儚は夢を見るのか?
「愛ってなんでしょう?」
「は?」
思わず怪訝な顔をして儚の方を見てしまった。
儚は顔を赤くして、慌てて両手を振った。
「いえいえ、アレです。これは哲学の議題です。本当ですよ?」
まあ、そうなのだろう。そうでなければなんだというのか。
儚は口に手を当てて、わざとらしく咳をする。禀もまた、わざわざ居住まいを正した。
「ごほん。……さて、かつて人がなにかを好きになる理由はなんだ、と考えた人がいます。人は美しい物を好きになる。ならば、人はその美に惹かれるのだ、と。見た目の美ではなく、本質としての美。この世界における真実の美ですね。これは個々の主観に依るものではありません。もしも完全な美があるとすれば、それは万人に愛される物のはずですから」
その理屈は一見して正しく、そしてなによりも難しいことのように思える。
たしかに美しい物は愛おしい。しかし、万人にと幅を広げれば、どうしてもそんな物があるかと疑問に思ってしまう。
「ええ、それは正しいですよ。ここで言われる真実の美は、宗教まで含めたものですからね。本当に万人が愛する真実の美、なんて物があるとすれば、それは神か神の創造した物に他なりません。しかし、理論的には神話は人の作った想像です。であれば万人に、それこそ倫理道徳に唾を吐きかけるような悪人には美しくもなんともないでしょう。よって、この真実の美とは、あらゆる哲学がそうであるように、想定と想像の、そういう仮定でしかありえません。真実の美が、概念の中でしか存在を許されないとしたら、それは酷く悲しいですね」
そう言って笑う儚は、それこそ万人に認められる美なんて欠片も信じてなさそうだった。
「あなたはどう思いますか? 真実の美なんてものがあれば、それはどういうものなんでしょう? 人を狂わす宝石か、完全な造形を持つ芸術品か、あるいは神か、聖人の魂か」
少女が虚ろに笑う。
黒く、暗く、黒く、黒い。
さて、と考える。
彼女には、あるのだろうか。これが真実だといえる、美しい物が。
自分には、あるのだろうか。愛を真実だと証明できる手立てが―――。
ぱっちりと目が覚めた。
これは体調がどうというより、やる気の問題だろう。
病は気からとはいうが、この場合はまさにそれだ。生気なんて、あるかどうかもわからないもののために、貴重な時間は潰せない。
禀はまだ鳴っていない携帯のアラームを止め、手早く着替えて階下へ降りた。一応、まだ学校指定の制服である。
リビングでは、禀の母親が朝食を並べていた。
「おはよう」
「あら、今日は随分と早いのね。なんだか最近、朝は顔を合せなかったから新鮮だわ」
母の言葉に苦笑する。思えば、自分はこんなにも恵まれているのだ。それを思うだけで、気恥ずかしくて仕方ないが。
「母さん、今度家に友達を連れてくるよ」
ふと、禀はそんなことを言っていた。もしかしたら無駄にハイテンションになってるのかもしれない。
母はにっこりと微笑んで、言う。
「あら、恋人かしら。だとしてもお父さんには内緒にしておきなさいね? あの人、絶対うるさいんだから」
「うん、そうする。いや、恋人とかではないんだけど」
普段と違って、なんだか今日は妙に自分が素直だ。
朝食を食べ終え、禀は玄関に向かった。そこで、はたと思い至る。
儚との待ち合わせはどうしよう。当然だが、儚は携帯を持っていない。制服も私服も持っているくせに、学校指定の鞄も教科書も筆記用具も持っていない。この辺りは本当に謎だ。もしかしたら科学では解明できないのかもしれない。
とにかく学校まで行ってみよう。儚がいなければ抜け出せばいい。
そう考えて玄関のドアを開くと、そこに儚がいた。
その姿に、言葉を失う。単純に家の向かいに儚がいたことにも驚いたが、なによりもその恰好に目を奪われた。
いつも通り夜色の髪の二つに括り、その上から黒いリボンを巻いている。首には黒く細いチョーカーを付け、肩と太ももを大胆に露出した漆黒のドレス。足には踵の高い靴まで履いている。
一見社交界にでも出せそうなドレス姿ではあるが、つま先から頭まで黒で統一しているせいで、社交界どころか葬式に出ても文句は言われそうになかった。
儚はしゃなりと首を傾げ、言う。
「あら? 禀さんは制服なんですか?」
「あ、いや。鞄に服入れてるから、あとで適当な場所で着替えるけど……」
言葉を濁す禀に、儚は微笑み、たったとその場を蹴った。
「それでは行きましょうか。ちゃんとエスコートしてくださいね?」
そう言って悪そうな笑みを浮かべる儚に、禀は曖昧に頷くことしかできなかった。
美しい、けれどどこか不吉なドレス姿で、儚は禀の隣を歩く。
このあまりにも人目を惹く少女は、しかしあまり周囲の視線にさらされることはなかった。
意識すれば注目してしまうが、意識しなければ視界の外に追いやってしまう。存在感の薄い少女である。そういった意味では油汚れと似ている。
そんなことを考えて冷静さを保とうとする禀に、儚は延々と話し続ける。
「禀さんは、世界とはなんだと思います? まあ、もちろんこの、いまわたしたちが見て、感じている全てが世界です。しかし、わたしの観ている世界と、あなたの観ている世界は同じものでしょうか。以前、カラスが黒い、という話をしたのを憶えていますか? カラスは黒い。けれど、その黒色が誰の目にも黒色に見えているかは、わからない。であれば、世界とは斯くも不確かな共通認識によって成り立っているんです」
確かにそうかもしれない。儚の見ている儚と、禀の見ている儚はきっと別物に違いない。でなければもっと、自分の姿恰好を気にしてくれているはずなのだ。
身長差から見える胸元や、歩くたびにヒラヒラするスカートや、ちょくちょく触れる髪先なんかが、妙に禀の心をざわつかせる。
「不確かなものに実像を与える、これが言葉の力の一つですね。言葉を操れば、この世に存在しないものをも言い表せる。例えば、心なんかです。心なんて物質はこの世界には存在しない。それを人は、心という一言だけで説明できるんです」
歌うように儚は言う。
存在自体があやふやな儚は、もしかしたら立っている地面なんかよりも、自分が発する言葉の方が確かなのかもしれない。
あるいは、儚が本当に他人と共有できるものなんて、言葉くらいしかないのかもしれなかった。
「聖書において、世界の始まりには言葉がありました。バベルの塔の崩壊によって乱された、旧人類の統一言語。聖書に限らず、世界中のあらゆる神話には、創世期があり、その段階で空や陸、海には神が、ひいては名前が与えられるのです。もちろん、神話が造られる前には人々は言語を話していないはずがないのですが、その時代の神話とはすなわち歴史ですからね。このあたりの話はわたしの専門ではないのですが」
「……そもそも、儚のその知識はどっから来てるんだ? 集合的無意識?」
禀の言葉に、儚はあははと笑った。禀もそれ以上突っ込むのは止めておいた。わからないことがわかるというのは、それ自体が良いこととは限らないと思う。
禀が知らなければならないのは、そんなことではないのだ。
エストートしろと儚は言ったが、実際、儚は特に行きたい場所はないのだろう。どんな場所が楽しいのか、心地好いのか、それすらもわからないのだ。
だからといって、禀にも儚が喜びそうなところなんて、いまいち見当がつかなかった。
ただ、こうして歩きながら話しているだけで、儚は楽しそうだ。当然ではある。儚はこの世界を満喫できるだけで幸せなのだから。
禀もこの世界を満喫できるような場所、と考えてはいたが、これが難題だった。素晴らしい風景だけなら、禀も儚も毎晩見ている。夢に見ないような普通の場所で、なおかつ普段決して目にするような場所でもなく、儚との会話を阻害しない場所。
ついでに言うなら、平日の昼間に、禀のおこずかいで入れる場所だ。
そこで思い出したのがこの場所だ。
禀が考えるような条件でまた、考えられたのだろう、小学校の遠足で来たことがあるきりの水族館である。
電車に乗って数駅、そこからさらにバスで移動してようやく着いた。その間も、儚は乗り物に乗るたび楽しそうにしていた。
そんな儚が、期待半分、困惑半分といった風に首を傾げる。
「……水族館? なにする場所なんですか、これ?」
「魚を見る場所だよ。いや、魚だけじゃなくて海に棲む生き物がたくさんいるんだ」
「ああ、さかな……。海って前に一度見ましたね。さかなはそこに住んでいるんですか?」
儚の言い方に禀は笑い出してしまった。普段はあんなに小難しい話を嬉々としてしていながら、そこから外れるとこんなことを大真面目に聞いてくる。
この世界が素晴らしい、この世界の全てが欲しいと言った儚は、まだなにも知りはしない。そこに、禀は奇妙な興奮を覚えた。
ところで、儚は軟体生物や深海生物を見ると、どんな反応をするのだろうか。
どう見ても中学生までにしか見えない儚を連れて、つい何か月前まで実際に中学生だった禀は、しかし全く咎められることもなく入場券を買うことができた。
そして、中に入ること数秒で、儚の顔が輝き始める。
「これ! これなんですか、禀さん!」
「それは水槽。透明なケースに水を入れてるんだ。魚は水の中でしか生きられないから」
「ほう、なぜです?」
「呼吸の方法が陸の生き物と違うんだよ。水の中から酸素を取り出すための器官、えらで呼吸する。だから逆に、大気中では息ができない」
「……それは、不便ですね」
禀の言葉に、儚はすこし暗い顔をした。儚もまた、この世界で普通に生きてはいけないのだ。
「まあ、それは見方によるけど。地球の七割は水で、それ以外が陸なんだ。むしろ不便なのは残りの三割の中でしか息のできない陸上生物のほうだ、とも言える」
「そうなんですか? それにしては街中で海とか見かけませんよね?」
「まあ、人間は陸上生物だからな。街も陸地に作られる訳だし」
「はー、なるほどですね」
儚と話しながら、禀は昔のことを思い出していた。
中学生の頃、授業で職業体験といって何通りかの職場に一週間ほど通わされたことがあった。くじで負け続けた禀は、一番過酷だと噂の保育園に行くことになったのだが、その時相手した子供がこんな感じだった。
儚ははーとか、へーとか、感嘆符を漏らしながら、適宜気になった箇所を禀に質問した。
よほど夢中になっているのか、もう哲学や心理学の話なんかはしない。食い入るように魚の動向を追う儚の後ろで、禀もまた水槽を眺めている。
子供のレジャーだと思っていたが、この歳になってもなかなかどうして面白い。むしろ、子供にとってこそ退屈な場所だった。魚が泳いでいるより、自分が泳いだ方が楽しい年頃だ。
辺りを見渡す。
館内は暗く、わずかな照明と水槽だけが薄く光っている。人が少なく、魚は鳴いたりしないので、儚が声を出す以外は完全な静寂を守っている。青い水槽の中では、キラキラと色とりどりの魚が光り、泳ぐ。
不思議な空間だ。ともすれば夢の中と同じくらい、神秘的で幻想的だ。デートスポットの定番に名前があげられるのも納得である。
どこか名残惜しそうに、しかし次の水槽への興味から移動する儚に、禀もまた付いて行く。それがまた、少しだけ楽しかった。
青く光る空間に、黒い服と白い肌の儚が浮いているように見える。もしかしたら、儚は水棲の生物なのかもしれない、なんて馬鹿なことを考えた。だがそれも、あながち間違っているとも思えない。深海染みたくらやみで生まれた少女。陸では息ができない儚い存在。そういえば、そんな話がなかったか―――。
ふと、前を歩く儚が立ち止まり、禀を振り向いた。
「どうかした?」
聞くと、儚は目を泳がし、そして言う。
「あ、いえ。このペンギン・イルカショーですが、時間が決まっているようで。いま何時ですか?」
急に現実に引き戻され、禀ははっとなった。
なにを考えていたのだろう。禀が頭に思い描いたのは、人魚姫の物語だった。その結末はどうだったろう。禀が覚えているのは、あれがどうしようもなく悲劇だったという、それだけだ。
禀と儚は、連れ立って屋外へと向かった。空はいつのまにか雲がかかっていた。どうせなら、嘘みたいに晴れてくれればよかったのに。そうすれば、ショーはより、楽しかっただろうから。
結局、何時間も水槽から水槽へと館内を泳ぎ、水族館を出る頃には夕焼けが目にまぶしかった。
この間なにも食べなかったので、禀は空腹がすごいことになっていたが、儚は全くその元気が衰えることがない。お腹が空かないのだろうか?
「いやー、楽しかったですね。この世界は神秘です。あんな謎の生命体がごろごろ生息しているなんて。なんか、嘘くさくありません?」
「あー、うん? まあ、すごいよな、地球って」
禀の反応のなにがおかしかったのか、くすくすと儚が笑う。
その姿は、まるで普通の女の子のようだった。
「ねえ、禀さん。あの水族館の中のこと、わたしはなに一つも知りませんでした! とても、楽しかったです」
そう言って、笑う儚に、禀は心の底から、充たされたような気がした。このまま、幸せな毎日が、ずっと続けば良いのに、と。
「それで、ですね。わたしずっと半信半疑というか、存在を疑っていたものがあるんですけど……」
「え、なに?」
儚は言う。キラキラとした目で、真っ直ぐに。
「神さまって、いるんでしょうか!?」
「…………あー、いるかもな。もしかしたら」
「あー、やっぱりいませんか。そうですか、そうですよね」
儚は苦笑した。
禀は考える。今度は動物園にでも連れて行って、キリンや象を見せようか。そうしてこれが神さまの使いだ、と言ったらどうなるだろう。呆れるだろうか、それとも笑うか。笑ってくれればいい。そうしている間は、不幸にはならないと思うのだ。
「ああ、もうじき夜ですね」
儚のその声には、満足感と、ほんの少しの心残りが混じっていた。
儚は夜というが、まだまだ序の口というか、子供の門限にすら達していない。
だが、もう限界なのだろう。儚はいつまでもこの世界には留まれない。無理をしている儚は、本当に苦しそうだ。
ふと、儚と一緒に夜の街を歩いてみたいと思った。儚は夜を見たことがないはずだ。空が黒いなんて、いかにも儚の喜びそうなロケーションではないか。少なくとも、こんなにも寂しい風景ではないはずだ。
海沿いの水族館から駅までの距離を、儚は歩こうと言った。行きはバスに乗ったが、それほど距離がある訳ではない。
海の上の空は、どこまでも薄く雲が覆い、それらは茜色に染め上げられていた。海も、空も、道も。まるで目に夕焼けのレンズを通したようだ。
踊るように、儚は海岸沿いを歩く。
ちょっと前に進んで、また戻り、くるりと一回転。それは、いつだか夢の中で儚が踏んだステップだ。
「ねえ、禀さん。世界は広いですね。きっと、禀さんが知ってるよりも、もっと広いんです。だれも知らないような場所で、だれかが生きているんでしょう。わたしと同じ存在も、どこかにはいるんでしょう」
底抜けに明るい声は、禀の胸に重く圧し掛かる。
どこかには、いるのだろうか。もしそうなら、禀は――。
「真実って、なんだと思いますか?」
唐突に、儚は言う。歌うように、問いかける。
それは、禀の返事を期待したものではなかった。
「真実を考えるなら、偽物と比べて見なくてはわかりませんよね。さっきの魚の場合、天然と養殖にはどれほどの違いがあるんでしょう。どれほどの、価値の違いが。天然の方が価値がある。それはだれにとって? どんな理由で? 人間はどうなんでしょう。偽物ではいけないんでしょうか。だとしたら、人間を人間たらしめる、本物とはなんなんでしょう?」
それは、呪いのような言葉だった。
いや、事実それは呪いだった。世界を呪う言葉。それを聞いているのは、禀だけだ。
血を吐くかのように、儚の言葉は続く。その表情は明るいのに。その口調は、楽しげですらあるのに。
「人には尊厳がある。人は死ねば、生物ではない。けれど、ただの物体であるその死体は丁重に扱われる。死者を敬い、畏れ、有難がる。あるいは、人は死んで初めて、本物になるとも言えます。死ぬまでは、人は変化する。けれど、死ねばその存在は確定され、摩耗していくばかり。さて、これからの可能性という命と、これまでの結果である死。一体、どちらの方が尊いのでしょうね」
こんなにも、重い。
儚は死ねば、どうなるのだろう。その死を悼む者は禀しかいない。その死は消滅だ。摩耗するまでもなく、儚の存在はこの世から完全に消えてなくなる。
唯一、禀の心には残るだろう。だが、心なんて物質はない。その瞬間、儚はただの言葉になるのだ。
そしてそれはきっと、呪いのような言葉に違いない。
「儚は、真実の方が尊いと思うか? 真実でさえあれば、すべてが許されるべきだと思うか? 偽物なんて、いらないか?」
風が吹く。それは磯の香りがした。
舐めればきっと、涙の味がする。
「――ええ。真実は尊い。なによりも価値があります」
そう言って、笑った。
邪悪に、世界の全てを憎むように。そう見えるのは、禀の受け取り方の所為かもしれないけれど、禀にはそう思えて仕方ないのだ。
儚は、邪悪に笑う。
「けれど、例え普遍的な価値があるのだとしても、そこには意味がないのかもしれないとも、思います。わたしはずっと、自分でもどこで手に入れたのかわからない言葉を発してきました。自分で手に入れた訳でも、考えた訳でもない偽物の思想です。偽物の言葉です。でも、それだけがわたしの全てです。わたしは、くらやみと、偽物と、ほんの少しだけ、夢で出来ています」
そうして、いたずらっぽく笑った。小悪魔の笑みから、一粒だけ、涙が流れる。儚は気付いていないのかもしれない、禀だけが知っているその雫は。
きっと、この世界のなによりも、美しいのだ。
夜の帳が下りる、その刹那。
奇跡のような時間に、割り込む影があった。
二人の歩く先、駅までの、後ほんの少しの道すがら、紫音が立っていた。
まるで変わらない、着物と下駄と、燃えるように輝く赤い髪。
「や」
禀が隣を振り向くと、儚は虚空に掻き消えていた。
あとには何も残さず、鳥のように立ち消える。
紫音は儚には頓着せず、禀に言う。
「あと一日ね」
不思議と、憎いとは思わなかった。
ただ、なにかが掴めそうな、予感がする。
「さて、今日もちゃんと質問はしてきた?」
禀は頷き、今日儚にした質問と、その答えを言う。それは、好きな色だとか、ちょっとした心理テストだとか、何気ないものばかりだ。
「なあ、これって何の意味があるんだ?」
禀は聞く。紫音は唇に指を当て、少し考えて、言った。
「まあ、あんまり意味はないかも。もしもの時の保険、かな。夢って頭の中にしかないでしょ。そんな意味わかんない場所に逃げられたらこっちも物理的に脳を破壊しないといけなくなる。それじゃ本末転倒でしょ? だから、こうしてプロファイリング? をしておくの」
「やっぱり、お前って俺の味方なんだ」
冗談でも言うように、禀は吐き捨てる。
それに、紫音は嫌そうな顔で言った。
「それは勘違いよ。あんたの目的はあの娘の身の安全。わたしの目的はあの娘の抹殺。どう考えても相容れない。それとも、もう良いの? 今生の別れを済ませたようには見えなかったけど」
「お前はアレだ。冷たいんじゃなくてドライなんだな。職業病か?」
今日は疲れた。空腹も感じている。ついでに、学校から連絡が来ているかもしれない。
なのに、紫音との会話を止めようとは思わなかった。予感がある。この時間は、とても大切なものだと。
「ふん。まあ、あんた達みたいなのをずっと相手にしてるから、血が冷たくなっちゃったのかもね。寒いんだもの」
「……それって、儚みたいのが他にもたくさんいるってことだよな?」
「たくさんはいないわよ。それに、夢がどうの、ってやつは本当に珍しい。だからこうして、万全を期してるんだけど」
ふーん、と禀は興味なさげに頷く。もしかしたら、紫音も今回のケースは初めてなのかもしれない。
それが少し嬉しい。儚と同じ存在は、この広い世界においてすら、希少なのだ。
「じゃあ、俺はもう帰るよ。明日はなにを聞いて来ればいい?」
それは、共犯者の言葉だった。
儚が大切だと言いながら、こんなことを平然とやる。
「明日はない」
しかし、そんな禀の言葉を、紫音は斬って捨てる。
それは、初めて会った時と同じ、儚を刺した時の目だった。
「明日、わたしはあいつを殺す。これはもう揺るがない。言い残したこと、やり残したことがあるなら、今夜のうちに済ませなさい。今日は絶対に、手を出さないから」
「……悪いな」
「嘘つき」
そうして、禀は歩き出す。儚が消え、太陽が沈み、紫音が見ている場所を、振り返ることはない。
今日、わかったことがある。
禀はまだ、子供のように明日を信じているのだ。もうひっくり返らないオセロの盤面を、じっと見つめながら。
禀は、ずっと考えている。
これまでの日常を。世界を。意識を。明日香を。熱を。現実を。真実を。善行を。紫音を。儚を。命を。言葉を。価値を。
儚と出会ってから、ずっと思い、そして悩んできた。
その結果が、儚との思い出という、たった一言だというのなら、こんなにも理不尽な話はないだろう。
眠りに落ちる、という表現はとてもよく出来ていると、禀は思う。
布団に入り、いつの間にか、プツンと思考が途切れる。寝ようと思って床に就き、しかし意識を手放すまでに少しだけ別のことを考える。
今日あったこと。昔あったこと。明日の予定。荒唐無稽の妄想。
色んなことが、言葉にできないほどの速度で想起され、消えていく。
眠りはきっと、自衛の手段なのだ。嫌なことから、他人から、完全に隔離される自分だけの世界に埋没していく。
そして、禀はまた、いつもとなんら変わらず眠りに落ちるのだ。
眠りは禀を認めてくれる。しかし、許してはくれない。
そうしてまた、禀の意識はくらやみの中にあった。
落ちるでも、漂うでもなく、そこにあるという以上、なにもない。
ここには、禀以外はなにもない。以前は、儚以外はなにもなかったのだろう。
禀と儚。二人がいて、ようやくここはくらやみではなくなる。ただのくらやみが、夢の世界となるのだ。
光が現れる。そう気づいた瞬間、そこにはもうくらやみはなかった。本当にそうだろうか。この世界の裏側には、常にあの地獄のような虚無が広がっているのではないか?
禀の目の前には、ただ真っ青な空間が広がっている。
いや、ここは空間ではない。足元は暗く、頭上は明るい。禀は水中にいた。
上からわずかに光が射しこみ、辺りを水色に染めている。
音も、匂いも、魚もない。
ただ、儚がいた。
「こんばんは、禀さん」
水の内に揺蕩う黒衣の少女は、まるで童話の王女のようだ。あるいは、主人公を不思議の世界へ誘う魔法使いかも、人々を惑わす悪魔かもしれなかった。
「儚」
水の中でも息はできるし、声も出せる。沈みもしないし、浮きもしない。ただ、身体を動かすたびに、抵抗があった。
「あの後、紫音さんになにもされませんでしたか?」
儚はバツの悪そうな顔をする。だが、あの場に儚が残っていた方が問題だ。儚もそれはわかっている。
禀は首を振って言う。
「ああ、俺は大丈夫だ」
儚はにっこり微笑んで、胸の前で両手を合わせた。
そんな儚に、禀は言うべきことがある。紫音の宣言を伝え、そして、その後のすべてを、ここで決定しなくはいけない。
なんと切り出そうか迷った禀に、儚は話を始める。それは、いつも通りの行動をすれば、変わらぬ日常が過ごせるのだと、信じているかのようだった。
まるで、神に祈るように。幻想の海の中で、言葉が紡がれる。
「禀さんは、自分をどういう風に定義していますか? この世にはあらゆるものに名前がある。名前とは存在です。存在しているものには名前が付けられ、名前がある物は存在している。禀さんは、つまり上代禀という人間です。しかし、それは禀さんのパーソナルをすべて説明するものではない。では、禀さんにとって、禀さんとはなんなのでしょう? といっても、そのすべてを言葉にしようとすれば、人生のすべてを使い切らなければならないかもしれませんね」
儚は笑う。踊るように水中に服をはためかせ、歌うように言葉を紡ぐ。
その裏で、儚はなにを思うのか。
「っ……」
禀が思い悩んでいると、儚が言葉を止めた。
こんなことは、これまでに一度もなかった。儚は、本当に、楽しそうに笑うのだ。
なのに、儚はなにも言えない。いや、なにも言えずにいるのだ。
水に揺れるスカートをぎゅっと握りしめ、儚は俯き、目を見開いている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。だが、もしも涙が出ても、辺りの水が全てを洗っていく。なんて優しく、厳しい空間だろう。
泣いていることを悟られないということは、だれにもその悲しみが伝わらないということだ。あるいは、それを儚は望んでいるのかもしれない。
だが、それを教えてくれないと、悲しいなら悲しいと、痛いなら痛いと、言葉にしてくれいと、だれもそれに気付けないかもしれないのだ。禀は、儚の心に、気付きたいのだ。
「…………」
なのに、なんの言葉も出てこない。どんな言葉をかければ伝わる? どんな言葉なら儚を慰められる? 言葉ではできないなら、どうすればいい?
沈黙が、二人きりの海に漂う。ここでは、なにも言わなければ、どんな音も現れない。
静寂が、なにより耳に痛かった。
「儚」
禀の言葉に、儚は禀を見上げた。その顔は、どんな思いの表情なのだろう。禀は、どんな顔をしているのだろう。
「儚」
なにか言わなければならない。そうしたい。なのに、禀は儚にかけるべき言葉を、答えを、未来を、まだ見つけられていない。
「ごめん」
そうして、口をついて出た言葉は謝罪だった。
目が熱くなり、儚の姿がぼやける。
そして、一度形になった言葉は、次から次へと転がり落ちた。
「ごめん、儚。俺、なんにもできなかったよ。紫音は儚を殺しにくる。なのに、俺は儚を守れない。儚のこときれいだって思って、好きだって、感じたのに。俺には、なんにもできない……っ」
眼から涙が溢れ出る。それらはすべてこの青い世界に溶けていく。けれど、それは確かに、儚に伝わった。
「――ああ、禀さんもそう思ってくれていたんですね」
儚の口から、抜け落ちるようにそんな言葉が漏れた。
「わたし、ずっと考えていました。わたしは禀さんになにができただろう、って。わたしは生きていくために、禀さんを犠牲にしてもいいと思っていました。わたしは、本当に、どんなことをしてでも、生きていたかったんです」
その懺悔は、独白は、禀を許すための刃だった。罪を咎めるために、儚は自分を傷つけていく。儚はわかっていない。禀は、そうやって傷付き、泣き叫ぶしかできない儚を見たくないから――美しいと感じたから――、守りたいと思ったのに。
「けれど、もう無理だと、これ以上は生きていけないと思ったら、途端に禀さんが大切になりました。きっと、わたしの唯一関わった人が、素晴らしい人だと思いたかったんです。そうすれば、わたしの命が、すこしでも救いようのあるものだと思えるから。この一ヶ月にも満たない生命が、マシだと思えるから」
儚は精一杯、自分の体を切り刻んでいく。
それで、禀が救われると思っているのだ。
けれど、そんなことは望んでいない。そんな、だれもが傷付く嘘を吐かなくてもいい。そんな顔で、笑われたって、嬉しいはずがないのだ。
「もう、いいよ。儚、お前はなにも知らないんだ。他の誰かより自分の方が大切じゃない人間なんて、いないんだよ。お前は自分のことがいちばん大切だったのかもしれない。でも、儚が良い奴だよ」
儚は笑う。禀の言葉なんて、ひとつも信じていない。悪い顔で、泣きながら笑うのだ。
「儚は前に言ってただろ? 善悪は人の主観に依るって。俺は儚のこと、良い奴だって感じたんだ。それは、お前にだって否定できないだろ?」
儚は禀を好きじゃなかった。
禀も儚が好きじゃなかった。
ただ、利己的に考え、それぞれがそれぞれの良かれと思う選択をしたのだ。
二律背反の、二重らせん構造。それは、生物がそうであるべきというための生きるための機能だ。
「わたしは、死にたくない」
ぽつりと、儚が零した。
儚の表情からは、すべての感情が抜け落ちていた。本心もなにもない。儚は最初から、それしか持っていなかったのだ。
なにもない空白で空虚な少女は、ただ生きることを望んでいた。
この世界を、望んでいた。
それに遅れて気付いた少女は、胸を押さえて、絞り出すような声をあげた。
「死にたくない、死にたくない。うううう、なんで、もう、こんな……っ」
嗚咽が、鼓動が。生まれて、死ぬ儚い存在の、嘆きだった。
虚勢を捨て、偽物も捨て、未来を捨てた少女の、最後に残ったものが、こんな言葉だけだったのだ。
くらやみと、偽物と、ほんの少しの夢で出来た、ただの儚。そのすべてが、こんなにも愛おしいのに。
「ああぁぁぁぁ、いやだ。死にたくない。生きたい、生きたい。死にたくない。うあぁぁぁーーー!」
その震える背中を抱きしめる資格が、禀には無いのだ。
これが大切な少女を救えない罰だというなら、これ以上のものはない。儚の涙が、言葉が、呪いとなって禀の心臓を破ろうとする。
「儚、儚。儚、儚、儚」
名前を呼ぶ。言葉は力だ。きっとそこには力がある。嘘だ。禀はもう、儚を諦めているのではないか。だって、救えない。儚を助ける術を知らない。それが免罪符になるのか。だれかが禀に、お前は悪くないと言ってくれるのか。そんなわけ、ないのに。
泡となって消えゆく少女は、禀に歌ってくれることはもうない。
頭を掻きむしる禀に、儚の優しい声が降り注ぐ。
「ああ、禀さん。好きです。大好きです。愛しています」
そう言って、笑う。
なんて仕打ちだ。それが嘘でも本当でも、禀は傷付くしかない。
儚は笑う。邪悪に、もうこれしか放つ言葉がないのだと。
笑う。声をあげて、傷付くために、傷付けるために。
禀もまた、言った。それが儚を傷つけるのだとしても、そうするしかなかった。
「ああ、俺も好きだ。儚のことが、大好きだ。本当だ。本当に、好きなんだ」
その感情は本物だろうか。禀にはよくわからなかった。
お互いに傷つけあうことしかできない子供が、お互いを許すために、優しく切りつける。どうせ死ぬなら、ここで殺すと、精いっぱい愛を囁く。そのたびに血液が沸騰する。喉が焼け、目玉が潰れる。
それが優しさによるものだと、お互いが心の底から理解できていた。
それが、禀には悲しかった。
せめて、真実の愛ならよかった。
命よりもこの刃のような感情が大切なら、痛くないのに。
「ああ」
そうだ、と思いついた。
悲恋の物語。その最期は、愛し合う二人の死で締めくくれるのだ。
先のない未来を、命を捨てて、誓いを立てる。自分の愛が本物だと、証明するために命を絶つ。
人には尊厳がある。そして、人は死ぬことで、その存在を確定する。
可能性がないということは、生きていないということなのだ。
「そうだ。なあ、儚」
けれど、それは利己的だ。真実は、そんなところにはない。禀は、ほんの少しだけ、愛する気持ちが足りなかった。
愛を証明したいのではない。儚を、抱きしめたい。その命を守りたい。
愛という狂気には届かず、愛する行為と傷付ける行為を同一視できない。
子供だった禀は、まだ、どうしようもなく子供のままで、自分を騙すことさえ、満足にできなかったのだ。
「紫音は俺の生気を奪うお前を看過できないんだ。前に言ってただろ? 一年に一度しか会わない、そういう選択肢もあるって。俺に出来ることならなんでもする。だから、俺を信じてくれ。一年に一度なんて、長い期間じゃなくてもいい。一ヶ月とか。いや、それより、生気を奪わずに夢を見る方法があれば、毎日会えるじゃないか……」
その言葉に力が宿らなかったのは、禀が自分を信じられなかったからだ。
目の前が真っ暗になった。
世界を世界と認識し、夢とうまく付き合っていけるようになった禀は、その最後に自分自身に裏切られた。もう、これで本当に最後だ。もう禀にはなんの力も残っていない。
意識が遠くなっていく。このままでは、この夢を見ることすらできなくなるかもしれない。でも、もう心が折れていた。
だって、禀は最後まで自分を信じていたのだ。世界も、儚も、嘘つきだから。禀だけは、禀を疑ってはいけなかった。
これでゲームオーバー。くらやみの向こうでは、語られることのないバッドエンドが待っている。
失意のうちに現実に戻り、夢に怯え、魘され。死んだふりをして生きていく。
この先には、可能性がない。
そうして、力が抜けた冷たい手に、温かいものが触れた。
重い瞼を開くと、儚が禀の手をとっていた。
心に温かいものが流れてくる。
やめて欲しかった。もう、禀は死体なのだから、これ以上いじめないで、ほっといて欲しい。
優しさが凍り付いた心臓を溶かすなら、傷口からまた血が流れだす。酷い仕打ちだ。魚なんていらない。死にたいのだ。だから、そんな善行を振りかざさないでくれ。
本当はわかっているのだ。一番苦しいのは儚で、禀は被害者ぶっているだけだってことは。
でも、禀は釣竿も持っていないのだ。これでは前提が違う。助けるという選択肢がないではないか。
禀の手を握る儚の力が、どんどんと強くなる。
禀は儚を見た。儚は、笑っていた。
そこには、優しさなんて感情はなく、遭難者が、人間を食べるという方法を思いついた瞬間に浮かべる、涙の枯れた泣き顔だった。
邪悪だなんて、だれも否定できない、生きることを選んだ者のみが浮かべる笑顔だ。
「禀さん」
蠱惑の声。禀は初めて、自分の脳髄が溶かされるような錯覚を覚えた。
「ねえ、禀さん。禀さんは聞きましたよね。真実以外には価値がないのか、って。それで、わたし、思いついたんです。偽物でいいって。手に入らない本物なんかいらない。わたしの命も、幸せも、世界も、全部偽物でいい!」
純粋だったものが、純粋なまま汚れていく。
ぐいっと、儚は禀の手を引いて、胸に抱き寄せる。
禀は、儚に誘い込まれたことを知った。
あとはもう、捕食されることを待つばかりだ。
本当に?
儚は言う。
「禀さん。禀さん、禀さん。禀さんは、わたしと夢を見てくれませんか?」
気が付けば周囲に海は無く、ただどこまでも果てのないくらやみが広がっている。
思えば、儚にその質問をされたことは一度もなかった。でも、答えなんか決まっている。
「ああ、禀さん。わたしと、終わらない夢を見てください。夜が明けても、朝が来ても、夜になっても、ずっとずっと、わたしとだけ、夢を見ましょう。その世界で、本当のものはわたしと禀さんだけ。あとは、痛みも苦しみも、幸せも、恋だって、全部ほんとうじゃないんです。でも、それでも、生きていられるんです」
なんて、悲しい提案だろう。
それでは天国を夢見て死んでいくのと変わらない。それを否定したのは、禀の心だったのに。
いつしか、儚は泣いていた。その涙はどこから来ているんだろう。禀にはもう、わからなかったけれど。
「ぜんぶ、わたしたちで作りましょう。出来るだけ精巧に、本物に似せて。あ、でも、わたしが夢の中でしか生きられないってことだけは、本物っぽくしちゃだめですよ? そこは、ちょっとだけズルしちゃいましょう。いいですよね、それくらい」
だって、わたしたちの夢なんですもの。そう、儚は言う。
禀は現実を捨てて、儚は夢を諦める。
そうして、最初はだれも望んでいなかった理想郷を作り上げる。
禀は職人に、儚は番人に。夢はくらやみに、未来はごみ箱に。
ふたりだけの世界で、ずぶずぶと腐るように生きていく。それは、ただ死なないというだけの逃避で。二人が最後まで持っていた尊厳を投げ捨てる提案だったのかもしれない。
でも、
「ああ、いいよ」
本当に?
「そうだな、それしかない。でも、儚は世界を諦めなきゃいけない。もう、本物はどうしたって手に入らない。それでもいいなら、俺もいい」
本当に?
「あはっ、嬉しいです」
本当に?
「では、思い描いてください。美しく、素晴らしく、尊く。そして、わたしたちの物にならなかった世界を。あなたの描く想像が、この夢の世界になります」
さあ、と儚が禀を強く抱きしめる。
禀は儚のその背中に、そっと手を回した。
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その瞬間、くらやみが、崩壊していく。
空が、海が、陸が、木が、建物が、魚が、人間が。おもちゃ箱をひっくり返したように闇に落ちてきて、この世界に色を与えた。
まるで、いや、正しく。これは新世界の誕生だ。
世界の創成期は終わり、この神話は日常へと変化する。一秒前に生まれたこの宇宙は、きっと何億年前の爆発で生まれたのだ。
本当に、これでよかったのだろうか?
ふと顔を下げると、泣きながら、それでも嬉しそうに、幸せそうに、虚ろに、笑う儚の顔があった。
この夢は、醜悪なのかもしれない。けれど、儚が笑っていられる、唯一の居場所だ。
禀は世界と儚を天秤にかけた。
そして、この世界は産声をあげた。
それだけは、絶対に覆せない真実だ。




