1-28 残酷な真実
クリフォード・オースティンは、エルフ族の里を愛していた。
豊かな緑、悠久の時を過ごした巨木たち、踊るように宙を舞う微精霊、笑顔溢れる人々の活気――そのすべてが、心地良かった。
だから護りたいと思った。
できることなら、己の手で導いてやりたいと考えた。
「アンタになら、安心して任せられるよ」
「むしろお前さんしかいないだろう、何言ってんだ」
「頼むぞ、これからもな」
クリフォードが覚悟を決めて次代の長になりたいと名乗り出たとき、多くの人々がそんな反応を返した。
ハイエルフの天才魔術師。
若くして強いというのに決して驕ることはなく、黙々と勉学に勤しみ、魔術の修練を続ける真面目な性格。
寡黙なところもあったが、皆が困っていたら躊躇いなく助ける。
基本的に頭が良く、いろいろな交渉において頼りになる。
彼は気づいていなかったが、そんな男を信じないはずがない。
――いいのか、本当に、私が長になっても。
「……そう、か。ありがとう」
当時のクリフォードは、そんな不安を呑み込んで感謝を告げた。
皆の笑顔がもっと溢れるように、努力しようと思った。
まずクリフォードは、人族――ザクバーラ王国やレイストラス帝国からやって来る酔狂な冒険者たちを、これまでより歓迎する方針に切り替えることにした。
冒険者用の武具屋や宿屋なども建設した。
当時のエルフ族には他種族に対する偏見少なからずあったが、クリフォードは粘り強く説得を繰り返した。
種族が違っても、我らは同じ『人間』なのだ。
ならばきっと友達になれる、と。
「あなたがこの里の長なの? わたしはフレイ! メイヤール伯爵の子よ! ふふ、驚いたでしょう?」
ザクバーラ王国のメイヤール辺境伯家は元々エルフ族に興味を持っていたらしく、当初からクリフォードに協力してくれた。
その娘であるフレイ・メイヤールは、何というか珍妙な女だった。
クリフォードは十歳ほど年下の彼女の言動にいつも悩まされ、そして、その輝くような笑顔に勇気と元気を分け与えられていた。
「冒険者に不満を出させない方法? やっぱりお肉がないことかな?」
「肉、か……そうだな、人族は牛や豚が好きなんだったか」
「ていうか、何でエルフは食べないの? 美味しいのに」
「別に食べようと思えば食べられるだろうが……エルフは自然と共に在る。自然に生きている動物は友達だ……そう考える者が多い。だから、できる限り、友達の命を奪いたくはないだろう?」
「そういうものなのかー。困ったなー」
「ただ、食肉のような味と食感がある植物ならあるが……」
「それだ!!」
人族とエルフ族の文化の違いをよく考慮して擦り合わせながら、皆が仲良くできる方策を考える。
クリフォードは里長の仕事にやりがいを感じていた。
もちろん楽しいことばかりではない。
度々、人族とエルフ族が対立するような事件が起きる。
その矛先は常にクリフォードへと向いた。
里の長であり、今の方針を立てている本人なのだから当然だろう。
それでもクリフォードは胸を張って対応した。
少なくとも、そう見えるように努力していた。
どんなに不安でも、長が狼狽えれば、民はもっと不安になる。
「クリフォードは、偉いね。わたしがいい子いい子してあげる!」
「お、おい、やめろ」
「……わたしの前ぐらい、強がらなくてもいいんだよ?」
だから、その努力が徐々に報われて。
種族間にあった壁は緩やかに溶かされていく。
クリフォードは決して焦らなかった。
機を見て、段階を踏んで、交易を増やしたり、呼び込む冒険者の人格を見て、“迷いの結界“を通らせる人間を増やしていた。
世界樹の迷宮は最難関だと人族の巷でも話題になり、やがて最上位の冒険者たちが挑む迷宮都市の一角とすら呼ばれるようになった。
「私がここまで来れたのは、お前のおかげなんだ」
「嘘、じゃない、よね……?」
「ああ。私と、結婚してくれ」
そしてクリフォードは融和政策に協力的とはいえ、流石に結婚は渋るメイヤール伯爵家を説得し、フレイと結婚して子を設けた。
二種族に祝福されたハーフエルフの子供が生まれる。
最愛の妻から生まれた子供には、リリナと名付けた。
「……フレイ」
「どうしたの、あなた?」
塔から里を見下ろせば、和気藹々と語り合う人々の姿があった。
エルフ族と、人族。
馬鹿みたいに酒を飲みながら、呑気に騒ぎ立てている。
「もう少しだな……」
「あなたが夢見た未来まで?」
「ああ」
後はもう時が経過するだけで、きっと両種族の壁はなくなる。
そんな。
クリフォードの努力の結晶は。
ある日突然。
何の前触れもなく。
すべてが灼熱の火炎に包まれ灰燼に帰した。
「どうして…………っ!!」
後に『エルフ狂いの惨劇』と呼ばれるその事件。
具体的には貴族の手引によって、冒険者に扮した私兵がエルフ族の里に紛れ込み、“迷いの結界“を維持する四人の老エルフを殺したのだ。
『四賢人』と呼ばれたこともあるハイエルフ達。
簡単に殺されるはずがないのだが――無惨な死体となっていた。
今にして思えばエルフ族の手引がなければありえないほど、静かで鮮やかな暗殺だった。
当然のように結界は消え去り、魔物が里に雪崩込む。
悪夢の始まりだ。
クリフォードが“迷いの結界“を復旧する為に術式を解析している間、エルフ族の戦士たちは魔物と泥沼の戦争を繰り広げていた。
――やけにアンデット系の魔物が多い、と誰かが言っていた。
「……頼む、堪えてくれ」
苦渋の決断だったが、それでも結界が治らなければ解決しないのだ。
クリフォードは集中力を高め、作業を早めることしかできない。
そしてハイエルフの天才的な才能が結界を急速に復旧させる。
作業を終えたクリフォードが外に顔を出すと――まるで、この世のものとは思えない地獄が顕現していた。
死体の山が積み上がり、生き残ったエルフ達は暗く俯いている。
「……フレイ」
それだけではない。
残酷な真実がクリフォードを打ちのめす。
下手人は、クリフォードが信頼していたメイヤール伯爵家だった。
つまり――結婚し、愛していたフレイも協力していたのだ。
どうして、と、言葉を放つこともできなかった。
何故ならフレイは何者かに襲撃され、既に死にかけていたのだから。
クリフォードの必死の治癒魔術により何とか一命は取り留めた。
だが彼女には障害が残り、何一つ喋ることができなくなった。
少しでも障害が治癒する可能性を考慮して、クリフォードはダリウスという生前は高位魔術師だったスケルトンに、フレイを預けた。
「期待はしないでくれ」
ダリウスはそう言っていて、実際に治ることはなかった。
――この世は地獄である。
最早クリフォードは、何も信じることはできない。
愛していた者とその家族に裏切られ、そして彼らは激怒した勇者アキラの手によって殺されているらしい。
最もエルフ族に協力的だったはずの彼らの仕業だと知って、里の民は人族を憎み、まるで信用しなくなった。
彼らは“エルフ好き“の貴族から、“エルフ狂い“の罪人となった。
クリフォードは呆然と空を見上げる。
気分とは裏腹に、宝石のように澄み渡った蒼い空を。
「……それでも、私は」
クリフォード・オースティンは、折れない。
鋼のような精神を、意図せずして持ってしまったから。
里ではなぜか、フレイを殺したのはクリフォードだということになっていて、それを特に否定はしなかった。
そんなことは心底どうでもよかったから。
結果として、クリフォードは更に求心力を強める。
あの憎き人族を、己の妻だとしても血祭りに上げた。
そんなクリフォードを、当時のエルフ族は更に支持したのだ。
クリフォードは人族に対して閉鎖的な対策を取り、里を護る戦士団を強固にして、“迷いの結界“の研究を進めた。
もう二度と、里があのような事態にならないように。
人族を憎んでいるこの里にいても苦しませるだけだと考え、クリフォードは苦渋の決断で、リリナを外に追放することにした。
実際には、変わり者の貴族と呼ばれたアルバートに預けたのだが。
――人族には悪人しかいない、と。
たとえ最愛の妻に裏切られても、クリフォードは里の民とは違い、そこまで極端に考えたわけではなかったから。
その方が娘の幸せに繋がると、クリフォードは信じた。
そうして。
クリフォードは、里以外のすべてを失った。
だから。
「二度と、あのような惨劇を起こさない為に」
そう言って部下になり、長い間、腹心として動いてくれた人物。
ジェイル・マリオット。
その言葉を信じた。
彼はクリフォードの救いとなった。
同胞だと思っていた。
同じ想いを抱いている、大切な仲間だと考えていた。
妻が亡くなり、娘を追放さぜるをえない状況になって。
どんなに苦しくても、辛くても、友がいるから耐えられる。
歯を食いしばって歩いていける。
そう思っていたから。
ジェイルがすべての黒幕だと気づいたとき。
――生まれて初めて、沸々とした怒りの感情を自覚した。
♢
炎熱地獄の中で、“魔弾“が暴虐の限りを尽くした。
やがて燃えるような熱気が収まり、魔術の振動が響かなくなる。
リリナは痛みがないことに気づいて、ゆっくりと目を開けた。
土煙が風と踊り、視界の大部分を遮っている。それでも周囲を見回すと、綺麗だった湖の畔は見る影もなく、無惨な荒れ地と化していた。
「お父、様……?」
「……リリ、ナ」
リリナは魂が抜け落ちたように、真横に倒れている男に目をやる。
魔術障壁は真っ向から破られ、体中から血を流している。息も絶え絶えで、生きているのが不思議なほどの状態だった。
その中でも最も深い傷は、リリナが放ったレイピアの刺し傷だ。
クリフォードなら、リリナのレイピアが届く前に殺せたはずだ。
だというのに。
リリナには、何一つ傷はない。
クリフォードはリリナを殺しに来たわけではなかったのか。
「逃げ、ろ……」
どうしてクリフォードは、リリナを攻撃から庇っている。
なぜリリナを案じるような発言をしている。
そもそも、何故リリナは味方であったはずのジェイル達に攻撃されているのか。
「ごめん、なさい……」
分かっている。
本当は、もう、気づいていた。
気づいてしまった。
「……本当に馬鹿だなぁ、君は」
愉悦混じりのジェイルの声が淡々と響く。
クリフォードがリリナを護ろうとした瞬間から、いったい何が真実なのか、本当の敵が誰なのか――リリナは悟った。
「君はこれ以上なく道化だよ。自分でもそう思わないのかい?」
ジェイル・マリオットは嘲笑う。
両手を大きく広げて、口元を不気味に引き裂いている。
リリナが顔を上げると、見たくもないほど悲惨な光景が広がっている。
何故なら。
ジェイルの後ろで弓や“魔弾“を構えるエルフ族は――すべて、とうに死んでいた。
グールという魔物に変化している。
だからこそ機械的な動作を繰り返していたのだ。
アンデットを操るジェイルの能力に従っているだけだったのだ。
『クリフォードを、殺せ』
――つまり。
何もかも気づいてしまった。
ジェイルの言葉は何もかも嘘だった。
母親が生きていると思って嬉しくなった。
本当は、とうに死んでいたのに。
クリフォードはリリナの命を狙ってなんかいなかった。
ただ、純粋に娘に会おうとしていただけだったのだ。
「私は、なんてこと……」
リリナは絶望した。
これほどまで、ジェイルの掌の上で踊っていたことに。
「ありがとうリリナ。君は大いに役に立った」
ジェイルは心を込めて言うと、腰を折って礼をした。
そうして、側に控えるダリウスに目をやると、
「さて、引導を渡してやるか。――ダリウス」
「ハァ……やだやだ。なんでボクがこんなことを……」
骸骨が、こちらに向けてゆっくりと右腕を上げた。
ダリウスの掌に、魔力が集中していく。
「まだ、だ……!!」
だが。
リリナは信じられない光景を見た。
掠れた声を上げながら、クリフォードが立ち上がる。
足元に血の海を作りながら、なお。
家族を護る為、曇天の空に雄叫びを上げている。
「はやく、行け……!!」
「で、でも……お父様……!?」
「――早く逃げろ!! 私は、お前まで失いたくないんだ!!」
「ッ――!!」
リリナが身を投げ打つように走り出す。
大切にしてくれていると、ようやく分かったのに。
まだ家族として認めてくれていると、やっと気づいたのに。
絶望しても。
嘆いても。
父を失いたくなくても。
父の想いまでは、蔑ろに出来ないから。
だが。
「無理だよ」
囁くような声。
それで気づいた。
リリナの行く手には、何十人ものエルフの死兵が立っている。
「い、や……」
今度こそリリナは動けなくなる。
クリフォードはふらふらと、ダリウスと向かい合った。
もう戦える体ではないはずだ。
どうしてあんなにボロボロになって、それでも立ち上がるのか。
その答えはもう聞いた。
――だけど。
家族を失いたくないのは、リリナも同じだったのに。
「あ……あぁ…………」
また同じ光景が繰り返される。
淡々と、何の奇跡もなく。
クリフォードが傷つき、ダリウスに圧倒されていく。
そして。
呆然と膝をついたリリナに近寄ったジェイルが、剣を抜いた。
「しつこい奴だったが……これで終わりだ」
リリナは慟哭する。
もう、やめて、と。
これ以上、お父様を傷つけないで、と。
唯一の肉親と、もう一度会いたいだけだったのに。
もう一度だけ、暖かい言葉が欲しかっただけなのに。
なんで。
どうして。
――どうして、こんな目に合わなければならないのか。
リリナはぽろぼろと涙を流し、頬を伝って地面へ零れた。
「そんなの、僕が知るかよ」
ジェイルは悪辣な笑みを浮かべた。
――この男は、どこまで腐っているのだろう。
人の尊厳を護る為の領域を土足で踏み躙っていく。
『……大きく、なったな』
悲嘆に暮れても。
リリナのちっぽけな願いが叶うことは、もう、ない。
間違えた道を進んでしまった。
想ってくれていた父親に剣を刺してしまった。
だから、こうして無惨な終わりを迎えるのだ。
父を信じきれなかった娘には、当然の末路だろう。
分かっていて。
理解していて。
傲慢だと、自分には過ぎたものだと、そう知っていて。
(……誰か――)
それでも。
家族と笑い合う未来が、どうしても欲しかった。
(――お願いだから……助けてよ)
リリナは死を覚悟して目を瞑った。
「じゃあね。もう君はいらないんだ」
ジェイルの剣が振り下ろされる。
リリナの首が切り飛ばされ、儚く脆い小さな願いが塵となる。
家族二人の想いが失われる。
一人のハーフエルフの命が散り、ひとつの悲劇が生まれる。
その。
直前の出来事だった。
「――待たせたな」
声が聞こえた。
刹那。
転生勇者が君臨する。
轟ッッッ!! と、すべてを薙ぎ払う爆音が響き渡った。
「なん、だ……お前は!?」
不意打ちをまともにくらったジェイルが後方に吹き飛ばされ、ダリウスは警戒するように飛び下がる。
終わったはずだった。
リリナの願いは叶わないはずだった。
――なのに。
クリフォードも、リリナも、まだ、生きている。
儚く脆かったはずの幻想は、まだ叶えることができる。
――気づけば。
リリナの眼前には、とある少年の後ろ姿があった。
「…………レイ、様」
灰色の外套。茶色の髪。異様にさまになっている白銀の剣。リリナが思っていたよりも遥かに大きい、男らしい背中。
「よう、リリナ。遅れてごめんな」
かつて勇者だと言ったその少年は、後ろのリリナを一瞥すると、
「助けに来たぜ、何もかも」
不敵な笑みを浮かべて告げる。
もう大丈夫だぞ、と、宣言するように。