世界が、消滅する。
「ハルぅ、お前に客ぅ」
「俺に?」
私の前の席に座っていたハルは、読みかけの文庫に栞を挟み、廊下に出ていった。
私は机に突っ伏しながら、優しい風にそよそよと吹かれていた。頭を撫でられているみたいでいい気持ちだった。このまま眠ってしまうのもありだな。うん。陽射しが暖かい。
もうすぐ夏が来るだろうけれど、みんな準備しているのだろうけれど、今日一日くらいはそんなことやめて、みんなこの陽射しの中で眠ればいいのに。そうすれば世界はずっと春の終わりのままなのに。
虚ろになっている眼は、廊下の方をぼんやりと眺めていた。ハルのことが心配で、無意識に目が追っていたのだろう。ハルの隣には、女の先輩がいた。髪の毛は軽めの茶色で、ウェーブがかっていて、モデルのように綺麗なお姉さんだった。そしてなにより。
「おっぱいすごかったね。おっぱい」
「……あ?」
「先輩、なんだったの?」
「あぁ、うん。友達になってくれませんか? って」
それは友達っていうより、恋人になってくれませんか。に限りなく近い意味なのではないだろうか。
「それで、なんて答えたの?」
「とりあえず連絡先教えてって言われたから、教えた。そしたら、またねって帰っていった」
「ふぅん」
ピロリン。ハルのスマホが鳴った。
「おっぱい先輩じゃない?」
「あ、うん。そうみたい」
「なんて?」
「『今日一緒に帰ろ(ハートマーク)』だってさ」
「よかったじゃん」
「あんま興味ない。っていうか知らない人と帰ると疲れる」
「あんた、贅沢言ってんじゃないよ。あんな綺麗でおっぱいの大きい人に誘われて……」
おっぱいが大きいって、卑怯だ。だってそれだけで男はみんな骨抜きにされる。
「あのね、女の子があんまりおっぱいおっぱいって男に言うんじゃありません」
何をまともなことを言ってるんだか。結局一緒に帰るくせに。いいよ。別に私には関係ないからね。あんたがおっぱいに埋もれて窒息死して死んでしまったら、棺桶の中に巨乳のグラビア雑誌いっぱい入れてあげるから。安心して、死になさいよ。
学校の帰り道。ナルミと一緒に商店街に寄ると、たまたまハルと先輩が二人で歩いているところを見つけてしまった。夕陽の中で赤く染まっている二人はお似合いで、思わず見惚れてしまった。綺麗だとさえ感じた。
なんだ。疲れるとか言いながら、十分楽しんでるじゃん。よかったね。自分を愛してくれる人が見つかってよかったね。見つけてもらってよかったね。
実を言うと私は少し心配だったんだ。なんだかんだでも腐れ縁だし、ずっと一緒に同じ景色を見てきたわけだし。ハルは暗いし、自分から友達作るのとかしないから。いつも私たちは喧嘩みたいになっちゃうけどね、本当はあんたが幸せになってくれたらいいなって、心のどこかで願ってたんだよ。だから、よかった。
これで私も余計な心配をしなくても済む。あんたの面倒を見ないで済む。
話さなくて済む。
「……ック。ヒック……。ヒック……」
「まーたあんたしゃっくりを……って、わっ!」
「ヒック……。えっ?」
ナルミが私の顔を覗き込んで、驚き声をあげた。その間にハルたちの姿はどこかに消えてしまっていた。もう見えなくなっていた。
「しゃっくりしながら……泣かないでよ」
「ヒック……、アハハ。ほんと……ック。だぁ……」
なんの涙だろう。視界が滲む。冷たい涙が頬を伝う。
「とりあえず水筒にお茶入れたげるから待ちな」
「ううん、大丈夫」
しゃっくりの止め方は教えてもらったから。
私はそっと、人差し指で両耳を塞いだ。少し痛かった。何も聞こえなくなる。嫌なことも、知りたくないことも、聞こえなくなる。ついでに両目も閉じてみる。世界が消滅する。この胸の痛みも一分後にはなくなる。
あと少しだけこうしていれば、全てを忘れられる。そう思った。