儚は夢枕に立つ
霧ノ宮高校一年二組。
新入生を向かい入れて一ヶ月が経ったこの教室は、もう生徒を特別扱いすることもなく、通常のカリキュラムを生徒たちに強制している。
もうじき朝のHRが始まろうとしているこの気だるい時間に、禀は上体を机に突っ伏していた。
そんな禀に、隣の席の生徒が話しかけてくる。
「おはよう。禀、また徹夜でゲーム?」
話しかけてきたのは、この学校に入学してから仲良くなった霞明日香だ。同じ部活に入り、なんとなく話が合い、他に仲の良い友達もいなかったので一緒に昼食をとるほどに仲良くなっていた。
「いや、昨日は物凄い夢見て、それで寝不足。いや、寝不足って訳じゃないけど、なんか疲れが取れないっていうか……」
「怖い夢?」
「まあ、怖いといえばすっごく怖い夢だったな。過去最高の悪夢だった」
「ふーん」
と、そこでチャイムが鳴り、朝の憩いの時間は終わった。これから先は次の授業への憂鬱を友人に吐き出す準備時間が始まる。
そのはずだった。
朝のHR。担任の教師の発言が、この退屈ながらも平和な教室の日常に罅を入れた。
「あー、今日からお前たちにクラスメイトが増える。転入生だ。仲良くするように」
その瞬間、教室は歓声に包まれる。
知り合ってまだ間もないクラスメイト達と、一か月しか知り合う期間が違わないはずなのに、転校生というのはそれだけで物珍しい。少なくとも、話題の種として最低限求められる条件は満たしていた。
だから、多くの生徒はその転校生が魅力的な異性ならいいな、とぼんやりと考えているくらいだったのだ。
結果から言って、その転校生は余りにも魅力的だった。
容姿面でも、話題性でもだ。
腰まで届く艶やかな黒髪を二つに括り、学校指定の制服をアヤしいコスチュームのように着こなす、絶世の美少女。
百人いれば百人が認める超絶美形の転校生は、教室に入って来るなり、クラスの話題を二ヶ月半ほど掻っ攫っていった。
「あ、禀さん。昨夜ぶりですね。おはようございます。これから、よろしくお願いしますね?」
禀の夢の登場人物で、一年二組の転校生である儚の発言が終わるのを待たず、先に倍する悲鳴じみた歓声が教室を埋め尽くした。
儚に疑問をぶつける女子たち。禀に疑問をぶつける男子たち。友達同士でわいわい盛り上がるその他大勢。
顔色一つ変えなかったのは、担任と、禀の隣に座る明日香だけだった。しかしその眼は鋭い刃のような疑問を放っている、ように見える。
「あー、うるさいぞ、お前ら。HR中なんだから静かにしろ。ほら、お前も自己紹介」
担任の注意に一切耳を貸す様子のなかった生徒たちだが、自己紹介、という言葉を聞くと途端に静まり返る。
静かな教室に廊下からざわめきが聞こえる。
儚はにっこり微笑むと、
「皆さん初めまして。わからないことが多く、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、これから一年間、よろしくお願いします」
あいさつ以上の情報が一切含まれない無味乾燥な自己紹介をした。というか自己紹介じゃなかった。
情報に餓えた生徒たちのそれだけか、という空気を察してか、担任が口を開く。
「趣味を言え」
その発言もどうかと思われたが、とにかく背に腹は代えられない。みんなこの奇妙な転校生と、ついでに禀のことが知りたかったのだ。それは禀も例外ではない。禀とてこの少女について知っていることは、儚という名前だけなのだ。
クラスの空気が表面着力する液体のように緊張する。
そうして、儚は口を開いた。
「ありません」
教室が再度静寂に包まれる。
これは嵐の前の静けさで、誰もが次のアクションを待っていた。
担任は、さすが教師といった風に生徒たちの気持ちを察して、
「じゃあ、これで今朝のHRは終わりだ。転校生は上代の隣に席を用意している。わからないことがあれば隣の人に頼るように。では、起立、礼、着席!」
全てをぶん投げて颯爽と教室を去っていった。
廊下が担任を飲み込み、ドアが閉まると同時に、怒号が空間を支配する。
それらをにこり笑みひとつで悠々流し、儚は禀の隣まで歩いてきた。
「ふふっ、教科書とか持ってないので見せてくださいね? あと校内の案内とかお願いします」
先程の静寂が嵐の前の静寂というなら、この現状はまさしく台風の目だった。
全ての生徒がこの会話に注目している。冴えない一生徒Aだった禀と、突如現れたミステリアス美少女の、一挙手一投足が現在のトピックスだった。
あまりの緊張の中、禀の精神は逆に冷静さを取り戻していく。
「えーと、儚、だよな? 昨日会った」
「ええ、そうですよ。楽しい夜でしたね。みっともないところを見せませんでしたか? なにせ、初めての経験ばかりで」
早くも心が折れそうだった。
周囲では黄色い声援が飛び交っている。もはやなにを言っても、禀と儚の関係は尾ひれを付けて学校中を泳ぎ回るだろう。
「いや、あの、なんでここに?」
少しでも誤解を解くように、というよりいま現在禀の背中に熱い視線を投げかけている――ように感じる――明日香たち他生徒への言い訳のように会話を続ける。
儚はやはりなにを考えているのかさっぱりわからない笑顔で言う。
「なんでって、そりゃわたしともう一度会いたいと、禀さんにお願いされたからですよ。ほら、わたし箱入りで、だれかに手を引いてもらわないと外にも出られないんです」
周囲は湧きまくっている。禀は謎の罪悪感で冷や汗びっしょりである。
混沌として、もう訳が分からなかった。
「だから、よろしくしてくださいね? わたし、あなたが初めてで、あなた以外に頼れる人がいないんです」
大歓声である。もう教室中がどっかんどっかんだった。
「う、あああああああぁぁぁぁぁぁーーー!!!!!!」
禀もクラスのみんなと一緒になって叫んだ。もうそれ以外どうすべきか分からなくて、とりあえず感情を吐き出さないとどうにもならなかったのである。
混沌とした空間を割くようにチャイムが鳴った。同時に、真面目なだけが取り柄と評判の歴史教師が教室に入ってくる。
もちろん、だれ一人として授業に集中できる者はいなかった。
机をくっつけ、儚と同じ教科書を覗き込んでいた禀などは言うに及ばず。禀はあまりの感情の渦に気分を悪くして、保健室に向かわなければならなかった。
昨日の夢でぐっすり休めなかったことも相まって、くたくただった禀はお昼休みもぶっちぎり、目が覚めたのは六時間目の真っただ中だった。
気分が悪いなら家に帰ったら、と身を案じる保健の先生の言葉を断り、禀はHR終了後に鞄だけ回収して家に帰ることにする。
ついでに部活にも顔を出しておくことにした。
禀は文芸部に入っていた。しかしその実態はほとんどゲーム研究会で、暇な部員が適当に集まってトランプやボードゲームなどを嗜みながら世間話をするだけの部活だった。それでいいのか、文化祭などでどんな活動をするかなどは一年生の禀はわからない。
禀は積極的に部活動に参加している訳ではないが、明日香はほぼ毎日参加している。ならば教室の様子を聞いておこうと思ったのだ。
クラスの状況もそうだが、儚の動向がなにより気になる。ついでに、明日香には本当のことを話しておきたかった。明日香と疎遠になると、禀の高校での人間関係はほぼリセットされるのだ。
そうなってはグループ作りとかで困る。
儚の存在を考えると更に困る。
ただ、禀の中で、楽観的な考えも生まれていた。儚の存在は全て夢で、禀は単純に疲れていたのだろう。きっと保健室で昨日の夢の続きでも見たのだろう、と。
「失礼します」
そう言って、禀は文芸部の部室の扉をくぐった。
「あ、禀」
と明日香。
「あら、失礼してます。お加減いかがですか? 禀さん」
と儚。
「もうちょっと準備期間をくれよぉぉぉう!!」
と禀は思わず叫んだ。
部室の中には明日香と儚しかおらず、二人の間には机と、その上に載ったオセロがあった。盤面は白一色。しかしどちらが白を握っているのかはこの時点ではわからない。
窓の外にはほとんど花びらの散った葉桜と、その陰を縫うように差し込む夕陽があった、
取り乱す禀に、明日香はいつもと変わらない冷静な態度で言う。
「落ち着いて」
「いやもう全然落ち着けない。なんだかんだこっちもまたあのくらやみ地獄に落とされないかと内心超不安なんだよ? 結局儚はなんでここにいる訳? ちょっとここらで本音を語ってくれないかなぁ!?」
もう涙目になりながら、禀は儚を問い詰める。オカルトだとか非科学的だとか、そういった常識的な考えはできない。夢で会った少女が学校に転校してくるなんてのはもう、一昔前の美少女ゲームの中でしかありえないのだ。
儚は必死の禀に少し気圧されながら答えた。
「いやほら、学校を案内してくれるって約束だったじゃないですか。それで禀さんと同じ部活で、学校一仲が良いという明日香さんに頼んで、部室に連れてきてもらったんです。いや、ほんとに」
「そうじゃなくって……。えー。じゃあ、どうしてこの学校に転校してきたの?」
「転校ではなく転入ですが。理由はさっき言った通り、禀さんがこの学校にいるからですよ」
「…………」
埒が明かない、と禀は思った。ついでに、絶世の美少女であるところに儚にそんなことを連呼されて、照れていた。
そんな二人の会話を見て、明日香が口を挿む。
「二人はどういう関係?」
その質問に、儚は首を傾げた。
「どういう……。どういう関係なんでしょう?」
「いや、どういう関係でもないよ。俺は儚が何者かも知らないんだ」
「それは昨日の夜言ったじゃないですか。ただの儚です」
明日香は訳が分からない、という風で禀を見た。禀にもなにがなんだかわかっていない。この反応を見ると、儚にすら状況がよく掴めていないんじゃないかと不安になってくる。
しかし、一周回って禀にも考える余裕ができた。夢で会った、なんて与太話を明日香の前でしたくない。変人だと思われて距離を置かれては元も子もないだろう。
だからといって、この状況を解決する選択肢が禀に浮かぶはずがない。
なので、禀はとりあえず先送りにすることにした。
「あー、今日は気分が悪いんだ。もう帰ることにするよ。詳しいことはまた明日にでも話そう! じゃあなおつかれ」
先のことなんて考えていない、とりあえずの現実逃避である。なにはともあれこの場を去ろうとした禀の腕を、儚が掴んで止めた。
「ああ、大丈夫ですよ。後で保健室までお見舞いに行こうとしてたんです。だから禀さんの鞄はわたしがここに持って来てますよ。気分が悪いなら一緒に帰りましょう? 送っていきますよ」
「……人の鞄持ったまま部室でオセロやってたのか? 俺がここに来たのは偶然だけど、最初っからこうなると思ってたの?」
「……いえいえ、それなら教室で待っていても良かったんです。別になにか、悪いことを企んでいるわけじゃないんですよ。単に、わたしはあなたと一緒にいたいってだけなんですから」
そう言って、儚は笑う。笑っているだけだ。楽しそうですらある。しかし、目的が掴めない。加えて素性も不明だ。はっきり言って禀は儚が怖い。夢うんぬんを抜きにしても、昨日今日出会ったばかりの女の子にここまで好意をもたれる覚えはない。
「儚。お前なに考えてるの?」
「そうですね、明日のことなんかを考えています。例えば、明日わたしは当たり前の幸せを享受できているのかな、とか。いきなり不条理に不幸のどん底に落とされたりしないかな、とか」
言って、儚は禀の腕から手を離し、ステップを踏んで窓際まで進む。
窓には黄昏色の光に照らされる、葉桜があった。
「ねえ、禀さん。昨日もお話ししましたが、日常とか、世界とか、そういうのってあやふやですよね。ついさっきまで日常系を楽しんでたのに、いつの間にか非日常の世界だったりする。でもそれって、自分が勘違いしてただけで、本当はこっちがありのままの世界なのかもしれません。あなたがそう望んだから? もしくは、わたしがそう望んだから?」
知らず、禀は腕の掴まれていた場所を擦っていた。
寒気がする。これまで無意識に拠り所にしていた日常の基盤が脅かされたから、ではない。夕焼けに照らされる、茜色の儚があまりに不気味で、あまりに美しかったのだ。
「……じゃあなにか。お前はいまここにいるこの世界が、昨日の夢の続きだとでも言うつもりか」
「それはそうでしょう。あなたが夢を見ていたベッドの中と、ベッドから抜け出して登校してきた学校が、同じ世界にないとでも? いいえ、ないのかもしれません。本当はこの世界も、あなたが朝起きた瞬間に生まれた世界なのかもしれませんから」
もしくは、いまこの状況こそが夢なのかも。
言って、儚はクスリと笑った。これまでのような何を考えているかわからないニヤニヤ笑いではない。
昨日、夢の中で美しい桜を見た時の様に。
とても、悲しそうに笑うのだ。
「この世界に主人公なんてものがいれば、その人が一秒前に創造した世界が何兆年も前から回っているのかもしれませんが。それでは、一秒前に世界と同時に生まれた他の人たちはどうすればいいんでしょう。無意識のうちに、その尊厳を貶められているとは思いませんか?」
「お前がなに言ってるのか半分ぐらい理解できてないんだけどさ。それって、お前にも当てはまるだろ。お前がその、世界を作った主人公なら、他の人はかわいそうじゃないのか?」
「ええ、そうですね。本当にかわいそうです。その、生み出した責任を取ってあげたくなりますね」
そうして、二人の間に沈黙が流れた。
正直、儚がなにを言いたいのか、禀はいまいちわからなかった。ただ一つだけ確かだと思えるのは、儚は小難しい話をして、禀の鞄を確保していたことをうやむやにしようとしている、ということだけだった。
ふと、沈黙を破るかのように明日香が立ち上がった。
気が付けば白一色に染められていたオセロも、元の棚に仕舞われている。
「えーと、じゃあわたしはもう帰るね。また明日、禀。儚。部室の鍵はここに置いておくから、あとで職員室に返しておいて」
「待って。めんどくさそうだからって置いてかないで。俺もだいぶ面倒なんだよこの状況!」
そうして禀の鞄の件はうやむやになり、禀と儚は二人で帰ることになった。
日中の最後の残滓が消える。日が、落ちる。
明日香と部室で別れた後、儚と二人で帰っていた禀だったが、いつの間にやら儚は消え、禀は一人家に帰り、疲れていたので割と早い時間に寝て、気が付けばここにいる。
ここ、とはつまりくらやみの世界だ。
五感が意味を成さない世界。感覚が全て失われている、というのは、死んでいる状態と変わらないと禀は思う。それを自覚されられるのがこの世界だ。
ここが死後の世界で、これが臨死体験だとしたら。禀は死ぬのが怖くて、生きていくことさえできないだろう。
夢だ、とわかっていて、この後助かる、という経験があるから昨日よりは冷静さを保てるが、なんにせよ長居したい空間ではなかった。
だから、とりあえず大声で呼んでみることにした。
「おーい、儚―!」
すると、くらやみに絵の具が滲むように色が生まれる。色とは光だ。光が影に差すように、儚がそこに居た。
いや、どちらかといえば禀がそこに移動したのだろう。
また景色が変わっていた。
そこは廃墟だった。
どうやらヨーロッパ風の城下町のようで、白い、朽ちた石造りの街並みが連なっており、遠くにやはりこれも朽ちた純白の城が見える。ヨーロッパ風というより、ファンタジー風なのかもしれない。
街並みはところどころ苔むしており、足元は一面、澄み渡る清流に覆われていた。
そして、その薄い青で染まった石畳に、一人立ち尽くす漆黒の少女。
腰まで届く夜色の髪を二つに括り、黒曜のドレスに身を包んだ幽玄の立ち姿。
儚である。
「こんばんは、禀さん。今夜は良い夜ですね」
「良い夜ですね、じゃないだろ。なんでまた今日もこの夢なんだ。儚が見せてるのか? これ」
とりあえず文句を言ってみる禀。
しかし、この状況は禀にとっても悪いものではない。情報を整理するいい機会だった。
実際、今日は昨日より遥かに冷静だ。寝る前までの記憶がきちんとある。つまりこれが夢でないはずがない。
そして、儚も紛れもなく儚だ。禀が一人で勝手に儚が出てくる夢を見ているのでなければ。
儚は禀の質問を受け、笑って言う。
「禀さんは集合的無意識というものをご存知ですか?」
「は? なんの話し? 集合的無意識?」
「はい。集合的無意識とは人間の心は全て無意識下で繋がっている、という考えです。ある有名な哲学者の論なんですが、全人類が心の奥底で繋がっているのなら、人間二人が同じ夢を偶然見てもおかしくはないですよね?」
儚の言葉を、禀は思わず否定する。
「いやおかしいだろ。その哲学者がどういう考えでその論に達したのかは知らないけど、全人類の心が繋がっているなんて科学的にあり得ない。どうつながってるんだよ。電波かなにかでか?」
そんな禀の反応に全く動じず、儚は言う。
「実際に昨日はあんな夢を見たじゃないですか。会ったことのないわたしと出会い、そしてその出来事を共有したわたしと現実の世界であった。これを禀さんは科学で説明できます?」
「……じゃあさっき儚が言ってた集合的無意識? でなら説明できるのか?」
儚が足元の水をバシャリと蹴った。その水しぶきが禀に掛かる。冷たい、そう感じることに驚きがあった。意識があり、感覚があり、自分以外の人間が存在している。
そう考えると、禀にはこれが夢であるかも自信がなくなってきた。
「そういえば、昨日も言ってたよな。これが夢の世界じゃなくて現実で、異世界ならどうとか。これってそういうことなのか?」
儚はその場にしゃがんで、清流の中に手を入れた。そのまま、手を動かす。水色の中を白い手が蠢く。白魚のような指先、という形容がふさわしい光景だった。
「まあ、そこまで疑ってしまえばもうなにも信じられないですけどね。もしかしたらこの夢も、そして現実で苦悩している禀さんも、すべては誰かの夢なのかもしれませんから。自分の存在が自分だけのものだと証明することもできない。だから昔の哲学者は『我思う故に、我在り』なんて言って自己の意識の尊厳を守ろうとしたんです」
儚は立ち上がり、水面を蹴りながら歩き始めた。禀も無意識にそれを追いかける。
儚の背中が、髪が、服が揺れる。儚の姿は水面にも映り、それは現と幻を混ぜるように先を歩く。 「もしも禀さんの脳が培養液の中で、機械のケーブルに繋がれて、こういった夢を見せられていると考えたら、どうします? 脳だけの存在となっている禀さんは、朝起きて、学校に行って、家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、夜眠りに就く。そういう夢を見てるんです」
「……そんなの、俺にはどうしようもないじゃないか。夢から覚めても脳だけならどうにもならないし、そもそもこの夢から覚める方法もわからないし」
「ふふっ、まあそうですね。それなら考えてもしょうがない、だからせめて夢の中でも、こう考える自分の意識は本物だ、これだけは幻ではない、と納得するしかないんです」
水没した道を歩き、街並みを見て回る。こんな光景を禀は見たことがない。しかし、見たことが無い光景を夢見ることはある。
これが夢か現実か。現実ならこれはどういった理屈なのだろう。
「なあ儚、こんな話ばっかりしてても意味ないだろ。結局、この夢はなんなんだ? どうして儚は俺の夢にでてくるんだよ」
そこで、儚はピタリと止まった。止まって、その場で振り返る。
目が合う。黒い瞳は澄んでいて、近づけば禀の顔すら見えそうだった。
「わたしにも、わからないことがいっぱいあります。なぜ、この夢に出てくるのはあなたなんでしょう」
「は?」
「わたしの夢に出てくるのが、なぜ禀さんなのかわからないんです。これまでこんなことはなかった。わたしは一人で、あのくらやみの中にいたんです。そこに禀さんが現れて、こうして目で見える、音が聞こえる、手で、足で触れられる世界になった。ここは、禀さんの世界ですよね?」
儚の瞳が一瞬揺れる。揺らぎは儚の瞬きとともに消えた。
そして、揺らぎの消えた瞳の向こうには、禀の顔があるのだ。
禀は考える。
禀はずっと自分の夢に儚が出てきた、と考えていた。しかし、儚はどう考えていたのかなど、まったく考えてこなかった。この夢の原因はすべて儚にあり、自分は被害者なのだと信じていた。
禀はこの夢のことはなにもわからない。しかし、儚のことだってなにもしらないのだ。
「……ごめん。俺、自分のことばっかりで、儚のこと、なにも考えてなかった。初めてこの夢を見た時、くらやみの中で頭がおかしくなりそうだった。だから、儚が来て、甘えてたんだと思う。全部の原因が儚にあるなら、俺は安心できたから」
言って、禀は頭を下げた。
水面に禀の顔が映る。この顔を儚が見ていた。禀が儚を見ていたように、儚もまた、禀を見ていたのだ。
そんな発想すら、禀には無かった。
「儚、この夢の原因を考えよう。それで、二人でこの事態を解決するんだ」
「あ、いえ、別に解決はしなくていいんじゃないですか?」
「え!? なんで!?」
禀の誤解が解け、これから協力して頑張っていこう、としてからの儚の反応はあまりに予想外過ぎた。
一方で、儚はなんだか妙に禀から目を逸らしている。いっそわざとらしい。そもそも、こういう思わせぶりな態度のせいで、いかにも儚がこの夢の原因のようだったのだ。
儚は言う。
「わたしは、禀さんとこうしてお話しするの、結構好きですよ? 景色もきれいで、なによりあのくらやみよりも遥かにマシです」
そう言われると、確かに納得の理由である。禀があのくらやみにいたのがどれくらいの時間だったのかはわからないが、一度でトラウマを植え付けられたのだ。儚が嫌がるのも当然だ。
「俺といるとあれを見ないで済むってこと?」
「うーん、全く見ないというわけではないんですが。それでも見る時間は大幅に減りましたね。これまではずっとくらやみの中にいた訳ですから」
「うわ、それはキツイな」
それなら禀は夢を見なくて済む方法を考える必要もない。ここに来るまでにあのくらやみを経由することになるかもしれないが、儚にくらやみの夢を見せ続けるのはかわいそうだ。
それに、禀も儚のことが気に入っていた。こちらをからかうような言動はともかく、見た目だけは最高に可愛い。
儚が禀に近寄ってきたのも、毎晩悪夢を見ないようにするためだったのかもしれない。そう考えれば、納得の理由だ。理由がわかれば、怖くない。
「じゃあ、また朝までなにか話してようか」
禀がそう言うと、儚の表情がぱあっっと、これまでのなにを考えているかわからないニヤけ顔とは違う、満面の笑みになった。
「ありがとうございます!」
そう言って、あはははは、と笑いながら、儚はそこいらを駆け回る。バシャバシャと、水しぶきが舞う。
くるくる動きながら、儚は禀に目をやる。
「それでは、なんの話しをしましょう? そういえば、禀さんはこんなお話を知っていますか? 先程の集合的無意識の話ではありませんが、昔から人は夢の内容に意味を求めることが多かったんです――」
楽しそうに話をする儚を見て、思わず禀は笑ってしまった。
人差し指を立てて得意げに話していた儚はそこで口を止め、禀に向き直った。
「なんで笑うんですか」
「いや、楽しそうだなーって」
禀の言葉に儚はむっとした顔をする。
禀は謝り、儚は拗ねたふりをして、今度は二人で笑い合った。
そうして、その日も朝日が昇る――。
朝の教室で、やはり禀は机に突っ伏していた。
その姿を見て、禀の隣の席の明日香は言う。
「また寝不足?」
明日香の声を聞いて、禀はのそりと上体を起こした。
「……いや、どうなんだろ? 昨日は一日の半分ぐらい寝てたと思うんだけどな」
言って、がしがしと頭を掻いた。夜更かしなんてしていないし、特別早起きをしたわけでもない。昨日は授業をすっぽかして保健室で寝ていたのに、なぜか瞼が重かった。
単に、疲れているだけなのだろう。ここのところ、あまりにもいろいろあり過ぎた。
それに、禀が机に顔を伏せていたのは、寝足りないからだけではない。
儚とのスキャンダルを、生徒たちに根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だったからだ。聞かれても答えようがないし、煙にも巻けず、満足もされられない。不毛だ。
しかし、禀のそんな想像に反して、禀の所にあれこれ聞きにくる輩はいなかった。登校してきて、席に着くまで、あいさつ以上の会話はなかった。その後、寝ていた間も話しかけられていない。
思っていたより、みんな、禀――と儚――に興味がないのかもしれない。
「……なあ、明日香。儚ってしってるよな?」
「? 昨日の転校生、じゃないの?」
思わず胸を撫で下ろした。この二日間、妙なことを考え続けていたせいで、夢か現実か、疑ってしまう。
儚の言う通り、それを疑ってもしょうがないのだが。
「そうだよな、夢じゃないもんな」
少なくとも、この教室にいる儚は、夢じゃない。禀以外の生徒も、儚の存在を認めているのだ。
安心して、禀はもう一度目を閉じた。
睡魔が禀の意識を闇に落とすのは、その直後のことだった。
「おはようございます。禀さん、起きてください。もう放課後ですよ?」
心地よい揺れと、逆に眠気を呼ぶ声がして、禀の意識は外界へ向いた。
教室にはもう儚と禀以外の生徒は残っていなかった。
無人の椅子と机が茜色に染まっている。その中に一人、濃い漆黒の少女が笑っている。
「……これは夢?」
禀がそう聞くと、儚は笑って首を振った。
「あはは、まだ寝ぼけてるんですか?」
禀は自分の頬をつねってみる。痛い。しかしそれは夢ではない証拠にはならない。
「これ、現実なんだよな?」
「ふふっ、そもそも現実とは――」
「いや、そういうのはいいから」
いつものように、まぜっかえそうとする儚の言葉を遮る。儚は頬を膨らませ、禀を軽く睨んできた。
それを軽く流して、無言で儚を促す。
儚はため息を一つ。そして答える。
「ええ。ここは紛れもない現実ですよ。もちろん、夢を見る自身も現実で、夢は広義で捉えるなら現実ですが。そんな定義の話ではなく、これは夢ではありません。外を見れば部活動に励む生徒たちがいて、文芸部室に行けば明日香さんもいらっしゃるでしょう。なにより、夢じゃないから現実です」
「いやだから、それが信用ならないんだって」
しかし、そう言われて、はじめて禀は人心地ついた。
夢と現実の区別がつかない、なんて。そしてそれを区別する方法が他人にしかないなんて、健常とは言い難い、と禀は思った。
しかし同時に、他の人たちは、過去の自分は、どうやって夢と現実とを判断しているというのか。
考えれば考えるほど、わかるはずのない問題だ。だって、現実にそれを考える必要なんてなかったのだから。
儚は言った。
『我思う、故に我在り』。
つまりはそういうことなのだろう。
「……それにしても、いつの間に放課後になったんだ? 終わりのHRは?」
「いや、普通に寝てましたよ禀さん。六時間目は記憶にあるんですか?」
「…………」
朝から眠気はあった。それでも午前中はそれなりに記憶がある。生徒たちからの儚に対する質問攻めに四苦八苦したり、次の時間の宿題を授業中に隠れながらしたり、儚に昼食を誘われて、購買部で逃走劇に興じたり。
四時間目の体育から昼休みの終わりまで動きっぱなしだったのと、そのあと急いで食べた昼食が決め手だった。
「で、で。これからどうします? 文芸部に行きますか? それとも直帰?」
「あー、どうしよっか?」
禀が聞くと、儚は心底嬉しそうに笑った。
「学校の構造は今日の昼休みにだいたいわかりましたしね。もしも時間があるなら、この街を案内してもらえませんか?」
「それはいいんだけどさ……。儚って俺と夢で会う前はどうしてたの?」
「んー。……ふふふ」
禀の質問に、儚はまた笑う。あきらかになにかを誤魔化すように、なにを考えてるかよくわからない笑顔をする。
禀は問い詰めることはしなかった。できなかったのだ。なにが聞きたいのか、なんの為に聞きたいのか、なぜ隠されているのか。そして、それを知ってどうしようというのかがわからなかったからだ。
なので、それらは後回し。いま知るべきは儚の素性ではなく、儚のことだ。
「まあ、あのくらやみの中にいたんだよな」
「……まあ、そーですね」
禀はその話はこれでおしまいと、大きく背伸びをした。
「じゃあ、どうするかな。とりあえず駅前に行ってみる?」
「あはは、そうですね。クラスの女子たちもとにかく駅前の店にしか興味ないみたいですし。この街の中心って感じですかね」
「まあ、基本的に駅は街の中心だよな。というか駅前以外には特に大きな店とかないし」
禀は机の中の教科書を鞄に詰め、それを掴んで立ち上がった。
「それじゃ、行こうか。ってあれ、儚、鞄は?」
「え、だってわたし教科書とか持ってませんし」
「……いや、でも」
「ふふっ」
二人は他愛もない話をしながら学校を出る。目が覚めて、夢と疑った場所から、外の世界へ。
夢かも知れず、現実かも知れず。
なにも知らない世界から。なにもわからない世界へ。
禀が儚に街を案内した次の日。街を案内した後、また夢の中で儚と再会した次の日。
その日は土曜日で、学校は休み。もっぱら生徒たちがいちばん好きな日で、金曜の夜の次にわくわくするのは、土曜の朝だという。
禀もまた、例外ではない。
禀はあまり拘束の強くないだらだらした文化系の部活に入っており、当然休日が練習だとか試合だとかで潰れることもない。
けれど、その日は部活の用事もないのに、部活仲間である明日香との約束があった。
禀と明日香が休日に遊びに出掛けるのは、今日が初めてではない。入学当初からなんとなく気が合って、趣味が合って、友達がいなかった二人が仲良くなるのに時間はかからなかった。
気の置けない良き友人で、この交友はきっと高校卒業まではなんの努力もなく続くだろうと禀は考えていたし、高校卒業後も、ずっと仲良くしたいと考えていた。
そんな、明日香との約束の日。
禀は、いつにも増して重たい瞼を擦りながら携帯のアラームを止めた。
まだまだ肌寒い日もある春の布団は重たく、温かく、柔らかい。
しかし、その布団は禀の記憶のそれよりも重た過ぎ、柔らかすぎた。
最初は猫でも忍び込んできたのか、などと考えたが、この家に猫はいない。考えられる可能性はほぼなかったが、それでも可能性があるとしたら、それは儚くらいなものだろう。
禀はそう考えて、自分の想像に笑ってしまった。
最近は夢と現実の区別がつかなくなってきているが、それでもその妄想は荒唐無稽だ。儚が禀のベッドに忍び込むなんて。
「なにが可笑しいんですか?」
「え、うわ、うわあぁぁぁ!? 喋ったぁぁぁぁぁ!?」
「うわ、え、え? なになになに? どうしたんですか!?」
驚き布団を蹴り上げながら、禀はベッドから転げ落ちる。
ベッドの上には白いシーツを被った黒い少女、儚が目をパチクリしながら禀を見ていた。
ベッドから落ちた拍子に打った頭を擦りながら、寝惚けた頭で冷静になろうとするが、どうにも儚と一緒にベッドに入った記憶が無い。
なので、禀はもうお決まりになっている質問を、儚に投げかける。
「これは夢!?」
「え、大丈夫ですか? 頭打ちました?」
「あ、いや、打ったけどさ……」
よいしょ、と立ち上がり、禀はもう一度儚に聞く。
「で、これ、夢?」
儚は禀のベッドの上で溜め息を吐きながら、首を振る。
「好きですね、それ。しかし、夢だからなんです? 逆に、現実ならなんだと言うんです? 夢でも幻でも、禀さんは禀さんで、わたしはわたしです。そこになんの違いがあります?」
「これが現実なら不法侵入なんだよ、儚」
「ふほーしんにゅー? ってなんです?」
イラッときて禀は儚が纏ったシーツを思い切り引っ張った。
体勢を崩した儚が顔からベッドに倒れ込む。
ベッドの白と、その上に倒れる黒が蠢く。
「ちょ、ちょっと! なにするんですか!」
「なにするんですかー、じゃないだろ」
禀は言いながら、枕の脇に置かれた携帯をとった。約束の時間までまだあるが、そうのんびりともしていられない。
「悪いけど儚、今日は用事があって儚にかまってあげられないから」
今日の不法侵入はまた後日問い詰めることにして、禀はクローゼットを開く。
パジャマから着替えながら、禀は儚がやけに静かなことに疑問を持った。
「……儚? 聞いてる? 今日は遊べないよ?」
「…………」
儚はベッドにうつ伏せに倒れ込んだまま、身動きしない。
禀はおそるおそる儚の背中を揺する。
「儚? はかなー?」
そうしていると、儚が小さい声で言った。
「……あの、禀さん、怒ってますか?」
「え? いや、まあ。怒ってる、けど」
儚の背中がビクリと震える。
禀は驚いて、その背中から手を離した。
「あ、あの。ごめんなさい……」
「え、ああ。うん。まあ、もうしないならいいけど」
「……ごめんなさい」
「一応聞くけど、そのごめんって、なにに対するごめんな訳?」
儚が黙る。禀はいつもと様子が違う儚の様子にドキドキした。そもそも絶世の美少女が自室のベッドに寝込んでいる状況が扇情的にすぎる。
「その、禀さんがなにに対して怒ってるのか、わかりません」
「はあ? いや、だから勝手に人の部屋に入ったことに対して怒ってるんだよ」
禀がそう言うと、儚はガバッと上体を起こした。
「なるほど! もうしません、許してください」
その動きにギョッとしながら、禀は首を縦に振る。
「お、おお。わかった、許す。ていうかどうやって入ったの? って、いや、それよりも待ち合わせに遅れる!」
禀は大急ぎで着替え、
「ほら、俺もう出かけるから、儚も早く出て!」
儚の手を引いて外に飛び出した。
親が家に居なくて良かったと、心から思う。
そして、儚とは家の前で別れ、禀は待ち合わせ場所に向かった。
今日の儚はどうしたんだろうか、と禀は考える。
同じく、隣を歩く明日香も難しい顔をしていた。
待ち合わせ場所に着いた禀は明日香と合流し、そのまま駅前を歩き続けている。別に目的があって集まっている訳ではないので、こうしてぶらぶらする時間は珍しくないのだが、今日は少し事情が違った。
歩き続け、駅前からは少し外れた高級住宅地をまで来てしまった。ここまでくると周囲にはコンビニすらなく、遊んで楽しい場所はない。
そんな閑静な住宅地のなか、二人並んで、曲がり角を曲がる。
その時、カーブミラーを盗み見た。
「なあ、いるよな、後ろ」
「うん、いるね。ずっと追けてる」
歩き続ける二人を追けているのは、どうしたって目立たないはずのない漆黒の美少女、儚だった。
本当に、今日の儚はどうしたのだろうか。
しかし、考えてみれば儚は出会った時からずっと変だったし、その生態を禀は完全に把握している訳でもない。休日の過ごしかたなど、聞いたこともない。
禀と明日香は顔を見合わせる。
「どうする? 普通なら声をかけるんだけど……」
禀がそう言うと、明日香は薄く顔を綻ばした。
「わたし、やってみたいことがある」
「なに?」
「尾行を撒く、っていうの」
禀は笑って頷いた。儚には明日謝ろう。
禀と明日香がは趣味と気が合った。
趣味はゲームとマンガ。そして、二人は文芸部で知り合ってから、それらについて語り合い、意気投合した。
明日香は必要以上に物を話さない、加えて話す時には相手の感情を考慮しない変人な女の子だ。しかし、引っ込み思案という訳ではなく、禀をたびたびこのような遊びに誘うことがあった。
朝一番に学校に行き、黒板に謎の数式と魔法陣をびっしり書き込んでみたり、文芸部の部室の備品を使ってアヤシイ儀式場を作ってみんなを驚かせたりと、決して目立たないように、そして誰も困らない程度に、小さな悪戯をするのだった。
今回のもその一環なのだろうと、禀は肩をすくめる。
眼で合図を送り、ふたり頷き合う。
曲がり角を曲がってすぐ、ふたりは走り出した。
そして、そのすぐ次の角を曲がる。
これで儚は禀と明日香の位置がわからなくなるだろう。それは、昔の本で読んだ方法だった。
しかし、そのまま走り去ることはできなかった。
ダッシュで曲がり角を曲がったために、その陰に人がいることに気が付かなかったのだ。
「きゃっ!」
「うわっ!」
曲がり角で、禀は人にぶつかって倒れてしまった。
すぐさま相手に謝ろうと前を向き、禀は絶句してしまう。
「どうして逃げるんです?」
そこには、禀とぶつかって地面に尻もちをつく、儚の姿があった。
「え、なんで?」
明日香が驚いている。
そんな明日香に、儚は微笑んだ。
「ふふっ、なにがですか? なにがおかしいんですか? 禀さんと一緒に逃げたのに、どうして回り込まれたのか、ですか? しかしわたしにも疑問があります。どうしてあなたたちは逃げたんですか? 最初はわたしに気が付いてないのかと思っていました。わたしもなんと話しかけたらいいかがわからず二人を追いかけてましたが、何度かちらちらわたしの方を見てましたよね? なにか、やましいことでもしてたんですか? それとも、わたしが邪魔でした? それならそうと言ってくれれば良かったのに、逃げるなんてひどいじゃないですか」
「いやいやいや、待って。ちょっと落ち着いて」
慌てて禀は捲し立てる儚の言葉を遮る。
全然目が笑っていない笑顔で、儚がぐるりと首を回してこちらを見た。
「なんですか?」
凄まれた訳ではないが、淡々と聞いてくる姿勢と表情が妙に怖い。
「そ、そもそも、なんで儚は俺たちを追いかけてたんだ?」
禀がそう言うと、儚はわかりやすく視線を逸らした。
「あー、いえ。どうなんでしょうねー? あ、いえ、そうですね。ほら、わたしこの辺に頼れる人とかいなくて。休日とか時間が空くと不安になるっていうか」
「禀、この娘怖い」
儚と明日香が無表情で見つめ合う。
禀は腹の底に重たいものが溜まる感触がして、冷や汗をかいた。
「あ、あの……」
「ところで明日香さん? さっきわたしから逃げようと提案したのはあなたですよね。どうしてです?」
「あ、いや、あれは俺も」
「儚って何者? 全然物知らないし、お嬢様っぽいけど鞄も教科書も買ってない。禀とどういう関係?」
「あ、えと、実は」
「禀さんとは仲良くさせていただいていますが、それこそあなたにどんな関係があるんです。それとも、わたしと禀さんが仲良くしているのが気に入りませんか? だとしたらなぜ?」
「それはほら、俺たち友達だからだよ、なっ。明日香」
「…………」
「あはっ」
儚は笑った。
明日香は無表情を崩さない。
禀は困った。この二人がどうしてこう険悪なのかわからない。つい数日前には部室で一緒にオセロをやっていたはずなのに。
明日香はさっき追けられていた時は別に儚に対し悪感情を見せてはいなかった。儚が明日香を嫌う理由は、特には思いつかない。儚の追跡を撒こうとした件は禀も同罪だし、なぜ禀たちを追いかけてきたか、その理由を話せない儚に明日香を責める理由はないはずである。
どうして二人がこうもいがみ合っているのか、禀にはもうさっぱりわからない。
夢なら覚めてくれ。
「あ、あのさ。なんでそんなケンカ腰なんだよ? えーと、ふたりは相手のことが嫌いなの?」
「別に」
と、にべもない明日香。
「えー、わたしは明日香さんのこと好きですけどねぇー!」
と歯を見せて言う儚。
溜め息を吐く禀に、儚はすこしトーンを落として言う。
「そもそもわたしは大体の物が好きですよ。好きの反対は嫌いではなく無関心だ、とよく言いますよね。そういう意味ではわたしは無関心どころか完全な無に囲まれて生きてきたわけです。あれらに比べればどんな物にも好意を抱こうというものです」
そう言ってまた笑う儚に、明日香が聞く。
「あんまり言ってる意味はわからないけど、つまりわたしのことが嫌いってこと?」
儚は答える。
「ご想像にお任せします」
その言葉を聞いて、明日香はうっすらと微笑んだ。その理由がわからなくて、禀は困惑する。あまりの怒りに逆に笑えてきてしまったのだろうか? そんなに感情を表に出すタイプではなかったし、そもそも怒っているのも今日初めて見た。
禀とぶつかって、地面に座りっぱなしだった儚は、お尻を手で払って立ち上がる。
そうして、混乱したままの禀を見下ろして言った。
「ではわたしはこれで。お邪魔してしまって申し訳ありません。どうか、わたしのことはお気になさらずに。それではごゆっくり」
それだけ言い残すと、儚は曲がり角を曲がって行ってしまった。
「…………」
「…………」
後に残された禀と明日香は顔を見合わせる。終わってみれば嵐のように大事で、しかし一瞬の出来事だった。
「…………」
「…………」
気を取り直して、二人は駅前へと戻った。せっかくの休日なのだ。遊ばなくては勿体ない。
「ところでさ……」
言って、禀は隣を歩く明日香の方を見る。
明日香も、禀の方を見た。そして、言う。
「うん、追けられてるね」
背後にはちらちらと黒い影が見え隠れしている。しかし、禀も明日香ももう藪蛇をつつくようなことはしなかった。
無関心を決め込む。
陽が落ち、明日香と別れてしばらくすると、禀は儚がいなくなっていることに気付いた。あれは一体何だったのだろう。
禀は、いまだ儚のことをなにも知らないのだ。
もしも、儚が追けていることに、禀たちが気が付かなかったら、儚はどうするつもりだったのだろう。禀たちの休日の様子を盗み見ることに、何の意味があるというのだろうか。
禀は不気味さと気まずさを感じて、夢で儚に会うことに躊躇した。
会ってなにを話せばいいのだろう。これまで通り、特に意味のない無駄話をしてもいい。だが、そんなことが自分にできるだろうか。
禀には何もわからない。儚は禀をどう思っているのだろう。あのくらやみを見ずに済む、それだけの存在なのだろうか。
それはそうだろう。
だって、禀にとっても儚はなんでもない、赤の他人なのだ。
話していれば楽しい、見て楽しい美少女。
しかしその関係は? 友達、恋人、家族。そのいずれでもないのだ。
必要が無くなれば会わなくても支障のない関係。言葉にできない、奇妙な体験を共有するだけの、出会って数日の女の子。
そんなことを考えながら歩いていると、徐々に歩く速度が速くなっていく。
家に帰れば、床に就けば、どうしたって合わないことなどできない相手。
太陽は完全に沈み、辺りはもう真っ暗だった。
禀はなんとなく、後ろを振り向く。そこにはだれもいない。
禀は早足に家に向かった。
儚はいま、なにを考え、なにをしているのだろうか。
その夜、禀は数日ぶりに夜更かしをした。それは、これまでなら当たり前のことだったけど、それが今日はとても後ろめたい。
睡魔に負け、ついに禀はベッドに入った。儚に会うのが怖いと、布団の中で禀は思う。
その日、禀は夢を見なかった。
そして、その次の日も。禀が儚と再会するのは、月曜日の朝、教室でのことだった。
その日はとても体調が良かった。
反面、とても気が重かった。
この土日、禀は朝目が覚めて、久しぶりにすっきりとしていた。儚と出会ってから、禀は熟睡することはあっても快眠できることはない。
しかし、禀が快眠している間も、儚は睡眠時にはあのくらやみにいたはずなのだ。そう考えると、頭がすっきりしていることにすら罪悪感を抱く。
別にケンカしたわけではないし、そもそも儚と同じ夢を見なくなった理由もわからない。儚の連絡先も聞いていなかったのだから、禀はこの二日間儚に会いに行く手段はなかったのだ。
そんなことはわかっている。しかし、儚と顔を合わせることが気まずかった、という感情がある以上、禀の心から後ろめたさが消えることはない。
ついでにいえば、禀は儚と過ごしたこの数日が禀の夢だったのではないか、という想像までしてしまった。
これも後ろめたさからくる現実逃避だ。現実逃避で儚の存在を消してしまおうとする自分に、禀はさらに自己嫌悪する。
教室に入ると、もうすでに儚は登校していた。
儚の隣の隣、つまり明日香の席は空いている。禀はほっと胸を撫で下ろした。
じっと席に座って、いま入ってきたばかりの禀の方を見ている。
禀は自分に席に近づきながら、儚に話しかけた。
「……その、おはよう、儚」
儚の口から吐息が漏れる。
儚の顔が赤い。眼はうるみ、息が熱い。
「あ、あの、儚……? 大丈夫? なんか様子がおかしいけど……?」
禀がそう言うと、儚は気だるげに額に手をやって、首を振った。
「ええ、なんでしょうね、これ……。なんか、めちゃくちゃ辛いです……」
「えっと、とりあえず保健室にでも行く? 場所わかる?」
儚はゆっくりと首を振った。
黒い、絹糸のような髪が汗ばんだ肌に張り付く。
涙を湛えた瞳は伏せられ、その睫毛が細かく震えていた。
見た目の症状としては風邪のようだが、美少女が熱っぽいというだけで妙にエロい。
こんなんが保健室に行ったら、どうなってしまうんだ? そう禀は思った。
儚がのっそりと立ち上がりながら、禀に聞いた。
「あの、これめちゃくちゃしんどいんですけど、保健室に行ったら治るもんなんですか?」
「あー、いや。基本的に保健室は休むだだけの部屋だよ。そんなに気分が悪いならむしろ早退とかした方が……」
禀がそう言っている最中に、儚の上体がぐらりと傾く。そのまま、前のめりに倒れそうになるのを、禀が慌てて抱き留めた。
「お、おい! 儚!? しっかりしろ! いま、先生を――」
「あー……、いや、ちょっと待ってください。これはたぶん休むだけで解決できる問題なんです。それと、禀さんにはお話がありますから、ついでに保健室に運んでください。その道中ちょっと……」
「ああもう、無理するなよ。話なら保健室に着いたらするから。保健室なら先生以外誰もいないし、話しやすいだろ?」
「そうなんですか……? ならそれで……」
ぐったりした儚の、見た目よりもはるかに柔らかい体をずるずると運びながら、禀は小さくため息を吐いた。
突然の事態で忘れかけていたが、儚が禀にしたい話とはこの土日のことだろう。
禀がなぜ夢を見なくなったのか。
そう考えると儚のこの状態も頷ける。だって、あんなくらやみの中ではまともに休めないだろう。二日間も寝てなければ体調が悪くなるのも当然だ。
「風邪ね。家の人に連絡して、今日は早退しなさい?」
と保健医が言う。
「すみません。両親はとても忙しくて、家にはだれもいないんです。しばらく休めば自分で帰れます」
丸い椅子の上でぐったりと背筋を曲げた儚が答える。
「そう、ならしょうがないわね。そこのベッドに横になりなさい。これ以上悪化するようなら病院に連れていくからね」
儚がのそのそとベッドに移動する。
ふむ、とその光景を見ていた担任が口を開く。
「いや、大事にならなくて済んでよかった。このまま悪化しなければなおいい。できれば放課後までには快復してほしい」
そんなことを言う担任を保健医が睨みつけた。
「さ、上代も教室に戻るぞ。もうすぐ授業が始まるし、お前らがここで一発おっぱじめると俺が教頭になれないからな」
最低なことを宣う担任に、禀はドン引きした。
「いま生徒にしたセクハラも、問題にすれば教頭になれないんじゃないんですか?」
「なに言ってる。言っとくが、お前らが思ってるほど、生徒の発言は重要視されないんだ。年頃の娘はすぐセクハラだなんだと騒ぎ立てるからな」
「もうお前HR行って来いよ」
禀がしっしっ、と担任を追い払う仕草をすると、担任は真剣な表情をして、禀に向き直った。
「思春期のお前らが猿なのは先生もよーく、知ってる。だからな、我慢しろとは言わない。俺はそんなに生徒を信頼していない。だから、せめてばれない様にだけは精一杯気を使ってくれ」
「んな邪なことしねぇよ馬鹿か!? てかHR始まるから教室に戻れとか言えよクソ野郎!」
フハハハハハハ、と高笑いしながら、担任は保健室を去る。結局、一度も禀にHRに出ろとは言わなかった。善悪かは不明だが。
保健医はくすっと笑って、
「避妊具を渡して行為を助長させるほうが悪いか、渡さずに妊娠させてしまう方が悪いのか……。どう思う?」
「そんな物使いませんよ……」
笑って手を振る保健の先生に背を向け、禀はカーテンの中に入る。
中に入ると、薄暗いベッドの中で、儚がくすくすと笑っていた。
「楽しそうでしたね」
「ほんと、あの人たちは人生楽しそうだよな」
「あなたのことですよ」
苦しげなのに、どこか楽しそうな儚から目を逸らす。
「で、話って?」
すこし居心地が悪くて、禀は聞いた。
あー、と儚は呻いて、ベッドに横たわったまま、居住まいを正した。
「禀さん、この二日間ですが、夢を見ませんでしたね?」
「あ、ああ。あれってどういうことなんだ? なにか理由はあるのか?」
「それはむしろわたしの方が聞きたいですね。禀さんにはなにか心当たりはありませんか?」
そう言われても、禀には心当たりがあるはずもない。そもそもあの夢のことでわかっていることはほとんどないのだ。
儚と顔を合わせることが怖かった、あの夢を見たくなかった、ということは、関係ないはずだ。
知らない、と言いかけた禀は、儚と目が合った。
別に咎めるような表情をしている訳ではない。ただ、見透かしたような目をする。窓の外の雨粒を見つめるような、寂しげな顔だった。
その顔を見ていると、禀は自然と口を開いてしまった。
「……実はほら、なんか儚と顔合わせづらくって。だからってなにかしたわけじゃないんだけど。もしかしたらそれが原因、なのかな?」
禀のその言葉に、儚はハッとしたように目を見開いて、呟く。
「……やっぱり、そういうことなんでしょうか?」
「え?」
禀が聞き返すと、儚はそれには答えずに、禀に言った。
「あの、禀さんはわたしのこと、嫌いですか?」
儚にそう聞かれると、禀の心臓がドクンと跳ねた。
慌てて、禀はそれを否定した。
「い、いや。そんなことない。割と、あ、いや。結構好きだ」
禀の言葉が終わらない内に、儚はのそりと上体を起こした。
ぬるりと、粘液を掻き分けるように儚の腕が伸びる。
咄嗟に動けない禀の首に腕を回し、抱き付いた。儚は思い切り禀を自分の側へ引き倒す
禀の体を受け止められずに、儚もまたベッドに倒れる。
二人の体がベッドの上で重なった。
「あ、の。儚……?」
体が熱い。禀の体も熱かったし、儚の熱はもっと高かった。
儚は禀の頭を抱き寄せ、戸惑う禀の唇を奪う。
口内を柔らかいものが蹂躙する。目の前が儚の顔で一杯になって、禀は耐えられずに目を瞑った。
水音がカーテンの中に反響する。二人の鼻息が混じり、快楽が脳を支配した。
抵抗する気力も奪われ、なされるがままに、その深いキスは続いた。
どれだけの時間が経ったのだろう。
禀には一瞬の出来事で、しかし現実に過ぎた時がどれだけだったかはわからない。
全身が熱い。
目の前の儚が、そのうるんだ瞳が、濡れた唇が、口から覗く赤い舌が、禀から思考能力を奪っていく。
「あ、あの……?」
儚は、柔らかく微笑んで、禀に言った。
「ねえ、禀さん。わたしは禀さんのことが好きです。大好きです。愛してます。だから、禀さんのしたいこと、なんでもしていいんですよ?」
言って、儚が体ごと禀の方へ近づいた。気が付けば、禀の腕は儚の腰に回されている。
なんでこんなことになったのかわからない。もう一秒前のことだって思い出せない。ただ、儚の蠱惑の声が、脳内を残響する。
心が薄暗いなにかに支配される。
禀は一度だって儚の体を求めたことはない。なのに、もうそのことしか考えられない。まるで催眠術のように、権利を与えられたまま、自由意志をはく奪されていた。
「なんで」
だからそれは、無意識の発言だった。
言った後になっても、それが自分の発した言葉だとはわからなかった。
なんで、なんでそんなことを言ったんだろう?
ただ、禀の言葉に、酷く傷付いた儚の顔が、目の前にある。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。こんなことが言いたいんじゃなかったのに。
カーテンの中の空気が一変する。禀は後悔した。後悔して、そこで少し冷静さを取り戻した。
儚は、ほとんど泣き出しそうな顔で、禀に言った。
「あ、あの。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい―――」
禀は、なにがなんだかわからなかった。
ただ、自分の腕の中で、儚が謝り続けている。その気になれば、また唇を奪える。禀を好きなままにできたはずの儚が、怯え、震えていた。
「ごめんなさい。わたしを、嫌いにならないでください。わたしを見捨てないでください。なんでもします。わたしにできることなら、なんでも」
なんで、と禀は思う。
どうして、儚は謝っているのだろう。どうして、儚は怯えているのだろう。
そもそも、禀には儚が禀にキスをした理由も、儚がこんなに怯えている理由もわからない。
ただ、それがきっと、自分の所為だということだけはわかっていた。
「ごめん。これからは毎晩儚に会いに行く。だから泣かないで」
その言葉が儚に届いたのかどうか、禀にはわからなかった。
また、禀には何が起こったのかわからなかった。
いつの間にか、たった今まで確かにそこにいて、触れあっていたはずの儚は、消えていた。手には、唇には、儚の感触が残っているのに。
本当に、忽然と、気が付いたらそこにはもう誰もいない。
「は? なんだこれ?」
突然の事態が信じられず、周囲を見渡す。
カーテンで四角く区切られた密室には、ベッドと乱れたシーツだけがある。
背筋が凍り付く。
バッとカーテンを引っ張るっと、そこには保健の先生が机でペンを走らせていた。
「あら、凄い勢いでどうしたの?」
「あ、あの。いま何時ですか?」
保健の先生は不思議そうにしながら言う。
「まだチャイムは鳴ってないわよ? ……もしかして、寝てた? それともぉ、時間を忘れて彼女とイイコトしてたのかしら?」
「先生、すみません。失礼します」
保健の先生の戯言を無視して、廊下に飛び出す。
儚が神出鬼没なのはいつものことだ、と自分に言い聞かせるが、不安は消えない。
儚もそうだが、禀自身のこともそうだった。
禀は考えてしまう。自分もまた、ある日いきなりこの世界から消失してしまわないだろうか?
それに、
「くそっ、これも夢なのかっ? どの瞬間からだ!?」
廊下を全力で走る禀の頭上からチャイムが鳴り響いた。一時間目が、始まる。
放課後になっても、儚の姿はどこにも見当たらなかった。
学校にはいない。先生たちも探したみたいだが、見つからなかった。
学校の外か、そうでなければ、あの夢の世界にいるのか。それとも、いまいるここが夢なのか。
なんにせよ、禀は眠りに就く必要がある。
この世界の、そして自分の存在の証明など不可能だ。
どうしたってわからないことがあるなら、もう眠るしかないではないか。
禀はいま自室にいる。
これから、布団に入る。
睡眠なんて毎日とっているのに気合を入れるなんて、と禀は可笑しくなった。これではまるで、初めてのデートではないか。
しかし、儚の消失から時間が経って感覚が麻痺してしまっているが、これは一大事だ。禀の世界の、根幹が揺るがされている。
禀も冷静さを取り戻してきた。
儚が、普通の人間がある日突然虚空に消える訳がない。
ならば儚か、禀か、世界か。いずれにしれも、夢か幻であるのには違いない。
そして、なんにせよ禀の常識は、当たり前の日常と世界の秩序は崩壊した。
儚は普通じゃない。もしくは、これまで自覚がなかっただけで、禀は普通じゃなくなっているのかもしれない。
この世界は、禀が十五年間過ごしてきた“普通の”世界じゃないかもしれなく、実は儚と初めて出会った瞬間からずっと夢を見ていたのかもしれなく、ここは異世界かもしれなく、もしかしたら一秒前に出来上がった新世界なのかもしれなかった。
そして、それらのどんな可能性であれ、禀がいまこの瞬間、眠りに就くことでわかることがあるはずだ。
ベッドの上に横になり、掛布団をかけて目を瞑る。
頭の中で色んな考えが浮かんでは消え、眠れない。
興奮し、浮き足立っている。
そんな焦りを抑え込んで、ひたすら目を瞑り続ける。
気が付けば、やはりそこにいた。
一面、なにも無いくらやみの世界。
ここに落ちてくるのも覚悟していてなお、そこは正気では耐え切れぬ地獄だった。
しかし、苦痛を感じる必要はない。ここでは感覚は存在しない。
音も光もない。だから聴覚も視覚もいらない。
この場において、禀が求めるべき存在はたった一つだった。
「儚―!」
心の底から、彼女を望む。
一秒、二秒。刹那が永遠に引き延ばされるここでは、時間の経過に意味はない。だからこの間は、禀の怖れか、儚の躊躇いだ。
そうして、彼女は現れた。夢の世界に、美しい風景を引き連れて。
夜明け前の空は見事な碧に照らされ、一面に広がる砂漠は月明かりで青白く光っている。
その瞬間、夜が明けた。
地平線に輝く黄金の太陽が、世界を生命の色に塗り替える。
なにもかもが金色に輝く世界で、ただ一人、何物にも染まらぬ漆黒を湛えた少女。
儚が、太陽を背に立っていた。
まるで、人の手による日蝕のように。
「……禀さん」
「儚――」
ともすれば黄金の夜明けよりも人の心を動かす少女の美貌は、しかし禀の目には逆光でよく見えない。
しかし、儚の声を聞けば、彼女がどんな表情をしているかなど、火を見るよりも明らかだった。
「儚、いきなり消えて心配した。どうしたんだ? 昨日までは夢も見なかったし、もしかしたら二度と会えないんじゃないかって」
「……ごめんなさい」
「ああ、いや。責めてるわけじゃなくて。ほら、俺も不安だったんだよ。ここ最近いろいろわからないことだらけだったからさ。でも、ちょっとずつ覚悟が決まってきた。もしかしたらこうなんじゃないか、って怯えるよりも、俺たちはいまある現実を生きるしかないんだって」
儚を励まそうと、つっかえつつも、禀は必死に言葉を振り絞る。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……最近、儚はそればっかりだな」
「だって、わたし、禀さんに酷い事してて、それを、止めるつもりがないんです」
黄金に輝く砂漠に涙の粒を落としながら、儚は言う。
「嫌われても仕方ないって。いえ、嫌われたくないなら止めるべきなんです。でも、わたしは自分勝手で、いけないことだってわかってるのに、最低なことしてるって分かってるのに、わたしは自分の為に、それを続けようとしている……っ」
儚になにか嫌がるようなことをされた記憶は、禀にはない。保健室での出来事は、どきどきはしたけど、嫌ではなかった。
でも本当は、もう禀にも分かっているのだ。
儚がずっと禀にしてきたこと。
泣くほどに悩んで、せめてもの罪滅ぼしとばかりに禀に自分の全てを捧げようとまでした、その理由を。
「やっぱり。この夢をみせてるの、儚なんだ」
禀がそう言うと、儚の肩がびくりと震えた。
震える肩を抱いて謝り続ける儚に、禀はゆっくりと歩み寄る。
「いや、まあ全く予想してなかった訳じゃないんだ。それでも、前に言ってただろ。俺がいないと、ずっとあのくらやみの夢を見てるって。それはかわいそうだって、俺が助けてあげられるならそうしたいって、そう思ったんだ」
「…………」
禀と儚の距離が縮む。
太陽もまた、少しずつ高度を上げ、泣きはらした儚の顔が徐々に鮮明に見えるようになってきた。
「……禀さん。あなたがそう言ってくれて、本当にうれしいです」
そう言って、儚は笑った。
それは、禀の脊髄を直接撫でるような、淫らで嗜虐的な笑みだった。
いっそ、邪悪と言っていいほどに赤く、唇が歪む。
禀はその表情にゾッとする。ゾッとして、しかし同時に、寂しさを感じた。
禀は、儚とまだ分かり合えていない。二人の間には壁が在る。
そんあ、ボロボロな笑顔を浮かべなくたって、禀は儚の力になりたいと感じているのに。
「ねえ、禀さん」
儚が言う。儚はいつの間にか禀のすぐそばにいて、禀に寄りかかってきた。
女性的なふくらみに欠ける、しかし柔らかい肢体が、禀から冷静さを奪っていく。
「わたしが会ったのが、わたしと同じ夢を見てくれたのが禀さんで、本当によかったです。禀さん、わたしは禀さんの為ならなんだってします。わたしがあげられるものは、すべてあげます。だから、わたしを見捨てないでください。わたしを、一人にしないでください」
精神を侵す声が脳に響く。
儚は笑っている。必死に。もうそうするしかないというように。
追い詰められているのだ。
追い詰められているから、歯を剥いて、笑うしかないのだ。
拒否なんてできるはずがない。こんなにも寂しげに求められたら、すべて受け入れてしまう。
なのに、心はそれを否定していた。
儚の言葉を、態度を否定して、それでこそ儚の為にできる事があるはずだと、警鐘を鳴らしている。
しかしどうすればいいのだろう?
儚は笑って、禀に懐いている。それを否定して、自分の正しいと思う関係に修正することが、儚にとって本当に良いことなのだろうか?
「なあ儚。この夢ってなんなんだ?」
禀が聞くと、儚はぴくりと震えて、体を離した。
禀から離れて立つ儚は、奇妙な無表情で傍らを見る。
「実はこれ、夢じゃないって言ったら信じますか?」
「夢じゃないって、現実ってこと? ほんとに異世界?」
禀がそう言うと、儚はすこしだけ微笑んで、
「そういうことじゃないですよ」
「えっと、じゃあ前に儚が話してたあの? ベッドの中で夢を見ている自分は現実だから、その自分の頭の中の夢も現実のものだ、ってやつ」
禀がそう言うと、儚はすこし驚いて、言う。
「よく覚えてましたね、そんな話」
儚は黄金色の世界で、その輝きを全身に浴びて、その場でステップを踏む。
「禀さん。夢と現実の違いってなんだと思いますか?」
そうして、いつものように疑問を、これから話す議題を提示した。
「その人本人は現実だと思っているのに、周りの人はそう思っていない、なんてことはよくありますよね? 精神的に参ってしまったとか、ヤバイ薬で幻覚を見てしまったとか、そういう大層な話だけでなく。この人は自分のことが好きなんだ、と思い込んでストーカー行為に勤しむ人とか、つまり、現実を見れてない訳です」
確かに、思い込みによって事実を正しく理解できなくなる、というのは小説や映画などではよくある話だし、日常的にだって珍しくはないだろう。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、軽いところでは空目や空耳などの錯覚がそれだ。
「では、このストーカーさんの例えでいくと、好かれている、という妄想と、実際には好かれていない、という現実とがあります。ストーカーさんにとっては好きな人と両想いである、というのが現実で、片想いだ、というのは根も葉もない言い掛かりなわけです」
「……言いたいことはわかるけどさ、ストーカーされてる本人が好きかどうかが答えなんじゃないのか? ストーカーさんも周りの人も、そういう意味じゃ現実、っていうより真実がわからないんだから」
禀の言葉に、儚は人差し指を立てて答える。こういう話をする時の儚は妙にノリノリである。
さっきまでの空気とか、質問とかがあやふやになっていく。
儚と話しを続ける上で、聞きたいこと、知りたいことはちゃんと覚えておかないと、いつまでもはぐらかされ続ける。
そのままでは、いけないのに。
「それはもっともな指摘ですが、ではそのストーカーされている人は、本当に現実を正しく認識できているのでしょうか? 嫌よ嫌よと言いながら、それは錯覚で、本当はストーカーさんが大好きかもしれない。ストーカーだと思い込んでいるだけで、実は恋人だったかもしれない。だれもが別々の認識で現実を歪めているなら、それはだれかが間違っている、かもしれませんね」
「なら、客観的に見て、実際に人につきまとってる、ストーカーさんは悪いんじゃないか?」
「善悪こそこの世で最も主観によって左右されるものですが、今回はストーカー行為そのものが悪いとしましょう。すると、だから、どうなります? 悪い人は決まりましたが、現実は全員の主観で違っているかもしれませんよ?」
儚の言い分に、禀ははてな? と首を傾げた。
事件は解決しても、この論議は解決していない。全員の認識にはズレがあり、正しく現実を見ている人がだれもいないなら、それは。
「みんなで意見を擦り合わせていく、とか? 現実が主観で違っているとしても、より多くの人が認識している事実が現実、ってことになる、よな?」
言って、しかしいまいち自信の持てない禀に、儚は両手をポン、と合わせて言う。
「はい、その通りです。だれもが主観でしか物事を語れないから、多くの人の意見を束ねて客観性を持たせる。合理的ですね。世界中の人々がカラスは黒い、太陽は丸いと言い続ければ、それが客観的な現実と認識されるようになるでしょう」
「いや、カラスは黒いし、太陽は……」
言いかけて、禀は気付いた。
それも主観だ。
カラスは実際、黒い、と思う。しかし、その記号には意味がない。例えば禀が見ている黒と、明日香が見ている黒は別物かもしれない。それを、カラスという共通の物で、色をそう覚えているだけなのかもしれないのだ。
だって、黒、なんて単語は自分で考えた物じゃない。家庭で、幼稚園か保育園で、これが黒だと教えられたからそう認識したというだけの話だ。
「はい、その通りです。これが“この”夢の大前提。いえ、この夢だけではありません。禀さんが見ている現実は、禀さんの主観というフィルターを通した世界なんです」
話が一段落して、禀は頭をガリガリと掻いた。
脳が理解を放棄しかけている。先程の話を理解し、常に疑い出しては日常生活など送れない。
いや、禀はもうすでに日常を送っていないのかもしれない。常に、ここが現実かと問い続けることで、現実を正しく認識できていないのだ。
現実、というのが禀の理解しているものならだが。
「さて、それでは禀さんに聞きましょう」
背筋が泡立つ。儚の発言が、その魅力的な仕草が、視線が、吐息が、その存在が、得体の知れない気持ち悪さを醸していた。
「実はこれ、夢じゃないって言ったら信じますか?」
つまり、最初からそういう話だったのだ。
儚の言葉を否定し、この夢を否定し、その存在を否定したところで、なんにもならない。事実として禀はくらやみの夢に魘され、儚と対話し、現実に疑問を持った。
儚はそれを、順序立てて解説しただけなのだ。
禀がそれでも儚の言葉を疑うならば、禀は自分自身すらも否定することになる。
儚の言葉を鵜呑みにすることはできない。だが、疑ったところで仕方のないことだ。嘘の可能性を視野に入れて、その上で信じるしかない。
「禀さん、カラスって本当は黒いんですよ?」
「……バカにしてる?」
禀の言葉に、儚は笑った。
「あははっ。まあ、そんなに深刻に悩まなくてもいいってことです。人の言葉が嘘かほんとかなんてわからない。そんなの当然のことじゃないですか。禀さんはその当然の前提を確認しなおしただけなんです」
そう言われてみればそうなのかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。
儚の言葉に、本当に他意はなかったか?
禀の思考を操作し、誘導しようとしてはいなかったか?
これまでの会話で、大事なことを隠していなかったか?
儚とした、会話のすべて。
考え込む禀を笑顔で見つめながら、儚は言う。
「まあ実際のところ、わたしにもよくわかってないんですけどね?」
「おい?」
我を忘れそうになった禀は、その瞬間に思い至った。
「あれ? ……ああそうだ。そうだ! 儚は最初に言ってなかったか? これはわたしの世界だって。俺の世界を知らないって!」
空があって、海があって、陸がある。当たり前の世界。
それを、儚は知らないのではなかったか?
禀との会話で、儚が知っていたのは胡散臭い哲学や心理学の話だけだった。逆になんでそれらを知っているのかは謎ではあるが、問題はこの世界のことである。
「儚、この世界ってなんなんだ? ……いや、それよりも、」
儚は笑う。他に表情など知らぬのだとばかりに、寂しげに笑った。
「お前、何者なんだ?」
風が砂をさらう。
細かい流砂が輝き、空間に色がつく。
夜明けの空を太陽が染め上げる。
絶景だった。おおよそ禀が目にしたことのない大パノラマ。
その圧倒的な自然のなかで、儚の存在感は揺らぎもしない。
「禀さん。わたしは、儚です。他の何者でもない、ただの儚です」
冷たい風が周囲を洗う。
「なら、この世界はなんなんだ? この夢は儚が俺に見せているものなんだよな。それは、あのくらやみに居たくないからじゃないのか?」
さらさらと、砂が鳴る。
「ここは、このくらやみは、わたしにとっての現実です」
認識が逆転する。
陽が徐々に上り、世界は少しずつ、黄金の輝きを失いつつあった。
「わたしは自我か、あるいは記憶を持ちませんでした。ただ、気が付けばこの世界にいたんです。あなたの言う苦痛があったかはしりません。わたしが最初にわたしという意識を持ったのは、禀さんと会った時が初めてなんです」
その言葉が現実か、禀にも、儚にも、本当にはわからない。
「しかし、わたしは世界を知りました。あなたの世界の、色を、温度を、感触を。そうして思ったんです。どうせ生きるならあなたの世界の方がいいと」
それでも、隠していて、嘘を吐いていたとしても、心だけは本物のはずだ。
「しばらくして気が付きました。わたしがあなたの世界にいられるのには制限があると。その制限は、あなたがわたしの世界に来ている分だけ、というものです」
疑問に合点がいく。
そういうことなら、これまでの儚の行動も謎ではない。
儚は禀と一緒にいたかった。そのために、禀に好かれる必要があったのだ。
しかし、その打算的な行動が、だれに責められるだろうか。
少なくとも、あのくらやみに地獄をみた禀には、絶対に。
「ねえ、禀さん。わたしはわたしのために、禀さんにこの夢を見ていてほしい。わたしを見捨てないでください、わたしを一人にしないでください。わたしは死にたくない、生きていたいんです」
その言葉は禀の胸を打つ。
禀が儚と会いたくないと思った夜、禀はこの夢を見なかった。
もしも儚が禀のいる世界にいられる時間を、禀が操れるとしたら。
禀が拒否すれば、儚があのくらやみの世界で意識を失ってしまうなら。
たしかに、儚はなりふり構っていられないのだろう。
まさに、必死なのだ。
儚はなんとして禀に嫌われる訳にはいかなかった。逆に言えば、儚は禀を好きになろうとしていたのだろう。
本当に、儚には禀しかいなかったのだ。
だから、勘違いしてはいけない。儚の好意は、禀の人格に対するものではないのだから。
「わかったよ、儚。前にも言ったけど、俺はこの夢から逃げようだとか、もう思わない。ちゃんと、儚と一緒にいるよ」
それを聞いた儚が、心の底から嬉しそうに、笑う。それは歪なものかもしれなかったけど、自分の幸せを喜んでのものには違いなかった。
思えば、禀がこれまで夢か現実かと悩んでいたのは、勿論考え過ぎというのもあったけど、儚に依存するよう、少しずつ思考を操作されていたのではないだろうか。
この夢の実態はまだまだわからないことだらけだが、少なくともこの先、禀が夢と現実の判断が付かなくなることはないだろう。全ての問題が解決された訳ではないが、とりあえずは一段落である。
嘘と夢が、どれほど紛れ込んでいるのか。
それは、誰にもわかりはしない。