1-19 夢
アルバート伯爵領で最も大きな街――リローテル。
その裏通りの一角。陰鬱で、人気のない暗い場所だった。
メイド服を着た銀髪の少女が、静かに涙を流している。
銀髪ポニーテールのハーフエルフ――リリナは、常に気丈で優しい性格をしていて、こんな儚く、脆そうな彼女を見るのは初めてだった。
レイはリリナの背中に声をかける。
思ったよりも、小さい背中だった。
いつの間にかリリナの背を越していたのだと気付く。
「……大丈夫か?」
リリナはびくりと肩を震わせると、消え入りそうな声音で言う。
「……聞いていたんですね?」
「ああ」
「……あまり気持ちの良い話じゃなかったですよね。ごめんなさい」
「リリナ」
少し強めの口調でレイが言うと、リリナはおそるおそる振り向く。
叱られる前の子供のようだった。
それほどまでに動揺しているのか。
――あの男だけは、殺さなくてはならない。
――フレイを殺した男に、どんな真意があると言うんだ。
――あの父が……母を殺したなんてこと。私には信じられないんです。
「聞かせてくれよ……お前に何があったのか」
レイは静かに告げた。
これまで、レイはリリナの事情を詮索したことはなかった。
誰にだって聞かれたくない部分はあるだろう。
それは当然のことで、リリナを傷つけたくはなかった。
お節介だとは思う。
それでも大切な家族だった。少なくともレイはそう思っていた。
リリナに危険が迫っているとなれば、助けてやりたい。
リリナが泣いているのなら、笑わせてやりたい。
レイは、リリナの主人なのだから。
「……嫌ですよ。子供に聞かせられるような話じゃないんです」
レイは目を瞑ると、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「……俺はただの子供じゃない。気づいていたんだろう?」
不公平だと思ったのだ。
リリナの過去を不躾にも聞き出そうとしておいて、レイは何も話さないまま一緒にいようと考えるのは。
(……そうだ。リリナを家族だと思うのなら、彼女がどういう人生を送ってきて、どんな事情で涙を流しているのか知りたいのなら、俺だって、このままじゃいられない。話さなきゃいけないことがあるんだ)
リリナは驚いたように目を見開いていた。
それはおそらく、レイに気付かれていたことに対する驚きであり、普通の子供ではないという部分ではない。
実際のところ、『前世』の記憶を宿している者は実在する。
公言していない者を含めれば、それなりには存在するはずだ。
夢で見たことのように、断片的にしか覚えていない人。
人生どころか読んだ本の内容まで覚えている人。
前世の名前しか分からない人。
人によって、どれだけ前世について覚えているのかには差があり、思い出す年齢も千差万別であるようだが。
レイは五歳のとき、ほぼ全ての人生を思い出したパターンだ。
「……やっぱり、レイ様は転生者だったんですか?」
リリナは涙を袖で拭いながら、尋ねる。
やはり、家族の皆は気づいていたのだろう。
それはレイも薄々分かっていた。
だから何度も話そうと思った。転生者である、と。
だが。
『前世』が勇者アキラであると言ったところで、誰も信じてくれないのではないか。
そう考えると足がすくんだ。声が出なかった。レイは不安に苛まれていたのだ。家族を信じ切ることが、できていなかった。
――物語の英雄に憧れて、嘘をついている。
そんな風に思われて、影で嘲笑される未来が見えていた。
何故なら今のレイに『女神の加護』はない。聖剣はない。あの頃の圧倒的な力を操り、勇者アキラであると証明することはできない。
そして。
家族がそれを信じてくれたとしても、アキラは『墜ちた英雄』だ。
ある時を境に全く戦場に姿を出さなくなり、いつの間にか勝手に死んでいたレイを――王国の民は、恨んでいるのではないか。
最も王国が大変だった時期に、レイは何もしてこなかった。力がないことを言い訳にして自室に引き篭もっていた。臆病者だったのだ。
それを、関わりのない人から糾弾されるのは耐えられる。
だが。
家族から侮蔑の視線を向けられることは、何よりも怖かった。
「……そう。俺には『前世』の記憶がある。俺は……」
レイは何度か口を開こうとして、顔を歪める。
少し震えた声音で言い切った。
「……俺の前世は、王国の墜ちた英雄、アキラなんだ」
リリナは驚いたように目を瞠っていた。
泣いていたことすら忘れて、呆然とレイを見つめている。
「あの頃みたいな強さはないから……信じてくれないかもしれないけど」
「……レイ様」
レイが目を瞑りながら呟くと、耳元で柔らかい声が聞こえた。
すべてを包み込むかのような優しい声音だった。
同程度の身長をした年上の少女に、そっと抱き締められていく。
「もしかして……これまで何も話さなかった理由は、私やアルバート様たちが、信じてくれないことを怖がってたんですか?」
「あ、あぁ……」
「馬鹿に、しないでください」
緊張が解かれていくような気分だった。
レイの茶髪を撫でながら、リリナは強い口調で告げる。
「レイ様は……誠実な人です。あなたが真剣な瞳をしているとき、決して嘘はつかない人だと、私は知っています」
「そんな……ことは、ないと思うけど」
「何年間、一緒にいたと思ってるんですか。差し出がましいかもしれないですけど……私はあなたの姉のつもりでいました。ずっと、家族のように大切に思ってきました」
リリナは少し体を離した。
レイの肩に両手を置いたまま、至近距離で目を合わせる。
「私はレイ様を信じてます。だから、私のことも信じてください」
「あ…………」
視界一杯に広がるのは、リリナの端正な美貌だった。
その瞳には、確かな信頼の色が宿っている。
レイが言っていることを嘘だなんて微塵も考えていない。
「……それでも。俺は、王国を、見捨てた男で――」
「――だから、こんなにも強くなろうとしていたんですね」
レイの思考を見透かしたようにリリナが言った。
「信じられないどころか、納得できましたよ。レイ様はいつも強さを追い求めていた。冒険者になりたいって目標だけには見えなくて…………まさか、勇者様だったとは思いませんでしたけどね」
「……それは」
「そして、レイ様はいつも誰かを護ろうとしていた」
「……ただ……失いたくなかっただけなんだ。『前世』では、力を失ったぐらいで、逃げて、見捨てたものが多かったから。今度こそ、何も失いたくないって。結局、俺は、失うことが嫌で……ただ、それだけで」
「――勇者アキラは聖剣に見捨てられ、戦う力を失った」
リリナは真剣な瞳で告げた後、そっと微笑を浮かべた。
レイはその事実を噛み締めるように目を閉じた。
今でもその絶望はフラッシュバックする。
汗が止まらなかった。寒くもないのに、体が震えた。
「――何の力もない状態。墜ちた英雄。民に失望された英雄。それでもアキラは王都の危機を察すると、強大な魔族に立ち向かった」
何の力もない頼りない拳を握り締めて。
勝てる可能性なんて、欠片も存在していなかったというのに。
「――アキラはそこで死んだ。だが、私は讃えよう。あの少年こそが『勇者』であったと。聖剣を失い、人並みの力しかない状態で、それでも皆を護りたいと願い――自らの命をも秤にかけた」
――その行動を、私は讃えよう。
――他の誰よりも、勇気を持った行動であったと。
確かに勇者アキラは、無力な少年だった。
それは聖剣に支えられていた強さだった。
それでも。
勇者にとって最も大切なものは、強さではない。
体を縛るさまざまな恐怖を乗り越え、前に踏み出す勇気なのだから。
「……誰の言葉だと、思いますか?」
レイの震えは止まっていた。抱き締めてくるリリナが暖かいから。リリナが紡ぐ言葉が、レイの心の氷を融かしてくれるから。
リリナの胸の中でレイは涙を流していた。
立場が逆転していた。
こんなつもりではなかった。
ただ、リリナの秘密を聞きたいのなら、自分の秘密も晒さなければ対等ではないと考えただけだったというのに。
「……アルバート様が、人々の前で演説したんですよ。あの少年は、人間が生きていく上で、最も誇らしいものを宿していたって」
嬉しかった。
アキラの行動を認めてくれる者がいたことが、何よりも嬉しかった。
それでも。
レイは己を戒める。
勇気だけでは誰も救えないと知ったから。
今度こそ、何かを護れる強さを欲したから。
「……だとしても。俺は何も、護れなかった」
「……はい。そうですね」
「勇気はあったかもしれない。でも、それだけじゃ何も護れない。……突然使えなくなった聖剣は、俺にそれを教えたかったのかもしれない」
努力もせず、ただ純粋にアキラは最強で、それを甘受していた。
所詮はただの村人に過ぎなかったというのに。
「……傲慢だ。調子に乗っていたんだ。俺の力でもないのに、それを振り回して皆を護ったつもりになっていた。違う。皆を護っていたのは俺じゃない。聖剣だ。聖剣に宿っている『女神の加護』だった」
「……はい、そうですね」
リリナは柔らかい表情で肯定する。
その度に心が斬りつけられるような痛みが走った。
だが、すべて真実だった。
心の底からそれを認めなければ、決して前に進めないことだった。
「……だから『前世』の記憶が蘇ったとき、今度こそ本当の強さが欲しいと思った。誰だって、何だって護れる最強の男になりたいと思った」
この七年間の努力を思う。着実に研鑽してきた事実を思い返す。その原動力となった前世に思いを馳せる。拳を、握り締める。
リリナは静かに頷いていた。
「俺は……本当の英雄になりたいんだ」
レイは涙を拭う。
英雄に涙は似合わないから、無理やり不敵な笑いを浮かべた。
「リリナ」
「はい」
「俺に隠していることはもうない。今度は、お前の秘密を話してくれないか。……弟の頼みは、聞いてくれないとな?」
「……レイ様、都合の良いときだけ弟ぶるつもりですね?」
リリナのジト目に、レイは笑顔で返す。
その顔にもう憂いはない。
――格好悪いところを見せてしまったから。
「……分かりました。話します、レイ様に。何もかも」
――これからは、格好良いところを見せてやりたい。
お互いの顔に、涙の跡が浮かんでいる。
それが少しだけ可笑しかった。
笑みを交わし合うと、リリナは小首を傾げながら、
「――護ってくれるんですよね、英雄様?」
そんな言葉を告げる。
転生した勇者の少年は、迷いのない眼差しで頷いた。
――今度こそ、と。