1-1 前世の夢
(……何だ、今のは)
視界には見慣れた天井が広がっていた。
体をペタペタと触るが、どこにもおかしなところはない。
(……夢、か?)
それにしては異様に現実的で、真に迫っていた。
否。それだけではない。
明らかに昨日までは知らなかったことが脳内に記憶されている。
それは一人の少年の歴史だった。
村人に生まれて平凡な毎日を送り、勇者に選定されて戦い、そして殺されるまでの記憶である。
その瞬間。
レイ・グリフィスは、前世の記憶が蘇ったことを確信した。
「あのときの決意を、忘れはしない……か」
レイは額を手で覆うと、嘆息しながら上体を持ち上げる。
ふかふかのベッドに座り直し、部屋を見渡した。
窓の付近でカーテンを開けている美女を発見する。
まだ未成熟な肢体に正統派なメイド服を纏っていて、端正な顔立ちに白銀の長髪がよく映えている。
細長い耳を持っているのはエルフの証だ。
レイのメイドである彼女――リリナだが、前世の記憶がある状態で改めて眺めると、思わず見惚れてしまうほどに美しい。
リリナはレイの視線に気づき、くすりと笑って問いかけてきた。
「あら、レイ様。お目覚めですか?」
「……ああ」
前世の記憶が蘇っただけだというのに、リリナと初めて話したかのような、むず痒い感覚に襲われていた。
レイは言葉少なに返答しつつ、手早くベッドから抜け出す。
体の動きに違和感があった。
おそらくは『前世』の夢を見ていたせいだろう。
転生前の年齢は十八歳で、それなりに体格にも恵まれていた。
だからこそレイの小さすぎる体格との乖離が大きすぎて、まるで乗り物酔いのような感覚に陥ってしまうのだろう。
(……死ぬ直前の願いが叶って転生できたわけだし。この程度の悪影響は許容するべきだだろう)
これから何をするべきか少し悩んだレイだが、ひとまずリリナに怪しまれない為にも、これまで通りの行動をすることにした。
「朝食の前にトレーニングをしてくる」
「いってらっしゃいませ」
リリナに向けて告げると、彼女はにこやかに微笑んで返してきた。
可愛い――が、もちろん女性経験など皆無なレイがそんなことを口に出せるはずもない。
(心のうちに閉まっておこう、大切に)
「レイ様」
「な、何だ?」
「剣、持っていくの忘れてますよ」
「そうだった……」
レイは駆け寄ってきたリリナから小さめの剣を受け取る。
刃引きはされているので、五歳児に持たせても安心の剣だ。
自室の扉を開き、すれ違うメイドや執事たちと軽く挨拶を交わしながら、足早に廊下を歩いていく。
大きな屋敷だが、高位の貴族が住んでいる屋敷にしては装飾品の類が少ない。
ところどころに置かれている芸術品や、敷かれている絨毯もどこか安っぽく見えた。
(父さん、こういうものにあんまり興味がないからなぁ)
それって貴族としてどうなのよ――と、昨日までは思っていたが、村人的な感性が蘇った今は、レイも興味がなくなった。
(まぁ……母は気にしてるみたいだけど)
付き合いの薄い貴族が屋敷に来訪したとき、その安っぽさに眉をひそめる人が多かったからだろう。
大雑把で器が大きい父に比べて、母は極めて常識人なので気苦労は絶えないはずだ。
しわが増えているのも当然である。
「よいせ、と」
母に言ったら殴られそうなことをつらつらと考えながら、レイは屋敷の扉を開き、外に出る。
子供の腕には重かった。
些細なところに『前世』との違和感を強く覚える。
「おお……」
朝日に空が焼かれている。
紅葉のように鮮やかに染め上げられた光景は、まるで一枚の絵画のように完成されていた。
吐く息は白い。
少し肌寒い季節。
冷涼な風に晒されて腕を抱きながら、レイは屋敷の裏手に向かう。
そこは屋敷と外壁の間がそれなりに広く、何もない草原となっているので、訓練にはうってつけの場所だった。
(さて……)
腰に吊っていた剣を手に取る。
一般的に見ると小さい剣だが、五歳児のレイにとっては大きい。
持っているだけでふらつくほどのものだ。
(よく、こんなものを振れてたな)
レイは昨日までの自分に感心していた。
レイは子供らしく冒険者に憧れていたので、トレーニングと称して剣を振ることが多かったのだ。
練達の剣士になって、ズバズバと魔物を切り裂く己の姿を妄想しながら――がむしゃらに剣を振り回していた。
たまに裏庭の様子を見にくる家族や召使いたちは、微笑ましそうにレイの特訓を見ていた。
刃引きはされている剣なので、心配はしていなかったのだろう。
(よく剣に振り回されて転がっていたな……)
レイは過去を思い返し、苦笑する。
実際、レイの体格では剣に振り回されて転ぶのがオチだろう。
そもそも筋力が足りていないので怪我をするかもしれない。
だが。
魔力を扱えるのなら、話は別だ。
(……力が、広がっていくイメージ)
ゆっくりと、体内に魔力を巡らせていく。
『前世』の経験があるレイにとって、体内を巡る魔力の感覚を掴むことは容易いことだった。
レイは生来の魔力量はそれなりに多い。
『前世』よりは遥かに少ない魔力量だが、かつての勇者と比べるのは酷だろう。
この世界全体で見ても、おそらく上位に位置するはずだ。
(……広がった力を、定着させるイメージ)
身体能力を強化した状態で馴染ませる。
かつて王国の騎士団長に習ったことを踏襲しているのだ。
(この「馴染ませる」って、過程が重要なんだってな)
強化されている状態が普通だと――肉体に納得させる。
それが全体的な身体性能を底上げするという理屈だ。
分かりやすく、操りやすい。
だが、『前世』でそのアドバイスを活用したことはなかった。
特に何もしなくとも、勇者アキラは最強だったから。
♢
数年前。
ザクバーラ王国に住む普通の村人だったアキラは、『勇者選定の儀』に呼び出された。
台座に埋め込まれた聖剣を引き抜ければ、勇者に選ばれたことになるのだが、なぜ普通の村人であるアキラが呼び出されたのかはよく分からないことだった。
アリアという黒髪の少女が推薦したようだが、見覚えはなかった。
しかし――アキラは気づけば、聖剣を引き抜いていた。
聖剣には『女神の加護』というチートが宿っていて、そのおかげでアキラは村人の生活から一転。『勇者』として歓迎された。
『女神の加護』は、不思議で恐ろしい力だった。
どんな武器を持っていても使い方が手に取るように分かり、常人よりも遥かに速く移動できる。
その際に感覚がついていかないようなこともなかった。
当然のようにアキラは強かった。
「人々を魔族から護ってほしい」
だから。
国王からそう言われたとき、アキラは自信満々に頷いたのだ。
そしてアキラは戦場で無双し、魔族を退けてきた。
借り物の力で魔族と魔物を蹂躙して、人々から崇められ、畏怖され――そんな薄っぺらいもので良い気分になりながら。
擦り寄ってくる女たちがいた。
へりくだる貴族たちがいた。
キラキラした目で眺めてくる民衆がいた。
英雄と呼ばれるのが、心地良かった。
所詮は一般人の精神でしかないから、身近にいる誰かが困っていたら助けたいと思うのは当然のことで、アキラを頼りにしてくれる人々がいるのなら、手を貸してやりたいと思っていた。
考え方は間違ってはいないと、今でも思っている。
ただ、調子に乗って天狗になっていたアキラには、見えていなかったことがたくさんあるだけで。
そんな日々の中で。
ある日突然『女神の加護』が使えなくなっていた。
聖剣がアキラの魔力に応答しなくなっていたのだ。
つまり何の力もない、ただの村人に戻ってしまった。
その時にようやく、調子に乗っていたことに気づいた。
聖剣に加護を与えていた女神も、使い手であるアキラに失望してしまったのだろう。
後悔しても、すでに時は遅すぎた。
アキラは『墜ちた英雄』の烙印を押され――王国に住む多くの人々から失望された。
本当にそうなのかどうかは分からない。
だが、アキラは昨日まで一緒にいたはずの仲間とすら顔を会わせることが怖くて、部屋に閉じこもった。
ただ無為に過ごし、食事を与えられ、「もう自分には力がないんだから仕方ない」と、自身を正当化する言い訳を考える日々を送った。
それでも。
彼女だけは、必死にアキラの傍にいようとしていた。
もはや何の力もない凡庸な少年でしかなかったアキラに、もう一度やり直そうと言ってくれた。
アキラを勇者に選定した、彼女だけは。
「……アリアは、元気なのかな」
アキラが力を失くしてから数週間が経過した頃だった。
そのことを嗅ぎつけた魔族の大規模な襲撃があって、城の中でアリアが襲われたという話を聞き、アキラは思わず部屋を飛び出した。
何の力もないまま、ただ拳を握り締めて。
その結果は、語るほどのことでもない。
せめてアキラは、アリアが無事でいてくれることを願った。
そして勇者アキラは絶命し、転生した。
――レイ・グリフィスという新たな姿に。
♢
(さて『前世』の知識を併せた上で、改めて周囲の状況を整理しよう)
まずこの家は、ザクバーラ王国の貴族であること。
グリフィス伯爵家。
それなりの高位貴族。
辺境伯だからか、王都で見かけた記憶はあまりない。
(まあ三男だし、爵位は継げないけど)
そのぐらいの立ち位置が気楽だ。
貴族の礼儀作法などリリナから教わることが多いが、大雑把なレイはそれを苦手としていた。
そこから逃げる為に冒険者を目指していたような気もする。
レイはそんなことをつらつらと考えながら剣を振るっていた。
ビシュッッッ!! と小気味良い音が風を切り裂く。
昨日までとは異なり、まともな素振りになっていた。
魔力を操り、身体を強化しているからだろう。
とはいえ改善点は山積み。
これまで加護に頼り切っていたレイの剣筋は雑だ。
もっと早く、もっと鋭く。
そう意識して、集中して剣を振り続ける。
体も段々と暖まってきた。
(…………強く、なる)
王国南部にあるグリフィス伯爵家の領地。
この辺りは四季が大分はっきりしていて、今は秋が終わり、冬が近づいている季節だ。
はっきり言って寒い。
これまでのレイなら、そろそろ家から出なくなる頃だろう。
だが、今度の人生は自分の力で強くなると決めたのだ。
己自身の力で、最強へと成り上がる。
「ふーっ」
剣を振る。
真っ直ぐに振り下ろす。
鋭く、速く、ブレないように。
そんなことを、何十回も何百回も繰り返す。
強さを、手に入れる為に。