夢の話
人が夢を見るメカニズムを知っているだろうか?
人の睡眠は、その深さによってふたつに分けられていて、眠りが浅い状態、レム睡眠時に、夢を見るのだ。
では夢の内容はどうだろう。古くは夢は神さまのお告げや妖精、悪魔の仕業と解釈されることが多かった。それが時代が経つにつれ哲学、心理学などと結び付けられ、現代では脳科学や神経生理学などに理由を求められる。それらは深層心理であったり、集合意識、過去の記憶、願望などと解釈されている。
しかし、どれほど研究が進んだ現代でも、人が夢を見る理由については、いまだ確たる論拠は認められていないのだ。
「そもそも、夢とはなんでしょう?」
彼女が聞く。
聞くというよりは、これから話す内容の前振りのような、疑問の提示だった。
「夢、と一言に言っても、意味が違ったりしますよね。寝るときに見る夢と、将来の夢。これらが同じ単語で使い分けされているのは、日本語に限った話ではありません。おそらくは、夢という単語が、言語がつくられた時代では、この二つは同義だったのでしょう」
耳から入って脳髄を揺さぶるような蠱惑の声。
見た目も美しい少女ではあるが、なにより人の心を捕らえて離さないのは、その声のほうだ。
聞き惚れる。陶酔してしまう。
夢の中でさえ寝てしまいそうになる、魔性。
もしも音に色が付くとしたら、やはりこの声も真っ黒なのだろう。彼女と、彼女を取り巻く世界のように。
「あなたは夢を見ますか? それは、どういった意味で?」
少女が虚ろに笑う。
黒く、暗く、黒く、黒い。
さて、と考える。
自分は、上代禀は夢を見るか―――
その日、禀は夢を見ていた。
夢を見ている間にそれが夢であるとわかる、それを明晰夢、覚醒夢などというが、この日禀が見た夢はまさにそれだった。
一目で夢だと理解する。
理解してすぐに、一刻も早く覚めてくれと願った。
そこは地獄だった。
血の池や火の川や針の山、鬼に閻魔にしゃれこうべ。そういったわかりやすい恐怖がある訳ではない。
というよりなにもなかった。光すらもない、完全な闇。くらやみだけが、そこにはあった。
暗所恐怖症ではない。人並に暗がりを恐れはするが、一人で夜中にトイレに行くくらいなら全く怖くない。
だから禀は、このくらやみが怖いのではない。
完全な無の世界に、心が耐えられないのだ。
大声を出しても虚空に消え、目を閉じても開けても視界は変わらず、手足を振り回したところでぶつける物もない。
自分がここにいるのかさえあやふやになる。
意識に闇が浸透する。まともな思考能力は失われ、ただ、何事かを喚き続けた。
こんな場所には、一秒だって耐えられない。人間は、生物は、その精神はこんな極限の地獄に耐えきれるようにはできていない。
だから、その場所にいたのは本当に一瞬だったに違いない。そもそもが夢だ。体感時間など永遠に引き延ばされる、邯鄲の夢。
最初に見えたのは黒だった。
視界一杯に広がるくらやみで、黒い影が蠢いた。認識などできるはずもない影。それでも、全ての意識が集中する。
一面の闇が揺らぐ。
その揺らぎを、禀の全てが渇望した。
助けてほしい。
こんな世界から抜け出したい。
なんでもいいから、存在していてくれ。
開けているのか閉じているのかすらも曖昧になった目が、涙を流した。頬が濡れる。しかし光のない視界は滲みもしない。
喉の奥から、声にならない声が漏れた。
必死に揺らぎに手を伸ばす。その手すら闇に呑まれて禀には見えなかったけれど。
揺らぎが大きくなっていく。それは禀の望みによって増幅しているかのようだった。
そうして、それは現れた。
周囲のくらやみから、輪郭が剥離する。
闇より黒いそれは、ふと禀に気が付いた、というように微笑んで、言う。
「あら、はじめまして。わたしの世界にようこそ」
闇よりも黒い、長い髪を腰まで垂らしている。着ている服もまた、世界に同化するような闇色。深淵の色を灯す瞳でこちらを見ている。ただ、肌だけが懐かしくなるほど白かった。
「あら? あらあら、どうかしましたか? そんなにぼろぼろ泣いて、どこか痛みます?」
心配そうに、とはお世辞にも言えない。とても楽しそうに、黒い少女は言う。
禀はごしごし手で涙をぬぐって、震える声で言う。
「こっ、ここ、ここはなんなんだ……っ。早く返してくれ……っ」
禀の言葉を聞いた少女ははて、と首を傾げた。
「ここ、というのはつまり、ここですが。返す、というのは? わたしはなにも奪っていません。罪を犯したことなどなく、虫けら一匹殺したことのない人畜無害なわたしですが」
「元の世界にだよ! 早くしてくれ。でないと気が狂いそうだっ!」
黒い少女は先ほどとは逆に、首を傾けた。
「元の世界? 気が狂う?」
その反応に禀は両手で顔を覆った。絶望的な反応だ。もう一生、餓死かなにかで死ぬか、心が壊れるまでこの空間に居なければならないかもしれない。
同時に、心に小さな安らぎが生まれてもいた。
自分以外の唯一の存在に依存してしまいそうになる。黒い少女がいることで、自分がここにいるという実感が湧く。彼女に触れたくて、たまらなかった。
「ちなみに、元の世界というのは、どういった場所なんですか?」
黒い少女が聞く。
聞かれて、禀は戸惑った。自分がこれまで暮らしてきた世界、というのは、つまり。
「……えっと、空があって、海があって、陸があって?」
それらをどう説明しようか、それらを説明すれば元の世界を表現できるのか、と言いながら考えていると、闇が蠢いた。
揺らぎが、周囲を埋め尽くす。
揺らぎの中から、眩しいほどの青が現れた。
それは空で、海で、そして足元には地面があった。気が付けば、自分の体もきちんと目に見える。
あまりの衝撃に言葉を失くしていると、こちらも驚いている様子の黒い少女が、目をパチクリさせながら禀に尋ねた。
「これが、あなたの言う、世界……?」
「あ、ああ、うん。他にも家があって、学校があって、本屋とか、ゲームショップとか、っ……」
言葉と同時に、次々と建物が出現する。そのあまりの安心感で、涙が止まらなくなった。涙で世界が滲む。景色が見えなくなってしまわないように、必死で涙をぬぐい続ける。
もう言葉を使わなくても、禀の記憶通りの町がそこにあった。空を見上げれば、遥か向こうに霞むスカイツリーがぼんやりと見えた。
アスファルトがあり、コンクリートがあり、電柱があり、家があり、建物がある。
普通の世界。
「ああ、そうだよ。ここが、俺の住んでた世界だ」
黒い少女は街並みに興味津々で、くるくるその場を回りながら、溜め息を吐いた。
「……これが、世界。ふふっ、とっても、綺麗ですね」
その微笑みから思わず目を逸らし、禀は言う。
「そ、そうか? ここよりもっと綺麗な場所なんかどこにでもあるぞ? 今の季節だと桜が咲いてるから、吉野? とか」
うろ覚えの桜の名所を口に出すと、二人はいつの間にか桜吹雪のただなかにいた。
視界全てを覆い尽くす、赤子の頬のような桃色の欠片の数々。
辺りが薄暗いのは夜だからだろう。しかし、桜の花弁は頭上の月明かりを反射していて、幻想的な光を放っていた。
「ああ、確かに、これは綺麗ですね……」
そう呟く少女の姿は、桃色の幕の中であって、その漆黒の色を侵されずにいた。
「でもあんまり多くて、明るくて、綺麗で怖いです。他には? もっと綺麗な場所はないですか?」
言われて、ネットでみた景色を思い出す。
その瞬間には、二人のいる場所が変わっていた。
どこまでも続く広い空と、その空を鏡写しにする足元の湖。
三百六十度、どこを見渡しても空と、湖に写る空だけが広がっている。
太陽が沈んだ、星々が輝く満点の夜空。無数の光点と、それらを包む上下の夜は、黒い少女に似合い過ぎて、その立ち姿にこそ心を奪われた。
同時に、禀は気付く。
あのくらやみに最初にいた時にもそう思ったのだ。
「ああ、これ夢だ……」
その言葉に、黒い少女がこちらを向いた。
「夢? ですか?」
「ああ、そうだよ。いや、あのくらやみが怖すぎて忘れてたけど、こんな不思議体験、夢じゃない訳なかった」
「ふふっ、それはどうでしょう?」
ようやく安堵の息を吐いた禀に、黒い少女が微笑む。
禀はドキリとして、頬を引き攣らせながら聞いた。
「ゆ、夢じゃなきゃなんだっていうんだ?」
黒い少女が湖面を蹴る。足元の星空が歪む。
その場で楽しそうにステップを踏みながら、少女は笑う。笑って、言う。
「もしかしたら、ここは異世界かもしれませんよ? いえ、そもそも普段見ている夢だって、本当はパラレルワールドに旅行しているかもしれないのに」
「夢のある話だけど、それは怖いな……。でも、ここが異世界ってことはないよ。だって俺が想像したとおりに変わったじゃないか。そんなのありえない」
禀は笑って、話を流そうとした。
これが夢なら、すべて丸く収まるのだ。もうあの地に足つかない絶望を味わいたくはない。現実味のない話からの、現実逃避である。
そんな禀の思いを知ってか知らずか、黒い少女はこの星空のような満点の笑顔で続けるのだった。
「いえいえ、これが創世秘話という可能性だってありますよ。世界中の神話がそうであるように、この異世界もまた、あなたの創世から始まるんです」
ぞっとしない話だ、と禀は思った。神さま、というのは憧れたことはあれ、世界を一から創れ、というのは流石にお断りしたい。そういうのはゲームアプリのなかで十分だ。
禀の顔色など気にも留めず、黒い少女の言葉は止まらない。
「考えてもみてください。逆に、眠りから覚めた時、あなたは本当にあなたが眠りに就いた世界で起きたのですか? そんな確証が、持てますか? あなたは毎朝、目が覚めると同時に世界を創造しているかもしれないんです。あなたの元いた世界が、一秒前に生まれたという論を否定する方法など、実のところどこにもないのですよ」
放っておけば夜が明けるまで続きそうな少女の言葉を、禀は遮るように言う。
「あー、哲学かなんかの話だっけ、それ。でも、そんなの考えたってどうしようもないじゃないか。世界がいつできたかなんて確かめられないし、そもそもここが本当に俺が創造した異世界なら、俺はこれからどうすればいいんだよ?」
禀は笑ってそう言った。
黒い少女も、それを聞いてまた笑う。
「ええ、どうすればいいんでしょうね? だれもいない世界にたった一人。あなたにできるのは、想像(傍点)することだけ。自分の存在も証明できないあなたは、一体、これからどうすればいいんでしょう?」
「それって……」
黒点の空の中、闇色の少女が微笑む。
それはまるであのくらやみの世界にいた自分のようで、そして、もしかしたら、それはこの黒い少女のことであるかもしれなかった。
「君は……?」
形にならない疑問が口から漏れでた。
黒い少女はそこで笑みを止め、考えるような仕草をする。
そして、こう言った。
「……そう、ですね。わたしは儚。人の夢と書いて儚です」
「あ、ああ、俺は上代禀だ。よろしく。……っていや、そうじゃなくって!」
突然の名乗りに自己紹介を返してから、思わず突っ込んでしまった。知りたいのはどう考えても名前ではない。この異常事態に、そもそもこの少女にも名前がある、というのすら想像の埒外だった。
「え、ええと、儚?」
「はい、儚です」
「はかなって、結局ナニモノ?」
「さあ。別に何者でもないですよ。ただの儚です」
「いや、まあ夢だしな。……たぶん」
夢ならこの儚という少女も、禀の想像の産物なのだ。そう考えてみれば、「儚」という名前は我ながら皮肉が効いている。同時に、絶世の美少女であるという点も、悲しい話だが、禀の夢なら納得だった。
そんなことを考えて少し落ち込んでいると、星が空に消え、夜が少しずつ薄くなっていく。
「おや、もうじき夜明けのようですね」
儚が言う。禀も笑って返した。
「もしこれが夢なら、君ともここでお別れだ」
これが夢なら朝であろうが夜であろうが、現実の禀の睡眠が覚めるまで続くだろうが、禀には不思議と、この夜が終わると同時に、この世界も終わるという確信があった。
そう考えると、気分も晴れやか、清々しい気分で儚と向き合うことができた。
「じゃあな、儚。いろいろ酷い目にもあったけど、儚と話してる間はまあまあ楽しかったよ。次はもうちょっとマシな夢で会おう」
そう言って禀がひらひらと手を振ると、儚はまったく目の笑っていない笑顔で、禀を見た。
「あら、またわたしと遇いたいんですか?」
「え、ああ、まあそうだな。儚って美人だし」
そんな気障なことを言う自分に驚きながらも、禀はまあ夢だし、とどこか納得していた。
儚はそんな禀の言葉を受け止めて、言う。
「あなたがそう望むのなら、また、きっと会いましょう。一人というのはどうにも絶望的でして」
「はは、まああんな場所に一人でいたらおかしくなるよな」
「ふふ、本当に」
空が白み、星が消え、儚の色が周囲から切り離される。
これが、禀の覚醒のときなのだろう。
最後にもう一度別れの言葉を言おうとして、そこで禀の意識は途絶えた。




