2-32 それぞれの思惑
しとしとと雨が降り続いていた。
曇天の空から舞い降りる水滴は小気味よく地面を叩き、窓越しに雨音を響かせている。
街は薄暗く、当然のように人気はない。
肌に突き刺さるような冷たい寒さとともに、どこか重たい雰囲気が街を覆っていた。
紅の瞳に長い銀髪の青年は、そんな光景をただ無言で眺め続けている。
ローグ・ドラクリア。
彼が佇んでいるのは魔国の最前線に存在する対人族の大要塞都市、通称グレイロア。
そこの監視塔に存在する一室だった。
「長期の潜入工作を終えてやっと戻ってきた男の顔とは思えねえなぁ?」
「……レイモンドか」
ローグは後方から響いてきた高圧的な声音に反応して、ゆったりとした仕草で振り向く。
カツカツと乱雑に足音を響かせながら近づいてくるのは、大柄な体格の青年だった。
刈り上げたような金の短髪に荒々しい顔立ち。口元には好戦的な笑みが浮かんでいる。
「テメェの目論見はすべて上手くいってるじゃねえか。何か不満でもあんのか?」
彼は隣までやってくると、ローグが窓越しに見ている景色へと目をやる。
そして、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「……いや、逃した魚は大きいと思ってな」
「あん?」
ローグの脳裏に浮かんでいるのは、淡い水色の髪の少女だった。
ただでさえ稀少な精霊術師。それだけでも捕縛する価値は十分だった。しかし、あのエレンと名乗った少女が宿していた素質はそれどころではとどまらない。
『四大精霊「ウンディーネ」に対する敵性を確認。危険因子の排除を開始します』
――ローグは圧倒された。アストラの街から冒険者の援軍が到着するまで、時間もそう残されてはいなかった。ゆえに、あの稀少な人材を見逃さざるをえなかった。
もともとの計画には存在しない降ってわいたような幸運ではあるが、彼女に出会ってしまった以上、惜しいという気持ちは捨てきれない。
だが、それを丁寧にレイモンドへと説明してやる理由はとくになかった。
「こっちの話だ。確かに、現状そのものに不満はない」
この事件によって、人族と魔族の間には明確な亀裂が刻まれた。
市民の間に部隊を回し、卑劣なる人族の実験の噂は着々と広まっていた。
人族への憎悪の火。かねてより絶えず燻っていたそれを、ローグの策が爆発的に燃え上がらせていく。そして人族側でも、そろそろローグがあえて残した魔族の痕跡に気づいている頃だろう。当然、その事実に危機感を抱き、対魔族への士気を高めていくはずだ。
最も、その事実を知っているのは魔国軍の中でも一部の人間――レイモンドやローグを筆頭とする戦争継続派の首脳陣だけだ。それ以外の者たちは単純に、スパイとして王国に潜入していたローグによってもたらされた情報が『人造魔族錬成計画』という人族の非道な実験だったという事実しか把握してない。
当然、軍内の対抗派閥ではローグの思惑を察してはいるだろうが。
ローグがそんなふうに思考を回していると、レイモンドが面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「……ケッ、相変わらず適当にはぐらかしやがる」
ローグはレイモンドの態度に苦笑を浮かべた。
彼は魔国軍の新鋭。体格こそ大きいが年齢は十六歳。まだ少年とも呼べる若さだ。
ローグは彼に期待しているからこそ、それなりの位階を与えた上で自派閥に所属させているが、この態度の悪さだけはいずれ何とかしなければならないだろうと考えている。
「まあ気にするな。思惑通りに進んでいるのは間違いない。流石に王国の深部まで潜入したのは危うい賭けだったが……」
ローグはマリアスという錬金術師を影で操り、非道な実験を強行させた。
それはこの人族と魔族の間に亀裂を入れる展開のためではあるが、ローグにはあわよくば人造魔族という戦力を密かに手に入れたいとも考えていた。
半ば洗脳されていたマリアスは気づいていなかったようだが、そもそもの前提。セーラという人造魔族は「魔族領域展開」という起動詠唱により、人族から魔族に肉体が変質する。外見的には瞳の色が青から魔族特有の紅へと染まる。――だが、マリアスの目的を果たすためだけであれば、|こんな機能はいらなかったはずなのだ《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
魔物従属という魔族にとって有利極まりない能力を人族も活用したい。当初の目的はそうだった。だから、こんな機能をつけるのは本来の目的から逸れている。否。正確には、ローグの思惑が密かに潜り込んでいたのだ。ローグはあわよくば、人族と同様の姿もできる人造魔族を生み出し、王国への破壊工作に利用しようとしていた。魔族領域を展開するまでは人族と同様の姿なのだから、これ以上の偽装兵器はない。ゆえに、マリアスが計画を成功させれば、セーラのクローンをある程度量産。後にマリアスを暗殺して創造主を書き換え、人造魔族たちを操り、王国への破壊工作を行うつもりだった。そうすれば王国は混乱状態となり、ローグ自身も魔国への帰還がしやすくなる。そして人造魔族という証拠を魔国に持ち帰れることにより噂に信憑性が増し、魔族の民の対人族の意識は強まったことだろう。
しかし結局、ランドルフや彼の弟子たちがセーラの心に干渉したことにより実験は失敗。
マリアスも冒険者試験の受験者に打倒され、捕縛されたようだった。
「……この通り、俺は五体満足で魔国に帰還している。最上の結果ではない。気になることもたくさんある。だが成功は成功だよ、レイモンド」
そう。いくらローグと言えども無敵ではない。連戦を強いられれば魔力は尽きるし、アストラの街から魔国領まで、どれだけ身体強化して疾走したところで五日はかかる。
つまり単独で王国に潜入し、それなりに人脈も広い研究者のマリアスに接触するなど無謀もいいところだった。今回はクロエラードの事件に王国の目が集中していたおかげでローグはあっさりと魔国領まで逃げられたのである。もし逃げ出した当初から存在に気づかれたいたのなら、簡単に包囲殲滅されて終結していただろう。
「ハッ、そうかよ」
レイモンドは鼻で笑った後、真剣な瞳でローグを見つめる。
「――で、オレらはこれからどうすんだ?」
それはいろいろな意味を孕んだ曖昧な問いだった。
「そうだな」
ローグはあくまで淡々と答える。
窓に背を向け、悠然と扉に向かって歩き始めながら。
「まずは、魔王を説得するところから始めようじゃないか」
◇
木々が鬱蒼と茂る、深い森の中だった。
草木をかき分けながらも、最小限の物音に抑えながら進んでいるのは二人の男女。
片方は黒の短髪、浅黒い肌に実直そうな顔つきをした青年。
もう片方は赤の長髪をたなびかせる、美しい顔立ちの妖艶な女性。
プロの冒険者、ユアン・ボールズとマーシャ・モリンズである。
ただし現在はすでに冒険者の資格を剥奪され、王国から逃亡中の身ではあるが。
マリアスの犯罪に手を貸したことにより、二人は指名手配され、今や賞金首だ。賞金稼ぎを主とする冒険者たちに、虎視眈々と狙われている状況下にある。
とはいえユアンとマーシャは冒険者試験の試験官に潜り込めるほどに実績を積んだ、元熟練の冒険者だ。並大抵の手合いに捕縛されることはないだろう。
「……ここまで来れば、もう追跡は見当たらないね」
マーシャが周囲を見回しつつ、淡々と言った。
ここは王国の東側にあるアストラの街からさらに東へ進んだ、帝国との国境付近。
もはやユアンたちは王国で暮らしていくことはできない。だから隣の帝国に亡命しようというのは、ひどく安直な考えだ。当然、ユアンたちが指名手配されているというのは、すでに帝国にも知らされていることだろう。そんな人間が簡単に職を見つけられるはずもない。せいぜい犯罪者になるか、野たれ死ぬのが関の山である。
ユアンたちを追っていた大半の冒険者はそう思い、もはや哀れみの視線すら向けている。
だが。
――それで構わなかった。
「帝国に戻るのも三年ぶりか」
ユアンはあくまで冷然とした口調で呟く。
常に引き締められているその口元には、珍しく微笑が浮かんでいた。
「王国と魔国の戦争の引き金。帝国としては最高の構図だな」
つまり話は単純。
亡命などするまでもなく、ユアンとマーシャは初めから帝国のスパイだった。
冒険者になった当初から帝国に情報を送り続けていた。
それだけのことだ。
「できれば人造魔族という兵器を運用可能にはしておきたかったが……」
「過ぎたことを気にしても仕方ないんじゃないかい?」
「……そうだな。マリアスの策に乗った時点で賭けだった。結果として逃げ帰る事態にはなったが、まあ、成果は上々。どのみち潮時だったな」
「……この国にも愛着が湧いてきた頃だったんだけどねぇ」
「だからこそ、だ。俺たちは帝国軍諜報部。決して王国の冒険者などではない」
ユアンは憂鬱そうなマーシャに向けて、強い口調で告げる。
「――我らが帝国に、栄光あれ」
二章完。
Next→Episode3:再臨せし剣
二章は反省点の多い章となりました。
現在、三章のプロットをじっくりと練っているのでしばらくお待ちください。
また書籍版についてですが、第1巻はオーバーラップ文庫さまより6月25日発売予定です。
まだ先の話ですが、よければお買い求めいただければ幸いです。