4-4 敗北の夢
――夢を見る。それは、敗北の夢だ。何もかも失った男の末路だ。
血を流して倒れる自分の視界に、映るのは狐獣人の少女。彼女もまた同じように倒れていて、周囲の地面に血の海を形成している。
ごめんね、と彼女は言った。そのふさふさした狐耳を、僅かに揺らして。
君を守れなかった、と。
苦しそうな表情を、どうにか笑みへと変えて。
大丈夫か、と尋ねた。震える脚を動かし、彼女に寄り添い、必死にその体を揺さぶった。
すると、彼女は困ったように笑うのだ。
「大丈夫、あたしを信じて……あなたならきっと、この先も生きていける」
――たくさん生きて、幸せになってね、と。
彼女はきっと知らないのだろう。そんな世界に価値はない、と。
だから結局、これは夢の中なのだ。残酷な現実を、レイが覆してくれたから。
もしあの時、レイが現れなかったら、ライドたちはクラークに負けていた。
ならば逃す理由など存在しない。確実に殺されるだろう。だが、おそらくノエルはライドを庇うだろう。もはや体が動かなかったライドに対して、獣人である彼女は身体能力にも優れていたから。そして、 きっとあの少年は、その意思に免じてライドを見逃す。
これはそういう、冷静な分析だった。
そうなっていてもおかしくなかったという、自分への戒めだった。
――そんなもの、クソ喰らえ、と吐き捨てるようにライドは拳を握り締めた。
「……ライド?」
「ノエル……」
気づけば、ノエルの顔が視界いっぱいに広がっていた。
白磁のような肌に、澄んだ宝石のように蒼い瞳が不安げにこちらを見ている。
どうやら眠っていたらしい。
「大丈夫? うなされてたみたいだけど」
「……心配すんな」
ライドはぶっきらぼうに言って、目を逸らす。
ノエルはその様子を見て安堵の息を吐くと、顔の距離を離した。
けれど、手は握られていることにライドはようやく気付く。
毛布の中で、ライドの右手がノエルの小さな両手に包まれていた。
「……お前な。距離感考えろっていつも言ってるだろ」
「あたしだって距離感ぐらい考えてるよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないもん」
そう言うと、ノエルはちょっと顔を赤くして、
「ライド以外に……こんなことしないもん」
ぷいっと顔を背けた。そんな態度をされると、ライドの頬も熱くなってくる。自爆攻撃はやめてほしかった。気まずい沈黙がその場に落ちる。
おかしい。
今までノエルがこんな態度を取ることはなかったはずだ。
距離は近くても、それが自然で、隣に座っているのが当たり前みたいな関係性だったはずなのに――どうして今、ライドの心臓はこんなにも高鳴っているのか。
「……どうしたんだよ、急に」
「……えへへ、この前の戦い、珍しくライド……カッコよかったなって」
「珍しくは余計だろ……」
「ううん。ライドは基本、ダメ人間だから余計じゃないよ」
心にグサリと突き刺さる。だが反論する余地がなかった。
「でも、だからって……そうやってギャップで攻撃するには、反則だと思うな」
「……」
「何をやっていますの貴方たちは……」
するとドアの方から呆れたようなため息が聞こえて、ライドとノエルはびくっと肩を揺らした。
慌ててそちらに目をやると、マリーが手で額を押さえている。
「マ、マリー!? そのね、今のは違くて、そういう意味じゃなくてね……」
「え? あ、ああそうだよな。おれも分かってたぞ」
「どっちでもいいですわよ……」
ばっさり切り捨てられ、ノエルはいたたまれなくなったのか、椅子の上で三角座りをする。うずめるようにして顔を隠した。狐耳と尻尾だけがひょこひょこと揺れている。
「……まったく、少しでも進展したのかと思えば」
「マリーだって、レイに声もかけられてないくせに」
「なっ!? どうしてそこでレイの名前が出てくるんですの!?」
顔を真っ赤にして叫ぶマリーである。間違いなく同レベルの争いだった。
はぁ、とライドは疲れたようにため息をつく。
先日、ライドとノエルは治癒院を退院し、とりあえず宿を借り直した。
今後の方針が何も決まっていないからだ。それに怪我が治ったとは言っても、完治とは言い難い。体力もまだ戻っていないし、少し養生したかった。
ライドはベッドから起き上がり、宿屋の窓から修復中の街の様子を眺める。
皆、精力的に動き回っていた。
活気があるように見えるのは、おそらくレイの影響だろう。
確かに戦争で不安になってはいるけれど、勇者の存在が安心感を与えているのだ。
このタイミングで勇者が再来するのは――まるで、女神が見守っているかのようだから。
「冒険者への依頼という形で復興作業の手伝いをお願いしていますの。二人とも怪我はそろそろ治ったようですし、こちらにも協力してください」
マリーは淡々とした口調で言う。
彼女はライドやノエルよりも少し怪我が軽く、早々に退院した。
だから地元の領主の娘として復興の手伝いをしていたのだ。とはいえ形式上は冒険者が依頼をこなしているという形なのだろうが。
ええ……、とライドは心底面倒臭そうに顔を歪める。動きたくはなかった。
それよりも、今は――
「……ねえライド」
「何だよ」
掌を見つめていたライドを現実へと戻すように、ノエルが声をかけてくる。
「どうするの?」
「どうする……って」
「貴方たち、私の話は聞いていましたの?」
マリーが額に青筋を浮かべて問うてくる。ライドは肩をすくめた。
「……やるしかねえだろ。仕方ねえな」
すでにフリーダから依頼報酬は受け取っている。
しばらくは遊んで暮らせるほどの金は手に入ったのだが――遊んで暮らすような気分にはなれなかった。
ライドはあの戦いの後から、ずっとあの夢を見続けている。
◇
「――よう」
そこは牢獄だった。薄暗く、光が乏しく、どこか陰気臭い地下の空間。
レイが声をかけると、鉄格子でできた檻の向こうにいる人物は顔を上げた。
「あら、勇者のお坊ちゃまじゃない。もう傷は治ったのね」
「……何でお前、あたかも友達みたいなノリで話しかけてきてんだ?」
ライナス・メイブリック。
魔国軍革新派の中核をなす『六合会派』の『西』を司る魔族。
「やだ、ひどいわね。アタシとアナタの仲じゃない」
「体をくねらせるのやめてくれよ……」
レイはドン引きしつつ、何とか受け答えを成立させる。
少し離れたところで四人の兵士がレイたちを見張っていた。
牢獄自体の見張り役に加え、ライナスのためだけに四人の兵士。
「……流石に厳重な警備だな。これじゃ逃げ出せないだろ」
「アタシを舐めてないってことねえ。ここの指揮官は有能みたいだわ」
ライナスは牢獄の中で体を魔術封じの鎖でつながれながら、やれやれと肩をすくめるような仕草を見せる。実際には僅かに肩が持ち上がっただけだったが。
「――それで、勇者のお坊ちゃま、わざわざアタシに会いに来てまで何の用?」
ライナスの視線に、蛇のような鋭さが宿る。
「尋問されるまでもなく、情報はそれなりに流してると思うけれど? アナタもそれを聞かされていないわけではないでしょ? 仮にも勇者だものね」
「ああ。お前が吐いた情報は全部、伯爵から聞かされているよ」
お前がすべて真実を喋っているとも思えないが、とレイは嘆息混じりに言う。
「では、アナタの何のためにここへ来たの?」
「聞きたいことがある」
「それはまあ、そうでしょうね」
「――アリア。この名前を知っているだろう?」
一瞬。
空気が凍り付いたかのような錯覚があった。
「……確か、王国の宮廷魔術師でしょう?」
「しらばっくれなくてもいい。俺はトラングの街の地下神殿でローグとアリアに会った」
嘘だ。レイはアリアには会っていない。
だが、リリナたちはアリアに会っているので、ローグと共にいたことまでは知っている。
「分かっているのなら聞かないでほしいわね」
「あいつがお前たちの味方をしている理由は何だ?」
「アタシは知らないわよ。本当に」
レイとライナスの視線が交錯する。彼の瞳は、揺れなかった。
「アタシが知っているのは、ローグがあの子を使って何かを企んでいるってことだけ」
「……だろうな」
「勇者、アナタはあの子の友達か何かなの?」
「お前には関係ない」
「答えて」
ライナスの真剣な瞳に見据えられ、レイは僅かに言葉に詰まる。
――友達、という言い方では何か違うような気がする。では、何だ。仲間とでも言うべきなのか。それも……今では違うと思う。
「……俺にとって大切な人だよ。それがお前に、何か関係あるのか?」
「そう」
ライナスはそっと息を吐き、瞑目した。
「あの子は、いつだって苦しそうにしていたわ」
「……」
「でも、アタシが心配すると、あの子は決まっていつも、まだやらなきゃいけないことがあるから――って、寂しそうに笑いながら答えるのよ」
ライナスは淡々とした口調で言う。レイはそれをただ聞いていた。
「あの子の幸せはきっと、魔国の中にはない。アタシにはそれが分かった」
「――だったら、俺があいつを取り戻す」
思っていたよりも強い口調になったことに、レイは自分で驚いていた。
固く握りしめていた自分の拳を、じっと見つめる。
「あいつは、いつだって、自分だけで全部を背負って、どうにかしようと考えるバカなんだよ。そのために、どれだけ自分が傷つくのかなんて考えもしない。だから、俺が助けてやらなきゃならないんだ。どうせまたふざけたことを考えているあいつを絶対に取り戻す」
「どうしてそこまで……? アリアは十五、六年前から魔国にいた。アナタぐらいの年齢なら、せいぜい幼い頃に少し会ったぐらいの関わりしかないはずよ」
「違うよ。俺はずっと前からあいつの隣にいた」
「……?」
もう迷いはない。躊躇いはない。
聖剣を再び握ったあの時に、すべての覚悟は決めたのだから。
「目を背けるのはもうやめたんだ。たとえあいつを殴ってでも、俺はあいつを幸せにする」
ライナスはどこか夢を見ているのかのような表情でこちらを見ていた。
「――俺はそのために、生まれ変わってここに来たんだから」
「アナタ……」
彼はどこか呆然としていた。
魔国軍革新派、その中核。かつてはローグも在籍していたらしい『六合会派』。そこに選ばれた六人の化け物のうちの一角。
ライナス・メイブリックのそんな表情に、レイはくっと僅かに笑った。
「……どうした? 何か文句があるのか?」
「具体的に、何かアテはあるの? アナタは、今のローグとアリアの居場所も、何も知らないはずだけれど」
「ない」
堂々と言うと、ライナスの肩ががっくりと下がった。
「だから、これから探す。見つけ出して、アリアを助けて、ローグを叩き潰す。あいつを潰せばきっと、戦争も終わる。一石二鳥だ」
「そう簡単にはいかないと、分かってはいるのでしょう?」
「でも、人族と魔族の憎しみを扇動し、操っているのはローグのはずだ。そうだろ?」
「……」
「あいつを倒せなけりゃ、戦争が終わることはない」
「アタシたちのボスは、強いわよ。今のアナタよりも、はるかに」
「悪いが、俺はもっと強くなる。そう決めた」
ライナスはゆっくりと嘆息し、呆れたような表情で呟いた。
「……教会都市ベリアルに向かいなさい。できる限り、早く」
レイは眉をひそめた。
教会都市ベリアルといえば、一応は北方に位置するものの、前線とは少し離れていて、辺境の山岳に位置しているので攻めにくい上、戦略的な重要性も低い街だ。
その上、あそこはかつて王国第二位の実力者と呼ばれていた『賢者』が守護している。
魔国側があの場所を攻めるメリットは、限りなく薄いだろう。
そもそも軍隊でベリアルを攻めようとすれば、その途中で他の砦から発見され、挟み打ちになる可能性の方が高い。少なくとも、最初に狙われる都市ではないと誰もが認識している場所ではあった。
「ローグは戦争なんて眼中にないのよ。己の計画にそれが必要だから、起こしているだけ」
「……生贄、か?」
レイの質問に、ライナスは頷いた。
「おそらく、ね。ローグは戦争という名の大規模魔術儀式で大量の生贄を捧げ、何かを成し遂げようとしている。アタシはそれが何なのかまでは知らないけれど」
多くの人々を戦火に巻き込み、それがあくまで自分の計画の一部でしかないという。
それが、ローグ・ドラクリアのやり方だ。レイはよく知っていた。
だが、レイは疑問を呈する。
「それは分かるが……ベリアルと何の関係がある?」
「言ったでしょう。魔国軍はおそらくアナタたち王国の予想通り、最前線の砦のどこかに攻め込んでくるでしょうけれど……ローグ本人は違う。彼にとって戦争は二の次だから」
「まさか……単独で奇襲を仕掛けてくるって言うのか?」
それはいくらローグとはいえ、危険すぎる。
どれだけ個としての強さがあろうと、その何十倍もの数がいれば圧し潰されてしまうのがこの世界の戦いだ。魔力量という限界が存在する以上。
それはローグとて例外ではない。
本当にそんなやり方が通用するのであれば、前世でアキラは前線を無視し、単独で魔王の首を獲りに行っていた。
「一人なら無理でしょうけれど……少数精鋭という形なら可能かもしれない。アナタ……いえ、勇者アキラが殺された時の奇襲を忘れたの?」
「……たったの、六人」
「そうよ。アタシたちは、すでにそれぐらいは可能にする力を手にしている」
「……教会都市ベリアルに、ローグがそこまでの危険を冒して狙う何かが存在するっていうのか?」
「分からない。でも、アタシはローグがその都市の名を口にしていたのは覚えている」
ライナスは首を振ると、しかしレイの目をまっすぐ見て告げた。
「これはあくまでアタシの予想でしかない。信じるか信じないかは、アナタ次第」
「……敵の予想なんて、信用できるかよ」
「けれどアナタは、アタシぐらいしかローグとアリアに関する情報源がない」
それは確かに、その通りだった。
痛いところを突かれ、レイは顔を歪める。
「少なくとも、アナタが勇者として、真っ当に王国に戦争協力をしているだけでは、王国は守れるかもしれないけれど――あの二人に近づけることはない。そうは思わないかしら?」
「……仮にそれが本当だとして、なぜお前は俺に協力する?」
「アタシたちのボスは、あの男は」
ライナスは僅かに唇を震わせながら、しかし言い切った。
「たぶん、アタシたちのことを何とも思っていない。今でこそ魔国軍の利益になるようには動いているけれど……いつ、それがアタシと、アタシが暮らし、守りたいと思っていたあの国に牙を剥くのか、分からない。だから――試しに、アナタに懸けてみることにしたわ」
「……そうか」
「たぶん、アタシがこうして口を割ることまで、あの男は想定しているわよ」
「だろうな。でも、やるべきことは変わらない」
――いいだろう、お前の言うことを信じてやる、と。
そんな風に呟き、レイは外套を翻して牢獄に背を向けた。
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