3-31 神話の英雄
「……誰なんだ、アンタは」
不可思議な空間で、動揺しながらもレイはそう尋ねた。
花畑の中に佇む男は、右手の聖剣を肩にかけながら答える。
「俺か。そうだな、聖剣に囚われた存在……『女神の加護』の正体っつった方が分かりやすいか」
「どういう……? いや、それより――こんなことをしている場合じゃない。リリナたちが危ないんだ。だから……」
「安心しろ。ここは聖剣の内部。俺の精神世界とでも呼ぶべきかね……ともあれ、ここでの時間の流れはひどく遅い。向こうでは、まだお前が剣を掴んだことしか認識してないだろうよ」
「……」
「信じられねえか? ま、無茶苦茶なことばっか言ってるのは自覚してる。が――現にお前はここにいる。現実を受け入れろ。ま、ここは現実とは言い難いが」
そう言って眼前の男はくぐもった笑みを浮かべる。
確かに、ここが現実とは思えなかった。こんな花畑が地平線の彼方まで続く空間、現実にはあり得ないだろう。
ローグの幻術にでも引っかかったのかもしれないと一瞬思ったが、こんな手の込んだ夢を見せる意味はない。
体を見下ろすと、ボロボロだった服が綺麗な状態でそこにあった。傷だらけだった体も当然のように全快している。
――レイの意識が暗転したのは、聖剣を掴んだ瞬間だ。
それまでの記憶はきちんとあるのに、それ以降の記憶は何もない。
どうやら、この男の言うことを信じるしかなさそうだった。
「ここが聖剣の内部……アンタの精神世界だと言ったな?」
「ああ。お前が聖剣を手にしたことで、この世界と繋がったからな。なら呼び出すことは難しくねえ」
「アンタ……いったい何なんだ?」
「『女神の加護』の正体だと言ったはずだぜ? かつてお前が聖剣を握った時に扱っていた聖剣の能力は、すべて俺の力――俺の剣術だ。俺は、女神のクソ野郎によってこの剣に魂を閉じ込められてんだよ。そして、聖剣を扱う者に俺の戦闘経験……世界最強そのものだった俺の剣術を憑依させる。そういう風に魔術を組み上げた。それが『女神の加護』とお前らが呼んでた力の正体だ」
「な……」
「悲しいな相棒。俺はお前のことをよく知っているのに、そんな反応をされるのは」
中年の男は肩をすくめて言う。
「俺はアンタのことなんて知らない」
「そりゃそうだ。お前がアキラだった頃は、ただ力を貸していただけだったからな」
「……あの剣撃は、すべてお前の経験によるものだったと?」
「当然。そもそも、握った奴に一流の剣術が扱えるようになる剣の能力なんておかしいだろうが。剣術ってのは技術。人が研鑽を重ねた末に編み出されていった業だ。そう簡単に再現できてたまるかよ」
それが本当なら。
レイが女神式剣術と呼んでいたそれは、手本として鍛錬を続けてきたその剣術は――眼前に佇む男が編み出したものになる。
「俺は最強だった。世界の頂点に、俺はいた。――もう何百年前も話だが。女神が俺を剣に閉じ込めようとするのも当然だな。これだけの剣を操る男、ただ捨てるには惜しすぎる」
中年の男は言う。自画自賛。だが、そこに愉悦はない。あくまで当然のことを言っているだけだと、そんな風に。
「俺の名が後世に伝わっていないはずがない。なあ、お前だって分かるんじゃねえのか? これだけの剣術、一人を置いて他はない」
黒い髪。隻眼隻腕。痩身の男。その手には、白銀の剣。
それは世界で最も有名な人物に存在する特徴だった。彼は、英雄の代名詞と呼ばれるべき存在だった。
特徴に気づいてしまえば、答えに辿り着くまでは一瞬だ。
「『創世神話』の英雄……グレン」
「――そう。感激しろよ、相棒。今、お前の眼前にいる男こそが、神話に謳われる本物の英雄だ」
中年の男から放たれ始めた剣気が、彼を本物のグレンだと明確に示している。
だが――神話の英雄が力を貸してくれていたと知っても、レイの中に興奮などまったくなかった。
それも当然だろう。
聖剣に宿る『女神の加護』の正体がグレンだったと言うのなら――レイは、グレンに裏切られたと言っても過言ではないのだから。
の
「何か勘違いしてるようだが……お前が勇者の証を失ったことについては俺は何も知らねえぞ。今の俺にできるのは、聖剣を扱う資格がある者に力を貸すことだけだ。資格がない奴はどうすることもできねえ。クソ女神が何を考えてんのかなんて俺の知ったことじゃねえ。俺に今分かるのは一つだけ。転生したお前には、また勇者の証が宿っているという事実だ。だから――ここに呼び出すことができてる」
グレンは適当な調子で語り続ける。
「……前世、俺がアキラだった頃も、ここに呼び出すことができたってことだな?」
「その通りだ」
「なら――どうして今になって姿を見せた?」
「前世のお前に、わざわざこの俺が呼び出してやるほどの価値を感じなかった」
それは痛烈な一言だった。
レイの表情が歪む。グレンは特に表情を変えなかった。あくまで本心を告げているだけといった調子で。
「ただ与えられた力を甘受し、それを当然のものとして振るう。その強さにどんな根拠があるのか、何も理解しないままに。……別に、それが悪いって言ってるわけじゃねえぞ? お前はその時あった力を効率的に運用していただけだ。だが、結果的にお前は力を失った。お前には、これが失うような力であるという意識が足りなかった。だから自分では何もしようとしなかった。そういうのは趣味じゃねえんだ。そういう奴は見ていて面白くない」
「……」
「だが、今は違う。俺の力が使えなくなって反省でもしたのか? ――なかなか面白くなってるじゃねえか。今のお前の目は好きだぜ、相棒」
グレンは愉し気に笑みを浮かべながら、レイの瞳を覗き込んでくる。
「――力が欲しい。今のままじゃ、大切な奴を護れない。でも、そいつは俺に頼っていたこれまでのような偽物の力じゃなく、本物の力が欲しいという葛藤。悪くねえ、悪くねえよ。俺はそういう奴が好きだ。だから試してやるだけの価値がある」
「……試す、だと?」
「ああ。お前の剣術は、俺を参考にしたものだろう? ならお前の剣の師匠は俺だ。俺がお前を鍛えるのが、本物の力を手にするために最も手っ取り早い手段じゃねえのか?」
確かに、その通りだ。
グレンはレイが強くなるために、最も近い道を提示してくれているのだろうと分かった。
だが、グレンの話も気にはなるが――それ以上に、リリナたちのことが心配で逸る気持ちが抑えられない。
「三日だ」
そんな思考すらも見透かしているのか、グレンは指を三本立てて言う。
「この聖剣内部の世界に限り、俺はクソ女神にそれなりの権限を渡されている。だから俺には、この世界の時間を向こうよりも遅らせることができる。今のようにな。だが、当然それには制限がある。向こうの一秒が、こっちの一日。このレベルで時間操作の権限を使うなら――俺の限界は、もって三日だ。同時に、向こうの世界では三秒。お前の敵……ローグだったか、あいつのレベルを考えると、三秒以上の猶予を与えるとお前の仲間が危険だ」
「……三日で、剣術を鍛えると? 今の俺が、ローグと戦えるぐらいに?」
「何だ? 自信がねえのか? 簡単に失うことのない、自分自身の力をつけたいんじゃないねえのか? なら限界なんて越えてみろよ。俺に頼らず、自分の力で胸を張って仲間を護れるようになれ」
グレンは手の聖剣を無造作に放り投げる。
すると、白銀に輝くその剣はレイの前の地面に突き刺さった。
「次から次へと……ぶっとんだ話ばっかりしやがって」
レイは顔をしかめる。
グレンはどこからか、もう一本の剣を手元に出現させながら、
「今のお前には勇者の証がある。だから、無理をせず安全に俺の力……『女神の加護』を使うことでローグを撃退する。そういう選択もできる。だが、俺と戦い、お前自身の力を引き上げることでローグを倒す可能性に懸ける――そういう選択肢も今、提示してやった。つまり、お前はそのどちらかを選べる」
レイは眼前に突き刺さった聖剣を見つめる。
「選択肢は与えてやった。が、選ぶのはお前だ」
「……本当に三日で、強くなれるのか?」
「さあな。それもお前次第だ。だがお前は、俺の剣術の基礎は十分にできてる。なら、後は意志と根性でどうにかなる。――この俺がどうにかする。お前の剣を、次のステージへと引き上げてやる。……地獄を見る覚悟が、できているならの話だが」
ぞっとするような言葉だった。
おそらく鍛錬をするとなれば――神話時代の英雄と、本気の殺し合いをすることになるのだろう。
「さあ、この英雄の試練を越えていくか? それとも安全策を取るか? とにかく仲間を護りたいというのなら、『女神の加護』に頼るのも悪くないだろうしな?」
グレンはどこまでも自信満々で、不敵な笑みを絶やさない。
その身に纏っているのは自信。
自分の力を信じている強者の雰囲気。
「……上等じゃねえか」
レイは言う。
元より、選択肢など存在しなかった。
選ぶはずがないものを、選択肢とは呼ばない。
レイはもう――いつまた失うか分からない、勇者の証などという不安定な力を信用していない。
求めているのは確固たる力、信用できる力だ。
もしローグを倒す前にまた『女神の加護』を扱えなくなったら、その選択から意味が消える。
そんなものに意味はない。
グレンは本物の力へと至れる可能性を提示した。
ならばレイに断る余地はない。
だから。
レイは聖剣を手にした。その柄を、掌でしっかりと握り込む。
そうして、思い切り引き抜いていく。
「良い選択だ」
すると口元を引き裂くように、神話時代の英雄は笑った。
「お前は今、失う恐怖を背負いつつも自分の可能性を信じた。それが『勇気』だ。今のお前にこそ、勇者の称号が相応しい。なら後は――俺がお前の可能性を繋げてやる」
ひどく愉快そうな英雄グレンに対し、レイはただ剣を中段に構える。
これより訪れるであろう地獄のような試練に、全力で挑みかかるために。
――大切な人たちを、もう二度と失わないように。
「行くぞ、相棒。この時代を背負う転生の勇者よ」
グレンは隻腕で握った長剣を軽々と扱いながら、告げる。
「――この俺を、越えてみせろ」
過去。
千年にも近い歴史の中で、いまだ最強の称号をほしいままにしている『創世神話』の英雄。
彼の男は、世界を滅ぼす力を持った黒竜を封印に追い込んだ。
つまり――文字通り世界を救った英雄による本当の試練が、転生勇者に降りかかる。