3-29 葛藤
彼我の距離は約十メートル。
闇を纏う魔剣を構えるローグと向かい合うレイは、やがて一息に突進した。
実力差を鑑みると、不用意にも思える接近だ。先ほどのような奇襲とは状況が異なる。
しかしレイとて無策なわけではない。
――“フラッシュ”。
異世界式魔術が、レイの体に輝きを灯した。イメージは蛍光灯。強い光がローグの目を眩ませる。
その隙を穿つように、レイはローグの懐へと体を潜らせていく。
「無詠唱だと……精霊術ではない、なら固有魔術か?」
だが、そもそもローグに隙など存在しなかった。彼は目を閉じながら、ポツリと呟いている。
それでいてレイの袈裟斬りをすんでのところで回避する。まさに紙一重だった。だが、それは追い詰めたということではない。その逆。レイの攻撃は、ローグにギリギリまで見極められるほどの余裕があったことを意味する。
「不可解な技術を操るらしいが……」
接近する音、その勢いが生み出す風が肌に触れる感覚、ヒト特有の匂い――それだけあれば、判断には十分。通常、どんな強者でも視覚に頼る部分は大きいが、ローグにはそれを失っても補えるほどの経験があった。
なぜか。
「そのやり方には慣れている」
――それは、勇者アキラの聖剣が放つ強力な「光」が、よく彼の目を眩ませていたからである。
「ハッ」
自分との交戦経験が相手の力になっている。それに気づいたレイは皮肉げに笑い飛ばすと、しかし直後には異常な速度で横に跳んだ。
ローグの魔剣が振るわれ、黒い闇が蛇のようにレイへと迫ったからだ。
魔剣――それは、聖剣と同じく特殊な能力を宿す剣を意味する。
聖剣は『女神の加護』を宿すものだったが、対してローグの魔剣には闇を操る能力が宿っていた。
――闇。
それは光に相反する概念であると同時に、生に対する死の概念だ。
ゆえに、この闇に触れられた部分は――魔力で対抗しない限り徐々に闇の侵食が進み、やがて使い物にならなくなる。その部位が「死ぬ」のだ。
この闇を受けた部位は、治癒魔術でも効果をなさない。
つまり触れられた時点で魔力の消耗を強制され、もし魔力切れになればその部位が一生動かなくなる。触れられた部分が頭や心臓であれば――魔力切れはそのまま死を意味する。
非常に強力で厄介な能力だった。
これこそが、ローグが魔国軍において最強の怪物だと呼ばれた所以――ではない。
ローグの最も厄介な点は、この魔剣がなかったとしても――単純な剣術と魔術だけでも、なお最強だというところなのだ。
勇者アキラとの戦いでそれが証明された。
なぜなら、アキラにはローグの魔剣が効かない。
聖剣の「光」を宿す性質が関係しているのか――そのあたりの理屈はよく分からないが、事実として当時のアキラにローグの「闇」は効果がなかった。
だがそれでも、アキラは『女神の加護』を全力で行使した上で、ローグを打倒することができなかった。
ついぞ決着がつくことはなかったが、戦場で顔を合わせる度、その実力に戦慄したものだ。
そして今、剣を交わすだけで分かる。この男の実力に衰えはない。それどころか成長している、と。
加えて言えば、レイはアキラではない。聖剣を持ってはいない。
ゆえに――ローグの魔剣が宿す「闇」は、当然レイにも効果を発揮する。
状況は圧倒的。それどころか絶望的にすら見えた。
(それがどうした)
だがレイはむしろ奮起する。闇をかわした勢いのまま広間の壁を蹴り、V字を描くようにローグへと突貫する。
ローグはその黒ずんだ魔剣を構え、レイの襲来を待つ形を取った。
ズズ……! と、魔剣の周囲に闇が広がる。だが、その速度は遅い。闇の移動速度なら回避する隙は十分にあった。
とはいえローグは闇を使って敵の移動を制限して行動パターンを減らし、その隙に自慢の剣術や魔術を叩き込むという戦法を得意としていた。アキラとの初戦では何度も試していたので覚えている。
それ以降の戦いでは使っていないので、かなり曖昧な記憶ではあるが――それらを想定して立ち回らなければ勝ちの未来は見えない。
レイは“解析”を使い始め、大量の魔力消費を覚悟でシュミレートを始める。
すでにローグとの戦闘で三分以上の使用をしたため、残存魔力は六割を切っている。その上、レイモンドに与えられた痛みや疲労も確実に体に残っていて、時折思い出したように集中を途切れさせる。
レイの方に、余裕などない。『六合会派』の『南』を司る男――レイモンド・ゴレアスは間違いなく強敵だったのだから。
広がっていく闇を見たレイは急停止すると、魔術を起動する。“幻影”。テレビのイメージから、ありもしない映像を生み出し、それが特攻していくように見せる。
だがローグに動揺は少なかった。それが幻惑系の力だと一瞬で見抜くと、“幻影”を踏み抜くかのような勢いで踏み込んでくる。
レイは舌打ちして回避に移ろうとするが――間に合わない。そもそも速度がまったく違う。レイが待ち構える体勢を作った時、ローグはすでに魔剣を振り抜いていた。
直撃する寸前で本能が気づき、ギリギリで剣の防御が滑り込む。
ギャリィィィィ!! という凄まじい金属音が炸裂し、衝撃でレイはたたらを踏む。そこにローグの闇が迫る。レイはかわそうとして体勢を崩したが、よく見ると速度は遅い。
膝をついてから、これは引っ掛けだったと気づいた。
「まず……!?」
続けざまに振り下ろされようとしたローグの魔剣を受け止めるように剣を額の上に置く。
だが。
ゴッッッ!! という鈍い音を鳴らして、レイの体が吹き飛んでいく。体を、蹴り抜かれた。剣すらもフェイクだったと気づいた時にはすでに遅い。
そもそも魔力制御の精度が違う。ゆえに魔力による身体強化の度合いがどれだけ高くても制御し続けることができる。だからレイよりも速く、力強い。レイよりも速いということは――レイはローグの行動をすべて読み切るぐらいでないと駄目なのだ。そうでなければ対抗できない。つまり予想の上をいかれるなど、もっての他だ。そういう事態があれば当然こういう結果を生む。
レイは広間の柱に叩きつけられ、地面にうつ伏せに倒れた。
「――その様はまるで地獄の業火の如く」
それだけでは留まらない。
「ごっ……は――!?」
視界が揺れる。地面に血が吐き捨てられた。激痛が体中を巡っていくが、そんな痛みに拘泥している暇はない。
ローグはすでに魔術の詠唱を完了させていた。先手を取られ続ける。だからレイはそれに対処し続けるしか道はない。
そもそもレイにそんなことを考えていられるほどの余裕はなかった。
炎による火傷を負いつつも必死の思いで飛び退く。が、その先にはローグがいた。レイが逃げる方向を読み切ったのだ。だから、すでに魔剣を上段に構えている。
その剣が――おそるべき勢いで振り抜かれた。
丸太で弾き飛ばされたかのような勢いで、レイが壁に叩きつけられる。鈍い音が連鎖した。いくつ骨が折れたかも把握できない。
レイは再び地べたに倒れ込む。
そもそも、ローグの魔剣で斬られたのなら生きてはいないはずだ。あの魔剣の切れ味は、今のレイの魔力強化程度で耐えられるような生易しいものではない。「闇」を纏っていたなら尚更だ。
“解析”の結果など、意味をなしていなかった。前世の経験があるから、ローグのデータは多い。だから動きの予測はついている。だが、その予想しているパターンが複雑すぎる、または速すぎるために反応が追いつかない。
その結果がこの様である。
前世では互角だった相手に、いまだこれだけの差が存在する。
「峰打ちだから心配するな。お前は捕縛すると言ったはずだ……命までは取らない」
ローグは冷静だった。
だが同時に、間違いなく油断していた。レイは今、舐められていた。だから魔剣の能力を使わないなどという選択ができるのだ。
「まだ、だ……!!」
レイは悲鳴を上げる脚を無理やり行使し、立ち上がった。
「その傷で、立てるだと……?」
まだ終わらない。レイの十五年はこんなものではない。何より、レイがここで倒れるということは、リリナやセーラもローグの手に落ちることを意味する。
たとえレイの努力が否定されたとしても――それだけは認められなかった。
切れかかった魔術を振り絞る。ローグを睨みつけ、“解析”を全開で行使していく。
僅かな光明が見えた。
立ち上がったレイは、“銃弾”を連続して放つ。
「なっ……!」
無詠唱の魔術に慣れないのか、ローグは絶句する。
乾いた銃声が連続し、腕を交差させたローグに何発も命中した。
その体には、しかし魔力強化の度合いが高いのか傷はない。だが、レイは傷つくまで撃つだけだとばかりに、“銃弾”術式に追加で魔力を込めた。
――イメージは、フルオート。
ダダダダダダ!! と、凄まじい音を響かせると、やがて術式が霧散した。実物の銃に弾倉が存在し、弾数に制限がある以上、そのイメージを基にしているレイの魔術にも限界がある。
流石のローグの体からも血飛沫が飛び、彼はぐるりと回転するように残りの弾丸をかわしていった。
――そこまで、レイの“解析”は読んでいた。
だからレイはローグの懐に潜り込むことに成功した。咄嗟に振るわれたローグの魔剣を下段から弾き上げると、傷だらけの体で咆哮を上げる。
ろくに動かない体で体当たりをするかのように、レイは剣を突き出した。
それが限界だった。
バキン、という音と共に、レイも地面に崩れ落ちる。
「……その魔術、知っているぞ。無詠唱の点も一致するなら、間違いはない」
ローグは――レイの剣を咄嗟に掴み取り、握力だけで圧し折っていた。
「その目とその剣術も、どこかで見たような気はするが……ともかく」
ローグは荒く息を吐くレイを真剣に観察しつつ、尋ねてくる。
「お前は――アリアの知り合いか?」
「……っ!?」
レイは思わず瞠目した。ここでその名前が出てくるとは思わなかった――つまり動揺したのだ。
その動揺は、レイを注意深く見ていたローグの目には、はっきりと映っている。
冷静に考えれば、レイに異世界の法則や物品を教えたアリアであれば、似たような術式が扱えるのは当然だ。
とはいえレイは彼女が“召喚”以外の魔術を行使するところをあまり見たことはない。ゆえに盲点となっていた。
そもそも、レイですら詳しくはないアリアの魔術に関する話を――なぜ、目の前のこの男が知っているのか。
「……なるほど。どうやら、どこかであの女との関わりはあるような反応だな。それにしては些か若すぎるようにも見えるが……まあいい」
ローグは淡々とした口調で言う。
レイの中で、前世の最後の記憶が脳裏を過る。
レイは表情を歪めた。知らず知らずのうちに、拳が強く握りこまれる。
それは、何も知らなかった男の、くだらない末路の話。
――アリアは、今どこにいるのか? 今もまだ生きているのか?
ローグに遭った時、なぜ、そう尋ねなかったのか。
そもそも行方不明になっている彼女の行方を、なぜもっと真剣に探さなかったのか。
情報が足りなかったとか、検討がつかないと探しようがないとか、理由なんていくらでもある。だから、それに甘えていただけだ。
本当は、そんな理由で探さなかったわけではない。
――分かっていたのだ。
知っていた。本当は、とっくの昔に思い出していた。忘れようとしていただけだ。考えないようにしていただけだ。
だから確認しなかった。
今すぐにでも会いたいのに、彼女について知ることに怯えて後回しにしていた。
レイは、アリアを信じていたかったから。
死ぬ直前の記憶なんて曖昧なものだと自分を騙していた。
「運が良いのか悪いのか……アリアは先ほどまでここにいたぞ。お前と入れ替わるようなタイミングで魔国に戻っていったが」
「何、だと……!?」
先ほどまで、ここにアリアがいた。
なら、ここに足を踏み入れた瞬間に漂った懐かしい香りは、本当にアリアのものだったのか。
いや、そんなことよりも。
(……アリアは、リリナとセーラがやられているのに、見殺しにしたということか)
ただでさえ激痛に歪んでいる表情をさらに曇らせるレイに対して、ローグは興味深そうだ。
レイはどうにか足掻こうとするが、ローグの靴で肩を押さえつけられ、その場に縫い留められる。
「お前のことは後でアリアに確認しておこう。当然、捕縛した後の話だが」
ローグはレイの心境など露知らず、何てことのないような口調で言う。
それが意味するところは、アリアは今、ローグと共に魔国軍に所属しているという事実である。
アリアの涙が脳裏を過る。
実際、あのときの彼女がどんな立場にいて、どういう状況を強いられていたのか、レイには分からない。
だが、
『――死なないで』
あの願いだけは本物だったと、それだけは今でも信じている。
けれど、それ以外は――
「……レイ、様」
ぐるぐると回る思考の中で、ふと声が聞こえた。
それは少女の声だった。苦しそうで、言葉も霞んでいる少女の声だった。
いつの間にか意識を取り戻していたリリナが、うつ伏せに倒れたまま顔だけを上げている。
「……あなたが好きになった人を、信じてあげてください」
レイを勇者アキラの生まれ変わりだと知っている唯一の少女が、懸命に言葉を伝えてくる。
今、レイが何に葛藤しているのか。何に心を悩ませているのか。まるで、それを見抜いているかのように。
「あの人は……その男に、強制されているだけです。絶対に、やりたくてやってるわけじゃ、ない」
「リリナ、お前はアリアと……」
「少しだけ、話しただけですが……」
でも分かりますよ、とリリナは言う。
「アリアさんは――とても優しくて、とても強い方です」
「そうか……」
レイはあまり自分のことを信用していない。信じることができていない。
前世の後悔が、今も胸に刻まれているから。
けれど――リリナが肯定してくれるのなら、リリナが信じろと言うのであれば、そこに疑う余地はない。
彼女はいつも自分を支えてくれた大切な家族だから。
「ありがとう、リリナ」
同時に、ごめんな、と思う。
レイはローグを見た瞬間から、この男への怒りと憎しみで頭がいっぱいになっていた。
地べたに倒れ伏し、傷つき苦しんでいるリリナとセーラのことを、あまり考えられていなかった。
もし自分が敗北し、リリナ、セーラと共に捕まってしまえば、彼女たち未来はない。良くて牢獄、悪ければ実験台だ。聞くだけ聞いて殺されることもあり得る。
そんな彼女らのことを、もっと考えるべきだった。ローグのことなどよりも、優先するべきことがあった。
もちろん状況的にはローグと戦うしかないわけで、何か現実に違いがあるわけではない。
これは心の話であり、信念の話だ。
何のために戦うのか――という自分の原点に関わる問題だ。
こんなザマではいけない。
初心を思い出せ。
そもそも、レイはなぜ自分の力で強くなろうと思った。そうなりたいと思った。
理想を叶えたい。世界を平和にしたい。約束を守りたい。たくさんの理由がこの手にはあって。
――それ以上に、今度こそ大切な人たちを護りたかったからだ。もう二度と失いたくないと思ったからだ。
借り物の力では、それを失ったとき誰も守れないと知ってしまったからだ。掌から大切なものが零れている感覚を覚えているからだ。
本物の力が欲しかった。簡単には消え去らない強い力を手にしたかった。
――なら、その「本物の力」とやらに拘るがあまり、彼女らを失ってしまいそうになっているのは、ひどい矛盾ではないだろうか。
ちくしょう、とレイは思う。強く強く拳を握り締め、悔しさに顔を歪める。
折れた愛剣の刀身を撫でると、そっと地面に置いた。
レイは今まで視界に入っていることに気づきながらも無視していたそれに、ようやく目を向ける。
――聖剣。
アキラという凡人を勇者たらしめた最強の剣。
かつての愛剣は今も、堂々と台座の中央に君臨していた。
「お前に、頼りたくはなかったんだけどな……」
レイはポツリと呟く。
同時に、鎮座している聖剣が僅かに光を灯した。
今もまだ「使える」――その資格があるということは、正直なところこの広間に入った段階から分かっていた。
この体の内にある魂が、聖剣に呼応していたから。
だから――多少の意識を聖剣に向けるだけで、こういうこともできる。
「なっ……!?」
ローグは聖剣の変化に絶句し、気を取られる。それは明確な「隙」だった。
レイは折れた剣を再びローグの体に叩きつける。彼は舌打ちしつつもたたらを踏んで耐えた。
そこへ、
「――風よ!」
膝立ちのセーラが、いつの間にか詠唱を完了させていた。足掻くように伸ばした手から、突風が放たれる。ローグはそれに体を浮かされ、くるりと回転して着地さぜるを得なくなった。
ダメージは与えられていないが、時間は奪った。今度こそ力尽きたセーラを、同じく座り込むリリナがそっと受け止める。
台座に突き刺さる聖剣へと、足を引きずるように向かうレイ。
それを見て、
「まさか……」
と、ローグは呟く。
レイとリリナとの会話を聞き、ようやくローグは察したらしい。
気になっていた既視感が――すべて繋がったとでも言いたげな様子だ。
ローグが、この場で初めて焦燥を顕わにしたが――もう、遅い。
「――お前が、勇者アキラの生まれ変わりだったというのか!?」
ローグの声を背に、レイは複雑な心境で目の前の聖剣を眺めていた。
だが、迷っている時間はない。
やるべきことは決まっている。
それが、どれだけ辛いことであろうとも。
転生の時に誓った言葉に、反することになろうとも。
それでも――護りたいものがあるのだから。
レイは聖剣を握った。その持ち主を把握させるように、強く握り込んでいく。
突如、地下神殿が光り輝き――レイの視界が、白に染まった。
◇
「ちったあマシな面構えになったじゃねえか。悪くねえ。悪くねえ葛藤だ。だから――俺がお前を試してやるよ」
◇
――レイが目を開けると、理解のできない光景が広がっていた。
幻想的だった。花畑という形容が最も相応しいだろう。白い花が、見渡す限り咲き乱れている。
先ほどの地下神殿ではありえない光景を前に呆然としていると、
「久しぶりだな、相棒」
無造作に流している黒髪に、黒い眼帯。不敵な笑みが似合う強面。口元には無精髭を生やす中年の男が、レイの十数メートル先に立っていた。
変わった風貌をしていて、レイの記憶にないその男には左腕がなく――右手には、聖剣を握っていた。