1-26 母
リリナが見間違うはずもない。
十数年の時が経過し、老いさらばえて皺だらけになってはいるけれど、ソファに腰掛けている女性は、間違いなくリリナの母親だった。
「お、お母……様――」
呆然と呟きながら、リリナが一歩踏み出そうとすると、
「――灯り」
ポツリ、と。
嗄れた声音で、フレイは言葉を発した。
耳を澄ますと、「灯りを消せ」と言っているようだった。
表情は無機質なまま、体を震わせている。
目の焦点が合っていない。自らの体を抱き、ただ同じ言葉を繰り返している。その姿は哀れとしか表現できそうになかった。
「どう、して……こんな…………」
「僕がクリフォードの手から逃したんだけどね」
地下へ続く階段の上、廊下からジェイルの声が響いている。
フレイは殺された。
少なくとも、里ではそういうことになっていた。
「クリフォードは、フレイを殺そうとした。だから、僕は何とか傷だらけのフレイを逃したんだ。見ていられなかったからね」
リリナはジェイルの言葉を受け止めながら、灯りを消す。
フレイが灯りを怖がっている様子だったから。
「……それでも、彼女は体の傷以上に、心の傷が深かったみたいだ。愛していた旦那に殺されかけて、娘は追放された……そのときの心境はどのようなものだったのか、僕には計り知れない」
「だから、こんな状態に……?」
「ああ。心の病みたいだ。まともに意思疎通も取れない。光を怖がっていることは分かるんだけど……」
ジェイルは苦渋の声音で語り続ける。
リリナは体の震えが止まったフレイに近寄ると、そっと抱き締めた。
言葉とも取れぬ呻き声がもれる。
リリナの目尻から、自然と涙が溢れた。
二度と、会えるとは思っていなかったから。
フレイの虚ろな瞳には、何の意思も宿ってはいなかった。
それでも。
血の繋がった家族に会うことができて、リリナは嬉しかった。
「なんでお母様は、こんな辺境の一軒家に……?」
「彼女はこの屋敷に住むダリウスという魔術師の治癒を受けているんだ。こんなところに家を構える偏屈な男だけど、治癒術はここらで最も優秀みたいでね。こういう言い方はあまりしたくないけれど……フレイがまだ生きていられるのは、間違いなくあの男のおかげだろう」
「そう、なんだ」
リリナはフレイの頬に手を添えた。
まるで枯れ木のような肉体だった。
これでは、まともに動くこともままならないだろう。
まだ六十歳程度だろうが、心の病は老化も早める。
エルフの血が混じっているリリナとは違い、寿命も短いのだ。
――クリフォードを、殺せ。
「…………え?」
リリナは耳を疑った。
だが、眼前の老婆は間違いなく、その言葉を繰り返している。
聞き取れないほど小さく、だが濃縮された殺意を籠めて。
『君の目で確かめて欲しい。それできっと、覚悟が決まると思うから』
ジェイルが言った言葉が脳裏に蘇った。
そのとき、リリナは悟った。気づいてしまった。
――ああ、そうなのか、と。
(……私が望む未来なんて、やってくるわけなかったんですね……)
夢を見ていたのだ。
理想を唱えていたかったのだ。
こうだったらいいな、と。
本当はお父様とお母様は仲良くて、リリナは危ないから逃してくれたのだとか、そういった根拠のない理屈を信じたかった。
(……ごめんなさい、レイ様。無駄な苦労をさせてしまった)
外堀はもう埋められている。
レイと共に夢を見る時間は終わってしまったのだ。
リリナは目を瞑ると、ゆっくりと開く。
薄暗い中に、枯れ木のような母親の姿が窺える。
(……信じ、たい。信じたかったのに……)
リリナは魂が抜け落ちたかのように、呆然としていた。
階段を降りてきたジェイルが手を差し伸べる。
「……行こう。あの男を、生かしておくわけにはいかないんだ」
「……そう、ですね。約束の刻限が変わっているから、時間はないです」
「変わってるだと? ……そういえば、グリフィス家の息子たちがこちらの方面に向かっていたみたいだが、まさかそれは……」
「……お父様への連絡役です」
「無茶だ、人間が里に入れるわけがない。貴族なら尚更だよ」
「……」
リリナは無言だった。
最早すべてがどうでも良かった。
リリナはジェイルに、無機質な瞳を向ける。
「……満月の夜の二日前。つまり明日の夜に、お父様は現れるはずです」
あるいは、その情報を伝えた理由は、母親の見るに耐えない姿に同情を覚えたからかもしれない。
「……分かった、信じよう。それに併せて計画を組み直す」
待てよ、まさかダリウスが不在なのは――と、小さな声でジェイルが呟いていたが、リリナは特に気に止めなかった。
そんなことは心の底から、どうでもよかったから。
♢
「…………う、ん?」
暗い。なぜか異様に重苦しい瞼を開いて、視界を確保する。まず目に飛び込んできたのは、息が詰まりそうな曇天である。
大きい入道雲がいくつも空を流れ、暖かい陽光を塞いでいた。
「ここは……」
レイ・グリフィスが起き上がると、周囲は草原だった。
混乱する思考を統一する。頬を両手で叩くと、意識が冴えた。
ここは、おそらく『魔の森』から少し離れた平原だろう。
確か、クリフォードに敗北したはずだったのだが――まさか、わざわざここまで連れてきたのだろうか。
元里長の命を狙ったのだ。殺されてもおかしくないし、よくて牢獄暮らしだろうと思っていたのだが。
わざわざ、レイをここまで連れてきた。
それはいったい、何の為に?
『今度こそ確実に、あのハーフエルフの娘を殺す為だ。誇り高きエルフ族の血に、薄汚い人族の血が混ざりあった禁忌。せめて、かつて道を間違えた私自身の手で引導を渡してやらなければならない』
『……そう、か。リリナは良い主人を持ったな』
クリフォードの言葉が脳裏を過ぎる。
その中で、レイにある仮定が生み出された。
(……まさか、あの野郎……)
レイは痛む体を起き上がらせる。
この戦いの真実を確かめなければならない。
曇天に隠れて分かりにくいが、レイはしばらく眠っていたらしい。
変更された刻限まで、あと一時間といったところだ。
必ず間に合わせる。
レイは通話術式をエレンに繋げた。
どうやら、まだ効果範囲に存在するらしい。
“迷いの結界“を抜けるためにはエレンの力がいる。
レイが居場所を問い質そうとすると、その意図を知っていたのか、エレンが切迫したように正確な居場所を告げてくる。
「待ってろ。すぐに追いつく」
レイは魔力で体を強化すると、『魔の森』に向かって駆けた。
今度はダリウスはいない。
それでも『魔の森』の奥地まで、何とか突破してみせる。
(魔力波を自らを中心に一定の周期で放出。反射時間で地形を把握)
レイは巨大な木々を避けながら、最高速度で走り抜ける。
その動きに淀みはなかった。
夜の帳が下りて、森は薄暗くなっているというのに。
何故なら魔術によって、レイがこのまま行けば数十秒後に走っているはずの場所の地形まで理解しているからだ。
故に最短ルートを選べる。無駄を削れる。魔力消費はそれなりにあるが、動いている気配まで感じ取ることができる。
魔物の索敵効果もあるのだ。
馬鹿正直に魔物と交戦するよりはマシな消費量である。
だが。
「――ッ!?」
そもそも動いていない魔物までは感じ取れない。
レイはそれまで普通の樹木だと思っていたモノが急に動き出したのを見て、強引に方向を転換した。
トレント。
木々に化ける魔物である。
ノコギリのように鋭い枝が、次々に振り回される。
レイは初撃を剣で受け流し、それ以降は躱しながらすり抜けていく。
まともに相手をしている暇はないのだ。
そうしてトレントに気をつけながら、魔物を回避していく。
約束した刻限はとうに過ぎてしまっていた。
しばらく疾走していると、前方にエレンとデリックの姿があった。
四角形状の結界に閉じ込められている。
おそらくダリウスのものだろう。
「……エレン!」
「レイ……」
レイが慌てたように駆け寄ると、エレンは膝をついていた。
彼女はレイの方を見上げる。
その目尻からは、涙が溢れていた。
「お願い、リリナさんを、助けてあげて……!」
いったい何が起こっているのか。
それは全く分からないけれど、それでも。
レイは躊躇いなく頷き、戦闘音のする方角に足を向けた。