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儚はそれでも生きていたい

「さて、ここに至るまで禀さんは夢か現実かと疑ってきたわけですが、そんなことには意味がありません。いえ、意味はあるのかもしれません。しかし、実益がない」

 夢の中で、漆黒を携える美少女は言う。

 邪悪を孕んだ、魔女の笑み。

「あなたの精神、あなたの意識、あなたのこころ。それらは主観性によってのみ保証される、あやふやな、幻のようなもの。だからこそ、あなたが問うべきは自身のアイデンティティの方でしょう」

 自分が本当に自分なのか。この場で自分と定義するそれは一体何なのか。その条件は?

 そういったことを考えたことは、禀はない。

 だってそこは、儚と知り合ったばかりの頃、禀にとって最後の砦だったのだ。

「お前はなんだ、なぜ生まれた、なんの為に生きている。そんな疑問は、普通に生きていれば考える必要なんてないのかもしれません。だって、人間は生物で、生物が生きるなんて当たり前のこと、問うまでもありません。生まれたから、死ぬまで生きるんです。これ以上の回答は、哲学か生物学か、なにを自分の芯に据えるかで異なってしまうでしょうが」

 禀にとっては、多くの日本人がそうであるように、なによりも科学を信じていた。ならば人が生まれ、死ぬまでの全てに理由をつけることもできる。科学的には、生物学的には、遺伝子工学的には。

 だが、目の前の、この少女はどうだろう。

 なぜ生まれ、生きているのか。そもそも、この少女は一体何なんだ?

 学名で、ホモ・サピエンスと定義される生物、ではないだろう。むしろ生物かどうかも疑わしい。

 鬼か悪魔か、あるいはその名の通りの存在なのか。

「この世の全てには理由がある。であれば、わたしの存在にも理由が付けられるはずです。そして、あなたがあなたであることにも、ですよ。わたしとあなたは、一体どんな因果で結ばれた運命なんでしょう?」

 少女が虚ろに笑う。

 黒く、暗く、黒く、黒い。

 さて、と考える。

 ここに至る物語の全て。そこに理由があるとするなら―――。



 それから、数日がたった。

 あれから毎日、夜は儚との夢を見、昼はまた儚と、日中問わず語り合った。

 儚と初めて会ったあのくらやみの夢から、もっとも穏やかな時間を過ごしている。自己の存在に疑問を抱くことなく、世界を疑うこともなく、儚や夢に心を狂わせられることもない。

 思えば、ここ数日があまりに怒涛の展開過ぎた。世界だとか存在だとか夢幻だとか、高校生の手に負える命題ではない。

 禀の生活は安定を取り戻し、安穏とした心地よい平和の時間が流れていた。

 しかし、それで悩みが全くなくなるかといえば、そんなことはなかったのである。

「ねえ禀さん? 禀さんは人の欲望について、どう考えていますか? 人間には当然、自己保存の欲求があります。なかでももっとも大きいのが三大欲求。食欲・睡眠欲・性欲ですね。これらを充たさなければ、とうぜん人類は滅びてしまいます」

 ここは禀たちの教室で、休み時間である。

「しかし、人間社会においてこれら欲望は小さいことが美徳とされますよね。キリスト教にはある聖人が決めた、七つの大罪があります。ちなみに七つの美徳というのもありますが、これはあまり知名度がありませんね。美徳よりも大罪の方が有名である理由を考えれば、人間という種族の価値観がわかって少し面白いです」

 クラスメイトたちは、禀たちと同じようにそれぞれがそれぞれの話題に花を開かせている。だが、それらの音は禀たちからは遠い。

 妙に距離がある、というよりはあからさまに避けられているのだ。

「七つの大罪とは“やがて破滅に至る罪”ですが、その内訳は傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・暴食・色欲・怠惰です。わかりますか? 人間の三大欲求に関わる、その全てがラインナップされているんです。同じくイスラム教では断食がありますし、仏教においては肉食や性交が禁じられることもあります」

 禀と儚がこうして胡散臭い話題で語り合うのは、この数日の休み時間のお決まりだった。それでも、クラスメイトたちは一向になれる様子がない。どころか、より一層距離を開けるようになっていた。

「宗教における禁欲は、それ自体が修行を伴うこともありますが、それにしたってこの欲に対する人間の態度はあからさますぎますよね。ねえ禀さん聞いてます?」

「聞いてるよ……」

「それって――」

 そう、会話に割り込んできたのは明日香だった。

 クラス中が騒めく。この数日、禀と儚の会話に入ってこれた者は居ない。二人の空気がそれをさせないのだ。

 だから、クラスメイトはこの明日香の勇気ある行動に声援を送ったし、禀にいたっては心の底から感謝した。

 しかし、

「それってモラルやマナーを無視してない? たしかに三大欲求を満たさないと人は死ぬだろうけど、だからってこれ見よがしに人前で欲望のおもむくままに行動するのはどうかと思う」

 そう言った明日香の視線ははっきりと禀を貫いていた。

 どう考えても刺しにきている。

「なるほど。たしかにそうかもしれませんね。秘め事は秘めたるが花、ということでしょうか」

「あなたたちのことを言ってるんだけど」

 まるでグサッ、という音が本当にしたかのような言葉の刃だった。

 もう教室はやんややんやの大喝采である。

 冷や汗を垂らしながら視線を背ける、椅子に座った禀。その禀の背後から抱き付きながら、はて? という顔をする儚。儚が首を傾げると、揺れた髪の束が禀の頬に当たってくすぐったい。

 たしかに、いまの禀たちはモラルにもマナーにも真っ向から逆らっている。

 教室でこんな態勢、だれにとっても眼に毒だ。

 だが、もちろん禀にも言い分はある。

 あの夢から一夜明けて、やたらと禀にべたべたくっつくようになった儚に、注意はしたのだ。

 すると儚は、いまにも溢れ出しそうな涙を瞳いっぱいに溜めて「ごめんなさいごめんなさい嫌いにならないでわたしを見捨てないで」と縋り付くのだった。

 そんなことがあったから、禀は儚に強くは言えなかったし、クラスメイトたちもあからさまなこのメンヘラバカップルから目を背け続けたのだ。

「別に、わたしたち他人に迷惑を掛けるようなことはしてませんが。性交どころか、キスすらしてませんよ」

ね? と禀に同意を求める儚。視線と音のない文句だけで、禀の胃に物理的に穴が開きそうだった。

しかし、これでも幾夜ものくらやみを超え、アイデンティティ・クライシスの恐怖に打ち勝った禀だ。この程度の苦境に屈するほど、やわな精神はしていない。

「なあ儚。たしかにいままでお前がいた場所ではこれくらいなんでもないスキンシップだったかもしれないが、日本の、しかも学校じゃそうもいかないんだよ。だから、これからはもう少し抑えめのスキンシップでいこう。な?」

言った。ついに言ってやった。

この言い分なら儚の頭のおかしさを言い訳でき、さらに儚をあまり傷つけることなく、常識的な距離感で接することが出来る。

儚がこのまま加速度的に禀への依存を深めていけば、もうこの学校生活で、儚以外の人と関わる機会がなくなってしまう。そうでなくとも儚に一般常識とかそういうのはなく、禀は一方的に唇を奪われた経験まである。

危ういのだ、色んな意味で。

対して儚は、

「ああ、そうだったんですか。すみません。わたしは常識には疎くて……。腕を組むとか、膝の上に座るくらいならセーフですか?」

 そんなことをのたまう儚に明日香が、

「手を繋ぐでもギリギリアウト」

 さらに禀が、

「学校では肉体的な接触を伴うスキンシップはノーだ」

と、追い打ちをかけた。

驚いた、と全身を使って表現する儚。

儚は禀を抱きしめる腕に力を入れながら、大声で捲し立てる。

「はあ!? なに言ってんですか! そんな、それじゃわたしはどうやって安心を得ればいいんですか!? 感じたことあります? 自分の命が他人に握られてる恐怖を! 考えたことありますか? 自分に存在が、生命が、自分のあずかり知らぬところで失われるかもしれないという不安を!」

 儚のその発言には考えさせられるものがあったが、それよりも真っ先に禀が感じたのは別の物である。

―――恐怖だ。

「ぎぃやあああああああああ!! 痛い痛い痛い! 儚、力弱めて! 折れる! 鎖骨とか胸骨が折れるからぁぁぁぁ!」

「な、な、な。……そ、そんなにも爛れた関係に? 禀、喚いてないで――、って! 顔が土気色だけど!?」

「ああ!? 大丈夫ですか禀さん! ああ、ああ! 禀さんが死んでしまううぅぅぅ!」

 局所的に阿鼻叫喚の地獄だった。

 儚は混乱してさらに力を籠めるし、明日香は常の冷静さを失っていた。禀を助けようとしてくれるのはありがたかったが、揺らすのは勘弁してほしい。

 この騒ぎを聞きつけて、教師が教室に踏み込んでいた時には上から下への大騒ぎだった。

 ともあれ、適切な判断でその場を収められた禀たちに個人面談というか、事情聴取が待っていた。



 事の発端、というか騒ぎの中心人物であった禀から、担任との個人面談は始まった。

 カーテンの閉め切られた進路相談室は薄暗い蛍光灯だけで照らされ、進路に対して深刻に考えされられるような雰囲気があった。もちろん、今の禀が感じている気の重さは別の物である。

 フーッ、と煙草の煙を吐いたのは、禀たちの担任だった。言うまでもないが、このご時世、校内は全面的に禁煙である。

 この男、禀が他の教師を呼んだだけで自分が謹慎を喰らうのを、理解しているのだろうか?

「上代。先生は言ったはずだよな? 先生だけには、決して迷惑を掛けるなと。いいか? 今の時間な、先生は授業入ってなかったんだよ。一時間休憩だったんだよ。それがこうして、お前らの痴話喧嘩の為に駆り出されている。はあーっ。ホント、はぁーっ」

「いやあの、ごめんて」

 砕けた態度をとって生徒を安心させようとしている、にしては言動がアレ過ぎる。というか煙草はどう考えてもありえない。

「まあな? 若いうちは色々あるよな。思春期の子供は友達や恋人の為なら人生を犠牲にしてもかまわない、むしろ、そうするのがカッコイイとか思っちゃうもんなんだよ。でもな、大人として教えといてやるけどな。そういうの全部錯覚だから。後になったら後悔するから。結局自分のことがいちばん大切なんだって。そうじゃない人間なんかいないから、ホント。まじで」

 なんでこいつ教師やってんだろ、と禀は思う。

 続けて、担任は言う。

「で? 今回の騒ぎはなにが原因なんだ? 上代と儚が最近風紀を乱してるっていうのは聞いてたけど、なんだ、なにがあったんだ?」

 聞かれて、しかし禀は返答に迷った。

 儚の様子はおかしい。どう考えてもまともな状態ではないだろう。しかし、それを他人に説明のしようがないし、そもそも説明してどうなるというのだろう。

 事態の解決でも図るのか。

 儚はよくわからない場所から来た、禀がいなければこの世界にいられない超常の存在だと?

 そんなこと、だれも信じられないだろう。

 禀だって、あのめくるめく夢と幻とに溺れた数日がなければあんな話は信じられなかった。いまでも、儚が嘘や隠し事をしていないかと疑っているくらいである。

 なので、いま禀がすべきことは適当に話をあわせて謝り、反省文なりを作ることだ。

「いや、実は儚と仲良くなったまではよかったんだけど、どうもあいつ他人との距離感、というのが測りがたいらしくて」

「ふっ、だとしたらお前、それ仲良くなったんじゃなくて単にスキンシップが激しいだけの知り合いな可能性が在るぞ」

「…………」

「お? 図星? いけないなぁ、上代君。若さにかまけて誤解のまま突っ走っちゃ」

にやにや笑いながら禀をおちょくる担任に、禀は沈黙しか返せない。

禀は儚と仲良くなった。それは事実だ。

だが、本当に、真実の友情がそこにあるのかと問われれば、やはり沈黙しか返せない。

禀に縋ることでしか生きていけない怪物、儚。

人間は、だれしも一人では生きていけない。だれだって、最初は泣きわめいて、乳を与えられることでしか生きていけないのだ。

禀だってそうだ。両親の加護なくしては生きていけない。

儚だってそうだ。禀の好意なくしては生きていけない。

禀の両親には禀を育て、養っていく義務と責任がある。

しかし、禀にはどうだろう?

 儚をこの世で生きさせることが出来るのが禀だけというなら、確かに義務感も、責任感も感じる。

 だが、そこには強制力など無い。それに、儚はずっと前から気が付いていたのだ。だから禀がそれに気づかない様に、騙し騙し、ばれない様に、ばれた時のことも考えて。完璧にやってきた。

 そしてそれが破綻して、あとはもう泣いて縋るしかなかった。この世に生を受ける許しを請い、その代償に自分の持てる全てを差し出すしかなかった。

 禀に依存する自分を肯定するために、禀を自分に依存させようとした。

 そんな、立場の違う禀と儚が、どうして対等な友人になれるというのだろう。そうなるために、どれ程の時間と絆が必要となることだろう。

「先生、は――」

 どうしようもないことに気付いて、禀は担任に相談してみようと思った。そして、どうしようもないということに気付いて、口を噤む。

「おいおいなんだ? どうした。言いかけて止めるのは止めろ。気になるだろうが。さ、言え。どんな些細なことでもいいから先生に言ってみろ。相談に乗るぞ?」

 こんなに信用できない相談相手も、教師も、禀は初めてだった。

「先生は結婚とかしないの?」

「ぶっ殺すぞテメエ。喧嘩売ってんのか? あ? ちょっとモテだしたらモテねー奴らが不思議で仕方ないのか? 上から目線で恋ってのはよー、とか言うのか? あン?」

「いや、先生がモテないかどうかなんて知らないし、もしモテないんだとしたらそれはその性格が原因だよ明白だよ」

「はっ、わかったような口利いてんじゃねえよガキが。お前は知らないだろうけどな、俺は好きな人の前では優しくなるんだぜ?」

「もうさ、黙ってろよ」

 互いに睨み合う。それも、長くは続かない。どちらも最終的には、どうでもいいと思っているのだ。

「で、さ」

 しびれを切らして担任が聞く。

「結局なにが原因でケンカしてたんだよお前ら?」

「あ、いや。ケンカって訳じゃないんだ。ただ、若さゆえ、未熟さゆえに、的な」

「わっかんねーよ。わかるように言えよ。そんなんじゃ将来苦労するぞ? お前が儚とイチャコラしてたのは知ってんだ。それで霞が嫉妬したんだろ? で? 本命はどっちだ? こういう時、悪いのはセフレの方だからな」

「別の人呼んでくれない? 事情説明はその人にするからさ」

「あ?」

「は?」

 そろそろ我慢の限界だった。もう本当に、どうしようもなく禀はこいつと反りが合わない。

 もうなんなら目の前の灰皿を持って職員室に訴え出てもいいくらいだった。

 そんな禀の視線に気付いたのか、ゴホンと咳払いをして担任は居住まいを正した。

「よし、そんじゃ話を戻そう。えーと? そもそもどういう経緯で騒ぎになったのかな?」

 ここでも、やっぱり返答に困った。どう説明していいかわからない。

 とにかく、起きた出来事だけを、簡潔に、そのまま話した。

 すると担任は席を立ち、廊下で控えている儚を呼ぶ。同じく廊下で待機している明日香とどんな会話があったのか、はたまた無かったのか。気にはなるが知りたくはなかった。

 儚が一礼し、席に着くと、先程の位置に座った担任が口を開いた。

「えーと、儚。お前、最近なにか悩みはないか? 先生に相談してみろ。なんの助けにもならないかもしれないが、だれかに話すだけで、気が楽になるもんだ。辛い時には我慢せず泣け、ってよく言うだろ?」

 そんな担任の親身な態度が、禀には面白くなかった。だが、儚の悩みは切実な問題だし、儚が他の人と話しているところは新鮮で、少し興味があった。

 ドキドキとワクワクが半々の禀と、痛ましそうな、本当に生徒を思ったような顔をする担任。

 儚は二人の視線など気にした素振りもなく、口を開く。

「ありがとうございます、先生。実はここ最近、わたしは不安なんです。なんでわたしは生まれてきたのか、って。こんなに苦しいなら、いっそ……。いえ、でも死にたくはないんです。死にたくない、わたしは生きていたい。自分が無くなるなんて、自分が自分じゃなくなるなんて、耐えられないんです……!」

 儚の訴えを聞いて、担任は狼狽した。

「待って。え。え? いや、距離感の詰め方えげつなくない? もっと、こう。上辺だけの会話とか、社交辞令とか、さ」

 とか、さ。じゃねーよと禀は思った。

 同時に、やはり、とも思う。儚が抱えている問題はそこだ。儚の存在はこの世に根を下ろした一個の生物としてのそれではない。例えるなら自家受粉できない植物だろうか。いや、共生ではなく、むしろ寄生。

 それは、時間の解決してくれる問題ではないのだ。

 禀はすこしでも儚の心の負担を減らせたら、と口を開く。

「儚。俺は、儚と話してる時間とか、結構好きなんだ。だから、儚にはいなくなって欲しくない。ずっと一緒にいたいって思ってる。本当なんだ」

 それは禀の偽らざる本心だった。しかし、その真心が一体、どれほど他人に届くのだろう?

 禀の言葉を聞いた儚は、微笑んだ。

「あー、もういいよお前ら。今すぐ爆発してくれ。いや、爆発とまでは言わないから死ね」

「嬉しいです、禀さん」

 儚は言う。

 しかし、儚の表情は禀の言葉を全く信じてはいなかった。狂気の瞳で、儚は言う。

「ねえ禀さん。禀さんは人間の倫理観をどう考えていますか?」

「え? 倫理観?」

 儚の言葉に、禀だけでなく担任も怪訝な顔をする。

「はい。人は、どのように人と接するべきか、です。もちろん、倫理ですから、どのように人と接するのが、その人にとって一番良いか、ですね」

「えーと、人には優しく自分に厳しく、とか?」

「はい、その通りです。では、優しさとはなんでしょう?」

 問われて、禀は考え込む。

 儚は禀の返答を待たず、続けた。

「例えば、こんな話があります。空腹で倒れている人がいて、自分は釣竿を持っている。自分は魚を釣ってあげるべきか? ちなみに模範解答としては魚を釣る方法を教えてあげる、というものですが」

 なるほど、たしかに魚を釣ってあげても、食べてしまえばおしまいだ。だが、釣る方法を知ることが出来たら、今度からは自分で飢えをしのげるだろう。

 だが、もしも倒れている人がどうしても魚を釣ることが出来ないなら?

 自分は、儚に一生魚を釣ってあげるべきなのか?

「しかし、このような命題を出せば、倫理の世界では必ず反論が出るんです。例えば、その近辺では釣りが禁止だったら? 倒れている人が、どうしようもない悪人だったら? その人が宗教上、文化的な理由で魚を食べてはいけなかったら? あるいはアレルギーがあるかもしれない。安易に釣りという手段を教えるのは、その人の可能性を奪うかもしれない。さらに言えば、自分の持っている釣竿を奪われることで、今度は自分が飢えるかもしれない、とか」

「そんなこと言い出したら、なにも出来なくなる」

「はい。ですから、倫理とは、自分の信じる善行を行うしかない。それが、他者からみて、どう映るのだとしても」

 ――それは、どうなのだろう。

 確かに百パーセント正しい行動など望めないのかもしれないが、それを諦めてしまって良いのだろうか。

 いや、それも違う。禀が考えるべきは魚を釣るべきかどうかではない。

 禀は魚を与えるか与えないかを選ぶことができる。しかし、儚は禀の選択を受け入れることしかできないのだ。

 禀は考える。儚はなにが言いたい?

 禀は、儚とともに夢を見ることを選んだ。禀無しで儚がこの世界で生きていく方法などわからない。だからせめて、一緒にいることしかできないのだ。

 倫理を考えるなら、自分の善行を信じるしかない。であれば、儚は禀にこのままの関係を続けて欲しいと請うているのだろう。それはそうだ。儚は最初からそう言っていた。

 死にたくない、生きていたい。たとえ、禀に迷惑を掛けることになっても。

「……空腹で倒れている人はさ、きっと良いとか悪いとかじゃなくて、お腹が空いた、助けてくれって思ってるよ。それなら、俺は助けたいって思う。人を助けるのは当たり前のことだからな」

 禀の言葉を聞いて、儚が笑う。なにを考えているか分からない、空白の笑み。

 禀は歯噛みする。禀の表面上の言葉では儚には届かない。

 二人の間には、どうしたって覆すことのできない格差がある。

 だが、どうすればいい? だって禀は、儚を助ける理由なんて、もっていないのだ。それでは、この理屈とくらやみを混ぜたら生まれた、みたいな少女は納得しない。

二人の会話を黙って聞いていた担任が、言った。

「なあ、上代。利他的、利己的というのを知ってるか? まあ読んで字のごとくだが。倫理を考えるとき、なぜ他人に優しくするのかを考える。例えば、釣竿を持った人間はなぜ空腹で倒れた人間を助けようとする? 全くの赤の他人が道端で死に絶えようが、関係ないだろうが」

 担任の言葉に儚は頷いた。

「利他的には空腹で倒れている哀れな人の為に、利己的にはそれを助けてあげる自分の為に、ですね。自分の為、というなら話は簡単です。人助けは自己満足の範疇というわけで、そうなればどこまで助けた相手や結果に責任を持つかも、その人の思うがままですからね」

 儚はそこで間をおいて、続けた。

「さて、しかし利他的に考えるなら、どうでしょう? 人の為、と考えるならそこに際限はありません。その人のために魚を釣るのがいいのか、釣り方を教えるのがいいのか、何もしないのがいいのか、釣竿をあげてしまうのがいいのか、他の人で困っている人はいないか、その人のために釣竿は持っておくべきか、自分の全てを捧げるためには、どうしたらいいのか。逆に、どこかで区切りをつけるなら、それは利己的だ、と考える人もいます」

 担任は言う。

「倒れている人に魚をあげた、釣り方を教えた。しかしそれは何の為だ? もしも空腹で倒れている人を放っておけば、そいつは死ぬかもしれない。そう考えると、今後の人生、常に罪の意識に苛まれるだろう。だから、この後の自分の人生を気持ちよく生きるために、仕方ないから助けてやったんだ。逆に、そうでないと誰が言いきれる? 人の為、なんて心の底から思える訳がないだろうが」

 担任の言葉に、なぜか儚は笑みを消して俯いた。

 禀には、儚がどうしてそんな表情をするのかがわからなかった。人は、人の為に生きることなんてできないという担任の言葉が、どうして儚を傷つけることになるのだ?

 もしも禀が利己的な考えをするなら、儚は安心できるのではないのか? 儚は、禀の言葉が信用できなかった。なら、自分の為に儚を助けるのだと言うことができれば、儚にとってはいいことではないのだろうか?

「さて、これでこの話はおしまいだ。上代と儚は明日までにそれらしい理由を添えて反省文を提出するように。今後また問題を起こしたら、あれだ、許さんからな」

 いつも以上にいい加減な、というよりどこか不機嫌そうに担任は席を立った。

 しかし、

「あの、明日香は?」

 禀が言う。

 廊下で待機している明日香のことを、担任も、儚も、もうとっくに覚えていなかった。



 そうして、禀は眠りに落ちていく。

 苦しい現実から、優しい夢の世界へと。

 しかし、禀にとって睡眠は、全てを忘れられる休息のひと時ではなくなっていた。儚が現実の世界にいられるためには、禀が儚と同じ夢を見る必要がある。

 だから、今日もまた、あのくらやみの夢を見る。

 詳しいことなんてなにもわからない。儚の言葉を信じて、ただ夢を見るだけだ。

 それは、儚の為なのだろうか。それとも―――。



「禀さん、起きてください。禀さん」

 驚きのあまり、一瞬で意識が覚醒した。

 禀は地面に寝転んでいたようで、目の前に不安そうに顔を覗き込む儚がいた。

 禀は上体を起こし、辺りを見渡す。

 霧が深く、周囲の様子はほとんど白く染まって見えない。なにも見えず、感じない儚のくらやみとは対照的で、地面もあれば、霧の水分も肌に感じる。

 禀がいちばん最後に覚えている記憶は、夜ベッドに入ったこと。

 ならば、ここは夢の世界のはずだ。

「えーと、儚。これって夢、なんだよな? いつものくらやみを経由しなかったんだけど」

 おぼろげな視界の中、儚は首を横に振った。

「いいえ、これはわたしの世界じゃないです。こんな場所、わたしは知らない」

 儚の体が震えている。自分の知らない場所が怖いのか。しかしそれも当然だ。禀だって、最初は儚の夢が怖くて仕方なかった。

 禀は儚の手をとり、安心させるためになるべく自然に笑う。

「ここにいてもしょうがないし、ちょっと歩き回ってみようか。それでなくとも、朝になれば目が覚めるだろうけど」

 禀もいい加減、異常事態に対する耐性がついてきた。ここで焦ったり、怖がってもしかたない。それに、こういう時、禀にはなにもできないのだ。なにもできないと開き直れば、冷静に物事に対処できる。

 立ち上がり、儚の手を引き立ち上がらせる。

 その時、霧の向こうから声が響いた。

「その必要はない。あんた達をここに呼んだのはわたし」

 禀と響く、しかしどこか甘い少女の声。

 じゃり、じゃりと土を踏む音が聞こえる。そして、声の主は現れた。

 白い霧の中でさえ輝く、燃えるような赤い長髪。

 身長は禀より低く、儚と同じくらい。黒地に赤い花柄をあしらった和服を着崩し、すらりとした足には下駄を履いている。

 そして、ギラリと輝く、ルビーのような赤い瞳。

「なっ、なんですかあなたは! 呼んだって、ここどこですか!?」

 禀の隣で儚が言う。よくよく見てみれば、少し涙ぐんでいる。

 少女は言う。

「わたしは隠代紫音かくりよしおん。で、ここは幻界」

「幻界……?」

 禀の呟きに、紫音は頷いた。

「そ。簡単に言えば、現実と陸続きの異世界」

「そっ、そんなのありえません!」

 儚の言葉に、紫音は眉をひそめた。

「はあ? なに言ってんの? あんただって人に夢見せてその生気吸ってるくせに。ありえないって言うなら、そっちだってあり得ないでしょうが」

 紫音の言葉に、禀は頷く。その通りだ。むしろ現実と陸続きな分、こっちの方が良心的だとさえ思う。それより気になるのは生気を吸う、という言葉だ。なんだかとっても物騒な響きなのだが。

「聞いたことない? 隠れ里、っていうんだけど。山の中で迷ってると、聞いたこともない村があって宿を貸してくれたり、子供にしか行けない理想郷があったり、仙人の住む楽園があったり」

「ああ、昔話とかでよくあるやつ」

「そうそう。それでここは鬼ヶ島、ってわけ」

 にんまりと紫音が笑う。冗談なのかいまいち判断が付かず、禀も曖昧に笑った。

 反応に困る禀の服の裾を引き、儚が小声で尋ねる。

「……鬼ヶ島ってなんですか?」

「はあ!? あんた鬼ヶ島知らないの!? ありえない!」

あれだけ色々知ってる儚が鬼ヶ島を知らないことにも驚いたが、それよりも紫音の大声に驚いた。

紫音はぶつぶつと「何人よ日本人じゃないでしょ」とか、「知らないなんて言い度胸だわ後悔するんだから」などと呟いている。とっておきの自慢をしたけど反応がいまいちだったのを拗ねる子供の様で、禀には微笑ましかった。

「鬼ヶ島っていうのは、日本一有名な昔話『桃太郎』に登場する、桃太郎と鬼とが戦うファイナルステージだよ」

「……つまり、あの子供は自分を鬼だって言いたいんですか? それとも桃太郎のほうですか?」

 その儚の言葉には、禀も首を傾げる。少なくとも絵本に描かれるようなわかりやすい鬼の姿ではないが、基本的に日本の妖怪は擬態するのだ。

 紫音はそんなことには拘泥せず、別の部分に反応する。

「ふん! なによ、あんただって子供じゃない! そんな口きいてられるのも今のうちよ! わたしがどうしてあんた達をここに呼んだかわかる?」

 もちろん、禀にはわかる訳ない。まさか頭からバリバリ食べられるとは思わないが、しかし他に理由など思いつかない。

 紫音は腰に手を当て胸に手を当て、ふふんとふんぞり返った。

「わからないでしょ? わっかんないでしょうね! ええそうよ、犯罪者はみんなそう言うの。知らなかったんだ、ってね!」

 儚とは別の意味で自分の世界を持っているらしい紫音に、禀は小さくため息を吐いた。儚も大概だが、この少女とも会話するのに骨が折れそうだった。

 禀は聞く。

「えーと、悪いんだけどさ、本当に心当たりがないんだ。なにか紫音ちゃんに迷惑をかけたなら謝るから、教えてくれないかな?」

「ふん、そういうことなら教えてあげなくもないわ! といってもあんたは関係ないけどね」

 ちらりと儚の方を見ると、困惑したふうの儚と目が合う。

「言っときますけど、わたしなにもしてませんよ?」

「……まあ、信じるよ」

 紫音の眉がピクッと動く。小声でもばっちり聞かれているようだ。

「わたしはね、あんたみたいな人に害のある化け物を殺す仕事してるの。これ以上そこの人間に迷惑を掛けないって言うなら、見逃してやってもいいわ。どうせ聞くだけ無駄だろうけど、一応聞いてあげる。どうする?」

 紫音の言葉に、儚の体が震えた。

 禀は慌てて反論する。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 確かにいろいろ苦労はさせられてるけど、害があるってほどじゃない。なんで殺すとか、そういう話になるんだよ!」

 紫音は赤い髪をかき上げながら、禀に対しては真摯な声色で語る。

 まるで、聞き分けのない、なにも知らない子供に話すように。

「害は出てるわ。さっきも言ったけど、そこの女はあんたの生気を吸ってる。別に今すぐどうこうって訳じゃないけど、苦しいでしょ? 確実にあんたの生命力は落ちてる。少なくとも、煙草よりは有害よ、そいつは」

 心当たりはある。あのくらやみの夢を見るようになってから、毎日が睡眠不足だ。あの夢を見ると疲れが取れないのかとも思ったが、なんてことはない。儚がこちらにいるために必要なものを、禀が賄っていたというだけの話しだ。

 別に驚きはしない。害があるといっても、実感はない。この少女が自分のためを思って言ってくれているのだとしても、ほっといてくれとさえ思う。

 だって、儚はようやくなのだ。

 儚はなにも知らない。そうすることでしか生きていけなかったのだ。そこに善悪は問えない。

 儚はただ、悪いことをしているだけなのだ。

「紫音ちゃん、気持ちは嬉しいけど、俺は困ってない。確かに儚は悪いことをしてるのかもしれないけど、それは二人で話し合う。だから、元の場所に返してくれ」

「は? できる訳ないでしょ。あんたはなにも知らないの。だからそんなことが言える。冷静になって、よく考えて。あんたは、そいつのために寿命を縮められるの? そいつのために死ねる? 事情も状況もわかってないあんたに責任能力はない。だから、あんたに意見は聞いてない」

「事情も状況もわかってないのはお前の方だ。お前は儚のことをなにも知らない」

 禀は意思を込めて紫音を睨みつけた。

 紫音はため息を吐いて、言う。

「可哀想に。判断能力が失われてるのか、騙されてるのか。どっちにしても正気じゃないわね。大丈夫、すぐに助けてあげるから」

 そう言った紫音の目には、はっきりとした哀れみの色があった。なのにその表情も、声色も、眼差しにさえ、優しさがある。

 話にならない。

 確かに、禀の知らないことを、この少女は知っているのだろう。だが、同時に紫音は知らないのだ。生きていくために泣いて禀に縋らなければならない儚のことを。その涙を。覚悟を。

 禀の目を見て、紫音はため息を吐く。

「ちなみに、そっちの黒いのはどうなの? そいつはそう言ってくれてる。それに対して、なにか言うことは?」

 震える儚の手に力を籠める。震えているのは紫音が怖いんじゃないだろう。儚が怖いのは、手を握っている禀の方だ。

 死ぬのが怖い。あのくらやみに戻りたくない。そんな当たり前のことすら保証されない自分の身が、怖くないはずがないのだ。

「ねえどうなの? そこまで言ってくれてる人に対して、なにも言うことはないわけ? なんて言ったかは知らないけど、うまいこと騙くらかして、命を分けてもらってるんでしょ?」

 紫音の鋭い言葉に、儚は身を竦ませて、それでも、言う。声は震えていなかった。

「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」

 それが儚の精一杯の虚勢であることは、手を繋ぐ禀にはわかった。

 その言葉を聞いた紫音は、頬をぴくぴくさせながら、言う。

「なに、その態度。最低だわ、あなた」

「良いか悪いかなんて、個人の主観です。あなたがどれだけ正しいとしても、良いか悪いかを決める権利が、はたしてあなたにあるでしょうか? いえいえ、そんな権利は全くないんですよ。この世でわたしを裁くことが出来るのは唯一、禀さんだけです。禀さんがわたしを殺せと言うなら、わたしはもうこの世に関わることはしませんが?」

 儚の言葉を聞いて、紫音は忌々しげに舌打ちをした。

「そんなこと言える訳ないって思って言ってるんでしょ、それ。面白半分で人の命を弄ぶ害悪が、恥を知りなさい」

 儚の手が震える。しかしそれは怯えからではない。

 これまで禀の見たことのない、儚の怒りの表情があった。

「面白半分? ふざけないでください。わたしは生きていたい、それ以上のことなんか考えてない。それのどこが悪いって言うんですか!」

「うるさい(傍点)」

 紫音の姿が掻き消えて、一瞬後には儚の目の前に立っていた。

 いつの間にか紫音の手に現れていた刀が、儚の背中から生えている。

 禀にも、儚にもなにが起きたのかわからなかった。

 ただ一人、状況を完全に理解した紫音が、その刀を引き抜く。

 びちゃびちゃと勢いよく降り注ぐ温かい液体が全身に降りかかっても、禀の頭は働かない。

 呆然とする禀を見下ろし、返り血に塗れた、今もなお血飛沫を浴び続けている紫音が、言う。

「これで現実を見られる?」

 酷い言葉だった。

 禀の現実にはもう、儚がいたのに。

 夢か幻かと迷った日々にはわかりやすい現実なんて見当たらなかったのに、いまになってこれが現実なのだと突きつけられる。

 悪い夢だと言われればその通りだったのだろう。

 儚はまだ禀に隠し事をしていて、禀はそれに感づいていながら、問い詰めはしなかった。これからだったのだ。全部、これからようやく始まるはずだったのだ。

 せめて、せめてそれまで待ってほしかった。禀が儚を庇えるまで。隣で手を繋いでいるだけじゃなく、儚の前に立てるまで。

 そこまで考えて、ようやく禀は現実を直視した。

 むせ返る生臭い血の臭いと、体中にへばりつく気持ち悪い感触。

 否応なく、事実を直視させられた。

「……なにこれ?」

 紫音が言う。それはこっちのセリフだ。これから禀は、どうすればいいというのだ。

 しかし、紫音が言っていることはそうではなかった。儚の死体から血は止まり、その代わりに傷口から黒いもやが滾々と湧いてくる。

 それは紫音を避け、禀の周囲を黒く染め上げる。

 視界が暗転する。

 なにも見えない。

 でもそれは、毎晩のことだった。認めたくない事実を覆い隠すように、優しい闇が禀の意識を奪っていった。



 くらやみ。

 禀の心に沁み込んでくるようだ。

 それはいつものように唐突に光に割られ、色を持った。

 そこは打ちっぱなしの、剥き出しのコンクリートの部屋だった。

 灰色の、寒々とした正四角形の部屋の中央には、血塗れの床と、力無くへたり込む儚の姿があった。

「儚!」

 いつかのように、瞬きの隙間に消えてしまいそうで、禀は儚に駆け寄った。

 儚は震える手で必死に胸を押さえている。その白い指の隙間から止めどなく血が流れ出ている。

 長い髪が垂れて、表情は見えない。そこで禀は足を止めてしまった。

 胸を刀で貫かれて、傷口からもやを出した。目の前で痛みに耐えている方が、現実味がない。

 人間ではない。それを明確に意識してしまった。

 それがどうした、という気持ちも確かにある。いまさらではないか。儚が人間でないことに嫌悪感も忌避感もない。しかし同時に、違うのだ、とも思う。

「儚……」

 表情も隠れたままなのに、儚が笑う気配がする。

 それが、胸が避けそうなほど悲しかった。

「儚、お前は――」

「禀さん。わたしは、一体何者なんでしょうね?」

 以前、禀もそれを聞いた。しかし、その時の答えは「ただの儚」だった。

 あの時と今とで、儚の存在が変わった訳ではない。ただ、禀と儚の認識が変わっただけなのだ。

 なのに、今は「ただの儚」ではいけない。それではきっと、生きていけない。状況が変わった。あの紫音という少女が何者なのか、なにが目的なのかもいまいちわからない。

 ただ、なにもわからないままに紫音の幻界に引き込まれ、抵抗しようと考える暇もなく儚は胸を刺し貫かれた。

 対策など打ちようがない。どうすればいい? 問題はなに一つとして解決していないのだ。

 目の前で傷ついている儚に対してすら、どうすればいいのかわからない。

 その場に立ち尽くす禀に、儚は顔を上げて、笑いかけた。

「禀さん、すみません。いろいろありましたが、詳しい話はまた後日、です」

「あ、でも……」

 二の句を継げない禀に、儚は優しく微笑んだ。

 しかし、その優しさは残酷だ。禀になにもさせないことが、一番の優しさなのだと、儚はわかっている。そのことを禀もわかっていながら、それでも禀にできることはない。

 もしも禀に力があれば、儚は禀に縋っただろう。それを良くないと思いながら、いざこうして頼られずにいると、自分が情けない。そして情けないと思う自分が、儚に頼られたいと思う自分が、禀は浅ましくて、恥ずかしかった。

 そんな禀をどう思ったのか、儚は困ったように頬を掻いた。

「もう夜が明けます。夢も覚め、素晴らしい日常が待っています」

 どうしてこんな時に、儚は禀を気遣うのか。

 息が詰まる。心臓が重たい。儚が、怖かった。

「ありがとうございます。ごめんなさい、禀さん」

 儚がそう言うと、禀の意識は現実へと浮上していく。

 夢から現実へと覚醒していく中で、禀は気付いた。

 儚は禀に、常に罪悪感を持っていたのだ。この関係が対等ではないと、禀は知っていたのに。儚を安心させるための言葉も持っていなかった。禀は、最初からなにもできていなかったのだ。

 でも、結局、禀はどうすればいい?



 どんなことがあっても、日は昇る。しかしそれは、どんなことがあっても日は沈むことと同義である。日は昇るから、また沈むのだ。

 寝て、起きて、しかし禀の疲れは取れていない。昨日の夢が原因、というよりも、儚に生気を吸われていることの方が原因なのだろう。

 紫音が現れなくても、儚と一緒にいるなら、これは避けられない問題だ。

 まずは問題を、状況を整理しよう。

 儚と紫音の発言には嘘偽りがあるかもしれない。また、禀の認識が間違っているかもしれない。その上で。

儚は禀がくらやみの夢を見なければこの世界には出てこられない。そして、あの夢を見れば、禀の生気は儚に吸われるらしい。逆に、この生気を得るために儚は禀にあの夢を見せているはずだ。

現状、儚を取り巻く問題は大きく分けてふたつある。

第一の問題は、この夢は禀の自由意志で見ないこともできるということ。そのせいで、儚は禀に対し、どうしたって引け目を感じる。同時に、禀だけが儚をこの世界に連れ出せるともなれば、儚は禀の存在に引かれすぎてしまう。結果、儚は禀に依存してしまっている。

第二に、儚が禀を必要とする性質上、紫音は儚を悪と断定して襲いかかってくる。これに関しては回避のしようがない。紫音と話をするためには、儚が自力でこの世界に出てこられるようになればいいだろう。

 つまり、実質的に、問題は一つ。儚が一人では生きていけないという点だ。

 そしてそれは、禀がずっと考えて、諦めていた問題でもあった。

どうしたって日は昇る、しかし暗中に光が射すかは、また別の問題だ。



その日も、儚は当たり前のように学校に現れた。これがどれほどの過程で成り立っている状況かと考えれば、そこには想像も絶する苦痛があるのかもしれない。

それでも、儚は死にたくない、生きていたいと叫び、このだれもが享受できる当たり前の日常を望むのだ。その意思だけは、無視できない。

 禀はこれからのことを儚と話し合うべく、何度も話しかけた。だが、そのたびに儚は口を濁し、禀を避けていってしまう。

 結局、儚はいつの間にか保健室に行き、いつの間にか下校していた。

 調子は悪かったのだ。それははた目から見ても明らかで、それでも儚は禀を近づかせなかった。

 力になれないなら、禀も儚の傍にはいられない。

 ふっとため息を吐き、学校の椅子に深く腰掛ける。夕陽が放課後の教室を照らしていた。

 ここ最近の、禀の学校生活は儚とともにあった。

 だから、儚がいなくなれば、禀は一人になる。そう考えていた。

「禀、今日は部活くるの?」

 そう明日香に話しかけられ、禀はビクリとした。

 儚が涙を流したあの砂漠の夜明けから、禀は一度も部室に顔を出していない。行きたくなかった訳ではないが、まさかあの状態の儚を連れて行こうとは思えなかった。

 禀も大変だったし、なにより今日は昨日の夢もあって余裕がなかった。それにしたって部活の仲間や親友の明日香を外にやって、孤独を感じるなんて最低だ。儚にもっと広い視野を持ってほしいなんて考えておきながら、禀は儚に傾倒していた。

「いや、ここ最近疲れてたし、今日は帰るよ」

 禀は恥ずかしくて顔を赤くしながら、そっぽを向いた。いまの自分を明日香に見られたくない。

 そんな禀に、明日香はこれまでと全く変わらない態度で言う。

「そっか。じゃあわたしも一緒に帰る」

「え?」

「最近話してなかったから」

 驚く禀に、明日香は透明な瞳で言う。儚はこんな目をしない。そうやって儚と明日香を比べようとする自分に、禀は失望した。

「ほら、帰ろ」

 明日香は禀の反応には無頓着に鞄を掴んだ。いや、気にしていないように振る舞うことで、禀を慰めてくれているのかもしれない。考え過ぎかもしれないが、明日香にはそういう優しさがある。

 禀は自分の鞄を掴んで明日香を追う。儚が持っていなかった学校指定の鞄だ。持ち物ひとつとっても、明日香と儚は別人だ。

 明日香と歩く帰り道は、まるで儚が陽炎のようにこの街から融けていったかのような錯覚をさせる。

 街並みに女の子の面影を探すなんて、まるで失恋でもしたようで、禀は心の中で苦笑する。そうして自嘲すると心が軽くなる。これまで儚が禀をからかっていたように、だ。

 儚がこれほど自分の中で大きな存在になっていたことに、禀は気が付かなかった。でも、どうしてだろうか。どうして、禀は儚をこんなにも思っているのか。

「ねえ、禀はさ……」

 唐突に明日香が口を開いた。

 禀は明日香を見る。赤い日差しが、周囲を黄昏色に染めている。それが悲しい。

「禀はあの娘のこと、どう思ってるの?」

「……どう、って」

「今日、なんか調子悪そうだったし、禀のこと避けてた。ケンカしたの?」

「ケンカとはちょっと違うけど……」

 はた目から見ればそう映ったのかもしれない。他人に説明できることじゃない。だから、これまで明日香にもずっと儚との事は全部黙っていた。

 禀は儚に頼られない自分に失望して、儚は初めて、禀に頼ることでは解決できない問題に直面した。当たり前の心理は、しかし当たり前とはかけ離れた非日常の出来事だ。

「ごめん、ちょっと説明しずらいな」

「そう」

 そのまま、歩き続ける。明日香は心配してくれたのだろうか。あのまま何事もなく儚との関係を続けていれば、こんな時間も、こんな関係も無かったかもしれない。

 紫音が出てこなければ、禀はそんなことにも気が付けなかった。だが、儚と明日香たちを天秤にかけて、儚を切り捨てる訳にはいかない。

 儚は言った。死にたくない、生きていたい、と。あの言葉はきっと、儚の全てだ。

太陽がその高度を下げていく。同時に、世界から光が失われていく。世界のどこかでは、それは夜明けなのかもしれない。

日没の眩しさに目を細めながら、下校する。

それは毎日見ている光景だ。

「禀」

 そう話しかけて来る明日香も、禀の日常の一部だ。では、儚は?

「わたしは禀のことが」

「遅いじゃない! どんだけわたしを待たせるのよ!」

 明日香の言葉を遮って、声が飛んでくる。

 その声を聞くだけで、禀の頭の中が一瞬、真っ白になる。

 声のした方を見る必要もない。声の主は禀の進む方向に仁王立ちしていた。まるで立ちふさがるように。

 炎のように赤い髪をなお夕陽に輝かせ、同色の着物を活発に肌蹴させた異様な少女。

 紫音が、禀の前にいる。

「ちょっと話あるから、顔貸しなさい」

 そう言って、紫音はくいくいと、指で禀を招く。

「な、なに、あなた……」

 そう言う明日香の方をじろりと横目に睨みつけ、紫音は言う。

「あんたは呼んでない」

 明日香は身体を大きく竦ませる。紫音の存在に完全に気圧されていた。

 震える明日香の肩に手を置き、禀は言う。

「知り合いの子なんだ。ごめん、今日はここで。また明日」

 禀が手を振って紫音に近づいていくと、明日香は震える声で言った。

「う、うん。また明日」

 その様子を見て、紫音は難しい表情のまま頷くと、視線で禀に付いてこいと促し、先を行く。

 禀も何も言わず、それに従った。

 儚がどうするにしても、紫音が儚を殺そうとすればどうにもならない。紫音との話し合いは必須だ。向こうから、それもこんなに早くに来てくれるならこれ以上のことはない。

 ずんずんと、小さな歩幅で前を行く紫音に、追いつかないように足を動かす。

 下駄を鳴らしながら、やがて紫音がやってきたのは、このあたりで一番大きな、しかしそれでも小さい公園だった。

 紫音は袖から硬貨を取り出し、公園の傍に置かれた自動販売機に投入した。

 ガコンと缶ジュースが落ちてくる。それを取り出し、プルタプを開けた。

 禀は紫音の緊張感のない行動にしびれを切らして、口を開く。口火を切る。

「なあ、俺に話があるんじゃないのかよ」

「あの黒いの、衰弱してたでしょ」

「なっ」

 唐突な紫音の言葉に、禀は驚く。

 禀の反応を見て、紫音は口を綻ばせた。

「やっぱり。あれでピンピンしてたら、わたしじゃ殺せないかもと思ったけど。これで例え殺せなくとも、斬り続ければ力尽きさせられることがわかった。あの黒いの、実体がない訳じゃないんだ」

 したり顔の紫音が、禀は頭にくる。

 儚を刺したことも、あの傷と血も、痛みにも、罪悪感なんて抱いていない。それどころか、この少女は正義感すら持って、あんなことをしたのだ。

 やるせない。これから会話をしようとする相手が、こんなにも遠いのだ。

 紫音が軽い足取りで公園へと入る。公園の電灯に明かりがともる。それは午後六時になった合図で、地元の子供たちの多くにとっては門限を知らせるチャイムだった。

 空が暗くなる。風が吹き、紫音の持つアルミ缶から、オレンジの匂いが漂ってきた。

 まるで昔に戻ったような感覚が一瞬だけして、禀は苦々しく思う。

「あいつはわたしでも殺せる。なら殺す。だから、あんたももうあいつに関わるのは止めた方がいい。あんたがどんなにあいつのことを想っても、これ以上は無駄になる。もう忘れなさい」

 紫音の顔は真剣に禀を気遣うもので、その目は禀を案じていた。それは大人が子供に向けるような、経験に隔絶された眼差しだ。

 だが、禀にはもう、話をするしかないのだ。気持ちを伝え、同情を誘い、縋るしかない。そうすることでしか、儚の命を守れない。いつか、儚が禀にしたように。

「……なあ、たしかに儚は悪いことしてるよ。俺でもそう思う。儚だって、自分のしてることが悪いことだってわかってるんだ」

「なら止めればいい。それもできないなら、仕方ない」

紫音はそれを躊躇なく切って捨てる。紫音は仕事だと言った。誰に頼まれ、誰から報酬をもらい、どこに需要があるかはしらない。だがきっと、これが初めてではないのだろう。これまでも同じだけの立場を殺し、同じように恨み言をぶつけれてきたのかもしれない。

紫音にとっては、きっとこうすることが掛け値なしの正答なのだ。

 正しいのが紫音だとして、禀はそれをひっくり返さなければならない。だが、夢か幻かと疑った儚はただの傷つく無力な女の子で、儚と同じ夢を見れる禀は、取り柄のない普通の高校生だ。

 紫音はどうだ?

 もしかしたら見た目通りの人間ではないかもしれない。だが見た目も、話をした感触も、人と変わらない。

「なあ、たしかに儚は悪い奴だ。これはもうどうしたって揺るがないよ。でも、じゃあ俺はどうだ? 俺は悪い奴じゃないのか?」

「……は? ど、どういうことよ」

 夢か幻かと疑わせ、他のことから目を逸らさせる。儚がやっていたことと同じだ。紫音には目的がある。その感情を理解できる。儚の気持ちになるのではない。紫音と同じ視点に立つのだ。

「そもそも、紫音にとって、悪いっていうのはなにを指してるんだ?」

「だから、あいつがあんたの生気を吸ってるのが良くないのよ」

「悪いのは生気を吸うってことなんだろ? あいつに限らず、人の生気を吸うのが悪いことなんだ」

「……ええ、そうよ」

紫音が禀の思惑を計りかねる。禀がなにを言いたいのかわからないのだ。それはそうだ。禀にだってわからない。これは、ただ紫音を浮き彫りにしていくだけの質問だ。

「生気を吸うってのは、間接的に人を殺すことだ。人殺しは悪い。だから儚は悪い奴だ。なぜなら儚は人殺しだからだ」

 息を吸い、できる限り緊張を解し、笑う。笑って、言う。

「本当に?」

 かつての禀と、目の前の紫音が近づいていく。

「善悪はこの世で最も人の主観によって左右されるものだ。それに、自分の知っていることが、本当に真実かどうかなんて、その本人にこそわからない。例えば、この世には科学によって証明できない生き物がいるのかもしれないとしたら?」

「そんなのいるってあんたは知ってるじゃない……」

 それは、かつての儚と、今の禀が近づいていくということだ。

「ああ、その通りだ。だが、多くの人間はそんなことも知らない。あいつらは自分が気付かずにそんな怪異生物を踏み殺していたとしても、毛ほどの罪悪感も感じないんだろうな」

「そんなの、知らないんだから仕方ないじゃない」

「なるほど、確かにな。知らないんじゃ、仕方がない」

 紫音が禀を睨む。禀は笑う。それ以外の表情では取り繕えない。

 儚もこんな気分だったのか、と禀は思う。

 公園に沈黙が流れる。空はどんどんと暗くなり、星が瞬き、いつの間にか月が昇っている。

 禀は喋らない。ただ黙っていることが、こんなにも精神力を使うとは知らなかった。

 さきにしびれを切らしたのは紫音だった。

 缶ジュースを一気に飲み干して、空になったアルミ缶を片手で握り潰す。

「それで、なにが言いたいの?」

 禀は言う。

「知ってるくせに」

 紫音の目に明確な敵意が宿る。殺されはしないだろう、なんて思えない。あの幻界で殺されれば死体だって残るかわからない。儚を殺すのと禀を殺すので、どれだけ精神的に差があるというのか。

 だがまあ、あのくらやみに一人漂う時間に比べれば、どうというほどでもない。怖いが、それだけだ。

「お前にとって、人を殺すっていうのは悪いことじゃないのか? それじゃやってることが儚と同じだぞ。殺されたって文句は言えない」

 禀の頬の隣を高速で擦過するものがあった。

 頬に痛みが走る。気が付けば紫音の手からアルミ缶の残骸が消えている。

 殺せたのに殺さなかった。

 突破口が見えた。問題は、紫音がその気になれば気紛れだけで儚と禀とを殺せるということである。

 禀が、儚をあのくらやみに閉じ込められるのと同じだ。

 そこまで考えて、首を振る。禀にそんなことはできない。そして、そうとわかっていても儚が安心できるはずもない。

 こんな気分だったのだ。他人に命を握られている状況というのは。

「なあ、相談があるんだけど」

「聞くわけないでしょ」

 禀の言葉を即座に否定する紫音。完全に嫌われた。だがもう、あの隔絶された目で見られることはない。いま、ふたりは精神的に対等だった。

「まあ聞いてくれよ。これは決してお前にも悪い話じゃないはずだ。だってそうだろ? お前はその気になれば俺も、儚も簡単に殺せるんだ。悪い話でも、聞いてみて損はない。結局、俺たちは狩られるだけの無力な存在だ」

 嘲るような口調で言う。まるで将棋でもしているような気分だった。

 紫音の反応はない。禀は続ける。

「お前の目的は儚を殺すことだ。他にも解決の方法はあるかもしれないが、それが一番手っ取り早いし、なにより確実だ。そうだろ?」

 紫音はあくまで何も言わない。

 禀は聞く。

「ん? 違うのか?」

 違うはずはない。確信があって、それでも聞く。

 儚の言葉はいつだって、疑問形から始まるのだ。

「……違わない。わたしの仕事はあいつの抹殺よ」

 禀は大きくうなずいて、笑顔で両手を広げた。

「そうか、なら、俺がそれをしよう!」

「は?」

「どうせ儚は死ぬ。これはもう動かない。なにがあっても、儚には未来がない。どうせ死ぬ。なら俺が殺す。これが儚にしてやれる唯一のことなんだ!」

「正気? なに言ってるか全然わかんないんだけど……」

「儚だって、どうせ殺されるなら見知らぬ誰かよりも俺の方がいいはずだ。だってそれなら納得できる。自分の行動の結果なんだからな。俺が殺すなら儚だって認める。いや、俺だけが許される! 俺には、儚を殺す正当な権利があるんだ!」

「許される? 正当な権利? 馬鹿じゃないの?」

「これは俺と儚の問題なんだ! そうだ、儚が生気を吸ってるっていっても、その影響は今日明日ででるもんじゃないんだろ? なら時間をくれ! 一ヶ月、いや、一週間で良い。儚が死ねば俺たちはもう一生会えないんだ。だから、一週間だ、それだけ待ってくれ!」

「狂ってる……」

 狂気の演出。儚がそうしたように、禀もそう振る舞った。

 紫音は侮蔑の表情で禀を見る。紫音は禀の理解を諦めた。もうこれ以上この関係は変化しないだろう。

「なあ、頼むよ。なにもわからないまま、どこかの誰かに大切な人を殺されたら、俺は前に進めない。紫音は言った。もう忘れろって。なら、最後に、俺にあいつを諦めさせてくれよ!」

 もう笑顔は保てない。精一杯の虚勢も尽きた。その禀の顔を、無感情に紫音は覗き込む。この瞬間、紫音は考えているはずだ。儚を殺す段取りを。

 紫音は言う。

「わたしの要求を呑むなら、三日だけ待ってもいい。それ以上は待てない」

 禀は頷きつつ、心の中で驚いた。紫音がこんなに簡単に譲歩してくれるとは思っていなかった。

 だが、これで解決ではない。この三日でなにかができるとは思えない。紫音が夢に介入できる以上、儚は逃げ出すこともできない。

 まだ、これでは足りない。

「これから毎日、わたしの言う質問をあいつにして、答えてもらって。それをわたしは毎日聞く。嘘だったり答えられなかったりすれば、その時点であいつを殺す」

 禀は頷く。

 紫音が儚に聞きたいことがあるとすれば、それは儚にとって不利になる質問のはずだ。だが、受け入れるしかない。

 もしも儚が答えられなかったり、禀が断ったとしても、振り出しに戻るだけだ。

「じゃあ決まりね。今日の質問は――」

 これから、三日間。



 だが、その日は夢を見なかった。

 紫音が約束を破ったか、それとも儚が本気で禀を遠ざけようとしているのか。

 すっきりとした体と、ごちゃごちゃした頭で、教室のドアをくぐる。

 そこでは、すでに儚が席に着いていた。儚は上体を机に突っ伏しており、禀に気付いた様子はなかった。

 だが、儚の姿が教室にあるというだけで安心する。

 こんなこと、前までなら想像もできなかっただろう。

 昨日は夢を見なかった。そして、禀が夢を見なければ、儚は衰弱していく。もしも儚が禀を避けているなら、早くそれを辞めさせなければ、儚はこの世に存在すらできなくなってしまう。

 禀は儚のもとへ歩いていった。

「儚、辛いなら保健室に行こう。送っていくよ」

 禀の声に反応して、儚はぬるりと体を起こした。

 そして、黒々とした光を灯さない瞳で禀を見上げる。ぞっとする禀に、儚はゆっくりと口を開いた。

「ああ……。おはようございます、禀さん。大丈夫ですよ、ひとりで行けますから」

 言って、のろのろと立ち上がる。足に力は入っていないし、顔色は白を通り越して真っ青だ。額に浮いた脂汗が重い。

 まるで体を引きずるように、儚は禀から遠ざかっていく。よろよろと歩いていく儚を追いかけようとして、禀は思わず足を止めた。

 儚はいま、禀の助けを必要としていないのではないか? だが、それはゆるやかな自殺だ。禀は儚を守らなければいけない。本当にそうだろうか?

 本人が望んでいないのに、禀は“儚のために”頑張るのか?

 禀は間違っているのかもしれない。利他的ではない善行は偽善なのかもしれない。だが、そうして悩んでいる内にも時間は過ぎていく。三日間が過ぎれば、どのみち儚とはもう会えないのだ。

 いま儚を追いかけなければ、確実に後悔する。それはわかっている。

 禀は儚を追いかける。その歩みは、現状に対してあまりに遅かったけれど、儚の足はさらにそれよりも遅かった。

「待ってくれ、儚」

「……なんですか?」

 儚は廊下の壁に背中を預けて、禀の方を向いた。

 儚は口元だけで笑って見せる。それが、どうしようもなく痛々しい。

 登校してくる生徒たちが、禀と儚のそばを怪訝な顔で通り過ぎていく。もうじきチャイムが鳴るだろう。建物の中の人口密度が徐々に上がり、ざわついた雰囲気が充満していく。

「……保健室、行くんだろ。肩貸すよ。ふらふらじゃないか」

「ふふっ、わたしの体に触れたいんですか? でも、これくらいなら大丈夫です。禀さんはHRに出てください」

「馬鹿なこと言ってんな」

 儚がまた、笑う。表情は辛そうで、声を出すのも苦しげなのに、どこか楽しげですらあった。

「紫音さんの言葉を借りるなら、これは生気が切れた状態なんでしょう。胸の痛みも少しずつ薄まってきています。傷はすぐに消えましたしね。だから、あとは夢を見れば全快復。いつもの儚に戻ります」

「……昨日は夢を見なかった。あれは……」

 なんと言えばいいか分からなくて、言葉に詰まる。儚を責めたい訳じゃない。だが、のらりくらりとした儚の言い回しに、自然、詰問のような口調になってしまう。

 そんな禀を、やはり儚は笑った。

「別に、禀さんを避けている訳じゃないんですよ。ただ、わたしはわたしの身を守っているだけです。いま夢を見るのは危険ですからね。犯罪者は事件現場に戻ってくる、という言葉があります。この時の犯罪者の心理はご存知ですか?」

「儚」

「別に昨日今日で死ぬわけじゃないですよ。前に禀さんが二日間、夢を見なかった時も、死ななかったでしょう? 具体的に生き残る算段がつくまで、もしくは、ほとぼりが冷めるまでくらやみに潜伏しようというだけの話です。もともと、わたしはずっとくらやみに居た訳ですから。もっとも、どのくらい前から居たとかはわかりませんし、あそこにいれば時間の感覚もありません。何度禀さんが眠りに就いたかを数えながら、星を読むように生きながらえましょう」

 禀は絶句した。儚は禀よりもずっと、考えていたのだ。

 なにをしてでも生きていたいと嘆いた少女は、禀の想像を絶する生への執着を持って、あの地獄の中に身を投じようとしていた。

「生気を奪うといっても、一年に一度くらいなら、禀さんもわたしと遊んでくれるでしょう? ほら、なんだかそういうのもロマンチックじゃないですか。そうしたらまた、わたしは一日だけ外の世界に出ることができます。そうしていつか、紫音さんの影が無くなった時に、わたしはまた自由に、この色の着いた世界の中で生きていくんです」

 そう言って、また笑う。だが、その口ぶりは自分自身の言葉すら信じていない、自虐を孕んだ凄惨な笑みだった。

禀には儚の笑みの理由が、少しだけわかった。

信じていないのだ、禀のことを。

一年に一度。そんなスパンで会う約束を禀が守るか。儚を忘れ、過去の思い出として封じ、ひとり生きていくのではないかと。

逆の立場なら、禀だって信じられないだろう。それでも、そこに希望があるなら縋るしかないのだろう。

禀が儚の信頼なんて、そのたった一つの約束を守り続けることでしか得られないのだ。

言葉を失う禀に、儚は無情に言った。

「もうじきですね。生気が切れます。ああ、しまった。もっとよく禀さんと話がしたかったです。また会ってくださいね? 約束ですよ? 破ったら夢に出てやる、なんてね」

「儚!」

 時間が残されていないのも、話したいことがあるのも、禀だって同じだ。

「今日の晩、会いに行く。大切な話がある。今日じゃなきゃダメだ。俺を信じてくれ。紫音は絶対に来ない」

 儚はきょとんとした顔で禀を見、そして困ったように笑って頷いた。

「ああ、それと、ひとつだけ答えてくれ。お前、俺のこと好きか?」

 禀が聞くと、今度こそ儚はお腹を抱えて笑った。

 チャイムが鳴る。廊下にはもう人影がない。禀のクラスの担任はまだ来ていないようだ。いつもは文句を言うのに、今日はその不真面目さが有難かった。

 焦る禀に、儚はとっておきの笑顔で答えた。飛び切りの、肝も冷え上がるような邪悪さで。

「ええ、もちろん大好きですよ。愛しています。禀さん」

 それだけ聞ければ十分だった。

 儚が瞬きの間に虚空へ消える。後には影ひとつ残らなかった。

 その背後。

 暗がりで、鬼が笑った。



 そうしてまた、禀の意識はくらやみの中にあった。

 紫音を信じるなら今日は紫音はなにもしてこないはずだ。儚と二人で話ができる。

 儚はどう考えているのだろうか。紫音のことも、禀のことも、自分のことも。

 禀は儚のことを、何一つちゃんとわかってはいなかった。三日間の期限と、紫音の出した『質問』。

 禀のことが好きだと、黒く笑った儚。

 禀はこれから、いや、これまでにも、儚のことをちゃんと知っておかなければいけなかったのだ。

 いつもより長いくらやみを抜けて、世界に光が生まれる。

 そこは、学校の廊下だった。

 夕暮れに染まる学校を見て、禀は思う。ここはきっと昨日と今日の放課後だ。儚と一緒にいられなかった時間と空間。

 ドアを開き、禀はいつも授業を受けている教室へ入る。

 そこに、いつも禀が座っている机に、儚が腰かけていた。

禀はゆっくりと、儚の元に歩いていく。

 それを、儚は制した。

「すみません、そこで止まってください」

 言われて、禀は足を止めた。薄暗い太陽の残照が、儚の姿をおぼろげにしている。光の下では黒く、闇の中ではなお黒い。

 黄昏色にも染まらぬ儚は、まるでなんの表情も浮かべずに、禀に向き合う。

「禀さん。人は、生き物はいずれ死ぬ。なのになぜ、生きるのだと思いますか?」

「……生存本能、とか?」

「そうですね、なぜ生きるのか、と問われれば少し難しいかもしれません。逆になぜ死なないのか、と聞かれればわかりやすいです。だれだって死にたくはないでしょう? 死ぬのは怖い。その理由の一つに、死後、意識がどうなるのかわからない、というのもあります」

 儚は禀から目を離すと、窓の向こうの、太陽に目を向けた。夕陽は、まるで微動だにしない。この夢では、太陽は沈まないのか。この光景は、一体なにを現しているのだろう。

 儚は真っ直ぐ、手を太陽に伸ばした。掌が、儚の顔に影を落とす。

「肉体は魂の牢獄である、と説いた心理学者がいます。物事を考えるにあたって、疲れたり、お腹が減ったりする体は邪魔でしかなく、死後の、魂だけとなった人間はより高次な、完成された存在になると考えたのです。人間の本質は魂であり、魂さえあれば他のものはいらないわけですね。そんな彼の最期は、自殺ではなかったそうです。生きた肉体を倦んだ彼は、どうして死を選ばなかったのでしょう?」

 高潔な心理学者も、死は怖かったのか。あるいは、邪魔だとしても、生に執着したのかもしれない。

 禀だって、死にたくはないし、儚を死なせたくもない。

「儚はなにをしても、どんなことになっても生きていたいんだよな。だったら」

「わかりません」

 儚の言葉に、禀は息を呑んだ。

「わからないんです。生きていたい、あの世界で、禀さんと暮らしていきたかった。それは本当です」

 儚は手を下し、禀を見た。そこにはあの、泣き出しそうな笑顔があった。

「でも、痛いんです。胸が痛い。心臓が動くたび、心が縮むんです。どうして、わたしは普通に生きていけないんでしょう? 禀さんに悪いことをしていた。そのことも知っていた。これはその報いなんでしょうか? でも、わたしだって、したくてこんなことをしていたわけじゃないんです」

 儚の言葉に、禀は首を振る。

「儚は生きていたかったんだ。例え俺の生気を吸ってでも、生きていたかった。それだけは絶対に嘘じゃない」

 儚が目を見開く。その瞳に、太陽の光が反射した。

「でもさ、それはそんなに悪いことじゃないんだよ。だって、儚は生きたかっただけなんだ。俺には確かに悪いことをしてたんだろうけど、儚は悪くない。大丈夫だよ、それは俺が保証する」

「……でも、紫音さんは」

「あいつだって悪い。人の話も聞かずに、儚を殺そうとした。儚が一方的な悪人なんじゃない。儚を責められるのは、俺だけのはずなんだ」

 儚の瞳が揺れる。儚が口を開く。

 その前に、禀は言った。

「なあ、これからどうする? 俺は儚を守れない。どんなに頑張っても、紫音をどうこうするなんて無理だ。だから、二人で考えよう。これからどうすればいいのか。儚は、どうしたいんだ? 本当に、七夕みたいに一年に一度、なんて約束だけ抱えて闇で生きるのか?」

 禀が言うと、儚は俯いた。影が儚の表情を隠す。

 儚にこんなことを言うなんて嫌だった。儚はまだなにも知らない。どんなに哲学だの心理学だのと言ってみせたところで、儚はただの子供だ。だれかに助けられて生きるだけの。そんな儚に選択を迫るなんて、最低だ。

 そんなことを考える禀も、ただの子供で、なにもできない。儚が普通の人間だったら、ふたりは普通に生きていけたのに。

 なにも答えられない儚に、さらに禀は言う。

「これまで意識したこと無かったんだけど、実は俺って儚のこと全然知らなかったんだよな」

「はい?」

「いや、あれから考えてたんだよ。儚にとってもそうだろうけど、今回のは俺もちゃんと考えないといけないだろ? これまではなんだかんだ、ちゃんとわかってなくてもどうにかなることだった。夢でも現実でも、それを知ったことで俺にはどうすることもできないからな。半分、諦めてたんだよ」

 禀の言葉に、儚が少し笑った。禀もつられて、少し笑う。

「自己紹介って訳じゃないけどさ、儚のこと、教えてほしい。多分こういうのって、知らないと後悔することなんだと思う」

 儚は肩をすくめて見せた。そして、禀を上目遣いに見て、言う。

「……わたしは禀さんのこと、よく知っていますよ」

 そう言って、笑う。

「禀さんは髪と目が黒いです。あと右利きですね。それから甘い物と肉と魚が好きです。苦い物と野菜が嫌いです。趣味はゲームと音楽鑑賞、たまにマンガを読んでます。好きな色は黒。好きな授業は体育で、その他の授業は総じてそんなに好きではないです。というかだいたい寝てますね。寝ている時の禀さんは幸せそうです。あと人の目を気にしてます。みんなに見られている時、禀さんは気まずそうにしてます。暇なときはよく携帯をいじっています。やってるのは普通のスマホアプリですね。あ、あとくらやみが苦手ですよね。苦手といえばわたしたちの担任も嫌いです。逆に明日香さんのことは好きです。紫音さんに対しては、子供に接するような態度でした。わたしと似たような体格なのに。あの時は落ち着いてましたね。適応能力が高いです。あとは――」

「それ、ほとんど普通のことじゃないか」

 儚に、そんなにも見られていたことが恥ずかしくて、禀は文句を言った。

 儚は首を傾げる。

「そうなんですか?」

「そうだろ? 髪が黒いのとか、右利きとか、肉が好きとか。だれだってそうだよ」

 儚はいまいちよくわからない、という顔をしている。

 そこで、禀は思い至った。

 そうだ。当たり前ではないのだ。儚にとっては。

 儚が初めて学校にやってきた時の自己紹介、儚はなにも言わなかった。だがあれは、言わなかったのではなく、言えなかったのだろう。

 紹介するべき自己など、持っていなかったのだ。

 くらやみの中で生まれた儚。人と接することのなかった儚。なんの変哲もない街並みを綺麗だと言った儚。

 禀は儚のことをなにも知らないと思っていた。好きな食べ物も、趣味も、なにも。だがそうではなかったのかもしれない。儚のことを知らなかったのは、儚自身だったのかもしれない。

 儚は自分が何者かも知らなかったではないか。

 儚はきっと、なにも知らないのだ。なにも知らないから、なんでもない禀の仕草や行動をひとつひとつ大切に、まるでそれが特別なものであるかのように記憶していった。

 禀が子供の頃、ガラクタを集めて宝箱を作ったように、儚も禀との日常に名前を付けていったのだろう。

 嬉しいよりも、悲しくなって。顔も眼も熱くなって、禀は俯いた。

その直前にみた儚は、その瞬間の禀の思考をすべてわかったような、どうしようもないものの前で笑うような、困った顔をしていた。

沈まない太陽が、永遠に二人のいる教室を照らしている。この世界では太陽が昇らないかわりに、決して沈むこともないのだ。この夢に先はなく、終わりもない。

停滞と退廃。

なんと優しく、残酷な世界だろう。まるで子供しか立ち入れない、時間の流れない理想郷だ。風化しないくせに、腐っていく。

「儚、俺は――」

「禀さん」

 形になろうとした気持ちは、儚の一言で霧散した。

 そうして後に残ったのは、一目でエゴだとわかる虚栄の心。

利他的だと大声でわめきながら、その釣竿はピクリとも動かない。儚と違って、禀は儚を助ける具体的な方法など、ひとつも思いつけない。

「禀さん、わたしはいまこの瞬間も、死の危険を感じています」

 言われて、心臓が凍り付いた。

「わたしはこれまで、禀さんに不必要だと切り捨てられることが、この意識の最期だと考えていました。くらやみの中で意識をすり減らし、自分が自分で無くなってしまうのが、わたしの命の終わりだと。しかし、もっと直接的で、わかりやすい脅威が現れた。わたしはそれまで、禀さんの優しさに甘えていられればいいんだと考えていました」

 言外に、それではいけないと儚は言う。

 もう禀のことだけを見て、生きていくことはできないのだと。

 それはまるで、禀の心に杭を打ち込むような宣言だった。一方的に、ここまでだと柵を作られる。

 酷い女だ。これまで散々禀を振り回して、状況が変わったなどとのたまう。

「……わたしは、生きなくても良かったんです。禀さんを初めて見た瞬間。この意識が始まった瞬間に、死んでも良かった。でも、世界が美しく、素晴らしく、なによりも尊いのだと知って、どんなことをしてでも生きていたくなった。世界に触れたい。わたしの爪痕を残したい。口いっぱいに頬張って、咀嚼したい。わたしは、この世界が欲しいんです」

 邪悪だと思っていた儚の言葉は、今になって禀の心を打った。

 この世界が素晴らしいものだなんて、禀は知らなかった。そんな気持ちは、子供の頃に作った宝箱に入れて、忘れてしまっていた。

 儚もそうなるかもしれない。世界が美しいと言った儚も、現実の中で擦り切れ、その心は黒く汚れていくのかもしれない。それでも、儚の生きたいという意思は、なによりも尊いものだと思えた。

「禀さん。わたしはどうすればいいんでしょう。あなたが好きです。あなたと見る夢が好きです。世界が好きです。明日香さんが好きです。明日香さんとするオセロが好きです。楽しいことを沢山教えてくれる授業が好きです。先生が好きです。保健室の柔らかいベッドが好きです。禀さんと過ごした放課後が、禀さんと歩いた街が、ゲームセンターが、洋服が、本当に、大好きなんです」

 儚は、泣いていた。その涙があまりに綺麗で、禀の目からも涙が流れた。

 儚の言葉は、産声だった、この世界に根を下ろし、空気中の酸素を摂取しようともがく赤子の産声だ。

 守りたいと、より強く思う。

 自分のために他人の犠牲を良しとするその精神は、邪悪なのかもしれない。

 そして、それを良しとする、禀もまた。

「教えてください。わたしは、どうすれば生き残れますか。あなたの世界で生きていくのに、なにをすればいいですか」

 赦してください、と儚は言った。生きていくことを。そのためになにかを犠牲にすることを。

 謝らないでほしかった。きっと、禀はもっと汚い物で出来ているのだから。

 それでも、禀は儚を守りたい。

 きっと、この瞬間だ。この瞬間に、初めて禀は儚を好きになった。

 動機を得た。理由を得た。

 担任は言った。その選択は、必ず後悔することになると。そんなものよりも、大切なものがあるはずなのだと。

 禀は少し笑う。こんな時に、嫌いだったはずの人の言葉を思い出す。あれで先生だったのだ。少なくとも、反面教師ではあった。

「儚。俺も、この世界が好きだ。儚と生きる、この世界で生きていたい」

 その感情は利己性の怪物だ。愛を知らない子供の、肥大化した自意識だ。

 禀は笑っていた。儚はいよいよ本当に、ぼろぼろと泣いていた。俯き、絶え間なく流れ出る涙を両手で拭う。

 その雫が、きらきらと昇らない太陽の光を受けた。

 世界を埋める桜吹雪より、三百六十度の星空より、悠久の白無垢より、砂漠の夜明けより、それは美しい光景だった。

 禀はこれまで守ってきた儚の言葉を無視して、足を進めた。

 傷付く儚に触れたい。その涙をも抱きしめたい。

 頭がぼうっとする。体中が熱い。心臓が早鐘を撃っている。

 背中を丸める儚の前に立ち、禀は言った。

「明日の朝も、俺と会おう。学校なんて休んでさ、どっか遊びに行こう。補導されるから制服はダメだぞ。私服で、っていうか儚の服ってどうなってるんだ……?」

 時折えづきながら、儚は禀を見上げた。

「で、でも」

「大丈夫、大丈夫だから」

 禀は微笑んだ。そうしなければ涙が出てしまう。笑っていれば心を隠すことができる。いま、不安を儚に見られる訳にはいかない。

 紫音が待つと言った期間は、あと二日だ。あまりに短い期間で、どこにも逃げることはできないだろう。

 だから、考えるのだ。儚の考える未来より、ほんの少しでも救われる方法を。

 儚と生きていける世界を。

太陽の沈まない世界が暗くなっていく。まるで全てがくらやみに侵食されるような、いつもの夢の終わりだった。

そうして、夜が明ける。朝が始まる。当たり前の、いつもの現象だった。


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