1-25 強者
一秒が引き伸ばされた世界の中を、レイは疾走する。
風を纏った剣撃――その名は“閃空“である。
風が生み出される理屈をアリアから学んでいるレイは、明確なイメージで風属性魔法を構築することができる。
風すなわち空気の流れ。気圧の不均一を解消する概念。低気圧と高気圧――その差によって風が吹く。吹いていると思い込む。レイの剣に纏わりついているかのように念じる。想像する。そうであると認識する。
そうして構築された術式に魔力が流れ込み、稼働する。
すべてを切り裂くかのような風を、白銀の剣に纏った。
そう、魔力によって構築された風はただの風ではない。レイの強固なイメージは魔力風にナイフのような鋭さを付与させていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
レイは気炎万条、咆哮を上げる。宙に投げ出されていたクリフォードに肉薄すると同時、“閃空“を思い切り振り抜いた。
真横に一閃。
迸った銀の軌跡は、しかしクリフォードの体を捉えない。
「――なっ」
絶句。レイは動揺しながらも行動には出さない。幻影に騙されたのだと思考を回しながら、窓を突き破って外に脱出する。
直後、完全に倒れた塔が、轟音と共に地面に叩き付けられた。
レイはそれを見ていない。
そんな悠長なことをしている暇はなかった。
(……チッ、ここまで実力差があるとは――)
レイは迷わず撤退する。風の如く疾走して森の中に逃げ込む。
ざわざわと、エルフ族の喧騒が響き始めた。
魔力を隠す意味を失ったレイは、異世界式魔術を起動する。
イメージは携帯電話。“通話“術式を稼働させ、エレンに繋いだ。
『撤退だ。エレン達はダリウスと合流して森を脱出しろ。俺も後から追いつく』
『……え、大丈夫? レイ。いったい何が起きたの?』
『説明している暇はない。デリック、聞いていたらエレンを引っ張り出すんだ。そっちにも危険が及ぶかもしれない』
『了解した。“迷いの結界“はどうやって抜けるんだ?』
『この結界は、内から外に向かう分には問題ない。心配するな』
少なくとも十数年前はそうだったと、レイは内心で思う。
レイは返答を聞くこともなく通話を打ち切った。魔力の流れを悟られたら、エレン達の居場所に見当をつけられるからだ。
(……クソ、奴を殺せなかったのは痛いが、撤退するしかない)
レイはゆっくりと息を吐く。現実を認めるしかない。
クリフォードとの実力差は隔絶している。
あの不意打ちが通用しなかった以上、もはや殺す手立てはないのだ。
里内の森を疾走し、結界に近づいていたレイは足を止めた。
レイを捜索中のエルフ族戦士団が近づいてきている。
気づかれたくはない。
レイは木陰に身を潜めると、魔術の起動準備をした。
(…………迷彩。景色に溶け込んでいくように念じ続ける)
レイの体の色が変色していく。
景色と同化し、それを維持し続ける。
直後、すぐ近くをエルフ族の戦士が走り抜けていった。
だが、慌てることはない。
レイの感覚は、もう一人を捉えている。
その戦士が近くを過ぎ去るのを待ってから、“迷彩“を解いた。
(……よし。逃げるだけなら、問題ない)
レイは息を吐き、音を立てないように移動を始める。
そもそもレイは夜とはいえ、エルフ族の里の奥地まで侵入し、元長のところまで辿り着いたのだ。
レイの優秀な迷彩と索敵の術式は、隠密行動にはうってつけである。
見つけることは容易ではない。
そう。
レイのその認識は正しかった。
少なくともエルフ族の戦士団にレイは捕らえられない。
これまでの潜入でそれは確認している。
――誤算があるとすれば。
レイの認識以上に、クリフォードが規格外だったことだけだろう。
「その程度で逃げられると思っていたのか?」
「――なっ」
突如として眼前に降り立つ影。木製の杖を持つクリフォードが、膝を曲げて着地した。絶句。だが動揺している暇はない。
レイは咄嗟に後ろに飛び退りながら“拳銃“を連射した。
だが、クリフォードは回り込むような軌道で銃弾を回避しつつ、レイに接近してくる。速い。肉弾戦も得意なのだろうか。
レイは応じるように前へと身を投げた。わざわざ肉薄してくるということは、先刻のように幻影に騙されているわけではないだろう。
ならば斬撃を当てれば良い。
幸い、クリフォードの杖に殺傷能力はない。
攻撃が躱され、カウンターを当てられたところで死にはしない。
二度目の交錯。
レイの斬撃はクリフォードを袈裟斬りにした。
――浅い。
クリフォードはギリギリで後ろに方向を切り替えたのだ。
薄皮一枚を切り裂いた程度だろう。
レイは続けざまに追い打ちをかける。クリフォードに合わせて前へと踏み込み、先ほど振り下ろした剣を思い切り振り上げた。
その効率的な体さばきに淀みはない。
対面のクリフォードは厳しい視線を向けてきた。
剣閃の後を追うように、風が唸りを上げる。
「……甘いな」
だが。
そもそも何故クリフォードはわざわざ踏み込んできたのか。
レイはその点に気づいていなかった。
クリフォードが淡々と呟いた直後。
ゴッッッ!! という凄まじい音が炸裂する。
上から降り注いだ巨大な岩塊が、レイの体を叩き伏せた。
激痛。背中に莫大な質量がのしかかる。
魔力による身体強化を強めて抜け出そうとするが――間に合わない。
クリフォードは這いつくばるレイの額に杖を向けた。
精神に干渉する系統の魔術だろうか。
徐々にレイの意識が遠くなっていく。視界が霞んでいく。
(……ちくしょう。目論見が甘かった……!!)
上空に岩の塊を構築して、それを自由落下させる――非常に単純な土属性魔術である。普通なら上に魔力が集まっていることに気づく。
だが、クリフォードは強引にでも接近することによって、レイの感覚視野を狭めた。単純な魔術を活かしていくやり方。ハイエルフの魔術師だからと言って、クリフォードは特別なことなど何一つしていない。
――これが、戦術。
本当の強者の戦い方。
レイは悔しさを噛み締めながら、ついに思考が途絶した。
♢
馬を夜通し走らせていると、朝を迎えた。
曇天の空は物悲しい閉塞感を覚える。
今にも泣き出しそうな気候は、まるで心を映し出したようだった。
レイが昏倒して数時間が経過した頃。
リリナ・オースティンは、『魔の森』の近くまで訪れていた。
「……こんなところに、何があるっていうんですか?」
前方のジェイルに問いかける。
彼は街道沿いに佇む、寒々しい屋敷の前で馬を止めた。
門には蔦が絡みつき、枯れた木々が並ぶ庭の先には、人が住んでいる気配のない古臭い屋敷が佇んでいる。
幽霊でも出てきそうだと、リリナは不安に思った。
「ダリウスは……いないらしいな」
ジェイルは独り言のように呟き、屋敷の扉を開いた。
リリナについてくるよう促したので、仕方なく後を追う。
意外と埃もなく、綺麗に片付いている廊下を通り抜けていく。
「……君に見せたかったというものは、この先にある」
「あくまで言わないんですね。いったい何ですか、それは?」
「……口に出しても、君はきっと分かってくれないだろう」
ジェイルは悲痛に顔を歪めると、地下に続く階段を下った。
「君の目で確かめて欲しい。それできっと、覚悟が決まると思うから」
リリナは苛立ち混じりに首を傾げたが、大人しく地下へ降りた。
冷たい空気が流れている。
リリナは寒さを覚えて両腕を抱いた。
灯りがないので、周囲を把握できない。
だが、何故か人の気配を感じた。
リリナは漠然とした不安を覚えながらも、手近な魔石灯をつける。
淡い光に照らされ、部屋の全体像が顕になった。
同時に。
リリナの前方に座っていた人物の全容も明らかになっていく。
「…………………………え?」
リリナは驚愕を覚えながら膝をついた。体が震える。目の前に広がっている光景が信じられずに、目を見開いた。
何せ、リリナの前方で茫洋と座っている女性は――
「お母、様……?」
――殺されたはずの、フレイ・オースティンその人だった。