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「生殖」

作者: 佐藤孝太郎


「 生殖 」

卵子提供・不妊治療失敗記


佐藤 孝太郎



「 わたしは体が弱いから たぶんあなたより先に逝くでしょう

あなたは寂しがり屋だから 子供を残してあげるね 」      



二〇〇六年・初秋

アキ子三十八歳・孝太郎三十七歳の初婚同士の結婚式は

海の見えるチャペルで行われた

ウエディングドレス姿の美しいアキ子と披露宴会場の扉を開くとき

幸せの扉も同時に開いたような気がした だが私達が開けたものは

どうやらパンドラの箱だったようだ なぜなら

私達には身を引き裂かれるような苦難が待っていたのだから

そして挙式から瞬く間に三年が過ぎた

地方都市の住宅街にあるモダンな5階建ての不妊治療専門病棟 

少し離れた場所に出産施設も備えたゴシック調の大きな病棟を

構える不妊治療専門の病院の名称には「愛」という名前が冠して  あった  待合室には主に女性が常に大勢診察を待ち その造りはホテルのロビーのようだ やがて名前ではなく番号で呼び出され ひとりひとり診察室に消えてゆく 私達も何度となく受診し 体外受精までのプロセスをこなし そのたびに無表情な受付嬢に

数万円~数十万円を会計で請求されるがままに支払う・・・ 

( 子供が欲しい )

人としての渇望の足元を見るように不妊治療はどれも高額だ

(子供が欲しい)それは渇望であり人をつき動かす最大の動機ではないだろうか そこにビジネスチャンスを見出して群がる医者や 業者の群れが不妊夫婦を容赦なく追いたてて喰らいつくす 連中は皆 笑顔だった 医者も看護婦も薬剤師も漢方医もカウンセラーも  だがその笑顔の裏には患者の金を奪い尽す鬼が潜んでいる 

そのことを厭というほど知ることになる・・

最初は港町のあやしげな中国人漢方医 薦められるまま二万円の

漢方薬と子作りの指導書を買ったが役にはたたなかった

次はアキ子が女医に固執した為 田舎町の産婦人科医を受診した

その女医は「難しい」を連発し 子宮レントゲン撮影のときには  若い看護婦の嘲笑ともとれる笑いが付きそいの私の耳にまで届いた 一通りの診察がすんだあと女医は「子供のいない人生もある」と 的外れなことを言って診療を終了した ―ふざけるな鬼めー

会計で三万円を支払う時には悔し涙がでそうになった

その後おしゃれな街のレディースクリニックの女医さんの元で

一回十万円ほどかかる人工授精を三回したがいずれも妊娠に至らず アキ子の卵管に問題がありそうだとの診断で 不妊治療はより高度な体外受精にうつることとなった

簡単に言えば体外受精は女性の卵子を取り出して試験管内で  男性の精子と受精させ受精卵を作り 培養して細胞分裂させた  受精卵を凍結し その間に女性の子宮の状態およびホルモン値を向上させてから子宮内膜の厚みを計って 七ミリ以上の厚さの時に 受精卵を子宮に戻して着床(妊娠)を目指すもので 通常の着床  までの多くのプロセスを大幅に短縮できる為 妊娠の可能性の高い不妊治療だ ただ費用も保険適用が出来ない為に高額となる 1回の体外受精行程で五十万円以上かかることは珍しくない その大金は成功(妊娠)しても失敗しても病院側には支払われる 病院としてはとりっぱぐれが無いわけだ 子供が欲しい渇望にとらわれた 私達だったが直前で 大金を支払うことを躊躇し 考え 迷った それだけの金を支払っても結果が保証されないのだから・・・

するとカウンセラーという名の誘惑天使が囁く「早くしないと  あなたの卵子はドンドン老化し 妊娠率は下がりますよ」と

四十歳をとうに過ぎているアキ子に真顔で言うのだ・・・

― 患者を煽り 治療に向わせるテクニック ー

卵子は三十五歳ですでに老化して妊娠は困難であることを

私達日本人は学んでいない 生殖教育はタブー視されるか 自然と

学ぶものだと軽んじられている そこに不妊治療ビジネスの連中はつけこんでくるのだ 本来生殖教育は国の存亡に関わるべき重大事項であるにもかかわらず 国の現在の少子化対策は的外れなことばかりしている 少子化を止めるには就学年齢を見直し 中学卒で 社会にでても経済的にやってゆける知識と教養を身に付けさせること以外無い つまりは結婚平均年齢を二十代前半までにすること

が唯一の解決策だ「結婚したい時が適齢期」などと言うことは   亡国の始まりである 学びたい女性は一度社会に出て結婚し 再び社会人教育を受け入れる大学に 再入学できるなどの制度を充実させる事のほうがはるかに有意義だ 皆 真実は教えられず 気づいたときにはもうすでに生殖能力を失っている というのが今日の

少子高齢化 いや無子高齢化の姿だと断言できる 国の今すべき 政策は きちんとした生殖教育を義務教育課程でおこなうことだ  

      ・・・・・・・・・・・・・

 「妊娠してませんね」 3度目の体外受精の妊娠判定日 三十代半ばの男性医師は事務的な口調でこう告げた その乾いた響きは 最後まで私の耳には届かず ただただ顔を伏せ 頭の中では何も 考えられなかった 傍らのアキ子は私とは対照的に明るい口調で 男性医師に「そうですよね」「仕方ありませんね」と笑顔さえも見せていた 私は人目をはばからずに号泣した 悲しかったし 大金を支払った結果がこれかと 情けなくなったからだ「騙された」

頭の中はそのことで一杯だった アキ子はそんな私が自分勝手な男にみえたのだろう、帰りの車の中でふたりになってからは終始   不機嫌だった 落ち込む私を見て 最初に口を開いたのは アキ子だった にらみつけるように私を見ながら非難しだした

「コウちゃんは自分勝手なのよ 生むのは私よ」

「ふたりの幸せの為なんだぞ 俺だって大金を払ったんだ」

「私は別に子供なんか欲しくないわ コウちゃんの我侭なのよ」

「ここまできて それは無いだろうアキちゃん」

ずっと口喧嘩をしながら 私はアキ子がホッとしているような様子なのが妙にひっかかっていた (この温度差は何なのだ)

のちにアキ子が主治医の男性医師に恋心を抱いて        病院のカウンセラーに恋愛相談していたことを知ることになるの だが 知った時にはあまりのことに怒る気力も湧かなかった   二百万円近い大金をむしりとられた上に マヌケなコキュになりそこなった私・・・ もはや喜劇役者でしかなかった

人は自分より格段に優れた人物の行いには寛容である 自分自身が達成できなくとも 「あれは優れた能力を持つ特殊な人物だから 出来たのだ」と自分を慰める だがいわゆる普通の人々が皆 いとも簡単におこなう行為が 自分には出来ないと知ると強烈な劣等感を感じるものだ 結婚すれば当たり前のように子供ができるはず その当たり前のことが出来ないのだ (私は人より劣るのか)

ひりつくような自問自答は 問題解決まで永遠につづく疼きとなる

夜も朝も 絶え間なく私を鋭いナイフが切りつけた

ただ そんな状態だった私が心に留めていたことばがあった

三度目の体外受精失敗の時に付き添いの看護婦の言ったことばが

不思議と脳裏から離れなかったのだ 

それが これからはじまる新たな不妊治療への原動力になる

「卵(受精卵)が弱かったのよ アキ子さんのせいでは無いわ」


・・・・・・・・・・・・・


とある結婚相談所での見合いの席が私とアキ子の出会いだった

当時 車椅子の母と同じく車椅子の出戻りの叔母を抱えていた私は 早急に結婚がしたかった 家庭を持ち落ち着きたかったし 一人っ子長男の背負わされる「家」の重圧もあった だがそんな気持ちになったときには周囲に女ッ気はなく 一計を案じて結婚相談所に 登録した アキ子もOL生活に疲れ 主婦になりたかったようだ  私はアキ子の登録写真を見て(こんな笑顔の女性と結婚したいな)と  漠然と思っていたが 登録する女性は大概 大変な高望みをしているので正直会えるとは思えない・・ ならばと(将を射んと欲すればまず馬を射よ) 相談所の仲人おばさん達に気に入られるべく豪華貢物作戦を開始 数十万円分もの高級デパート贈答品を 仲人おばさん達に送りまくったのだ そして見事アキ子との見合いをセットしてもらった 相談所での初対面 大げさでなく体に電流が走った(運命の女性が現れた)思い込んだら あとは押して押して押しまくって・・・最初の接吻はタコ焼きの味だった

順調な交際がはじまる しかし 嵐の予兆はすぐに現れた 

「私ね 大きなマイホームが欲しいの」デートの時にアキ子が私に

そういってきた 私は軽く「いいよ」などど 婚前の男らしい

 調子のいい答えをしたが これが大変な事態を招くことになる それはそうだ マイホームを購入する気など無い私は(どうせアキ子も結婚すれば忘れるだろう)などと甘い考えでいたのだが 女性は絶対に忘れない生き物である事を 男は忘れていると 後に思い知らされる事となる 結局 結婚に最初に求めたものは

アキ子は「マイホーム」私は「子供」お互いに幸せになる為に必要だと思っていたものが違っていたのだ しばらくして私の家族―

四階建ての小さなビルを建てたことだけが誇りの堅物の父と  

大たい骨を骨折して車椅子生活となった母 十数年前に脳梗塞で 倒れて同じく車椅子生活となった出戻りの叔母  そしてアキ子と私の生活が始まるのだが 想像以上にうまくいかなかったのは 私の見通しの甘さが原因だった そしてますます(子供が居たら  全てうまくゆく)と考えるようになってしまった         

 三度目の体外受精が失敗した直後に 母が亡くなった 悲しみにくれる私に まさかの事態が追い討ちをかけた

アキ子が母の葬式に出ないと言い出したのだ  アキ子には喘息の 持病と人間関係が苦手な軽い心の病があり 恐らくそのせいで

葬式を面倒な儀式と避けてしまったのだろう 昔気質の私は当然

激怒して即座に離婚となった こうして私は「母とアキ子」世界で一番私のことを愛してくれていた女性を二人同時に失ってしまった そしてまた 二人の愛する女性を不幸にしてしまったのだ

 深い悲しみにかられた私は毎晩のように浴びるように酒を飲み

泣いた 人は心の底から哀しい時は 獣のような低い声で唸る様に泣く事を知ることとなる 慟哭である

( 人生に三つの坂がある 登り坂 下り坂 

そして まさかの坂がある )

私がちょうど四二歳の厄年  毎晩日本酒を一升飲んでも 酔えなかったし 眠れなかった 体重は三〇キロ落ちる激ヤセ

友人知人からずいぶんと心配されてしまった ただそれでも

私は頑丈な体を親からもらっていたようで 病に倒れるようなこともなく日々の仕事をこなしていた 倒れたくても倒れられないというのは本当につらいことだ ゾンビやドラキュラの悲しみがわかったような気がした 離婚後のアキ子の消息は不明だった

        ・・・・・・・・・・・

「コウちゃんごめんね ホントにゴメンネ・・・」

離婚してから三ヶ月後のある晩 私の携帯電話にアキ子から電話が掛かってきた 泣き声でよく聞き取れなかったが また私と暮らしたいような内容だった 正式に離婚したのだから もう世話を焼く必要など無いのだが 神様の前で愛を誓った女性を見捨てる事ができなかった 私は様子を見に千葉へと向った アキ子は離婚後すぐ千葉県の道央地区で 中古の3LDKの戸建物件をOL時代の貯金で 購入して一人で住んでいた 千葉県は中古物件が格安だ  物件の安さだけで購入したようだ 周囲は畑の新興住宅地 鹿児島県出身のアキ子には近隣に親類も知り合いもなく 寂しさが募ってしまったのだろう 玄関で久しぶりに私の顔を見たアキ子は

「コウちゃん ごめんね ゴメンネ」と泣きながら私に抱きついてきた アキ子の悲痛な叫びに私の心は引き裂かれた

亡くなった母と元妻 (私はふたりの女性を不幸にしてしまった)

自責の念に苛まれ そして 自分の無力さを痛切に感じ 今までの自分の人生そのものが虚しくなってしまった 結局アキ子は

マイホームの夢を捨てていなかったのだ 家さえあれば幸せになれると思っていたのだ それがたとえ空っぽの箱であったとしても

(そんな所に家を買うなんて・・・ 少し考えればわかることじゃないか)アキ子を知らない人はそう思うかもしれない しかし私にはアキ子の思いがわかる 寒そうだからと買ったばかりのコートを 見知らぬホームレスにあげてしまう 洋風美人の容姿ではなく  そんな純粋な 子供のような心をもったアキ子の内面を 私は愛していたのだと気が付いた 失ってみて初めてわかる事だった

私達はもう一度 やり直す事となったが すでにアキ子は四十六歳 復縁しても子供は望めないだろう だが 私の本心はまだ子供を あきらめてはいなかった そんな私の考えを見透かすように   アキ子は次のオプションを考えていたのだ 「里親制度」だった

・・・・・・・・・・・


里親とは実親が何らかの理由で育てられず 養護施設にあずけられている子供の養育をする夫婦 国から養育費用も里親に支払われる上に 待望の子供も得る事が出来ることもあり 私も乗り気になっていた だが三ヵ月の里親研修の後 手ひどい裏切られ方を体験することになる 仕事を休んでアキ子と座学から養育実習まで

三ヵ月の間(子供がもらえる)と考えて頑張ってきたのだが

研修最終日 女性の児童養護施設の役人に呼び出された二人は意外なことをいわれる「 あなた達には里親の認可は出せません 」

さんざん研修を受けさせ 里親は足りないと教えておきながら

結局 実親の権利が異様に強い イビツな日本の児童養護行政は

我々のような養子縁組希望者を最初から 実親との権利対立を  内包している存在であるとして警戒しているのだ 里親制度には なじまないと養子縁組希望者を排除しているくせに 役人達の点数稼ぎの数合わせに研修だけは受けさせる 温かい家庭の味を里子達に与えるよりも 自分達の責任回避を優先する日本の児童養護施設の腐った役人達 私達はまた 裏切られる結果となってしまった

・・・・・・・・

テレビ画面から信じられない映像が飛び込んでくる 

東日本大震災である その途方も無い災厄に人間は為すすべがなく

あっけなく地域社会が壊されてゆく 人はいつどうなるか

まったく解らない事を思い知らされた ならば後悔しない人生を歩まねばならない・・・そう思った瞬間に 三度目の体外受精

の時 付き添いの看護婦の言ったことばが蘇った

「卵(受精卵)が弱かったのよ」

(そうだ受精卵さえ強ければ アキ子は妊娠するかもしれないぞ)

私はインターネットで卵子について検索し始めた するとタイで「卵子バンク」なるものがあり 登録している二十代のタイ人女性から卵子提供を受け それをクライアントの精子と体外受精させて若く強い受精卵を作り 再びクライアントの女性の子宮に移植することによって妊娠させる方法があることを紹介する会社「ブブンダ」のホーム ページを発見した 男女の産み分けも可能とある   ( これだ! これしかない )

これなら実親となれ権利関係は問題無く しかも私の血縁の子供が得られる アキ子も賛成してくれて 早速 卵子提供の仲介をしてくれる会社に連絡し面談する事となった

・・・・・・・

東京・新宿の古びた十階建てのマンション そのビルの入口を入ると奥に薄汚れた小さなエレべーターが付いていた 案内板を見ると六階にタイでの卵子提供仲介会社の日本支店があった 

支店といっても普通の住居用マンション 嫌な予感はしたがとにかくここまで来たのだ とまれ話しを聞いてみようと私達がチャイムを鳴らすと 中からスーツを着た小柄な二十代前半 長髪の「男性」が出てきて中に私達を招き入れた 玄関先には大きなトランクが 三つほど乱雑に置かれていて その奥の六畳ほどの応接間に   やはりスーツ姿の小柄な二十代後半 短髪の「男性」が座っていた 「私がブブンダ 日本支部代表の上野です」そういって短髪の男性が名刺を差し出すと「日本ゲイ社 代表 上野 健」と書かれてあった そう 彼らは性転換者の元女性でタイ法人の卵子提供仲介 会社「ブブンダ」の日本での窓口だった そして「ブブンダ」の主な業務は日本人の性転換希望者をタイの専門病院に斡旋することで 卵子提供による不妊治療は 実は まだ始めたばかりとの  説明を受けた 上野の態度は終始笑顔で丁寧な口調 好感は持てた

上野の説明ではタイの首都 バンコクに不妊治療専門のエス病院があり そこで移植のスケジュール表が作成されるとの話だった

簡単に手順を説明すると

①まず卵子バンクにアクセスして卵子提供ドナーを選択 

②選択したドナーから卵子を摘出し保存

③渡タイしてアキ子の子宮検査及び私の精液を採取し ドナーの 卵子と受精させ培養 胚盤胞という試験管内で細胞分裂させられる限界 つまり着床寸前の受精卵の状態にして凍結保存

④アキ子の女性ホルモン値をホルモン剤を投与し 数値を二十代 女性と同じ値にする 同時に膣座薬を使用し 子宮内膜の厚みを  十ミリ程度にする

⑤日本でアキ子を④の状態にしたら すぐに渡タイしてエス病院にて凍結受精卵移植

⑥帰国して妊娠判定

大まかに言えば そのような行程だった

「女性の子宮の老化は案外ゆっくりなんですよ」

上野はそう言って 私達を安心させた 上野は戸籍も女性から男性に変更して タイ人の子連れの美しい女性と正式にタイと日本の

両方で入籍したのだそうだ その豪華な日本での結婚式の写真が 飾られていた 幸せそうな上野とタイ人女性 それを祝福する大勢の人々が写っていた 今も仕事で日本とタイを往復しているそうだ

「実は性転換は女性から男性が圧倒的に多くて 七割が 女性から男性への性転換なのですよ 僕らのように小柄な男性として   社会に溶け込めますから 目立たないだけなんですよ」

確かに見た目では 私の目の前の二人の人物は男性にしか見えない

テレビでは男性から女性への性転換者 あるいは女装者が活躍しているので 性転換もてっきり男性から女性のほうが多いと思い込んでいたが よく考えればまだまだ男尊女卑の風潮の残る日本の社会では 女性では生きにくいのだろう (自分の意思で性別をも変える人間が 目の前にいる) 自分の中のちっぽけな常識が崩壊した瞬間だった 上野は話を続けた

「ところで もし妊娠し出産されたとして そのお子さんは日本人であるあなたとタイ人のハーフになりますが そのあたりはお考えですか また遺伝的には奥様とは他人となりますが」

私は信念をもって自分の見解を話した

「この絶望的な少子高齢化の日本では いずれ大量の移民を受け 入れざるを得ないと思います 日本人の純潔種崇拝などあと十数年で崩壊するでしょう 人種など問いません それに日本の法律では生んだ女性が母であり 遺伝的なつながりは問われません

アキ子も了解しております 」

私がまっすぐに眼を見て答えたのに満足したのか 上野は具体的なスケジュールをすぐ話し始めた 

ここからが英語検定三級程度の英語力と数回の短期海外旅行の経験しかなく 収入も十人並みの私と 英語をほとんど話せない専業主婦のアキ子が 中古デスクパソコンとクレジットカードを使って タイの首都バンコクへネットでホテルを確保し航空券を手に入れ  二年の間に四度渡航することとなる 旅慣れた人にとっては「何を大げさな」と哂うかもしれない しかし

私達にとってはまさに 命と未来をかけた大冒険の始まりだった


・・・・・・

上野と面会してからまもなく バンコク・ブブンダ社の浅田アイ からメールが来た 早速 卵子バンクの候補者リストから希望の 卵子提供ドナーを選んでくれとのことで 卵子バンクへのアクセス コードを添付したとの内容だった 卵子バンクにアクセスすると  どの候補者も二十代で 身長 体重 最終学歴 血液型などかなり詳細なデータが添えられていた タイは他民族国家で中華系タイ人も多く データは日本人向けの中華系タイ人の為見た目は日本人である アキ子と話し合い アキ子と血液型の同じドナーを選び  浅田に返信した 二日後に返信が来て ブブンダ社の社長 牛田の郵貯口座にサポート料金と卵子バンク利用代金計 約七十万円の 請求が来る 指示どうり入金して二週間ほど過ぎた頃に 浅田から

「ドナーから採取された卵子は八個」との知らせが届く

私はさらにタイまでのエコノミー航空券二名分 約十三万円と  

バンコクでのホテル代金 7日分 約五万円を牛田社長の口座に 

入金し 採精の為の渡航準備に入った

・・・・・・・・      

二〇一四年 六月  成田発 タイ国際航空バンコク直行便にてアキ子と私は渡タイする 五時間あまりのフライトの後に    バンコク・スワンナプーム国際空港に到着した 南国特有の湿気を帯びた熱気と独特の臭気に閉口しながら 待ち合わせ場所の   ポイント3にカートを押しながら向う 深夜二時にも関わらす大勢の人々が構内におり まるでラッシュアワーのようだ あちこちで

大声や笑い声が聞こえてくる 人種のるつぼに迷い込んだ感じだ

「はじめまして お疲れ様でした 浅田です」ポイント3に着くと予想以上に若い 二十代半ばの タイ人と日本人のハーフの女性が出迎えてくれた 元モデルだと上野が話していた人物だ 空港駐車場に車が置いてあるという 三人で車に乗り込むと 日本の鬼塚 ちひろの「月光」が流れていた その物悲しい旋律は車窓の外の 荒々しくエネルギッシュなアジアの風景とはかけ離れていた 

「この時間帯ならホテルまで 四〇分ほどで着きますよ」

タイは日本と同じ左側通行だった だがその運転マナーは信じられないほどひどいものだ 浅田は高速道路を小型車で常に

百三十キロオーバーで走る 周りの車もそれ以上に飛ばしており

サーキットのようだ 事故が起こればただではすまないと身構えた やがて車はソイと呼ばれる生活道路に入り まもなくホテルに到着した ホテルはビジネスホテルのようで 受付を済ませても 部屋へのベルボーイの案内は無し ブブンダ社が斡旋した若い性転換 希望者の定宿らしい アキ子と私は浅田の案内で トランクを抱えて何とか部屋へとたどり着いた 翌日 カエルの大合唱で起こされ朝食をすませると ロビーに浅田が待っていた いよいよエス病院でアキ子の検査と採精 つまり私の精液を採取するのだ  朝十時にホテルを出発すると早速バンコク名物の渋滞に捕まった 四車線道路をものすごい数の車やバス トゥクトゥクと呼ばれる軽3輪車 バイクなどが スペースを見つけては強引に割り込んでくる 日本で二十五年の自動車運転歴を持つ私だが バンコクで車の運転をする自信は無い やがてショッピングセンターの立体駐車場に到着 エス病院はこの中の十一階にあるという 

エレベーターの扉が開くと そこにはワンフロアを借り切った  想像以上にモダンでおしゃれな待合室のある病院があった 病院というよりは小さめのホテルといったところだ 照明は卵子を   イメージしているのか丸みをおびたデザインで 待合室のミニバーにはコーヒーやクッキー、ゆで卵も無料で置いてあった

待合椅子は座り心地がいいだけでなく 原色を使ったおしゃれな ものだ 患者は世界中から来ているらしく 大概は夫婦二人に  コーディネイターらしき人と三人くらいで腰掛けて 書類を見て打ち合わせしているようだ いろいろな言語が飛び交っていた そこに病院職員と看護士が三十名ほど タイ人らしくおしゃべりしながら働いていた 全員女性だった 到着して さっそく血液検査を アキ子と二人で受けたあと三十分ほどで診療室に呼ばれ 浅田と三人で今回の受精卵移植の主治医と面会した

主治医は二十代後半くらいの若い女医だったが 実績はあるようだ

とても愛想のいい先生で笑顔で私達を迎えてくれた   女医は

先ほどの血液検査の結果が問題ないと伝えた後 隣室でアキ子の

子宮超音波検査を行い これも異常なしとの結果を伝え待合室で

待つように言った この病院の医療レベルは日本よりもはるかに

高く感じた 血液採取の際の注射は まったくの無痛だった

さらに三十分ほど待合室で待たされた後 私の名前が呼ばれた

採精だ 日本では何度も経験済みだった だが異国の地で医療行為とはいえ自慰をするのは男性として抵抗はある 私の名前が書かれた小さなプラスチック容器を手にもって診察受付の奥の採精室に 向う 途中で会った看護士に首をすくめてみせると その看護士は気の毒そうに微笑んだ

その部屋は三畳ほどの広さで窓はなく 何冊かの外国の猥雑本と

エッチなDVDが数本おいてあり テレビとビデオデッキが小さな椅子の前に備え付けられていた (これを見ながらヤレってわけか)

内側から鍵をかけるとおもいきってズボンとパンツを脱ぐ

長旅で疲れきったオットセイとのご対面である 

(人間とは一生懸命に生きれば生きるほどに 滑稽な道化となるものだな 私はいったい なにをしているのだ)

四十半ばのオヤジが異国の病院でこれから自慰をする

(地獄絵図) しばらくして出た精子の量は思いのほか多かった

部屋を出てすぐに精子の入った容器を看護士に渡すと アキ子と 浅田の待つ待合室へと向った しばらく三人で待っていると   そこにパルいう職員が来て山のような英文の契約書にサインさせた後に 大量の薬を渡され支払いを求めてきた トータルで約百万円だった

クレジットカードで支払いを済ませると 

浅田が私達をホテルに送り届けてくれた

・・・・・・ 

採精という今回の旅の目的が完了したので 翌日から帰国までの

三日間は完全にオフとなった 

「アキちゃん どうせこの次バンコクに来るときは遊びにいけないから どっか行こうか」

「そうね じゃビーチに行きましょうか」

私達は旅行会社に頼んで バンコクから一番近いパタヤビーチに

送迎付きで出かける事となった 朝十時にホテルに迎えの

ワンボックスカーが来た 運転手はタイ語のみしかしゃべれず

もうひとりガイドの男が 英語で車窓の風景を解説してくれた

タイの道路事情はバンコクの中心街を抜けると 渋滞はほとんど

無くなるのだが そのかわり舗装の状態も凸凹だ

そんな道路を体感百五十キロくらいの猛スピードで突っ走るのだ

アキ子は笑っていたが 私は生きた心地がしなかった

途中トイレ休憩をはさんで2時間弱でパタヤへ到着した

不思議と誰も泳いでおらず ビーチベッドで寝ている人ばかり

ガイドに聞くと生活排水などで汚れていて 泳ぎには適さない  

そうだ 凸凹道に揺られて頭がボーっとしている しばらく歩いて

いると 海遊びの売り子おばさんがしつこく勧誘してきた 

こういうところの売り子の販売テクニックはすごいものだ 

結局 パラセイリングやバナナボートなどやることになる 

アキ子は無邪気に喜んでいた

パラセイリングとは大きなパラシュートをつけて 海上に浮ぶ

櫓の上からワイヤーでつながれたモータボートに引っ張ってもらい

空中散歩を楽しむものである パタヤビーチから櫓までボートに 

乗せられ 到着すると あっというまに安全ベルトを締められた

「アナタ 何人?」カタコトの英語で作業員が聞いてくる

「ジャパニーズ」と私が答えると作業員は笑いながら日本語で

「ハシレ シャチョウさん」という するとすぐに強烈な力で

櫓の上から海上に引っ張られた 私の着けたパラシュートは 

風を含んでみるみるうちに上昇する 眼下には先ほどまでいた

パタヤビーチが 広がっていた

アキ子が櫓の上から私の写真を撮っているのが見えた

( なんだかなぁ・・・ )

パタヤの空はどこまでも青かぅた

・・・・・・

帰国した後は 定期的にブブンダ社の浅田からメールが来て

受精卵の状況を知らせてくれた 試験管の中でタイ人女性の卵子と

私の精子を受精させると 細胞分裂がはじまり やがて着床

つまり子宮内膜に受精卵がつく直前の状態である胚盤胞という

状態にまで到達したところで凍結保存するのだ

受精卵が胚盤胞になるには約一週間ほどかかる

私の受精卵は結局 六個が胚盤胞になる前に細胞分裂が止まり

順調に育った二個を凍結保存することとなった 凍結前に

受精卵はグレード つまり出来の良し悪しを判別され 私の受精卵

のグレードは二個とも4BB 良質の受精卵と判断できた

そして驚くことにタイでは着床前診断がごく普通に行われていた

着床前診断とは 受精卵に染色体の異常がないかどうかを調べ

染色体異常があれば すぐさま排除してしまうのでダウン症などの

障害児を未然に防げる医療技術である  日本では命の選別につな

がる恐れがあるとのことで行われていないようだが 

ダウン症患者の団体が医療行政に圧力をかけているとの噂もある

障害を持ち一生苦しむのであれば 最初から誕生させないという 

のも ある意味 慈悲の心と思う私の考えは間違いなのだろうか

そしてそれが出来る医療技術のある我が国で 着床前診断が禁止

されているのは理解に苦しむところだ

そして男女産み分けだがこれにはからくりがあった 私は

希望すれば男の子でも女の子でも授かると思っていたが

そうではなくて 受精卵の性決定染色体XとYを調べて

どの受精卵が男子になるか女子になるかを判別し男子のXY染色体

を持つ受精卵を子宮に移植すれば男子に 女子のXX染色体を

子宮に移植すれば女子になるという仕組みだ つまり男子

を望んでも移植する受精卵群の中に男子になる卵が無ければ無理

というわけだ 今回私の受精卵は2個ともXX染色体 つまり

女の子だった

・・・・・・・

タイで受精卵が凍結保存されたのをうけて 日本での

アキ子の移植準備がはじまった ブブンダ社の浅田から

今回の移植スケジュール表が送られてきた

①次の生理が終わった後 一ヶ月後にピル服用開始

一日一錠 二十一錠

②ピルを飲み終わって五日ほどで次の生理 生理開始から

ホルモン剤のイエストフェム服用 一日一錠

③ ②から二週間後に膣座薬クリノン毎朝一本 ホルモン剤の

ウトロジェトラン寝る前に一錠服用

④ ③から四日後に渡タイ エス病院にてアキ子の血液検査と

子宮内膜スキャン

⑤ ④の翌日に受精卵の子宮内移植手術

⑥ ⑤から三日 バンコクで安静に過ごした後 帰国

⑦帰国一週間後に妊娠判定

といった行程だった 私は早速ブブンダ社社長・牛田の口座に

アキ子の負担を考えて行きはエコノミークラス  帰りはビジネスクラスのタイ国際航空の搭乗券 二十二万円を支払い 今回は移植後の静養も考えて前回宿泊したビジネスホテル近くの  ヒルトンホテルを中古デスクパソコンから予約した Aネットという外資系のホテル予約サイトからだった 料金はクレジットカードで精算したが十五万円ほどだった (これでバンコクで移植できる)

ところが、ここで困った事態がおこる アキ子の生理が来ないのだ

生理とは古くなった子宮内膜が剥がれ落ちる現象だが 加齢により

不順になる場合が多い アキ子も年齢からくる生理不順だろう

困ったことに ネット予約の航空券もホテルもキャンセル出来ない 私はアキ子に相談した このままだと金を捨てるようなものだ

アキ子は片っ端から産婦人科に電話し とうとう一件の病院を

見つけてきた 私達は早速 診察に行くこととなる

・・・・・


JR駅から徒歩十五分ほど 薄汚れた陰気臭いレンガのビルの二階

エレベーターの扉が開くと古臭い作りの病院が現れた 受付をすませて 誰も居ない待合室にいると しばらくして診察室に呼ばれた

中にはいると大きな机の前に 明らかにカツラとわかる六十代後半の男性院長が座っていた タイでの卵子提供の話しをすると

「では生理をおこし 移植までに内膜を厚くすればいいんだ」と

なまりのある日本語で答えた 日数もせまり 航空券やホテルも

キャンセルできない私達は このカツラの院長にすがってしまった

あとになって とんでもない医者であったと後悔することになる

数日後 カツラの院長が出したクスリで アキ子に生理が来た

これで強い味方が出来たと喜んでしまい タイの移植スケジュール表を完全に無視してしまった 渡タイ二日前 カツラの院長に

子宮内膜を測ってもらうと八ミリあった

「これで移植も上手くいくだろう」院長は笑顔を見せた

このときすでに 10

このときすでに 十万円が院長の懐に入っていたのだ

看護士達も皆笑顔だった 今日も病院の待合室には他の患者は

いなかった


・・・・・・・・・

二〇一四年 八月 私達は再び受精卵移植のため渡タイした

ところが信じられないことが起こる バンコク到着翌日に

エス病院にてアキ子の血液再検査 ホルモン数値を測るためだ

妊娠するには女性ホルモンのE2とプロゲステロンの数値が重要になる アキ子と私 浅田の三人は血液検査の後 女医の待つ診察室に呼ばれた 女医は笑顔で話しかけてきた 浅田が通訳すると

「ホルモン数値が移植レベルに達していないので 今回は受精卵の移植はできません」という話だった ホルモン値は両方ともに一桁だったのだ 子宮内膜も隣室ですぐに測られた こちらは八ミリで移植基準をクリアしていた 私がカツラの院長のクスリを女医に見せたら これはホルモン剤ではなく ただ生理を起こすクスリだと教えられた 私は顔面蒼白になり 呻くように

「ショックだ」と呟いた それを聞いた女医と看護士は ケラケラと笑い出した (なにがそんなに可笑しいんだ)アキ子も浅田も

つられて笑いだした 私以外は 皆笑顔だった

こうして二回目の渡タイは大失敗となる


・・・・・・・

男性というのは自分勝手に計画を立て 結果のいかんにかかわらず

成し遂げようとする傾向にある 私も例外ではなく なんとしても

受精卵移植にまでこぎつけようとあせっていた やがてブブンダ社の浅田から また移植スケジュール表が送られてきた 今度の移植日は 十一月下旬だった 前回の失敗から 航空券とホテルは自己手配し 仕事の休みだけあらかじめ予定しておいて アキ子のホルモン値が 移植レベルに達したと日本での検査結果がでるまで  実際の航空券やホテルの支払いをしない作戦をとった 

二〇一四年 十一月上旬

前回どうりにホルモン剤を飲みながら 東京の即日 E2の血液検査のわかる クリニックを探し 一回一万円以上を支払ってアキ子のE2 の値を計測する 結果は百四十だった 浅田に連絡すると 低すぎてこれでは移植できないという返事だ 結局 渡タイは延期になり私のフラストレーションは溜まる一方だった 今にして思えば男性特有の我侭だったと反省している 計画しても思いどおりにいかないことへの苛立ちなのだ しかし 本来不妊治療の主役は 女性なのだから女性の体調に合わせて計画をたてなければいけなかったのだ 私は傲慢になっていた

・・・・・・・


十一月下旬のある晩のことだった

「オイ 起きろ」野太い男の声で眼が覚めた まだアルコールが 体内にタップリと残っているのがわかった 眼をこすりながら声の

主を見ると 熊のような体格の男性警察官だった 六畳の寝室にはもうひとり中肉中背の男性警察官がいる ふたりとも黙ってこちらを見ていた 何がなんだかわからない私の耳には 隣のリビングから女性警察官らしい人物に 涙ながらに訴えているアキ子の声が 聞こえてきた それと同時に焼け焦げたような異臭が鼻をつき

周囲を見回すと 私の枕元が燃えて真っ黒になっており 襖には

刃物で切られたような後ができていた どうやら渡タイが延期となり不機嫌な私は ワインを一本丸ごと空けて酔いつぶれてしまったようだ アキ子はそれが自分を責めているように感じて 酔って 寝ている私を無理やり起こそうとしたところ 記憶は無いが 私が抵抗したらしく お互い武力衝突してしまったらしい 

アキ子がホルモン剤の副作用でイライラしていたのも原因だろう 

寝室で私を監視している男性警察官は アキ子の意向によっては 私を連行しようと待っていたのだ 幸いアキ子も非を認めたため 警察官達はアキ子にドアチェーンをして私を部屋に入れないよう 指導し引き上げていった 私は一晩寝巻きのまま 漫画喫茶に    泊まることとなる 最悪だ 本当に最悪だった

( 家庭崩壊 )不妊治療どころではなくなってしまった

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それから三ヵ月が過ぎた アキ子と私は何度も話し合った結果

不妊治療を継続することになった  久しぶりにブブンダ社・浅田にメールし ホルモン値のことを相談すると  エス病院から良い貼り薬とホルモン注射を送る 三万円ほど掛かると返事が返ってきた しかも通常の貨物郵便では高高度飛行の際に凍り 薬剤がだめになってしまう為 日本支部の上野が タイから旅客便で機内手荷物として運ぶという 運び代金は十万円だそうだ 

薬代代金と運送料で十三万円 !

( 完全に足元を見ているな ) 悔しかったが従うほか無い

ここで中止すれば 今までの治療がすべてふいになるのだ

メールしてから十日後の夜 スーツ姿の上野と自宅近くの    ファミレスで落ち合い クリメラパッチ十枚とエナントワン0.35gと書かれた注射器を受け取った その後 私の方から上野を居酒屋に誘った ( 酒に真実あり )どんな人物なのか興味もあったし

不妊治療を続ける為にも 味方は多いほうがよいと判断したからだ

上野は酒が入ると饒舌に 自分の生い立ちを語りだした

「彼」は金持ちの多い東京・港区に生まれたが 両親のギャンブル癖により実家は極度に貧しく いつもタライに水を張り体をあらっていたそうだ 極限の貧しさと自分の性への違和感で何度も自殺を図ったそうだ そして中学生のとき義理の父親をぶん殴り

実家を飛び出して水商売をしながら金をため ブブンダ社・社長の牛田のサポートでタイの性転換専門病院で性転換したのだそうだ

実の母親は現在七十歳だが 愛人の男性が三人いるという

壮絶な生い立ちを しかし 笑いながら上野は語った

「 ところで結婚した美人のタイのお嫁さんは日本に慣れたかい すごい美人でびっくりしたよ お子さんも元気かい 」

私も努めて明るい口調で話した 上野と結婚した女性は再婚で  三歳の女の子がいた 生殖能力の無い上野は実子を授かるのは  不可能な為か 嫁の連れ子の女の子を可愛がっていた 

「 ああ、嫁さんとは正式に別れました 」

タイ人の若い女性が日本人との結婚で一番求めるものは 金である

若い上野にはまだ 財力が無かった上に 嫁と連れ子を残して日本とタイの往復が仕事上 多かったためすれ違いになる 寂しさも手伝って新宿の事務所兼住居からタイへ逃げていったそうだ 上野の元嫁はその後 バンコクで深い水商売の道に入る 現在 日本人とタイ人合わせて愛人の数が二百人はいるという 

だが上野が一番許せなかったのは 元嫁が子供の養育に熱心でなかったところだそうだ ネグレクトの連鎖だった

「 ものすごい数の男どもに寝取られちゃいました 」

明るく笑う上野だったが 一時は食欲不振で体調を崩したそうだ

( 君は試練を乗り越えた一人前の男だよ )

私は目の前の小柄な男性に心の中で敬意を表した

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ブブンダ社の浅田から再度 受精卵移植スケジュール表が送られてきた 今回はホルモン注射とホルモンパッチで アキ子の女性   ホルモン値をかなり大幅にあげる予定だ ただ 気がかりなのは

度重なるホルモン剤の服用で アキ子も体調を崩し始めていることだった つらそうにしているアキ子 だが私は不妊治療を中止しようとは露ほども思わなかった 私の心は徐々に変質する   妊娠至上主義になり不妊治療に傾倒してゆく私は その後も薬剤の副作用で苦しむアキ子を見てもただ強引に移植スケジュールを推し進めたのだ 惜しみなく時間と資金を費やして盲進した

( 子供を授かることがアキ子と私の幸せなんだ)

固くそう信じて疑わなかった私 心が壊れ始めていた

今回も生理から一ヶ月後にピルを二十一日間投与 違いは

①ピル投与十三日目に エナントワン3,75mg注射を自己 注射 (ホルモン注射)

②ピル服用終了後 次の生理開始直後にイエストフェム1日三回服用 あわせてクリメラパッチを下腹部に2枚貼り付け

③②の2週間後 日本の医院でホルモン値と子宮内膜を測る

今回はこれまで以上のホルモン剤の投与で 浅田からも

これで数値が上がらなければ移植は無理かもしれない と

いわれた背水の陣だった 数値計測日に都内のクリニックで

アキ子の血液検査をしたところ 女性ホルモンE2の値は七百を

越えており 医師は「二十代の女性の数値だ」と驚いていた 内膜もこの時点で七ミリを越えて 今回こそは受精卵移植可能だと確信した このデータは浅田へも連絡し 浅田からエス病院の女医さんに転送され 実際に女医さんの渡タイ許可も下りた

今回も自宅のパソコンから自己手配する 何せ移植日まであと

十日しかないのだ 航空券を押さえられなければすべてふいになる

タイのローシーズンだったことも幸いして なんとか

中華航空のビジネスクラス 羽田からの便を押さえることができた費用は十五万円ほどだった ホテルもヒルトンを予約できた 

全てはアキ子と卵子のために いや そう思っていただけで本当は私自身の為だったのかもしれないが とまれ 大げさでなく命がけの思いで渡航準備したのは確かだった 

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二〇一五年 六月 私達はバンコクへ出発した

アキ子は自分が今回の主役だというのに 受精卵移植手術について

私ほど思いつめていないようだ 中華航空機での渡タイは

トランジットで台北の桃園空港に立ち寄り その際ビジネスクラス

以上の客には 特別待合ラウンジがあるのだが そこで提供される点心や飲み物をいたく気に入り 本当に無邪気によろこんでいた 

そしてタイ・スワンナプーム国際空港に深夜到着 ポイント3で

ブブンダ社・浅田が前回どうり待っていた ヒルトンホテルへ向う

「月光」の曲が流れる車中 アキ子が浅田に話しかけた 

「 私達のほかの卵子提供での不妊治療のご夫婦はどうしましたか 成功したんですよね 」

浅田は無表情に 今までの態度と百八十度違う態度で

こう言い放った

「 ダメだったようです 連絡が途絶えてわからないですね 」と 

いともあっさり 他の夫婦の不妊治療結果の前言を翻した

当初とあまりにも違う 浅田の発言だった

( 何かおかしいのではないか )心にかすかに不安がよぎった

(浅田も不妊夫婦を喰らう 鬼のような業者の手先ではないか)

この疑念は徐々に 確信へと変わっていく

翌日 アキ子の検診と 血液検査の為にエス病院を訪れた

今日も世界中からの患者で 豪華な待合室はにぎやかだった

やがて私とアキ子 浅田の3人は結果を聞きに女医の待つ診察室に向った 着席するなり女医は笑顔で

「 受精卵移植はOKですよ 」と言いながら アキ子のホルモン値を指差した そこにはE2 百四十という数値が書かれてあった

私が浅田に「女性ホルモン値が低すぎませんかと通訳してください」

といって女医に聞いてもらうと 女医は①膣座薬クリノンとホルモン剤ウトロジェトランを服用すると女性ホルモン数値は下がる事

②あまり女性ホルモンの数値が高いと受精卵を移植しても着床

すなわち妊娠しない事 を丁寧に説明してくれた

「 明日 多胎を避けるため 受精卵を一つ移植します 」

アキ子も 女医も 看護士も 浅田も笑顔だった 今回は私も笑顔だった (明日 私達夫婦の悲願がかなう) そう思い込んでいた

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翌日は快晴だった 朝十一時にエス病院に到着すると 早速 

アキ子は診察室に連れて行かれた 後で聞くといろいろ薬を飲まされたり 痛い注射を打たれたそうだ 受精卵の移植準備らしい

浅田はアキ子の付き添いのため 私のそばを離れた こうなると 男性は待つ事以外に 何もやる事が無い 世界中の言語が飛び交う待合室で ただコーヒーを飲み クッキーをつまんで時間を潰した

二時間ほどして 手術が始まるからと浅田が呼びにきた

病院のフロアの別区画にあるその手術室は クリーンルームらしく白衣に使い捨てビニール帽子を被らないと入室できないそうだ

着替えて手術室手前のウエイティングルームで一人で待っていると 

妙に作り笑いの満面の笑みを浮かべた 六十代くらいの中国人のような外見の男が 愛想を言ってきた エス病院の院長だ

儲かりすぎて笑いが止まらないんだろう 

私は笑顔で答えながら( 不妊夫婦を喰らう鬼め )と心の中では罵っていた やがて浅田が来て 私を手術室に招きいれた

そこは十畳ほどの広さで 心電図計測器や医療器具が置いてあり

女医と二人ほどの女性看護士 浅田が白衣に身を包み 中央の  手術台に寝かされているアキ子を見守っていた アキ子は麻酔なしのようで意識もはっきりしており 緊張もしていないようだ

ベッドの横のモニター画面には これから移植する肺盤胞受精卵の拡大映像が移され 丸い卵子本体から触手のようなものが出ているのが はっきりとわかった どちらかというとグロテスクだ

女医は細い管の先で受精卵を吸い込み次に開脚させた

アキ子の膣へ管を挿入させ 受精卵を子宮内膜のど真ん中に

そっと置く その一部始終がモニターに映し出されている

受精卵はきらめく星のように内膜という大地に舞い降りた

このあと受精卵はまるで自らの意思があるかのように 居場所を求めて内膜という絶壁を登り着床するのだ いつ どうやって受精卵が着床するのか 詳細については現代医学をもってしても解明されていない 私は祈るような思いで手術の一部始終を

見つめていた やがて移植が終わると女医が私の傍らにやってきて 私の手を握り眼を見つめて こう言った

「 グットラック 」 飛び切りの笑顔

( えっ ここまできてあとは運次第なのかよ )

いやな予感が一瞬走ったが 手術台で横になっているアキ子を

思い 女医には最敬礼して礼を述べた 私は浅田に促されて手術室を出て いつもの待合室へと向う アキ子は別室にストレッチャーで運ばれ 点滴や注射を受けるそうだ 浅田もアキ子に付き添った

二時間程 コーヒーを飲んだり雑誌を見たりして待っていると

アキ子と浅田 そして会計係のパルがやってきた 受精卵移植費用は個数に関わりなく ブブンダ社ホームページの事前説明では  日本円で約十五万円ほどだったが 実際の請求は三十万円ほど どうやらブブンダ社にキックバックする料金が加算されたらしい

のと 妊娠してからも使用する膣座薬クリノンや各種のホルモン剤の薬代がかさんだのだ(アキ子が妊娠するなら費用は惜しまない)クレジットカードで気持ちよく支払った 私達はすぐエス病院をでて 浅田の車でホテルに戻り三日間自室で安静にしてから帰国する

帰りはすごかった 航空会社のカウンターへエス病院の女医が

書いてくれた 移植証明書をEチケットとパスポートともに提出 すると バンコク・スワンナプーム空港から台北まではビジネス クラスだったがトランジットしたあとの台北・桃園空港から日本・成田空港まではファーストクラスに格上げされた さらに アキ子には各空港で職員が一名付き スワンナプーム・桃園・成田空港内は全て車椅子移動 出入国手続きまでアキ子は車椅子で受ける事となる 航空会社の患者保護規定は徹底していた  中華航空での旅は快適だったが 妊娠のプレッシャーがかかったアキ子は 終始不機嫌にだまりこんでいた そして私もこのあと妊娠判定日までの間 苦しむこととなる

・・・・・

帰国すると日本では タイでの日本人御曹司による代理出産問題が

新聞をにぎあわせていた なんでもその御曹司はバンコクで大勢の代理母を雇い 自分の子供を十数人も出産させたとして タイ警察に拘束されたとのことだった 結局彼は釈放されて 日本に帰国したが このことでタイ議会は外国人の卵子バンク利用を 法律で

禁止してしまった 幸い 私達の場合はすでにエス病院に 受精卵は凍結保存されているのでその分については大丈夫だが

そこで失敗すれば 2度と卵子提供は受けられなくなったのだ

御曹司の薄汚い欲望の為に世界中の不妊夫婦の希望が絶たれてしまったのだ

( こいつも鬼だ 罪深い 唾棄すべき鬼だ )そう思ったが

もはやどうしようもない ただ今回の移植成功を願うばかりだった

妊娠判定日までの過ごし方は ネットで調べても 本を読んでも

( 女性はストレスなくゆっくりと過ごす しかし 適度の運動はしなさい )などと抽象的な文言が多く どう過ごせば絶対着床 するというような具体的な方法論は無かった 着床のメカニズムは

今だに解明されていないのだ アキ子も私もどうすれば移植した

受精卵が着床するのかわからないままに 苛立ちばかりが膨らんでいく アキ子も相変わらす膣座薬クリノンと 多量のホルモン剤を服用しているせいか 体のむくみも酷く感情の起伏もかなり激しくなった 夫婦間には険悪な空気が流れる

だが私はこの不安と苦しみの先に 私達夫婦の幸せがあると 

信じていた しかし この思いは見事に裏切られる

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アキ子も不安だったのだろう 帰国後の五日目に妊娠検査薬を買い   フライング検査をしたのだ 結果は真っ白けの陰性 すぐさま  バンコクの浅田に連絡すると 浅田は 「 早すぎる 」の

一言だった そこで私達は 二週間後の妊娠判定日に 都内の

有名デパートの中にある女性クリニックにて判定してもらうことにした 当日 男性は立ち入り禁止なので アキ子のみ受診する

そして診察後に結果を聞くが 内容はショッキングなものだった

 すぐ尿検査を行い陰性がでてしまったのだ 担当した女医が

「子供がいればそれだけ あなたは消耗するのですよ パチンコのように次から次へと受精卵移植にのめりこむのは やめなさい」

と諭したそうだ 医師としての良心からの忠告だったのだろう

だが私は報告を聞くと 呻くように

「 失敗だ 」と言いその場で頭を抱え込んだ 大金をつぎ込み 仕事を犠牲にし ただただアキ子の妊娠を願ったのに・・・ 

アキ子が膣座薬クリノンと各種ホルモン剤の服用を中止すると

数日後に生理がやってきた

・・・・・

深夜 誰もいない事務所のデスクで私は頭を抱えていた

( これからどうすればいい )

今回の受精卵着床失敗を受けて私は戸惑い 迷った

まさか二十代の女性の卵子提供を受けて着床失敗するとは想定外

だったからだ 資金もかなり費やした これからも受精卵移植を 続けるかどうか迷った そんな時にどこからか声がした

( あきらめては今まで費やした資金と時間は無駄になるぞ )

― そうだ 声の言うとうりだ ―

( アキ子のホルモン療法の苦しみなど気にするな 子供ができれば全て解決だ ふたりのためなんだ )

― そのとうりだ ―

( 子供が居なければ 私達一族は無縁仏となるぞ )

― ご先祖様に申し訳ない ―

声が消えたと同時に 私は最後の受精卵移植を決意する

残りの全ての資金を投入して運命に最後の反撃をするのだ

私は高揚感に包まれた ふと見ると事務所の窓には底無しの漆黒の闇が広がっている  誰もいない事務所 私は独りだった 

・・・・・・・

前回同様 ブブンダ社の浅田から移植スケジュール表が送られてきた アキ子には再びホルモン剤投与の副作用が待っていた

今回も生理から1ヶ月後にピルを二十一日間投与 違いは

①ピル投与十三日目に エナントワン3,75mg注射を    自己注射 (ホルモン注射) 

ここまでは前回どうりの行程だったが ここからが少し違う

②ピル服用終了後 生理開始 その直後 クリメラパッチを  下腹部に2枚貼り付け そして アキ子の膣に直接 ホルモン剤のイエストフェムを一日三回挿入せよとの指示だった      ( これが後に酷い苦痛をアキ子に与えることになる ) 

③の2週間後 日本の医院でホルモン値と子宮内膜を測る

④女性ホルモンE2が想定の数値に達していたら エス病院から渡タイ許可が出て 膣座薬クリノン毎朝1本と就寝前に     ウトロジェトラン一錠を服用する

⑤④の四日後に渡タイし翌日 血液検査と診察

⑥受精卵移植手術

⑦術後安静にして3日後に帰国

⑧一週間後に妊娠判定

といった行程だ アキ子は移植スケジュール表を      忠実に守って ホルモン数値を上げるべく努力していた 行程を進めるにつれて恐れていた副作用が現れた

本来飲み薬であるイエストフェムを膣に入れたため     膣カンジタとなり猛烈な痒みが発症したのだ だがそれでも 女性ホルモン値を上げるべく アキ子は膣への挿入を続けた             

そんなアキ子を見て 私はホルモン剤の投与を中止したほうがよいのではと考えたが すぐに耳元で何者かが囁く

― 犠牲を払ってでも突き進め 今しかチャンスはない ー

( そうだ 今しかないのだ 私達夫婦に時間は無い )

私は尋常な精神状態ではなかった 仕事も金も時間も犠牲にし  アキ子の身体をも捧げて 異国の「神」に子供を求めたのだ  から 私は昔学んだ古典の一節をおもいだしていた

 狂人の真似とて大路を走らば すなわち 狂人なり 

・・・・・・



                                          

  

アキ子の血液検査と子宮内膜スキャンの日がやってきた 私達は

再び都内の有名デパート内にあるクリニックを訪れた  即日検査結果が判明し なんとアキ子の女性ホルモンE2の値は千を超えていたのだ 内膜の厚みも8ミリを越えていた 私はすぐ携帯電話で バンコクの浅田に結果を連絡すると 夕方 浅田より主治医から 渡航許可がおりたと知らせが届いた 私達は今度こそ妊娠できると期待に胸を膨らませて 渡航準備に入った

資金の枯渇してきた私は中古デスクパソコンを駆使して格安航空券を手配した 費用はハイシーズンの為エコノミークラスでも   十三万円ほどかかった ホテルは最後の受精卵移植だと考え前回と同じヒルトンホテルにした トイレの流れが悪いのが玉に瑕だが アキ子が気にいっていたせいもある

二〇一五年 十一月 冬の足音が近づく早朝 私達は羽田空港へ レンタカーで出発した 今回は中国国際航空・北京でトランジットしてタイ・スワンナプーム国際空港へ向う これが地獄の航程だった 北京に到着すると 一面雪景色だったのだ バンコクの南国の気候を考えて 私は夏用背広姿 アキ子も薄手の服装だった 

北京の国際空港はだだっ広く 暖房設備は整っていなかった上

あちこち外界につながる大きなスペースがあり寒かった

寒さに弱いアキ子は特に不機嫌になり 私はレストランを探して 空港内を走りまわった しばらくしてアキ子のいる待合から三〇〇メートルほど離れたところの中華レストランを発見し  乗り継ぎまで避難することにした ところがレストランに入ったものの  寒さは先ほどまでの待合と同じで暖房はやはり無い しかたなく

たいして美味くもない タンメンらしきものを二人で注文し 時間を潰してから会計をすると 小柄でしわくちゃの顔をした女店員が 無表情な顔で英語で

「 五千円です 」 と言って来た

(そういえば中国に留学体験のある人が 「中国を知れば知るほどキライになる」と言ってたな )

会計を済ませて 出発ゲートに向うと 二時間遅れの表示が出ていた 仕方なくまた 寒い待合に逆戻りだ やがて二時間が過ぎ 

再び発着ゲートに行くと 今度は一時間送れの表示 計三時間遅れ

私は近くにいた中国国際航空の地上職員の女に どういうことか

英語で説明を求めると 答えは

「 この便は遅れるということです 」 の一言

詫びるでも 気遣いを見せるでもなく あっけらかんとしていた

個人の感想だが 間違いなく世界最悪の航空会社だと断言できる

やっと乗り継ぎ機は出発となり  出発ゲートから大型のリムジンバスが次々と滑走路へ向かって行く すぐに私達の前に

オンボロの双発ジェットが降りしきる雪の中から現れた

( 南無阿弥陀仏 )

心の中で思わず経を唱えてしまった アキ子は相変わらず寒さの為

不機嫌だった 売られていく豚のように搭乗客がオンボロの機体に詰め込まれ CA達が怒ったように救命器具の説明をしだしてから機体が滑走路に向って動き出した 最悪だ

「 コウちゃん 墜落するときってどんな気持ちなのかな 」 

機内が暖かいせいか 笑顔になったアキ子が私に話しかけてきた

( ・・・・なんだかなぁ )

私は困った顔をアキ子に向けた後 すぐ前席のアラブ人らしい男の 禿頭を凝視した 降りしきる雪の中 飛行機はゆっくりと離陸した 波乱の予感が 私の心に湧き上がった

・・・・・・



私達を乗せた中国国際航空はバンコク・スワンナプーム国際空港へ

四時間遅れで到着した 深夜三時 カートを押しながらいつもの ポイント3に行くと浅田が待っていた

「 申し訳ない 飛行機が遅れてしまって 」私が詫びると浅田は

「中国国際航空はよく遅れるんですよ」と笑顔で話し早速 

私達を自分の車を止めてある空港駐車場へ先導した 駐車場に出たとたん 深夜三時だというのに肌にまとわりつく熱気とじめじめとした湿度に閉口させられる タイに来たのだと実感した

浅田の小型車に乗り込むと また鬼塚ちひろの「月光」がかかっていた 外の風景とは対照的な物悲しい旋律を聴いているうち 以前浅田と雑談したときのことが思い出された タイ人と日本人のハーフの浅田は幼少の頃日本で暮らしていた 中学高校と日本中を親の都合で転々としたそうだ 堅苦しい日本社会になじめなかった  浅田は渡タイしてブブンダ社の牛田社長に出会い 性転換希望者のサポート業務についたそうだ 浅田自身は性転換者では無かった 車内には性転換の為のプロセスが書かれた冊子が無造作に置かれていた 性転換希望者は卵子提供による不妊治療患者より かなり 長期の滞在を強いられるらしい 資金もかかるだろう 性転換希望者達もやはり「月光」の物悲しい旋律を聴きながら ホテルや病院に送られるのだろう 私は以前から 訪れるたびに高層ビル群が増え人間の通行より自動車の通行が優先されるワイルドでエネルギッシュなバンコクに暮らす浅田が なぜこの「月光」という曲を好むのかが不思議だった もっとアゲアゲの曲の方がアジアの熱気には

合いそうなものだ だが何度か渡タイしているうちになんとなく

浅田の心境が理解できるようになった 「月光」の歌詞の内容は

自分の望まぬ場所に追い落とされた者の悲哀だ いわば疎外感を 常に感じながら自分の本当の「居場所」を探す者の嘆きと悲しみを歌った曲なのだ 浅田も昔 日本社会に馴染めず疎外感を抱えていたのだろう おそらく性転換希望者達も自分の性に疑問を持ち言い知れぬ孤独を味わっている かつての上野のように自殺を図る者も多い 辛い過去を持ち傷つきながらも自分の「居場所」を掴む為  決死の思いで渡タイした者達を癒すことのできる曲は 自分達と 同じ境遇の主人公の心情を歌い上げる「月光」なのだ 不妊夫婦も「子供が出来て当たり前」の日本社会でつらい思いをしている

「子供はいつなの」「お子さんは」といわれるたび 笑顔ではいるが内心は穏やかではない 疎外され傷ついた者達が命を賭けて  「居場所」を求めて海を渡るのだ 差別され疎外された人々が自殺を考えざるを得ない社会ならば社会の側が間違っている 

(人間の思いは皆同じなんだ)空港からバンコク中心部のホテルへ向う高速道路を浅田は相変わらず猛スピードで飛ばしていたが  私はもう怖くはなかった アキ子は何故か不機嫌そうだった

・・・・・・・・・

ホテルに到着した翌日 午前十時 浅田の車に乗り込んだ私達は  BTSと呼ばれる都市交通電車の高架下の四車線道路をエス病院へと向っていた 運転席の浅田から今まで主治医だった女医が病院の方針と合わずに別の病院へ移った事 新しい主治医は男性医師である事を告げられた 私は後部座席から浅田に努めて 明るい口調で医師が変わっても気にしない旨を伝え 私の隣で相変わらず不機嫌なアキ子を無視して 車窓に流れるバンコクの街並みなどどうでもいいことをペラペラと浅田としゃべっていた  

バンコクは相変わらずの交通渋滞でスペースを見つけては右から左から割り込み合戦 走行中のバスも錆付いていて壊れそうだし

車道や歩道など交通インフラも凸凹道が多く酷いものだが

そんな熱気と喧騒のバンコクの方が整然とした東京よりも人間臭くて好ましく感じるようになっていた

( 社会のルールも規範も家族制度も法律さえも 自分以外の

誰かの都合だ 誰かの枠の中で生きるから息苦しくなるんだ   バンコクに暮らす人々は自分の為に生きている 怠惰と無責任と 混沌こそが人間の本性なんだ ) 

車窓に流れる薄汚れた屋台の列を見ながら アジアの熱気の正体がほんの少しわかった気がした やがて車はショッピングセンターの立体駐車場に到着し 私達はエレベーターでエス病院のフロアへ向かった 受付を済ませると早速アキ子は血液検査に行き 採血を済ませてすぐ待合室に戻ってきた アキ子は車中から浅田と目も合わさずにそっぽをむいて黙っている 私は浅田に気を遣ってまたどうでもいい事をぺらぺらと話したり 二人の為にコーヒーを運んだりした 待合室には今日も世界中から患者が押しかけてきていた

やがて四十分ほどして私達三人は診察室に呼ばれた 中にはいると女性看護士が立っており 机の前には二十代半ば位の若い男性医師

が笑顔で座っていた ( ずいぶん若いな )ちらっと不安がよぎるがすぐに打ち消した 浅田の通訳では医師はアキ子の

女性ホルモン数値E2が二千に達したと言い 受精卵移植は可能だと言っているそうだ 若い男性医師は笑顔だった 私は内心

( ちょっとE2の数値が高すぎるのでは )と危惧していたが

医師の判断に従うほか無い 隣室でアキ子の子宮内膜スキャンを

すると9ミリに達していた 明日の受精卵移植手術は予定どうり 行うことになった 診察室を出ると会計係のパルが待っていて  私は3万円弱をクレジットカードで支払った 私達三人はエス病院のフロアからエレベーターで立体駐車場に向かい 浅田の車に乗り込んだがアキ子と浅田の関係がどうも険悪だ どうやらアキ子が 一方的に浅田を嫌っているらしい 私は訳がわからなかったがとりあえずまた車窓を見ながらつまらない冗談を言う 女性同士の関係が悪化しているときには 男性は絶対に間に入ってはいけない事を

私は経験上学んでいた やがて十五分ほどでホテルに到着した

私が浅田に礼を言うと 浅田は

「 それでは明朝十時にロビーで待ち合わせましょう 」と言った

これが私達夫婦と浅田の最後の別れとなる 

・・・・・


バンコクは水の都だ 街の中心部から自動車で渋滞しなければ

二十分の所にチャオプラヤ川という大河が流れておりその両岸には王宮や巨大ホテルが立ち並んでいる 私は明日の受精卵移植手術を控えてアキ子の機嫌を少しでも直すため チャオプラヤ川ディナークルーズを予約していた アキ子と私はホテルからタクシーで  船着場のある川沿いのリゾートホテルに向かい 午後七時半 豪華客船ホライズン号に乗り込んだ 船内では陽気な音楽が響いていてニューハーフらしきダンサーも居る ディナーはブッフェスタイルで世界各国の料理とタイのローカルフードが並び 船内では既に 食事が始まり世界中から来た大勢の観光客が旺盛な食欲を見せて いた その傍らで正装したタイ人のウエィター達が忙しそうに給仕している 私達が着席すると汽笛を鳴らし船はゆっくりと岸から 離れていった 私がマグロの握りを取って来て食べているとアキ子が深刻な顔で話しかけてきた

「コウちゃん 私 浅田が嫌いなの もう診察のサポート受けたくない お願い断って 」

私はうすうすアキ子と浅田の不仲を気が付いていたが原因はわからないし ここまで来て異国の地でサポートを失うのも正直怖かった

「 一体何が不仲の原因なんだい 」

「 あの女 ちょっと綺麗で元モデルだからって アキに対する 態度が悪いのよ コウちゃんには笑顔で話すくせに 」

なんと驚いた事にアキ子は浅田に嫉妬していたのだ

「 そんな事いまさら言っても 診察のサポートや病院との交渉はどうすればいいんだよ 」

「 コウちゃん英語出来るんだから コウちゃんがしてよ 」

英語の殆ど出来ないアキ子は私がホテルや空港で英語で交渉しているのを見てそう言っているのだろうが 私は英検三級レベルなのだ

女性というのは男性を盾にするものだと解ってはいたが・・・・

私が困り顔をしているとアキ子は半べそになった

そんな私達の様子を伺っていた一人のニューハーフのダンサーが

近づいてきて 笑顔でアキ子に抱きついてきた アキ子は気を取り直して笑顔になった せっかくなんだから楽しんで欲しいという ダンサーの気遣いなんだろう 私は船の外を見た 船窓には岸辺の巨大ホテルの合間に庶民の貧しげな木造家屋が並び明暗のコントラストを醸し出している 川にはあらゆる大きさのプレジャーボートが大音量の陽気な音楽を流しながら華やかなネオン管をまとって 行き交っていた 富と栄光と快楽のすぐ傍らにある どうしようもない貧困と苦痛 両足の無い物乞いが街中に寝そべる街バンコクに  サポートを失って今 二人だけになった

( 私達はいったいどこにゆくんだろう )

短い汽笛が鳴り 船は終着の船着場へとゆっくり近づいていった

・・・・・・

朝八時 早めに朝食を済ませた私はロビーに行き浅田に電話を入れた これからはサポート無しだと思うと少し気が重い   五回のコールの後 浅田が電話口にでた

「 おはようございます 佐藤です 実は申し訳ありませんが 

今後のサポートはお断りしたいのですが 」そう切り出すと

浅田は驚いた様子だった 浅田とは日本でもメールで何度もやりとりし アキ子の体調やホルモン数値の件では国際電話で数知れないやりとりをした 二年くらいの付き合いになる 浅田もどうして こうなったかの理由を知りたがっている様子だったので 私は正直にアキ子が浅田を嫌っているのが理由だと言った 

浅田は意外だという様子で

「 奥様に嫌われるような事をした覚えはありません 」

と言っていたが 何故か浅田がほっとしたようにも感じた

おそらく面倒な夫婦から開放されるという気持ちもあったのだろう

私は今までの礼を述べると電話を切り部屋へもどって出かける支度

をして アキ子と一緒にロビーへ向かった 二百平米はあろうかと いう広いロビーには今日も世界中から客でやってきてごったがえしている その中を生き生きと泳ぐように業務をこなしているのは

まだ二十代のタイ生まれの日本人スタッフの安田だ タイ語・英語 日本語を操る気の良い彼は 私と目線が会うと笑顔を返してきた

実は彼と浅田は中学の同級生だった タイの日本人社会は狭い

以前 私が彼に世話をするから日本で働かないかと尋ねると  「 日本社会は息苦しいです 」と笑って答えた 

彼もまたタイに自分の「居場所」を見つけた一人だった

十時 私達はロビーにいたドアマンにタクシーを拾ってもらい

エス病院へと向かった バンコクのタクシーは初乗りが百円にも 満たない安さゆえか外国人を乗せるとすぐ遠回りをするのだが

ホテルのドアマンに拾ってもらったせいか遠回りすることなく 

スムーズにエス病院に到着することができた 私が病院の受付に 日本人担当のスタッフを呼んでくれと英語で話すと しばらくしてあの会計係のパルが来て流暢な日本語で今日の予定を話した

アキ子と私は今までの心配は何だったんだと顔を見合わせた

十一時 アキ子とパルは手術の準備の為診察室に入り私はいつもの待合室でコーヒーを飲みながら呼び出しを待っていた やがて

パルが私を手術室のあるクリーンルームへ私を案内し私は前回

と同じように着替えてアキ子の待つ手術室に入った 中では二人の

女性看護士と昨日の男性医師がおり てきぱきと受精卵移植手術の準備をしていた 私が入室すると男性医師は笑顔でタイ語で話しかけてきた パルが通訳すると「受精卵の状態が良い 私も頑張る」 といったような内容だった 手術が始まるとモニター 画面には前回同様 胚盤胞まで成長した受精卵が試験管内から 細い管で吸引され一旦吸引機械の中に移される様子が写っていた

それから 診察台の上で仰向けに横たわって開脚しているアキ子の膣の中に男性医師が器用に 吸引機械に繋がっているもう一方の 細い管を挿入していった するとモニター画面が切り替わりまるで北極圏のオーロラのように美しい子宮内膜が現れた 

(人体の中の宇宙) 

そしてすぐ受精卵はきらめきながらオーロラの中心へと舞い降りた  

(命は美しい)私は心からそう思った   

男性医師は移植が終わるとアキ子と私に軽く挨拶して 

あっさりと手術室から出て行った アキ子はストレッチャーに乗せられた しばらく別室で点滴を打つようだ 私は再び着換えて

待合室へ向かった 相変わらず混雑している待合室でコーヒーを

飲みながら私は考えていた 今日は浅田がいないにもかかわらず

全てがスムーズに運んだ という事は 浅田の存在は何だったのか

ということだ 結局は浅田のブブンダ社はエス病院の販売代理店

つまり栄養食品や化粧品販売の代理店 いやもっというと金融業の紹介屋と同じく 顧客をエス病院に紹介し見返りとして金を受け 取るという寸法だ つまりブブンダ社なしで直接病院に行き治療の 交渉をすればキックバックの分だけ安上がりだったというわけだ エス病院には日本人担当・英語圏担当など語学に優れたスタッフも常駐しているのだからことばの問題は無かった 

(ブブンダ社の連中もノーリスクで金を取るのが目的だったか)

騙されたと憤って訴えようとしても相手は海外法人のブブンダだ

実際の訴訟は日本国内からは難しいだろう 考えてやがる

手品のタネと同じでわかってしまえば実に単純なビジネスだ 

空調がきいている快適な待合室なのになぜか私一人 汗ばんでいた

アキ子は薄々 浅田の胡散臭さを感づいていたのかもしれない

やがて二時間程経ちアキ子とパルが待合室にやってきた 笑顔の

パルから移植後の過ごし方の説明を受けた後 クレジットカードで二〇万円ほど支払いエス病院を出てタクシーでホテルに戻った

三日間ホテルで安静にしてから帰国の途に着く 帰りは午前一時

スワンナプーム国際空港発澳門行きの澳門国際航空のエコノミー

クラスだった 午後九時にホテルのフロントで清算していると

日本人ホテルマンの安田がやってきた

「 お帰りですか 次のバンコクへのご予定は 」相変わらず  人懐こい笑顔で話しかけてきた 自分の「居場所」にいる人間には暗い影が無いものだ

「 さあ 今度はいつになるかわからないですね それから・・・ 」

「 なんでしょうか  」

「 これからも安らぎと楽しみを宿泊客に与え続けて下さいね 」

私がそういうと安田は一瞬怪訝な顔をしたが すぐに笑顔で

「 かしこまりました 」と言った

空港までのタクシーの手配を安田に頼み 料金を聞くと九百円程だという それから部屋にもどって帰り支度をし ベルボーイに安田が手配したタクシーへ荷物を積んでもらった後 私達はタクシーに乗り込んだ タクシーの運転手は中年の眼鏡を掛けた中肉中背の タイ人で 渋滞の多いバンコクにも関わらずマニュアルトランス ミッションの車だった タクシーは料金メーターを倒してネオン菅きらめくにぎやかなバンコクの繁華街を 滑るように走り抜けていった アキ子は隣ですやすやと眠っている 私も睡魔に襲われた 

しばらくして目覚めるとタクシーは高速に入っていた 私がふと 料金メーターを見ると止まっている すかさず英語で

「 なぜ料金メーターが止まっているのだ 」と聞くと 運転手は笑いながら再び動かし 私に英語で

「 私には子供がいて大変だ 」とか「 こうしないとアナタは  ハッピーかもしれないが ワタシはアンハッピーだ 」などと

自分勝手な御託を並べてきた 私は一切無視して空港に到着したら

すぐメーターどうり八百五十円程支払いアキ子とともにタクシーを降りた 外国人を見ればすぐにボッタくろうとする 

( 何が微笑みの国だ )私は心の中で罵った

相変わらずスワンナプーム空港は深夜でもごった返していた

私達は澳門国際航空のカウンターを見つけてトランクをあずけようとしたが 右から左から中国人らしき人たちが割り込んでくる

そのすさまじい自己中心のゴリ押しに思わず距離をとっていると

人の良さそうな年配の男性地上職員がやってきて私達のチェック インを手伝ってくれた そして前回同様エス病院の受精卵移植証明書を呈示すると 早速アキ子に車椅子と空港内移動の為のサポート

職員を手配してくれた

「 どうもありがとう 」日本語で私が年配の職員に礼を言うと 彼は少し照れた様に笑顔になった 

( 言葉は通じなくとも感謝と笑顔は通じるものだ )

何回かの海外旅行で私が得た経験則だった

無事出国手続きを済ませ 一時間後にバンコクを後にした

案の定 エコノミークラスからビジネスに格上げされたが

座席も貧弱で機内食も美味しくは無かった やがて飛行機は

五時間程で澳門国際空港へ到着した 乗客はボーディングブリッジではなくタラップで降ろされリムジンバスで空港ビルに運ばれた

リムジンバスの中は中国人だらけでトランクなどお世辞にも綺麗とは言えない 土産物なのか厚紙の袋になにやら一杯詰め込んで抱えている人が多い すえた匂いが充満していた

「 ギャー ワー ワー 」

突然 私達の座っている向かいのシートの中年の太ったおばさん達が喧嘩をしだした 中国語なので何を言っているのかさっぱり解らない が 喧嘩は周囲を巻き込みどんどん大きくなっていく   おばさん達の喧嘩は殴りあいに発展し周囲の男達はふたりを引き剥がそうと もみくちゃになっていた やがて赤ん坊のけたたましい悲鳴が聞こえてきた途端 私達の前の席のおばさんが勢いよく飛び出し参戦していった

「 コウちゃんも止めに入って 」アキ子が私の背中を押してくる

「 えっ 」私は躊躇した それはそうだ 事情も解らないのに 日本人の私がしゃしゃり出てどうなるものでも無いだろう

それでもアキ子は私の背中を思い切り修羅場に向けて押してくる

女性というのはどんな時でも男性を盾にするものだ

( なんだかなぁ・・・・・・ )私が覚悟を決めて大声で

「 ストップ ! 」と叫んだ途端に旅客ビルに着き 運転手が 通報したのか空港警察官が乗り込んで騒ぎは治まった その後

成田空港までの乗り継ぎ手続きを無事に終え 滞在三時間程で

澳門国際空港を後にした

・・・・・・

無事に帰国してから十二日目 アキ子と私は住宅街と大型スーパー

隣の一角に昔からある田吉産婦人科医院にいた 妊娠判定の為だ

診察室に呼ばれると禿頭の六十過ぎの男性院長が人を小馬鹿にしたような態度で私達の来院目的を女性看護士に確認した するとすぐアキ子に検尿に行くよう命じ しばらくして戻ったアキ子と私にあきれたようにこう言った

「 はい 妊娠してません 良かったね 」

私は院長の言葉を聴いて殺意を覚えた これが医者の言うことか

患者がどういう思いで妊娠判定に来ているのかは 様々なケースがあると思う 望まない妊娠を恐れている女性のいる反面

私達のように卵子提供を受けてまで妊娠したい夫婦もいるわけで

この禿頭の院長は人間として大事なものが欠落している

私が手を下すまでもなく末路は地獄行きだろう

会計で一万円程支払って私達は医院を出た

帰り道の車内 アキ子と私は一言もしゃべらなかった

アキ子にとっても今回の失敗はショックだったようだ 

最後の受精卵移植に失敗したのだから当然だ

私もまだ信じられない 人間は自分に不利益な結果が出ると否定したがる生き物だ 私達もネットで妊娠検査結果がくつがえった情報を検索しては淡い希望をつないだ アキ子は膣座薬クリノンや

女性ホルモン剤イエストフェムの膣挿入を続け 膣カンジタはますます悪化していった アキ子は母親から昔ながらの妊娠判定方法―

つまり三ヵ月生理がなければ妊娠しているという原始的判定方法にすがり お腹にいるであろうxx染色体を持つ受精卵に「ビビ」と

名前をつけて何かにつけ呼びかけていた 他所から見たら可笑しい夫婦なのだろうが 私達にとっては一縷の希望だった

二〇一五年 十二月下旬 静養の為アキ子は空路 鹿児島の実家へ一人で帰省した 私は仕事の為付き添えなかった

季節は寒さ厳しい冬に移っていた

・・・・・・

「 コウちゃんごめんね・・・生理が来ちゃった  」

二〇一六年 一月中旬のある日の夕方 

実家のアキ子が泣きながら私の携帯電話にかけてきた

「 コウちゃん でもまだ着床出血かもしれないし膣座薬クリノンを入れ続けるね 」アキ子もまだ結果を受け入れられないようだ

「 アキちゃん もういい もういいんだ ありがとう 」

私は心にもない取り繕いの慰めの言葉をアキ子にかけた 

そして次の瞬間 頭をハンマーで思い切り叩かれたような衝撃が

走り私はその場にしゃがみこんだ  動けなかった

外は北風が吹き気温は時間を追うごとに下がっていった

どのくらい時間が経ったのだろうか・・・・・・

気が付くと私は独り事務所の自分のデスクに座っていた 窓の外には漆黒の闇時間はすでに深夜 私はぼんやり今までの事を思い出していた 八年以上の長い長い結果の出ない不妊治療に費やした時間と費用出会った心無い人々・・・怪しい漢方医・田舎町の女医・お洒落な街の女医・愛という名の病院の男性院長・カツラの院長・  日本ゲイ社の上野・ブブンダ社の牛田社長・浅田・エス病院中国人院長・女医・男性医師 会計係パルそしてそいつらの手先ども・・・・・

こいつらが人? いや人では無い 不妊夫婦を喰らった連中が人間であるはずが無い 私を騙し喰らい骨の髄までしゃぶり尽くした

オニ・・鬼ども・・そうだ こいつらは悪鬼羅刹だ 私は荒れた 

大金を使い果たした上に滅びる定めとなった我が身など惜しくは 無かった 心は呪詛であふれ憎しみが体中の毛穴から血汗となって

流れ出た 鬼どもを八つ裂きにしてその肉を喰らう殺意と欲求・・・

( もっと残酷に絶望の淵に追いやり踏みにじってやる そうだ

鬼どもを細かな肉片に切り分け しかし完全に殺さず意識を残したまま豚の餌にしてやる 餌にしただけでは甘い 豚の体内で鬼どもの肉片を消化させてもまだ意識を失わせずに どろどろになって

溶けた鬼どもが豚の肛門から糞となって出てきたところをまた別の豚に喰わせて 無間地獄のループに乗せてやる 簡単には殺さない 時間をかけてゆっくりと嬲り殺しにしてやるそ・・・・・・)

事務所のデスクを引っくり返し 手当たり次第に物を投げつけ  ロッカーを壊し花瓶を粉々にした 視界に入る全ての物を破壊した 憎しみに歪んだ思考が私を夢と現実の狭間に突き落としていたのだ 

ふいに鬼どもの顔がよぎった 鬼どもは皆笑顔だった 笑顔の裏に牙を剥き人の内臓を抉り血肉を噴出させ大金をせしめる別の顔が 見え隠れする (鬼め 鬼め 鬼どもめ!)

私の髪は乱れ洋服は裂け靴は脱ぎ捨てられて裸足になっていた

「 これでも喰らえ 」

私はあらん限りの力で大型の客用灰皿を窓へと投げつけた

「 ガシャーン 」

大音響と共に事務所の強化ガラスの窓には大きなひび割れができた

と同時に 灰皿は思い切り跳ね返って私の額を直撃する  額は 割れ鮮血が辺りに飛び散った・・・

「 ウォーッ 」痛みで思わず私は吼え 灰皿を投げつけた窓を

睨んだ 窓の外には漆黒の闇がどこまでも広がっている

「 あっ」私は息を呑んだ

・・・・・・

地球上の生物がその命を繋ぐには 必ず他者の生命を犠牲にする

例えば飢えたオオカミが子羊を捕らえてその肉を食べたから

と言ってオオカミを責められるだろうか 自分の命を繋ぐために 他者を喰らう事は「悪鬼の諸行」であろうか それは違う

別にオオカミは子羊を愛してもいなければ友達でもないわけで

オオカミにとって子羊は単なる「食料」それ以上でもそれ以下でもない オオカミは単に「食料」を摂取したに過ぎない

私達がであった不妊治療に関わる医療従事者・業者達は何も

私達夫婦を愛していたわけでも個人的な友人でも無い

彼ら彼女らにとって私達夫婦は単に「金儲けの手段」だった

不妊治療の医療従事者・業者達だって生きねばならないし

少しでも良い暮らしがしたいだろう ・・・・

彼らは結局 生きるために「仕事」をしただけだった

だが私・佐藤孝太郎のしたことはそうではない

私は自分のいとおしい妻のその大事な子宮をホルモン剤とホルモン注射という鞭と剣で傷つけ苦しめたのだ 女性ホルモン値を上げる為子宮内膜を厚くする為 昼夜を問わずアキ子の体を鋭利な刃物で殺さぬ程度に突き刺しては(子が授かる)と喜んでいた

古代中国怪奇譚で「鬼」は幽霊を指す 亡者の此の世への

「尋常でない執着心」こそが鬼の正体だ

・・・・・・


ひび割れた窓ガラス そこに映った漆黒の闇の中に私が見たものは

額から血を流した醜い鬼だった

  



迷いの心をもちて名利の要を求むるに、かくのごとし。

万事は皆非なり。言ふにたらず、願ふにたらず。

・・・・・

二〇一六年 四月のある晴れた休日 

私は自宅リビングのソファに部屋着で座りコーヒーを飲み本を読んでくつろいでいた 隣ではアキ子が腹ばいになって足をバタバタ

させながら上機嫌で寝そべっていた

「 あのね コウちゃん 」

ふいにアキ子が話しかけてくる

「 何だいアキちゃん 」

私は本を読む手を休めてアキ子の方に顔を向けた

「 あのね コウちゃんはね 幸せな人なんだよ 」

私の大好きなとびきり上等の笑顔を向けてアキ子は言った

アキ子にとっての「居場所」はどうやら私だったらしい

( では私の「居場所」はどこなのだろうか )

私はすぐ考えるのを止めた なぜならもう答えは出ているのだから

窓の外には暖かな春風が優しく吹いていた





             完


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