シシュンキノノウ
青、青、青、緑、緑、茶。
なんで世界はこんなに色が濃いのだ。もっと薄くなってほしい。
私は冬が好きだ。雪が降っていればもっと好きだ。白い世界は、うるさい音を静かにしてくれるから。名前が雪だから好きだって訳じゃないよ。
それと比べて、夏は嫌いだ。もうすぐ嫌いな夏が来る。春のまま止まってくれはしないのだろうか。日本には四季がある。なんて皆ありがたがって言うけれど、私にとってはいい迷惑だ。冬と春さえあればいい。それだけでもきっと私たちは生きていけるし、感謝の度合いも変わるわけでもあるまいし。私は雪が降れば夏の分まで感謝するし、春になれば秋のことも思い出すと思うんだ。そういうことにしておいてくれないかな。
でも、どれだけ嫌っていても、いざいなくなったら『もうなくなってしまったんですよ、去年の夏が最後だったんですよ』なんて言われたら、夏のために用意しておいたこの心のスペースに冷たい風が吹くのだろうね。秋のために用意しておいたスペースにも桜の花びらが降り積もってしまうのだろうね。
そんなことは絶対起こらないから、知らないけれど。
「……ってぇ」
「……」
「……左にズレてんだから見えるでしょ」
シャーペンで刺された部分を手で押さえながら、ハルがこっちを向く。
「……黒板の左側が見えない」
「口で言え口で。せっかくアンタには口があるんだから」
「……授業中なので前を向いて下さい」
「……」
「……おっぱいが好きな人は、こっちを向かないで下さい。ないですよ」
「……西田?」
「ック……。ヒック……。ヒック… …」
あぁ、ダメだ。しゃっくりが止まらない。もしかしてコイツが原因なんじゃないだろうか。コイツが私に電波か何かを飛ばして、それに私が反応して、体の調子が狂うのではないだろうか。アレルギー反応だ。病名ハルアレルギー。
こんな病気にかかる人間なんて世界広しといえど私くらいのものだから、薬も開発されていないんだろうな。
「お前なんで……泣いてんの?」
「……しゃっくりが……ひどくて……胸のここらへん……痛くて」
しゃっくりが出る度に、酷く胸が痛んだ。もう私の体はダメなのかも知れない。情緒不安定だし。思春期って、こういうものなのか。自分でもコントロール出来ないや。ダメだ。ダメだ。脳の一部がきっと、おかしくなっている。
こいつの出す電波のせいで。
「あー! 古川が西田泣かしてる! また夫婦喧嘩してる!」
クラスのお調子者の田中が、授業中だというのに私たちを見て大声をあげた。教室中の視線が一気に私たちに集まる。あいつあとでコロス。絶対。
そんな強い殺意とは裏腹に、私は注目が自分に集まってしまったことにより、顔が熱くなる。目のやり場がなかったので、俯いていると、右腕を掴まれた。なぜか懐かしい気持ちになった。
「先生、なんか西田体調悪いみたいなので、保健室まで連れていきます」
掴んだのは、ハルだった。
「ん? あぁ、すぐ戻ってこいよ」
「はい」
ハルは私の腕を強く引っ張って無理やり立ち上がらせた。私は為すがままに教室を後にする。廊下に出るとハルは私の腕を離した。
いつの間にか、随分と大きな手になっていた。指は長いくせに、妙にゴツゴツとしていて、同じ手なのに私とは全然違うものだった。私たちはずっと同じままではいられない。『あれが最後の春でした』といつ神様に言われるかも、終わってみてからじゃないと分からない。
「今日は否定しなかったね」
「あぁ、ユキこそ」
「なんで?……ヒック」
「そんなことより、先にしゃっくり止めろよ」
「先に言ってよ」
耳を塞ぐと、聴きたいことが聴こえなくなってしまうから。
「……ユキが嫌がるかなって思って、いつも否定してたんだよ。嫌だろ? みんなからそんな風に言われるの」
「……嫌じゃないよ。ヒック。恥ずかしかっただけで」
嫌じゃなかったのか私。自分でも今まで気付いてなかった。
「……そうか」
「でも、もうアンタには先輩がいるからね。……ヒック。ちゃんと否定しないとダメだよ。ヒック。ありがとうね。保健室は自分でいけるから」
ハルが何かを言いかけようとしたけれど、私は両耳の奥に人差し指を突っ込んだ。ここから先は何も聞きたくなかったから。私はハルを置いて一人で保健室に向かって廊下を歩き始めた。
一分後、しゃっくりはちゃんと止まった。振り向くと、もうハルは教室に戻っていた。これが最後のハルになるのかも知れないな、なんて思ったら、また涙が出てきた。教室に戻ればハルはいるけれど、もうすぐ今までのハルではなくなるから。私の知らないハルになるから。
私は涙がこれ以上流れないように、そっと瞼を閉じた。それでも涙はこぼれてしまった。バカみたいで、ちょっと笑ってしまった。
ダメだ情緒不安定。そんな女にだけはなりたくなかったのに。思春期の脳はなんて面倒くさいのだろう。ダメだなぁ。私。今更になってこんなことに気づくなんてさ。それで泣くなんてやっぱりバカみたいだね。
私はハルのことが好きだったんだって、今になって気付いた。
私はまた両耳を塞いだ。
「好きだよ。ハル」
誰にも聞いてもらえない吐き出された想いが、静かに消えていった。