3-33 貴族の誇り
――マスクド・ピエロの人生は、「物語」に囚われたものだった。
母親はいろいろなことを知っている優しい人だった。幼い頃、彼が眠る前によくお話を聞かせてくれた。
とても面白かった。ピエロにまだ普通の名前があった頃、彼は母親が語る物語が大好きだった。
やがて自分でも物語を探すようになり、彼は本という媒体に行き着いた。識字率が低い社会の中で、彼は独学だけで文字を習得した。
だが、ピエロの貧しい家庭にとって本は高級品だ。そう何冊も買えるものではない。
ピエロがどんなに新しい物語を欲しがっても、現実は非常だ。母親の知識にある話もすべて語り聞かせてしまい、どうしようもない。
だが母親はできた人物だった。息子のことを何よりも考える心優しい人物だった。
母親は新しい物語を自分で考えて生み出すことで、彼に語り聞かせるようになっていった。
それが彼女の精一杯の思いやりで、彼も最初は手を叩いて喜んだ。だが、日が経つごとに物語は劣化していく。
毎日毎日、物語なんて思いつくものではない。彼がつまらなさそうな顔をしていると、母親は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
それでも彼は、母親の持つ可能性を信じて、その後一年は傍にい続けた。だが、結局。
「アナタの物語は美しくない」
彼女はピエロにとって使えない人間に成り果てた。そう悟った時、ピエロは母親のもとから姿を消すことにした。
その時、彼はふと思ったのだ。
ならば自分でも物語を考え、舞台を演出してみると面白そうだ、と。
自分の考える物語なのだから、自分にとって面白いに決まっている。
彼が望む物語構造は悲劇だった。母親の創る話は喜劇ばかりで、つまらない。人の不幸こそが物語の醍醐味であると彼は確信していた。
ゆえに、彼は悲劇を生み出すことにした。
“傀儡”は、そのために生み出した術式だった。『創世神話』において体が不自由になった剣士が、糸で自らを操り再び戦えるようになったという伝承がある。ピエロはその伝承を解釈し直すことで術式を作った。
そして彼は母親を操ることで父親を殺した。狂乱する母親を見て、彼は密かに愉悦を顔に浮かべた。
母親は優秀な役者だった。彼女は脚本ではなかったのだとピエロはそこで把握した。ゆえに彼は物語の脚本を自分で考えるようになった。
彼は本来の名を捨て、脚本家ではなく道化師を名乗ることにした。なぜなら自らも舞台上で踊る役者であるから。
それから母親は自殺し、家族を失った悲劇の少年としてピエロは旅に出た。
悲劇、悲劇、悲劇。
いろいろなやり方で舞台を演出しながら魔国内を旅していると、やがて一人の男と出会った。
「お前が道化師か。面白そうな舞台があるんだ。お前に演出を頼みたい」
ローグ・ドラクリア。
魔術の才能に満ち溢れていたピエロが、勝てないと思わされた唯一の相手だった。
たった数十秒の交戦で、ピエロは実力差を把握した。
ピエロは自らの強さを自覚し、またそれなりの鍛錬は欠かさなかった。美しい物語のためにはそれだけの役者が必要だ。雑魚を相手にしていても、つまらない話にしかならない。ゆえに彼らを舞台で踊らせる道化師としての役割を果たすために、ピエロは間違いなく怪物の領域へと足を踏み入れていた。だというのに、眼前の怪物はピエロをはるかに上回る。
「……いいでしょう。ワタシはアナタの下につく」
その悪辣さにピエロは惹かれた。彼の強さに、ではない。
大きな野望に燃え、そのためならどんな犠牲も厭わないローグを、今の自分では扱いきれない一流の役者だと理解したのだ。
だから。
ピエロは自己の研鑽を怠らなかった。
いずれ彼を主役とした悲劇をこの手で創り出すことができたなら――それはきっと何よりも面白いのだろう、と。
その脚本に相応しい道化となるために、生み出した魔術がある。
「――惑え、この道化と共に」
ピエロは走馬燈のように過った過去の記憶を振り払いつつ、眼前の老紳士に対して詠唱を呟く。
この老紳士による復讐劇。十五年の歳月を経てなお亡き妻を想い続けたその愛。なんと美しいものか。
エルヴィスもまた、ローグに並ぶ一流の役者だった。
ならば、その役者に相応しい結末を用意してやらねばならない。
最高の悲劇を。
だから道化師は大きく手を広げて笑った。
「“幻想舞台演劇”」
そうしてローグを倒すために創り出されたピエロの切り札が顕現する。
世界が変革した。
◇
エルヴィスの攻撃は通らなかった。
ピエロの体をすり抜けるかのように剣が空を切り、そして視界が唐突に遮られた。
何も見えない真っ暗闇の中で、剣を突き出す体勢だったエルヴィスは足を止めて剣を構え直す。
「これは……」
ピエロの魔術か。しかし、このような幻術に大した意味はない。魔力の循環を意識することで脱出は簡単だからだ。エルヴィスほどの老兵ともなれば尚更だった。
そのはずだが、エルヴィスは数秒経っても、いまだ暗闇の中に佇んでいた。
「どういうことだ……?」
仮におそろしく高度な幻術に引っかかり、現実のエルヴィスが棒立ちになっていたとしたら、そんな隙だらけな状態をピエロが見逃すはずもない。エルヴィスはすでに死んでいるはずだ。
ならば、とそこまで考えてエルヴィスは目を細める。
「ピエロが幻惑に引っ掛けているのは、私ではなく、この世界そのもの……!?」
「――素晴らしい」
ぱちぱち、と。
拍手と共に、エルヴィスの頭上に光が現れた。
光源が周囲を照らし、エルヴィスが今いる場所が演劇の舞台のような場所であることを示している。
仮面の道化師はカツカツと足を鳴らして舞台の上に現れた。
「正確には『ワタシ』という概念を薄く伸ばし、そういう風に認識しワタシという領域をこの周囲一帯まで広げることにより、結果的にワタシ自身を変革する魔術が周囲一帯をも変革する魔術になったという半ば子供騙しのような理屈なのですが……まあ正解ではあるでしょう。魔術というのは、認識を深めれば世界を騙すこともできる」
「自分の認識を自分以外にまで広げる……?」
「当然、常人の神経では耐えられないでしょう。ジブンというアイデンティティの喪失を受け入れることにも等しいのだから。だが! ワタシはあくまで道化師。舞台を演出する者だ。ゆえに、必要なのはワタシという個人ではない。だからこんな魔術が使える。ご理解いただけましたか?」
「狂人め……!」
「もちろんですとも! そうでなければピエロではない!」
大きく手を広げるピエロは、その仮面の奥から覗く双眸で強い眼光をエルヴィスに向けた。
「ここはワタシの世界。ゆえに、当然ここではワタシが強い。アナタという外部の要素は、当然その力が弱まる」
エルヴィスは“鬼化”の恩恵が消えていくことに気づき、表情を険しくした。
時間切れ――否。ピエロの世界では、ピエロの世界の法則しか通用しないということなのか。
「さあ、ここからが本当の舞台。役者として、十分に足掻くことを期待する」
「……っ!!」
◇
「……チィ!!」
痛烈な舌打ちがあった。
それはクラークのものだった。
彼の周囲では、先ほどまでよりも電気がバチバチと音を鳴らしている。
その理由は明白だった。
「……なるほど、な!」
ライド。彼が操る固有魔術“魔力嵐”。
先ほどまではクラークの圧倒的な魔力制御能力を前に効果がなかった術式だが、今では効果を見せている。
なぜか。
状況を打開するためにノエルが考え出したその策は、ひどく単純なものだった。
「……俺が近づくだけで、てめえの術式はさらに乱れる!」
――そう。ライドは剣術、魔術ともに苦手だ。有効なのは“魔力嵐”ただ一つ。
ゆえにこれまで稲妻を操る敵を前に、「近づく」という選択肢はなかった。攻撃手段がないに等しい以上、危険地域に足を踏み入れるだけなのだから。
しかし当然のことながら、ライドの“魔力嵐”は彼に近いほど効果を発揮する。「場」を荒らす効果を強める。
ただでさえ雷操作魔術は繊細な制御を必要とし、相手の距離が近いなら尚更だ。なぜなら自分自身を巻き込まないように注意しなければならないのだから。
クラークが自滅を警戒しなければならないほどの近距離へと、ライドは無理やり足を踏み入れていく。
それだけで雷がバチバチと音を鳴らし、術式の制御が乱れているのが目に見えて分かる。
同時に、接近戦でまともに戦えないライドをカバーするように、ノエルの双剣が次から次へとクラークへと襲い掛かる。
「やるじゃねえかよ……!」
クラークは顔を歪めつつも、愉しそうに吠えた。
そして荒ぶる術式を強引に狙いをつけ、ライドに向けて撃ち放つ。
「おお!」
ライドはその瞬間、“魔力嵐”を強めた。荒ぶる雷がライドとノエルの合間を潜り抜けていく。余波だけで横に吹き飛ばされた。だが、直撃はしていない。
手応えがないことに、クラークは舌打ちする。雷撃を一発放つだけでも、彼は慎重になっていた。そもそも消費魔力効率が良い術式ではないのだ。そう何発も無駄撃ちはしていられない。
(……やれる!)
ライドは強く拳を握り締めた。瞳の意志は消えない。実力差は隔絶しているが、相性が良い。ただでさえ制御に難のあるクラークの雷魔術にとってライドの“魔力嵐”は天敵だった。
だが、あまり距離を放すと効果が薄くなり、状況は先ほどのように戻る。
当然それを理解しているクラークは地面を蹴って後退しようとするが、ライドは地面を削るように肉薄し、距離を離さない。そんながむしゃらなライドにクラークは雷撃を撃とうとするが、さらに速く動くノエルがそれを邪魔する。
クラークは魔術師だ。肉体を使った戦闘はできない。それでも普段なら接近戦においても雷を放電するだけで終わりだったかもしれないが、今はライドのせいで上手く操り切れない。ノエルはその隙を穿つように双剣を振るう。
後ろへと飛び下がり続けるクラークに、ライドとノエルは何とか追いすがっていく。
するとクラークの口元から笑みが消えた。真剣な瞳で、ライドたちを捉える。それは明確な変化だった。「遊び相手」から「敵」へ、認識が変わったことを示すものだった。
クラークは雷の術式を無駄に撃たなくなった。ただ、逃げ回り続ける。それでいて隙さえあれば叩き込むと言わんばかりの殺気が常に放たれている。
追い詰められそうで、追い詰めきれない。クラークは戦い慣れていた。決して身体能力が高いわけではないが、危険に対する嗅覚が非常に優れている。
ゆえに、ライドの頬に冷や汗が流れる。息は荒く切れていた。
「……ライド」
ノエルも気づく。
(こいつ……おれの“魔力嵐”も燃費が悪いと睨んで、魔力切れを待ってやがる……!)
クラークがあまり魔術を使わなくなったのは、間違いなくそれが理由だった。
かと言って術式を切るわけにはいかない。その瞬間、稲妻の一撃を叩き込まれて終わるのは目に見えている。
追い詰めているようで――追い詰められたのは、ライドたちの方だった。
それでもクラークの方も、決して残存魔力量が多いわけではないはずだ。接近戦で雷を使わせることで魔力量を削ることはできる。
ゆえにライドたちは、これまでよりもがむしゃらに食らいつき始めた。
――事態は魔力耐久戦。
戦いの終わりは刻一刻と近づいていた。
だが、ライドたちはそもそも根本的な部分に気づいていなかった。
それは魔族との交戦経験の無さゆえに。
魔族の種族的特徴として――平均して人族の三倍の魔力量を有するという事実に。
◇
「皆さま、落ち着いてあちらの方へ避難を! ここはわたくしが護りますわ!」
マリーは逃げ惑う民衆を誘導しつつ、街を荒らす魔族と戦っていた。
クラークの相手はライドとノエルに任せた。
信じて、託した。
なぜならライドの“魔力嵐”が展開された場において、マリーはほとんど魔術を使えない。
ライドが本気を出した以上、マリーはあそこにいる意味がないのだ。
もちろん“魔力嵐”の展開領域を上手く見極めて立ち回ればその限りではないが、敵はクラーク一人ではない。
明らかに戦力が足りていない以上、自分たちでどうにかするしかなかった。
だが、それにしても。
「強い……!!」
マリーは火の魔術を全力で行使しつつ、苦し気に顔を歪めていた。
魔族の兵士たちは連携を取り、着実にマリーを追い詰めるように攻撃を仕掛けてくる。
マリーは新人冒険者とはいえ、学園次席の天才魔術師。相手が魔族と言えど、そう簡単に遅れを取るような器ではない。
流石に『六合会派』の怪物ほどではないが、敵兵は皆、間違いなく精鋭だった。
「……炎よ!」
それでもマリーは巧みに魔術を駆使し、何とか敵兵の連携を崩し、打倒していく。
流石に一人だと厳しいが、大要塞の兵士たちもようやくまともに機能し始めていた。
マリーの近くにも、いくつかの小隊が指示を出し合いながら駆けつけ、魔族に対抗していく。
「マリー様でしょうか!?」
その時、戦いを続けるマリーのもとに一人の兵士が訪れた。
マリーはこの地を治めるノーマン伯爵の娘。しょちゅう姿を消すおてんば娘だった彼女は、この地の兵士たちにもよく知られている。
「伯爵様が危ないのです……! どうか、その魔術の腕をお借りしたい……!」
「お父様が……!?」
◇
「――『六合会派』が『西』、ライナス・メイブリック。アンタたちに恨みはないけど……大人しく殺されて頂戴ね」
伯爵邸の庭に、一人の奇怪な男が現れていた。
二メートルを超す大柄な図体をくねくねと気味悪く踊らせながら、ライナスと名乗った強面の中年男性が言う。
バーのマスターのようなふざけた格好だが、放たれている覇気は紛れもなく「本物」の証。
それを見て、この地を治める領主であるブランデル・ノーマンは厳しい表情をさらに険しく歪めた。
「貴様らが頭か」
ライナスの周囲では、ブランデルの護衛をしていた兵士たちが無造作に倒れ伏している。
そのさまを見て、ブランデルの視線の温度が下がっていく。
「……なら、貴様こそ、今ここで倒れてもらおう」
「逃げないのね」
呆れたようにライナスは言う。
「確かに多少、魔術の心得はあるみたいだけど……そんなものでアタシには勝てない。実力差ぐらい分かるでしょう?」
「私は貴族だぞ?」
当然のことのように、ブランデルは言葉を切り返す。その立ち姿に恐怖は見えなかった。少なくとも表面上は。
「だから何だと言うの?」
「馬鹿だな貴様は。なぜ貴族が偉いのかも知らんと見える」
「……?」
「――民を、護るからだよ若造。権力とはそのためにある。それが貴族の誇りであり、貫くべき信念だ」
「……へえ。言うじゃない」
ライナスは瞠目した後、口元に愉し気な笑みを浮かべた。
「アンタみたいな男、アタシ結構好きよ」
「申し訳ないが、私には愛すべき妻がいる。お断りさせてもらおうか」
言葉の直後の出来事だった。
ゴッッッ!! という爆音と共に、一方的な戦いが始まった。