儚は一緒の墓に入りたい
ここは霧ノ宮高校一年二組。
新入生を向かい入れて二ヶ月が経ったこの教室は、もう生徒を特別扱いすることもなく、通常のカリキュラムを生徒たちに強制している。
もうじき朝のHRが始まろうとしているこの気だるい時間に、禀は上体を机に突っ伏していた。
そんな禀に、隣の席の生徒が話しかけてくる。
「おはよう。禀、また徹夜でゲーム?」
その声に、禀はすこし、泣きそうになった。
「ああ、まあな。めちゃくちゃ面白いから、終わったら貸すよ」
「ふーん、楽しみにしてるね」
明日香がそう言って、その会話は終わった。
違和感はない。明日香なら、こう返事をしただろう。ただ、罪悪感だけがあった。
「そういえばさ。前になんか着物の子供に会っただろ? 赤い髪の。あの時、なにか言いかけてなかったか?」
どうでもいい質問だった。ただ、禀が絶対に知らないその先の会話を、明日香に言って欲しかった。例えその言葉すら偽物だとしても。
「しっ、しらない……。憶えてない」
言って、明日香は会話を切った。
それが、こんなにも悲しいなんて。
それでも、この悲しみを忘れてはならない。
この世界が偽物で、本当の世界が夢の外にあることを、忘れてはならない。
そうでなければ、救われないではないか。価値ある物が、その尊厳が、失われてしまうではないか。
チャイムが鳴る。
担任はまだ来ない。もう少し真面目だったらいいのに、と禀は思う。その不満を、愛おしく思う。
廊下からドタバタと足音が聞こえてきた。
あの担任は遅刻しても決して走らない。禀と明日香が顔を見合わせて首を傾げていると、教室のドアが勢いよく開かれた。
そして、漆黒の美少女と、冴えない中年が同時に教室に入ってくる。
「はい、俺の方が早かった! よって、教師より遅れてきた儚は遅刻だ、HRが終わるまで廊下に立ってなさい!」
「卑怯ですよ! さっきまで並んで歩いてたじゃないですか! なにいきなり走り出してるんですか!」
「いやあ、でもぉ、儚ちゃん遅れてましたぁー。そのことについて言い訳はあるか? あ? ん?」
二人の言い争いを見て、クラス中から笑い声が漏れてくる。
いがみ合っていた儚は禀の方を見て、手を挙げた。
「あ、おはようございます! 禀さん、ちょっと聞いてくださいよ! あの教師、わたしを遅刻扱いするために、わざわざ手の込んだ嫌がらせをしてきたんですよ」
「……いや、あいつは確かにクズだけど、元はといえば儚が遅刻するのが悪いんだろ」
禀が言うと、儚は心外そうに唇をとがらせる。
「はあ!? それを言うならわたしを起こさず一人で先入っちゃう禀さんが悪いんですよ! 昨日寝る前起こしてくださいねって言ったじゃないですか!」
「いや、俺は起こした。母さんも起こしてた。儚も『起きた、先に行ってていい』って言ってた」
「そんなの知りませんし覚えてません!」
儚のあんまりな言い分に、禀はため息を吐いた。
そんな禀に、明日香が小声で言う。
「さっき言ってたゲームって対戦ゲーム? だとしたらわたし、一人だからできないよ?」
「いや、一人用のゲームだ。儚は後ろでスマホいじってただけ」
ぶつぶつ言いながら席に座る儚を見て、禀と明日香はしょうがないなぁ、と苦笑した。
これが、禀の新しい日常だ。
まあ、それなりに幸せだとは思う。
思っていたより不幸ではないし、お粗末な出来でもない。
実をいえば、あんまり偽物っぽいとも思わない。
だから、禀だけは覚えておかなければならない。この世界が本物ではないことを。
でも、どうして?
どうして、禀はそんな真実を、忘れないようにしているのだろう。
それを、大切に思っているのだろう。
本当に、どうして。
当たり前のように陽が沈む。
窓の外は黒天の空が広がっている。星の光は、地上の星光に阻まれ、禀たちの目には届かない。
しかし、禀にとってはそんなことは重要ではない。
重要なのは、いまやっているテレビゲームのボスを倒せるかどうかだ。
白熱する禀の背後、禀のベッドに横たわりながら、儚は言う。
「時間って不思議ですよね」
「いや、ちょっと待って、いまとても忙しい」
集中を切らすような問いかけはいまは止めて欲しい。後で、一晩中だって付き合うから。
そんな禀を意にも介さず、儚は続ける。
もしかしたら、独り言なのかもしれない。そう考えると、いつもと少しだけ、語りが違った。
「世界中の誰もが時間の存在をちゃんと認識していて、でも誰もその流れを共有できないんです。ゲームをやっている禀さんにとっては時間の流れがとても速い。しかし、この地球の裏側で働いている人たちにとっては、この瞬間は長いでしょう。忙しいなら早いかもしれません。もしくは、忙しいからこそ、長いと感じる人もいるかもしれませんね」
敵に倒され、コントローラーを投げ出した禀は、儚の方を向く。
短いスカートで無防備に寝転ぶ姿は、目に毒だった。
黒いスカート、白い足、黒い髪、白いシーツ。それらはあまりに淫らだ。
「でも、わたしにはいまいち時間の長さとか、よくわかりません。いえ、退屈な時間は長いですし、楽しい時間は短いですが。それより、期間としての時間です。長いようで、やっぱり短かった、という表現がありますよね? それって、記憶した思い出が少なかった、ってだけじゃないんでしょうか?」
儚の目は、真っ直ぐ天井を見つめている。その視界を共有することは、禀にはできないけど。
それでも、同じ天井を見上げることはできるのだ。
「儚はさ、どうだった? 以前と、今。どっちの方が短い?」
儚はチラリと禀の方を見る。
「大人になるにつれ、人は時間の流れが早く感じるそうです。その理由はいろいろと考えられるそうですが、なんにせよ、経験が多くなるのが根本なんだとか」
つまり、そういうことなのだ。
「ゲームとは別だな。経験値が上がるほど、レベル上げの時間は長くなるのに」
「でも、一体あたりの敵を倒す時間は短くなっているはずですよ」
「ああ、そうだな」
会話が終わると、儚は大きく欠伸をした。
「昨日も夜更かししてたんだから、早く寝ろよ」
「うーん、なんだか、睡眠時間って勿体ないような気がするんですよねー」
儚は睡眠をとるようになり、また、ご飯も食べるようになった。
代わりに、禀はほとんど寝なくても大丈夫になった。
だから、最近は儚が眠ると、家を出る。
夜の街を歩いている時間が、なによりもリアルに感じるのだ。
そんな感傷には、何の意味もないのかもしれないが。
気が付くと、儚は寝息を立てていた。
自分の部屋があるというのに、儚はいつも、禀のベッドで寝る。
その気持ちは、わからないでもない。眠るという行為をしたことのない儚は、意識を手放し、無防備になることが怖いのだろう。
眠っている間に夢が覚めたり、寝て起きたら夢だったり。そんな可能性を、儚は一番知っている。
『我思う、故に我在り』
この世界は、そういったもので出来ている。
禀は儚の寝顔を見て、充たされた気分になると、掛布団を掛け、電気を切った。
上着を羽織り、外に出る。
暗闇から、声が聞こえたような気がした・
幸せですか? と。
もちろんだ。
嘘でも、無価値でも。この日常はなによりも尊いのだから。
幸せを感じないなんて、嘘だった。