからはペットの様な関係だ。不思議なことに、他の烏や鳥が畑を荒らしに来るのを邪魔し、外敵から守ってもくれている。
「ほら、行くぞ」
二度目の釣りが始まる。今度は一対一だ。和頼は楽勝で巻き上げる。地面を引き摺り、ついにベランダ近くまで引き寄せた。
今現在一階の途中に宙ずりだ。すると、先程の烏が舞い戻ってきて、また二羽で唐揚げに掴みかかる。数十秒後、またも烏が勝つ。
あと少しで手元まで引き寄せられたのにと残念がる。
取れなかった烏が、後から加わった烏に怒り、軽く攻撃を仕掛ける。それを見て「分かった、分かったからケンカするな」と宥める。
ケンカする二羽の、バサバサと荒ぶる羽音に、少しだけビビりながら、和頼は、唐揚げをそのまま投げ渡した。しかし、ピョンピョンと唐揚げに近づくが、なぜか食べない。
「ガァ~。ガァーガァー」
「そうかよ。これが欲しいのかよ」
飲もうとしたコーヒーをテーブルに戻し、唐揚げを糸で結ぶ。
そして烏を見ながら「欲しけりゃ取ってみな」と餌を投入した。
飛んでいく唐揚げを空中で追う。更に地面に落ちる寸前で咥えた。それに和頼は驚き仰け反る。
駐車場では、その光景を星丘や他の警備の者達が呆然と見ていた。
ケタケタと笑う和頼。何度も催促する二羽の烏。
その光景は異常を通り越して、人と動物の友情や愛情に見えた。ただし、常識的にはやはり異常であり、動物愛護の観点からもギリギリでアウトだ。