2-30 それでも立ち上がる理由
――どうして押されているのだろうかと、マリアスは苦渋に顔を歪めていた。
眼前で剣を振るっているのは、まだプロの冒険者ですらない少年だ。
その後方で魔術を振るっているのは、研究の実験体にしていた程度の少女だ。
マリアスはこれでも冒険者養成学園の長に抜擢されるほどの実績を持つ元プロの冒険者だ。十数年もの間、魔物と戦い続け、生き残ってきた歴戦の猛者。それも錬金術というマイナーな術式を学び、戦闘に不向きだと云われてきたそれを極め、熟練の実力を手にした。
――錬金術は金を自在に作り出せるような便利な術式ではなく、俗に“賢者の石”と呼ばれる不老不死へと至る魔道具の作成も不可能。せいぜい元々ある金属の形や性質を少し組み換え、操る程度が精一杯だと判明したときから、学ぶ者はほとんどいなかった。そんな滅びかけた術式を、戦闘にも応用できるのだと世間に知らしめたのがマリアス・バーソンという偉大なる錬金術師である。マリアスの戦い方は極めて単純。用意した液体金属を、体の周囲で流動させるように操る。攻撃を受ける前に硬化させることで敵の攻撃を防ぎ、同じように、一部を硬化させて尖らせて飛ばせば殺傷性のある攻撃にもなる。消費魔力はそれなりに多いが、元々魔力量の多いマリアスであれば十分は持つ。単純だがそれゆえに隙が少なく、堅実で強い。マリアスは当然のように名声を高めていく。やがて錬金術師の権威としても有名になり、王国の研究者などとも関わるようになっていった。
魔族研究を専門とする学者に声をかけられたのも、そんなときだった。魔族の固有能力の再現。人族に勝利をもたらすための計画。さらなる功績と名声を求めていたマリアスは、当然のようにその提案に乗った。――錬金術の権威にして、熟練の冒険者。この程度の地位で満足するようなマリアスではなかった。爵位をも狙っていた野心家であるマリアスは、魔族の固有能力の研究に誰よりも没頭した。だが研究は失敗した。研究チームは解散になった。それでもマリアスだけはこの研究に対するべつのアプローチに気づいていた。それこそが王国法に違反する”人間錬成”。すなわちホムンクルスの作成である。迷ってはいたが、そのとき運命のお告げのようにローグという魔族のサンプルも現れた。しかも彼は積極的にマリアスに協力してくれた。ならば、やらない理由はなかった。これは神の導きだと思っていた。その予感の通りに人造魔族の錬成に成功。マリアスの実験は、悲願は、成功した。
――そのはずだった。
「貴様ら……!!」
だが、現状はこれだ。功績とは、名声とは何だったのか。求めていたもののすべてが目の前から消え失せ、これまで積み上げてきたものすら崩れ落ちていく。錬金術の権威。冒険者養成学園の長。それらの地位をマリアスは失い、王国の重犯罪者となり、何もかもを奪われていく。すべて――この実験体のせいだ。セーラが本来の性能を発揮していれば、命令に逆らうなどという、これまで一度もなかった事態をこのときに限って引き起こさなければ、マリアスは貴族の補助を受け、これまでとは比較にならないほど多大な功績を上げていたはずだったのに。すべて、水の泡だ。こうなれば魔物生産兵器に王国が気を取られている隙に帝国への亡命でも考えるか――などと、マリアスは思考を回していく。これまでは怒りだけが先行していたが、頭が冷えてくると、こういう選択肢も出てくる。そうと決まれば、はやく逃げ出したいところではあったが、その前にやるべきことがある。そう、それは当然、すべての原因であるこの二人を、完膚なきまでに叩きのめしていくことだ。
マリアスは憎悪に瞳を曇らせながら、消費魔力を引き上げ、錬金術式の精度を高めていく。
「貴様らは、必ず地獄へ落とす……!!」
迫り来るレイの剣撃を液体金属でガードし、即座に変形させ、棘を突き出して攻撃に転じる。攻撃を受けると同時に棘を突き出す攻撃をやれば確実に当てられるのだが、そこまで便利な術式ではない。変形に意識を向けると、硬化が杜撰になる。並の相手ならそれで構わないかもしれないが、レイの剣は鋭く強烈だ。硬度から意識を離せば即座に砕かれるだろう。
球体状に防御した液体金属のベースから、音もなく三本ほど棘が伸びていく。レイは首を振り、体をよじって棘を避けた。「おお!!」という裂帛の気合とともに振り抜かれた一閃が滑らかに棘を切り離していく。――今度は棘を伸ばす速度に意識を向けすぎて、その硬度を犠牲にしすぎていた。この術式を操るために最も必要なのは意識配分の感覚だ。マリアスは追い詰められる中で集中力を研ぎ澄ましていく。現役だった頃の感覚を取り戻していく。
「錬金の祖よ、己が魂を祓い、完全な人間へと至ろうとした者よ」
詠唱を重ね、術式を強化。消費魔力を増やしパフォーマンスを上げていく。ぐん、と液体金属の動きが上がったものの、湯水のように魔力が減っていく。せいぜい数分持てばいいほうだろう。だが、この数分で仕留めるとマリアスは覚悟を決めていた。
「卑金を金に、あるべき法則に鉄槌を。祖の思想に則り、世界創造の過程を示せ……!!」
裂帛の気合とともに刃物のように形成した液体金属を袈裟斬りに振り回す。一瞬、レイは受け止めて攻撃に移ろうとしていたようだが、それが周囲の機械や円柱状の容器を真っ二つに寸断していくさまを見て即座に方針を転換した。体を横に振って斬撃を回避していく。とっさの動きだったのでバランスを崩して転倒したものの隙を最小限を抑えるように、くるりと転がって膝立ちに剣を構える。まだ少年とは思えないほどに戦い方を理解し、対応している。だが、甘い。マリアスはすでに三本もの金属の棘を触手のように唸らせながらレイに肉薄させていた。レイの対応も素早いが、回避がギリギリで間に合わない。それでも棘の一本が彼の脇腹を僅かに削っていくだけだった。レイは苦渋に顔を歪めるが、戦闘不能には遠い。がくり、と膝をついた隙を狙って全面攻勢に意識が傾きかけたマリアスだったが、直後に窮地を悟って液体金属を集めて盾を作った。刹那、セーラの魔術が次々と盾に叩きこまれていく。マリアスは舌打ちをしつつも次の手に移っていた。段々と思考が戦闘に没頭していく。素質は高いものの戦術に関しては未熟なセーラ、冷静で賢いが、まだ自分の戦術に技量が伴っていないレイ。――厄介ではあるが、できる隙は分かりやすい。
マリアスは液体金属を二分させ、並列思考で術式を操っていく。盾でセーラの魔術を防ぎつつもレイへの追撃は止めなかった。蛇のような軌道で膝をつくレイに液体金属が迫る。
「く、そ……!?」
レイはとっさに剣を振るったが、マリアスは渾身の魔術さばきでその太刀筋を回避。レイの絶句した表情が見えた。だがこの機会を逃せば次の隙は遠いということを、マリアスの熟練の勘は悟っていた。ゆえに、この一瞬に全身全霊を込めていく。ぎちり、と槍の穂先のように尖らせ、硬化させた液体金属の先端を、レイの胸元へと一直線に伸ばしていく。疾く早く、目にも留まらぬ速度で揺れ動きながら、鞭のようにしなりつつ肉薄していく。
「レ、レイ……!?」
「チッ――」
「――終わりだ」
獲った、とマリアスは確信を抱いた。
最も厄介なこの少年さえ片付けられるのなら、この戦いは終わったも同然。
セーラ一人などマリアスの脅威にはならない。慢心ではなく、ただの事実として。
「やめてっ……!?」
そして。
セーラの慟哭が聞こえた。
地面に崩れ落ちたレイから、紅の液体が流れ落ち、血の海が形成されていく。
この瞬間、マリアスの口元には勝利の形の笑みが刻まれた。
「これで私の勝ちだ。まったく手間をかけさせてくれたな、人形が」
◇
――油断したわけではない、とレイは薄れゆく意識の中でふと思っていた。
むしろレイは最善を尽くしていた。これ以上ないくらいに集中力を研ぎ澄まし、高速で思考を回して次の手を必死に考え、足りない実力を発想で補いながら、どうにか渡り合おうとして、それでもセーラの援護がなければ戦いにもならないような状態だった。
対するマリアスは徐々に本領を発揮していった。冒険者だった頃の感覚を取り戻したのだろう。結局のところ単なる地力の差である。命懸けで食い下がっていたレイが無様に伏せているのは、その証明に他ならない。マリアスは強い。最初から分かっていたことだ。何十年も錬金術を研鑽し、冒険者稼業も熟練の域に達したような人間が弱いわけがない。
そんな男に挑んだ結果が、この現状だ。腹部を貫かれ、激痛が脳内を駆け巡っていく。平衡感覚がなかった。視界は揺れ、ぼんやりとしている。手にはべっとりと血が塗りたくられていた。広がっていく血だまりに、まるで現実感を見いだせなかった。とにかく、痛い。頭が割れそうで、腹が曲がりそうで、背中にも切り刻まれたかのような激痛が迸っていた。
意識という灯火が消えかかり、海の底へと沈んでいくような錯覚。
その途中で。
「……レイッ! しっかり、して……!!」
――誰かの、声が聞こえた。
聞こえている。知っている。覚えている。どんなに意識が曖昧な状態だったとしても。
これは、少女の声だ。セーラ・テルフォードというひとりの少女の慟哭だ。
狂気の錬金術師に生み出され、望まぬ選択を強いられ、悲劇の運命に見舞われた少女。
創造主の刷り込みと命令で、自分の意思が何も分からないような状態になって。
それでも彼女は、自分が作った繋がりに救われた。
『……セーラは、もう、あなたの人形なんかじゃない』
だからこそ自分の想いを、言葉にすることができた。
あのときの涙は、大切だと思ってくれる友達の存在は、彼女が人間だと証明する証。
その繋がりは何よりも尊いものだとレイは思う。
だとするなら。
レイの仕事は、勇者の責務は、彼女と彼女が作った繋がりを守ることのはずだ。
――思い出せ、レイ・グリフィス。転生の勇者よ。
負ける可能性が高いと知っていて、剣を握った理由は何だ。
試験には何ら関係がないと分かっていて、この研究所に乗り込んだ理由は何だ。
せいぜい会って二日程度の少女のために、命を懸けた理由は何だ。
脳裏に、マリーとセーラが抱き合って涙を流していたときの光景が浮かんだ。
レイはふと激痛を忘れ、口元に笑みを浮かべた。
そう。
最初から分かっていたはずだろう。
レイの行動に大層な理由なんて何一つとして存在しない。
――ただ悲劇では終わらせたくないと、そう思っただけだ。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
立つ。立ち上がる。血に濡れた腕に気迫を込め、震える膝に力を入れ、すでに限界を訴えている肉体に鞭を打って、今の自分が懸けられる全霊を費やして立ち上がっていく。顔を上げる。揺れる視界を、地べたを映していた瞳を、仰ぎ見るように動かす。ゆらり、と上体を起こし、いまだに握ったままの剣を、再び握り直した。手放していなかったことに僅かな驚きを覚えつつ、血まみれのまま、前へと足を踏み出していく。
レイの前にはセーラが立っていた。小さな体を大きく見せるように手を広げ、レイを守るように構えていた彼女は、驚いたようにこちらを見ている。流した涙を拭いながら、信じられないとでも言いたげな顔をしていた。呆然としていたのは、セーラの対面のマリアスも同じだった。絶句したように口を開き、足を一歩、後ずさっていく。
どれぐらいの間、レイは地面に伏せていたのだろう。今にも途切れそうな意識では、時間感覚はひどく曖昧だ。状況は何も分かっていない。だけど、顔を上げただけで分かったことはいくつかあった。
それは、セーラが傷だらけになっていること。
傷を負ったレイを、倒れ伏して、今にも死にそうで、このまま放っておいたほうが遥かに利口だというのに、それでも彼女は必死に、レイを守ってくれていたこと。
それだけ分かれば充分だった。
「……セー、ラ」
レイは何度も剣を握り直しながら、意識も絶え絶えに声をかける。
「レ、レイ……!」
「俺にはもう、一人で走る力がない」
前へと、足を踏み出す。
マリアスを正眼に見据えて、レイはセーラを追い越していく。
「だから、お前の力で支えてくれ」
彼女はひどく心配そうな顔をしていたが、首を振って、涙を払い、強い瞳で頷いた。
亀のような歩みをするレイに、魔力を込めて詠唱で術式を構築していく。
「――風よ! 疾く走れ!!」
それは、足に風の加護を与える魔術。
もはや自力では走れないレイを手助けする術式。
駆ける。
風のように。
鮮血に濡れて輝く白銀の剣を構え、一直線にマリアスへと肉薄していく。
(一撃で、決める……!!)
対して。
マリアスには、もう錬金術式を操る魔力はほとんど残っていなかった。
数分間だけ液体金属のパフォーマンスを上げたがゆえの魔力切れ。
レイに致命傷を与え、マリアスの策は成功したはずだった。
セーラ一人だけならば、残存魔力だけでどうにでもなると思っていた。
だが、もはやレイの斬撃に耐えうるだけの硬度は維持できない。
彼の誤算は、たったひとつ。
人間の想いという原動力を見誤っていたことだろう。
「く、そ……!? だが、その体で何ができる!?」
想定外の事態が起きたとはいえ、死に体のレイの剣撃なら防げるはずだ。
マリアスは盾状に液体金属を展開する。
レイは明らかに限界。死力を尽くしているだけだ。
この一撃さえ耐え抜けば、またマリアスの手に勝利が戻ってくる。
ゆえに、マリアスは残存魔力のすべてを費やして盾の硬度を高めていく。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
そして。
決着はひどく単純だった。
鉄を斬り捨てる轟音が炸裂したときには、レイはすでにマリアスを追い越していた。
一瞬の静寂の後に鮮血の華が咲き、両者ともに地面へと崩れ落ちた。
次回、二章エピローグ。