3-32 英雄と勇者
懐かしい感触だった。
手に、馴染む。レイは聖剣を強く握り締めながら、中段に構え続ける。
「――聖剣よ、光を宿せ」
慣れ親しんだ文言。詠唱に応じて、白銀の聖剣が黄金の輝きを灯す。
勇者の証を持つ者がこの詠唱をすることで、聖剣はその本来の性能を解放する。
レイの魔力が剣を通り、その剣が今も変わらず異常なまでの切れ味を持っていると理解した。
おおよそ斬れないものはない。そう言い切れるほどの切れ味。同時に、壊れることはありえない。そう言い切れるほどの耐久性。
ただし聖剣の力を解放したにも関わらず、『女神の加護』が効果を発揮した感覚はなかった。
それも当然だろう。その力を貸してもらうことを拒否し、その力の源泉となっている存在と今まさに相対しているのだから。
無言でレイを見据えるグレンの挙動を警戒し、動きを観察し続ける。
いつ彼が動いても、対応できるように。
そう思っていた。
「隙だらけだぞ」
だが次の瞬間。
まるでコマ送りのように懐へと潜り込んできたグレンは、レイの体を横なぎに薙ぎ払った。
「な……」
絶句する。レイの体は文字通り真っ二つに断ち切られ、いとも簡単に崩れ落ちていく。
下半身が膝をつき、上半身が冗談のようにくるくると飛んでいった。
仮にもレイは自分の体に、魔力強化を十全に施していた。間違いなく金属と同等以上の硬度を持っていたはずだ。
人体とはここまで簡単に切り裂けるものだったのか。
「どう、いう……」
レイは愕然と目を見開く。言葉を発しようとしたが、もはやそれすらも上手くいかない。
痛い。ひどく苦しい。激痛が脳内を支配し、やがて感覚が曖昧になっていく。
十数年前、あの時の死を明確に覚えていたレイは、もう助からないという事実を理解した。
――だから意識が暗転した刹那、万全の肉体でグレンの前に立っている自分にひどい混乱を覚えた。
「不思議ってほどのことでもねえだろう」
グレンは片腕で剣を肩に担ぎながら、
「ここは精神世界。魂の世界だ。体を修復する程度は造作もない。気にせずに死ぬといい」
「……そういうことか」
「さあ構えろ。お前が俺を越えない限り、お前はここで俺に殺され続ける」
レイが咄嗟に構えると、再び神速でグレンが懐に潜り込んでいた。ここまでの速度を叩き出しているというのに、地面が踏み割れるようなこともない。音すらもなかった。グレンはそのまま、先ほどとまったく同じ軌道で剣を振るってくる。だがレイはその剣撃をガードした。反応できたとは言い難かった。ほとんど先ほどの経験からの勘でしかなかった。しかし聖剣は金属音を立てて、上方に跳ね除けられる。
レイの胴体ががら空きになった。あまりにも流麗な剣さばきで、スムーズに振り上げから突きの体勢へと移行したグレンはそのままレイの喉笛を貫こうとする。が、レイは“フラッシュ”でグレンの目を晦まし、それでも放たれた突きを辛うじて回避していく。肩の肉が抉り取られ、激痛が体内で暴れ回る。目を眩ませたことによるズレがなかったら、確実に殺されていた。
だが動揺している暇はない。レイは即座に回転し、跳ね除けられた剣を構え直す。そうしてグレンの動きを見計らおうとするが――すでに後ろに回り込まれていた。
「魔術の使い方は良い。それは俺にはない技術。現状、俺を上回っている唯一の部分だ。上手く使え」
レイはその事実に気づいた瞬間、無理やり体を振り向かせて聖剣を振り回そうとした。だが膝裏に蹴りを入れられ、がくりと力が抜けていく。
「だが、お前の剣には無駄が多すぎる。大事なのは、力の集中だ。余計なところで分散させるな」
それでも辛うじてグレンの方を見上げた瞬間、真上から高速の剣撃が振り下ろされた。脳天から叩き割られた。レイの意識が暗転した。
「今のお前は見様見真似で俺の剣を再現しようとしているだけ。俺をよく見ろ。俺の動きをその頭に叩き込め。分析しろ。考えろ。そうして自分に反映しろ」
レイは再び五体満足で立っていた。
無表情のまま、掌を見つける。カタカタと、体が小さく震えていた。
――そう多くは死ねないと、この時レイは確信した。
グレンの言う通り、理屈の上ではいくらでも復活できるのだろうが、レイの精神が持たない。
ただでさえレイは一度、本当に死んでいる。その感覚を覚えている。真っ暗な海の底に沈んでいくかのような、その恐怖を覚えている。
怖い。命を失う感覚に、レイはそう何度も耐えられない。これを数十回も繰り返せば精神が崩壊するだろう。
「どうした? 死の感覚に、怖気づいたか?」
「……いや」
レイは首を振る。
確かに、死は怖い。自分が消えてなくなる感覚は泣きたいぐらいにおそろしい。
けれど、大切な人を失ってしまうことの方が、よっぽどおそろしいとレイは知っている。
「こんなもの、俺がお前を越えれば済む話だろう……!!」
「よく言った」
グレンが踏み込んでくる。先ほどから一手目は寸分違わず同じ攻撃だ。
だが、対応できないのはそれだけ完成されているから。真っ直ぐ踏み込み、剣を振る。その動作に無駄という無駄のほぼすべてが排除されているからだ。
レイは聖剣の強度に頼る形で何度か打ち合う。今度は跳ね除けられないように力を強く込めた。
「腰を意識しろ。剣の強さの大半は土台の強さ、体幹の強さだ。どっしりと低く構えていれば、おおよその攻撃には対応できる。――そら、右だ」
「く……っ!?」
力強く、重い攻撃がレイの聖剣に圧し掛かる。腰を低く落として堪えようとしたが、剣を弾かれてたたらを踏む。
そんな隙をグレンが見逃すはずもない。一気に首を刈り取ろうとした彼の前に、異世界式魔術“幻影”で、僅かに本体とズラした分身をいくつか見せて逃れようとする。
が、
「甘い」
グレンに迷いはなかった。
“幻影”に惑わされることなく本体へと踏み込み、ただスッと構えた剣が自然に振り下ろされていく。
「幻惑系の魔術を、お前が追い詰められた状態から使ってどうする。俺はお前を追い詰めているんだから、つまりお前には限られた動きしかできないと分かってる。予測を超えた動きをしてるならそれが魔術だと判断できる。なら予測通りに動いてる奴を斬るだけだ。そいつが本体だからな」
そうしてレイの体がまるでバターか何かを熱したナイフで切るかのように断ち切られていく。
「言ったろ、魔術は有効に使え。意味のない魔術は使うな。選択肢が広い状況で使い、戦術の幅を増やせ。苦し紛れの状態じゃ大した意味はない。特にお前の場合は、魔術を補助に使う剣士だ。ベースが剣士だというなら窮地には剣で対応しろ。相手を驚かすような小細工ばかりじゃ、それ以上の成長はねえ」
レイは五体満足の状態で、グレンの前に顕現する。
神経を研ぎ澄ませながら剣を構えた。グレンはまたしても真っ直ぐに踏み込んできた。
流石に、この速度域にも多少は目が慣れてきた。レイはこれまでの経験を活かし、グレンの剣を跳ね除けることで隙を作ろうとするが、手首の動きで軌道が変わった。グレンの剣は、レイの剣をかわす形で顔に迫りくる。屈むことで回避すると、それを読んでいたグレンの蹴りがレイの腹に突き刺さった。冗談のように回転しながら吹き飛んでいく。
「ぐ……はっ……!?」
「もちろん、今のお前が得意とする……初見殺しの魔術で相手のペースを崩して隙を生み出し、そこを突いていく戦い方、それも戦術だ。確かに効果的だが……それは同時に、お前の地力が相手に劣っていることを意味する」
内臓がぐちゃぐちゃになったような気がした。レイはごろごろと転がると、止まった先で吐瀉物をぶちまける。
脳震盪でも起こしたのか、ぐらぐらと揺れる視界の中で、それでもレイは膝立ちで剣を構えた。そうやってグレンを待ち構える。
瞳の意志は消えていない。
「劣っているから、相手のペースを乱さないと勝てない。隙を作り出すまで食らいつくような戦い方になる。――お前はこの二度目の人生で、ひどくこの格上殺しの戦術が上手くなってるらしい。それは認める。だがな……そもそも、敵よりも強ければそんな戦術に頼ることもない。自分のペースを保ち続けるだけで勝てるからだ。なら今、お前が鍛えるべきはこっちの方だ。使い分けられるようになれば戦術の幅は広がる」
またしても踏み込んでくるグレン。戦いとは基本的に「待ち」の方が有利であるはずなのに、ことごとくレイは打ち負けていく。
「いつも通りの剣を振れ。俺に対応するように振るんじゃない。お前が毎日毎日、飽きることなく剣を振り続けた、その型の通りに振れ。じゃなきゃお前が頑張ってきた意味がねえ。血の滲むような鍛錬をしてきた意味がねえ」
「知ったように、言うもんだな……!」
「そんなもんはお前の剣を見るだけで分かる。熟練の域なら、剣を交わすだけで相手の過去なんて見抜けるはずだ。お前にも分かるはずだ。俺の剣に宿る歴史が」
レイは顔を歪める。
確かに、その剣には歴史が見えた。グレンの過去が見えた。地獄のような日々と、積み上げられた屍の山が見えた。悲劇があった。慟哭があった。それでも戦いがあった。戦うことを止めなかった。明日を諦めなかった。たとえ何度、失い、奪われようとも、それでも何かを護るために戦い続けた男の顔が見えた。
これがグレンの強さ。その土台となっている過去。
世界を救った英雄。今この世界が存在することのできる理由。この先の未来を創った男。
その重みが、背負ってきたものが、確かにグレンの剣には乗っている。
――レイには、この男のような覚悟が本当にあるのか?
「あるに決まってる」
思考を見透かしたように、力強くグレンが言った。
激しい金属音と共に、グレンとレイの剣が交錯する。聖剣の切れ味を考慮してグレンが受け流すように防御したため、レイが押し勝つ。そうして前へと足を踏み込んでいく。
いつもの鍛錬を思い起こすように、ただ踏み込んで真っ直ぐ剣を振り下ろす。
「お前の剣にはちゃんとあるじゃねえか! その重みが! ……諦めんじゃねえぞ、絶対に。クソ女神の思い通りになんか動くんじゃねえ。奴の思惑を越えてみせろ。奴は前世のお前はよく知っているが。今のお前はよく知らない。変わっていることを把握してねえんだ。今のお前は女神に操られる程度の器じゃないと把握できてない。俺を越えろ。最強の存在として君臨しろ。そうして何もかも救ってみせろ。お前の望むもののために」
「くそっ……!! わけのわかんねえことを、好き勝手に言ってんじゃねえ!!」
おそるべき勢いの振り下ろし。グレンはガードした。
ギィン!! と音を立てて、レイは初めてグレンに足を退かせる。その事実に気づき、レイは瞠目した。
グレンはニヤリとした笑みを浮かべる。
「分かってきたか? ――本来なら、お前はもっと強いはずなんだよ。それだけのことをやってきたはずなんだ。お前の十五年はこの程度じゃねえはずなんだ」
「……」
「――だがまあ、動揺しすぎだな」
次の瞬間。グレンは初めて右に回り込むように踏み込んできた。
正面からの踏み込みだけを意識していたレイは、それに対応できない。あっさりと首が刈り取られ、くるくると宙を舞う。絶望と共に意識が暗転した。
「ええい……ゲームのセーブポイントじゃねえんだぞ。そう何度も死んでられるか」
前世でアリアにプレイさせられた物品を思い出しつつ、再びレイは万全の状態でグレンの前に返り咲く。
白く咲き乱れる花畑の中で、再び聖剣を中段に構える。
「さっきから言ってる通り、基礎はできてる。地力はある。だが、それをまったく活かせてねえんだ。力を最大限に活かす戦い方がまったく分かってない」
グレンは今度は左から踏み込んできた。神速の剣撃がレイの首に迫る。
だがレイはそれを受け止めるわけではなく、むしろ一歩踏み込んでグレンに向かって逆袈裟斬りを振るった。
グレンは体を振るようにそれを回避していくが、その代わりに剣はレイまで届かない。鼻先を掠めるだけに留まった。
「――そう、それだ」
グレンはくるりと体を回し、振り向きざまに剣を振るってくるが、レイはいつも通りの振り下ろしでその攻撃を叩き落とした。
そしてグレンの剣を踏みつけるように懐に潜り込んでいく。
しかし、剣は体重で抑え込んでいるというのにグレンが馬鹿力を込めたのかレイの体勢が揺さぶられる。
「それは悪手だな。慎重さが足りない。自分のペースで戦うことは、相手をよく見ないと言ってるわけじゃねえ。むしろ逆だ。相手をよく分析し、効果的に自分をぶつけるんだよ」
体勢を崩したレイの剣をグレンは軽々とかわし、カウンターとして放った剣があっさりとレイの腹を掻っ捌いた。激痛が暴れ狂い、血の色が視界を染めて。
――そうして、またレイはグレンの前で立ち尽くす。
「まだ甘い」
何度も。
「お前の剣はこんなものか?」
何度も。
「大切な誰かを今度こそ守り抜くんじゃなかったのか?」
何度も。
「俺は……」
何度も。
「アンタを、越えていく……!!」
紛れもなく神話にも伝えられるような戦いを二人は繰り返していく。
徐々に、徐々に、レイの剣がグレンへと届いていく。
非現実的な花畑に夜が訪れ、また昼が来て、また夜が辺りを暗く染めていく。そんな繰り返しがあった。
けれど、そんな余計な要素は目に入っていないとばかりに二人の男はただ剣を交わし続けた。
純粋な戦い。
何者の邪魔も入らぬ殺し合い。
だから、その果てに待っているのは――
◇
「……何でだよ」
レイは聖剣を強く握り締めていた。
眼前には、ただ立ち尽くしているグレンがいる。
その手に剣はなかった。
レイは、グレンの喉元に剣を突きつけていた。
明確な勝利にも関わらず、レイの口元に笑みはない。それどころか悔し気だった。
なぜなら、グレンの体は徐々に光の粒となって溶け始め、今にも消えてなくなりそうだったからだ。
「もう限界が近いのか。思ったよりも使えねえ力だ」
つまらなさそうな口調でグレンが言う。
「アンタ……」
レイは顔を歪めた。
グレンの力が、二日目の昼を越えたあたりから急速に弱まっていったのだ。
本気のグレンとまともな殺し合いが成立し始めたのは、ちょうどそのあたりだったというのに。
「ふざけんなよ、クソッタレ……! まだ俺は、本来のアンタを越えてない……!! 好き勝手言ってたくせにこんな負け方しやがって、舐めるんじゃねえ……!!」
「最初に言ったろ。俺に渡された権限じゃ、この世界の時間を遅らせられるのは三日が限界だって。そりゃ俺の魂に残された力でやってるわけだから、尽きればこうなる。ま、もうちょっと持つと思ってたんだが……俺はここで長く存在し続けたからな。多少もったいねえ気はするが、まあこのあたりが引き際だ」
「……消えるのかよ、このまま」
「ああ。俺はお前に懸けることにした。だから俺の魂を繋いでいる力をフルで使った。これが尽きれば俺は死ぬ。体が死ぬわけじゃなく魂が消滅する。だからお前のように転生することもない。これが本当の終わりだ」
グレンは最後まで笑みを絶やさない。傲岸不遜なその笑みには、何ら揺らぎがなかった。
徐々に、白い花畑が揺らいでいく。この世界が崩れ始めているのだ。グレンの力という源を失ったから。
「これで『女神の加護』は消え、聖剣はただの名剣になる。だが、それでこそお前の剣に相応しい。いいか、お前の力で剣を振れ」
「……言われるまでもない」
レイは悔しかった。
これほどの男が消えていくさまを、ただ見届けることしかできない自分の無力さが悔しかった。
「愉しい戦いだった。確かにお前はまだ俺に辿り着いてない。だが、力の使い方は分かったはずだ。本当の戦いを理解したはずだ。……なら、難しいことはもうない」
本当の英雄。
奪われ続け失い続け、それでも折れずに世界を救った世界最高の英雄がレイの目を見つめる。
信頼していると示すように。
「約束しろよ、相棒。俺を越えてみせろ。そうして、絶対に何もかも守り抜いてみせろ」
その目には僅かに過去の後悔が過り、託すようにグレンは告げる。
「……お前なら、やれるはずだ」
そうしてグレンは完全に光となって消えていく。同時に世界も消滅し、真っ暗闇の最中をレイは漂う。
レイが目を瞑ると最後に言葉が残った。
「頑張れよ、相棒」
レイは奥歯を噛み締める。なぜか目頭が熱くなった。
「ちくしょう、ふざけんなよアンタ、悪ぶりやがって……!! ただのお人好しじゃねえか……!!」
過去の英雄。
彼の想いは確かに受け継いだ。
ならばレイは今を背負った英雄として、この剣ですべてを守り抜く。
絶対に。
◇
「……ああ」
レイが目を開けると、地下神殿の内部だった。
周囲を見回すと、警戒するようにこちらを見るローグと、リリナとセーラが生きている。
掌には、光り輝く聖剣があった。
「約束だ、グレン」
聖剣を手にした男の名はレイ・グリフィス。
アキラの魂を宿し、グレンの術を受け継いだ彼は、物語に謳われる通りに誰かを救いにやってきた。
「アンタの想いを無駄にはしない」
――本物の勇者が光臨する。