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いとへんのきょうだい

作者: 朝日奈ふみ

 こんなことを言っても誰も本気にしないだろうが、俺は幽霊を見ることができる。人よりも霊感が強いから、というわけではないだろう。と言うのも、俺が見ることができるのは五年前に死んだ双子のきょうだい、(えにし)だけだからだ。いつごろから見えるようになったかはよく覚えていない。気が付けば縁は、生前には二人で使っていた子供部屋に現れるようになった。幽霊だから触れることはできないけれど、一緒になってバカなことをしたり、時には悩みも聞いてくれたりしてくれるから、縁が死ぬ前とほとんど変わらない生活を、今は送っている。


 大学入試の二次試験を終えて、家に帰ってくると、母親はまだ仕事から帰ってきていなかった。キッチンには朝のうちに作ってある夕食の鍋がぽつねんと置いてあるだけで、シンクにはマグカップの一つもない。ダイニングの脇にある階段を上ってすぐの自室の戸を開けた。薄暗い部屋の中で手早く部屋着に着替え、デスクライトの明かりをつけたその瞬間、

(きずな)、誕生日おめでとう!」

 と俺の背後で縁が叫んだ。不意打ちだったので、思わず「うわぁ」なんて情けない声を上げて振り向くと、縁はにっこりと笑いながら俺にVサインを向けた。

「あ……ありがとう」

 誕生日は昨日だった。昨日来なかったのは大事な入試前だからという縁の配慮だろう。正直、こんな年になると誕生日はどうでもいい。そんな程度だったとはいえ、誰かに祝ってもらうのはやっぱり嬉しかった。

「おめでとう、やっと十八禁が解禁だね! これで堂々とAVが見られるわけだ」

 縁がにやにやしながら言った。

「口を開けて早々にクソみたいなことを言ってんじゃねえよ」

脳天に向かって振り下ろした手は、勢い余って縁の首辺りまで下がった。

「絆ひっどーい、暴力はんたーい」

 縁はいつまでも変声期のままの妙な甲高い声で叫んでから、ひらりと身をかわして天井のあたりまで飛び上がった。どうやら霊体は重力の影響を受けないらしく、縁は空気中を泳ぐように、でも泳ぐよりはずっと軽やかに移動する。

 一卵性の双子だから、元々は他人には見分けがつかないくらいそっくりだったのだ。でも年を重ねるごとに、縁が変わらない分、自分の変化が否が応でも目につくようになってきた。特に、誕生日がくるとき、一人だけ年を重ねていることにふと気が付いたりして、どうしようもなく俺を悲しい気持にさせた。



「ねえ、絆」

 縁が鼻先に手のひらを向けてきた。常時浮遊しているので、縁は基本的に俺の目線よりやや高い位置にいる。

「何だその手は」

 縁はへらっと軽薄そうな笑みを浮かべて、

「十八歳の誕生日プレゼントちょうだい」

 と言った。

「永遠の十三歳だろ」 

「じゃあ一生のお願い」

「お前が賭けられる一生はもう終わったじゃないか」

 縁は急に真面目な声になって言った。

「絆の体を貸してほしいんだ」

「何だって?」

 予想外の「お願い」に、俺は思わず縁の方を見上げた。縁は少し赤くなって俯く。

「俺の体を使って何をするの?」

「……お母さんに会う」

 縁は小さな声で言った。それを聞いて俺は思わず噴き出してしまった。

「何だよ、それ」

「そんなに笑うなよ!」

 縁がむきになるのが面白くて、俺はわけもなく笑えた。

「だって他にもっと面白いことがあるだろうが」

「でも……」

「マザコンかよ」

 縁がうっとうしそうな顔をして俺のことを軽く睨んだので、俺はなんとなく黙り込んで、縁の「一生のお願い」について考えてみた。

 母親とは最近まともに会話をしていない。というより、縁が死んでから、俺は母親に何かを期待することをやめてしまった。

 表面的に見れば、むしろ母親の生き方はまともだった。ずっとふさぎ込むことはなかったし、俺に愚痴や弱音を吐くことは一度もなかった。三年前に専業主婦をやめて働くようになってからも、いつもきちんとした食事を作ってくれていた。母親として、これ以上はないくらい完璧だったと思う。

 ただ、母親は縁の話をほとんどしなかった。リビングには家族写真の一つもなく、縁がこの家で生きていた名残はほとんどない。母親が残された俺のことを尊重して、大切にしてくれているのはわかっているのだが、その分縁のことが禁句のようになっている現状が、俺はどうしても許せなかったのだ。小さな違和感が募っていくうちに、もうこの人とは分かり合えないんだな、と悟って距離を置くようになった。以来、母親との間には何となくぎこちない空気が流れている。

「だって誕生日だよ?」

 いつまでも十三歳の縁は食い下がった。

「誕生日は昨日だよ」

 昨日十八歳になった俺がそう言うと、縁は奥歯に何かつまったような顔をして曖昧に視線を逸らした。そんな縁を見ていたら、歯がゆい気持が伝染した。

「……だったら、母さんの前に現れれば?」

 意外と妙案かも、と我ながら感心したのだが、

「それができないから頼んでいるんだろ?」

 と、縁は口を尖らせた。外見も相まって、仕草の一つ一つがどうしても幼く見えてしまう。

「お母さんは、俺のことが見えないんだよ。俺、死んでからお母さんの前に何度も現れてみたんだ。でも駄目だった」

「何だよ、それ」

 縁はそっと目を伏せた。瞬きを繰り返す瞼で、長いまつ毛が細かく震えていた。そんな縁の様子を見ていたら、心の中がふつふつと沸くのを感じた。

「それでも会いたいのかよ」

「会いたい」

 縁の目は、あまりにもまっすぐで、痛切だった。こんなことは、生前も、今までも一度もなかったことだ。

「わかったよ、仕方ないな」

 その返事を、縁はうまく聞き取れなかったらしい。

「誕生日プレゼントはそれでいいんだろ?」

 やっと意味を理解した縁の顔が、みるみるうちに明るくなった。本物の子供のように目を輝かせて、縁はにっこりと微笑んだ。

「で、俺はどうすればいいわけ?」



 その日の深夜、俺たちはベッドの上で向かい合っていた。縁の話によると、母親は最近、夜中の二時過ぎくらいに一度起きるらしい。

「ほら、さっさと済ませろよ。疲れているんだから」

「わかった、わかった」

 とは言っていたものの、俺はどういう形で縁が母親に会おうとしているのか、この時点ではよくわかっていなかった。

「いくよ」

 縁は俺の肩にそっとてをかけて、そのまますうっと俺の体に重なった。何かが変わったような感覚はないな、と思っていたら、俺の口から俺の声で、

「ええ、僕の名前は佐野 縁……いや、絆です。佐野 絆」

 と言葉が勝手に飛び出した。自分の口はぺらぺらと喋るのをやめない。

「……身長一六五センチ、体重四十八キロ、悩みはチビで童顔でガリガリなところ。実はおっぱいフェチで、好きなジャンルは……」

 みるみるうちに恥ずかしいことまで口から飛び出して、それでも口が止まらない、いや、止められないのだ。なんだろう、自分の体がどこか別のところから操作されたような、とでも言えばいいのだろうか。

「よっしゃ、ハッキング成功」

 俺の体から抜け出して、縁が言った。

「何だよ、これ!」

 やっと自分の意思で声が出た。縁は得意げに大きな瞳をくるくると動かしながら、

「ちょっと説明が難しいんだけど、簡単に言えば絆の体を乗っ取ったんだよ」

 と言った。

「俺たちが双子のきょうだいだからできる芸当らしいぜ、最近わかったんだけど」

 そして、もう一度俺の体に重なった。今度は足が布団の中でひとりでにバタバタと動いた。

「うん、体もちゃんと動かせる」

 自分の話している言葉が、自分の意思で話した言葉ではないという、このおかしな感覚はどう説明すればいいのだろうか。

「ああ、これでやっとお母さんと話せるんだ」

 自分の嬉しそうな声を聞きながら、そういえば俺自身、母親とまともに話すのは久しぶりだったことに気が付いた。一応話すのは縁とはいえ、母親の目の前に座る体を提供するのは自分なのだ。そう思うと、にわかに緊張してくるのを感じた。

「大丈夫だよ」

 自分の声が言う。

「絆は、ただそこにいてくれるだけでいいから」

 右手を、まるで別の人間の手のように左手が包んだ。

「俺の我がままに付き合ってくれてありがとう」

 すべて骨伝導で耳に入ってくる言葉に慣れず、何となく視線をやった先に、デスクライトの光に照らされた時計があった。時刻は、午前二時三十七分。

「そういや縁、誕生日からもう二日過ぎてるんだけど」

 一瞬の間の後で、小さいことは気にするな、と自分の声が返事をした。



 階段を下りて、ダイニングに行ってみても、母親はいなかった。

「本当に来るのかよ」

「来るよ」

 俺の手がシンクの上の作業灯のひもを引っ張って電気をつけた。パラパラ、という音がして蛍光灯の白い灯がキッチンからダイニングのあたりを薄く照らし出す。

 そのとき、ダイニングの床が軽く軋む音がした。

 本当に来た……。

「お母さん」

 そう呼んだ声はどこか上擦っていて、自分でも驚くほど縁の声に似ていた。

 母親の肩が、ぴくりと震えたのを、俺は見た。

「久しぶり……」

 母親は、ぼうっととしたやや焦点の合わない目つきで俺のことを見つめていた。蛍光灯が光る音が聞こえるほど、辺りは静かだった。

「縁、なのね?」

 掠れていたけれど、その声ははっきりと聞こえた。自分の首が、ゆっくりと前に倒れて、また元に戻った。頷いたのだとわかったのは、母親と再び目が合ったときだった。母親の目から涙がこぼれた。涙はあとから、あとから流れて落ちた。

 縁だと、わかったんだ。

 肩の力が、みるみるうちに抜けた。自分の意思に反して体に力が入らない。膝から崩れ落ちてしまうんじゃないかと思ったが、足元は思いのほかにしっかりとしていた。自分の体なのに、思い通りに動かせないのが歯がゆい。そのとき、俺は自分の頬にも涙が伝っていたことに気が付いた。コンタクトレンズがずれたときのような、生理的な涙のようだった。ここ数年間、感情的に泣いたことはなかった。今より心が動いたときはもっとたくさんあった。それなのに、涙はとめどなく頬を伝っていた。そのときになって、やっと合点がいった。

 そうだ、これは縁の涙なんだ。

「ずっと、会いたかった……」

 声は途切れ途切れになり、胸が詰まった。息をするのが苦しい。自分の気持と体が連動していないので、体にかかる負担が辛い。

「縁!」

 次の瞬間、母親は俺のことを抱きしめた。不意だったことへの驚きと、とっさの拒否反応で体が硬直した。異性に突然抱きしめられたこと、いや、「母親」に抱きしめられたことに、俺は内心悪いと思いながらも生理的な嫌悪感を隠すことができなかった。しかし、俺の緊張とは裏腹に、体の力は徐々に抜けていく。指の隙間から溶けたアイスクリームがどろりと溢れ出すような不快感が、背筋を伝った。

おいおい、嘘だろう? 涙を流している体とはまた別の意味で泣きそうだった。全身から冷や汗が吹き出るかと思ったが、そんな生理現象までこの状態においては俺が司るものではないらしい。体の持ち主である俺がいくら憔悴しきっていても、腕の力は男らしく強かった。俺の体は、母親をしっかりと抱きしめて、その上背中を気味が悪いくらい愛しそうに撫でさすっていた。

どうやら、縁の気持や考えは「ハッキング」されている途中であっても、共有できるわけではないらしい。縁の気持を理解することはできる、でもこの母親との対面において、明らかに俺と縁の気持には温度差があった。やっぱり俺は部外者でしかなくて、けれど俺がいないと縁は母親に会うことができないというジレンマに陥っていた。

俺の腕の中で母親は声にならない声を上げてむせび泣いた。母親がこんなに取り乱しているのを生まれて初めて見た。腕の中の母親は、自分が思っていたよりもずっと小さくて、今まで全く気が付かなかったのだが、よく見ると髪には結構な白髪が混じっていた。子供のころ、いつも俺と縁を一遍に抱えこんだたくましい腕は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

そうだ、そのときから、もう十年以上経っていたんだ。昨日で、十八歳。結婚もできる、運転免許だってとれる。入試のほうが大事だったから忘れかけていたけれど、あと一週間もしないうちに高校も卒業する。母親に素直に甘えられたあのときから、俺は思っていたよりもずっとずっと遠いところにいた。こんなことで、自分の成長を自覚するとは思わなかった。体は母親を抱いて涙を流しながら、心の中に吹き荒ぶ、冷たさが痛かった。


 それから、縁と母親は、薄暗いダイニングで小一時間ほど語り合った。俺は何も考えず、ただ口を動かしているだけなのだが、自分の意識は、霊体のように自由に自分の体を離れることはできなかったから、完全に部外者とも言い切れなかった。でも、実際に言葉を発しているのは俺の体だったし、母親が見つめる視線は間違いなく俺のことを見つめていたから、部外者と言うにはあまりにも現実だった。

 つまり、俺は今のこの状況が何なのか、本当によくわからなかった。



 次の日の朝、ダイニングに降りていくと、いつものようにキッチンから朝ごはんの匂いがした。

「おはよう、絆」

 ネギを刻んでいた母親は、俺の足音に気が付いて、にこりと笑った。号泣したせいで、目は赤く腫れていたけれど、ここ数年で見た中では一番晴れやかな顔をしていた。

 やっぱり、母親を縁に会わせたことは正解だった。泥を引きずるような疲労感の中で、思わず小さな笑みがこぼれた。

 母親の背中を見る。後ろでぴちっと一つにまとめられた髪は、昨日よりは目立たなくなってはいたけれど、やっぱりよく見ると結構白髪が目立っていた。

 テーブルの上には、湯気の立つご飯と、昨日の残りのおでんと卵焼きが並んでいた。

「お味噌汁、もう少しでできるからね」

 口の中で何となく返事をして、俺は箸をとった。

朝の光が差し込むダイニングは、暖房がよくきいていて暖かく、辺りには味噌汁の匂いが立ち込めていた。流れる空気が穏やかだった。俺はなんとなく調子に乗って、

「何かいいことあった?」

 と、母親の背中に向かって言った。

「え?」

 母親はネギを刻む手を少し止めた。

「……そうね、素敵な夢を見たの」

 思わず箸が止まった。

 夢。

 再びネギを刻む規則的な音がキッチンに響く。母親の時間が動き出したのとは逆に、俺は心臓の真ん中から、同心円状に全身が凍り付いていくような気がする。

 確かに、あの非現実的な出来事をそう片付けてしまいたい気持は理解できなくもない。だけど、だけど……。

 何度現れても気づいてもらえなくて、やっと会うことができたのに、再会をあれほど喜び合ったはずなのに、夢なんて確証のないもので片づけられてしまう。これじゃあ幾ら何でも縁が可哀想だ。母親を抱きしめた感覚は、俺の中にもはっきりと残っているのに。

 いや、やっぱり母親はこういう人だったな。

 淡い失望が体のこわばりを解いていく。期待するから、失望するんだ。縁は喜んでいたんだし、それで十分じゃないか。もう感情に振り回されている暇はない。ご飯を口の中に押し込んだ。とにかく、今は食事をしよう。

「絆」

 食卓に出来立ての味噌汁を置きながら、母親が言った。

「大学、受かっているといいわね。きっと大丈夫よ」

 何を根拠に大丈夫だと思っているんだろうな、と思いながら俺はただ朝食を食べ続けた。



 後期入試が残っているので、予備校へ行ってはみたものの、一旦切れた集中力はなかなか取り戻せるものではなかった。結局すぐに帰ってきて、だらだらと勉強しているうちに夜になった。そんな生活が何日か続いたある日、俺は変な夢を見た。

 女の子が墓にすがって泣いていた。西洋風の十字架の白い墓で、彼女は桜色の丈が長いワンピースを着ていた。

 俺は死んでいて、彼女がすがっているのは俺の墓だった。その夢の中で、生前の俺と彼女は恋人同士だった。

 すぐ後ろに俺がいるのに、彼女は全く気が付かない。蝶になって彼女の周りを飛んだ、風になって彼女のすぐ上にある木の葉を揺らした。けれど彼女は泣くばかりで、こちらを見ようともしなかった。

 お願い、気付いて。俺はここにいるよ。

 遠くからきな臭い匂いが漂ってくる。火がなめるように山の木を炎に包んでいく。

 気付いて。

 自分の体の内側から、サイレンが響いた。大きな、音だ。今まで俺の存在に気付かなかった動物たちが、一斉に逃げ出した。サイレンの音はどんどん大きくなる。それでも彼女は気付かない。それどころか、涙で曇った目をあげて、こう呟いたのだ。

「会いたいよ、佐野」

やがて火が彼女の周りを取り囲んだ。そのときになって、彼女は怯えた目をして立ちすくんだ。彼女の真正面にいる俺は、こんなにもうるさい音を立てているのに気づいてもらえない。彼女の目の中に俺はいない。ひどく、惨めだった。消防車でも来たのだろうか、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。やがて景色は闇にのみこまれた。

 耳元で、サイレンの音が鳴り響いている。

「おい縁」

 ひえっと情けない声を上げて、縁が三メートルほど後ろに飛びのいた。布団の上に落ちた俺の携帯電話から、だらしなくサイレンの音が流れている。全く、悪夢はこれのせいか。

「早くそのうるさいのを消せよ」

「はいはい」

 サイレンはすぐに消えた。音が止むと、俺の中の悪夢も消えてしまって、もうどんな夢だったかもほとんど思い出せなくなっていた。

 何気なく見やった時計は深夜二時過ぎを指していた。睡眠を妨害されたことに、俺は少しいらっとした。

「今度は何」

 縁はちらっと俺を一瞥して、やっぱり今日はやめておいたほうが良かったかな、と小さな声で呟いた。

「また母さんと話したいの?」

 そう訊くと、縁は子供のように、こくんと頷いた。

「でも母さんは、昨日のことを夢で片付けたんだぞ⁉」

 縁は微笑した。まだ少年のあどけなさの残る顔に浮かんだそれは、透明で、純粋で、俺は思わずはっと言葉を失った。

「それなら本物だって気付いてもらえるまで、俺はあきらめない」

 そうか、と思わずその笑みに引きこまれそうになって、気付いた。

「でも、それって俺がいないと始まらないんじゃ……」

 縁は目にもとまらぬ速さで俺の体に重なった。

「ご名答」

 答えは自分の声が教えてくれた。



「また来ちゃった」

 そう言った縁の声に、母親は少し怪訝そうな顔をした。

「夢じゃないよ、体は俺のじゃないけど」

 縁は顔の横でひらひらと手を振ってから、母親の前に手を突き出した。

「ほら、本物!」

「本当ね」

 一瞬ためらってから、母親が俺の右手を包み込むように握ったとき、俺はまた、手を振り払ってしまいたかった。が、それよりも前に、縁の意思が、今まで意識の外にあった左手をそっと添えた。

 ぞっとした。

 深夜に十八歳の男子高校生が母親と手を握り合っているなんて、酔狂以外の何物でもない。

――おい、放せ、マザコン!

 俺の悲痛な叫びは自分の体にすら届かない。俺の体に拒否権はないのだった。縁に体を預けて意識だけどこか別のところに飛んでいってしまいたいが、生憎俺は霊体ではないのでそういうわけにもいかない。腹をくくって諦めるより他はなかった。やがて諦めが心を満たしたとき、やっと俺は冷静に今の状況を眺めることができるようになった。

 ひどく、冷たい手だった。

 母親の手を、縁はいとおしそうに握った。母親の手は細く骨張っていて、なぜかやたらとすべすべしていた。手を握っている間、母親は何かを考えるように、何も言わなかった。

「ハンドクリーム……」

 縁がぽつり、と呟いた。

「お母さんの手、昔はがさがさだったよね。それでさ、小三のときに初めて母の日にプレゼントを買ったんだ。何がいいのか分からなかったから、スーパーの化粧品売り場で、ニベアの青缶を買った。スーパーで一個しか買うものがないのにレジに並ぶの、すごく恥ずかしかった。『ラッピングできませんか?』ってレジで聞いたら、おばさんに変な顔をされた。でもお母さんは、俺がびっくりするくらい、すごく、喜んでくれて……」

 視界が下のほうから白くぼやけて、歪んだ。

「塗り方の加減がわからなくて、手がべたべたになってさ……。俺が死んでから、母さんの手ががさがさだったらどうしようかって、ずっと思っていたんだ。でも、大丈夫みたいだね……」

 下瞼が熱く濡れた。雫がぽろぽろと頬を伝っていく。

 そんな話は聞いたことがなかった。

 手の中で、母親の手がふるふると小刻みに震えていた。 

「お母さん」

 縁が絞り出すような声で言った。

「僕は、縁だよ」

 母親は俺の手を固く握りしめて、今にも泣きそうな眼差しでまっすぐ俺を見ていた。俺は目を逸らすことができずに、母親の目の中を見つめていたら、縁の切ない気持が俺の感情を揺さぶった。目から一筋の涙が頬を伝った。

 これは、俺の涙だ。



 それからしばらくの間、縁はときどき夜中の二時過ぎくらいに俺のことを起こして、俺の体を「ハッキング」して母親と話した。お互いよくそんなに話題が尽きないよな、と思いつつ、やっと縁が曲がりなりにも母親と話せるようになったことは、俺としても嬉しいことだった。縁のことを見つめる母親の目は優しかった。二人は終始穏やかに会話をしていたので、付き合わされるのはそんなに嫌なことではなかった。暗いダイニングに二人、明かりはいつもシンクの上の作業灯だけ。適度な暗さは、一卵性双生児の微細な差も、母親のやつれたしわも朧げにした。

 そんなことをしているうちに、俺は高校を卒業した。卒業した、と言っても十二月の時点でいわゆる通常授業は終わっていたので、一区切りついたな、という程度の感慨しかなかった。後期試験に対するモチベーションは最悪で、正直全く身が入らなかった。

 前期試験の結果が出るまであと一週間ほどだが、受かるにせよ、落ちるにせよ、早く結果を知って楽になりたかった。一応地元の私立大には合格していたけれど、できることなら私立大にはいきたくなかった。

 始めは二、三日に一度くらいだったペースだったのだが、気が付けば縁は毎晩俺のことを起こすようになった。俺の起こし方も変わってきた。顔面にテニスボールを落としたり、書道の筆で鼻をくすぐったりと、あの手この手を使って、起こしていたのが、いつの間にか枕元にある恐竜のぬいぐるみでそっと肩をつついて静かに起こすようになった。

「母さんと話すの、そんなに楽しい?」

 一度縁に聞いたことがある。縁に体を貸すのに嫌気がさしたわけではない、ふっと湧いた純粋な興味だった。

 縁は口をつぐんで、長い睫毛をそっと伏せた。

「やっとつかんだチャンスだから」

 その声は震えていた。

「いつかきっと、わかってくれると思うんだ」

 その言葉の意味が分かったのは、それから数日経ってからのことだった。



 その日、俺は二時過ぎに目が覚めた。縁が来たら返り討ちにしてやろうと思って、布団の中で寝たふりをしていたのだが、縁は来なかった。いつもならそのまま眠ってしまうのだが、なぜかその日は眼が冴えて眠れなくなってしまった。何となくキッチンで水を飲んでいたら、

「誰?」

 と、言う母親の声がした。思わず振り返ると、母親ともろに目が合った。つい反射で目を逸らした。視線の先にある鍋の底に映っているのは、まぎれもなく俺だ。けれど、母親と毎晩話しているといっても、母親の前にいたのは俺じゃない、縁だ。絆として母親とうまく話せる自信はなかった。幸い、母親が夜中に話していたのは、「絆の姿をした縁」だった。違うのは、それこそ人格だけだ。それに、どう振る舞えばいいのかも、体が知っているはずだった。俺は、縁がよくやるようにちょっとはにかんでから、そっと首を振った。

 俺と母親は、「いつものように」ダイニングで語り合った。母親の優しいまなざしは、間違いなく俺に向けられていた。意外なことに、俺は意外と母親とうまく話すことができた。いつも縁の代わりにその場にいるのと、ほとんど変わらないような気がした。

 そのうち、何だか変な気分になってきた。初めは縁の代わりをしているつもりだったのだが、いつの間にか初めから自分は縁だったような気がしてきたのだ。二つの考えは巴のようにうねり、まざりあい、ゆらゆらと俺の思考を占領した。頭の中をかき混ぜられているみたいに、頭の奥がぼんやりと重い。

 母親が時計を一瞥して、もう寝なさい、と言った。

「そんな、大丈夫だよ」

 そう言って、顔の横で手をひらひらと振ろうとしたときに、一瞬、割れるような頭痛に襲われた。

「大丈夫?」

 俺は必死に何度も頷いた。途端、ひどい眩暈がして、景色が大きく傾いだ。椅子から転げ落ちそうになった。自分が一番、何が起こったのかわからなかった。

 母親が咄嗟に肩に手をかけた。母親の手が触れたところから、電流のような寒気が走るのを感じた。

 パシッ

 弱々しい音だけれど、それは確かに拒絶の音だった。自分の音に驚いて、俺は母親を見た。母親は茫然と俺のことを見ていた。作業等の白い光は、俺の嘘と、母親の老いからくる皺をはっきりと照らし出していた。

 そこからどうやって部屋に戻ったのか、全く記憶がない。どうにか自室のベッドにたどり着いて、意識を失う途中で俺はふと気が付いた。


今日は、縁の命日だった。


 縁の命日がくると、俺は毎年、原因不明の頭痛と発熱に襲われる。翌朝、そろそろと目を開けようとすると、急に波がやってきた頭痛に阻まれた。また、今年も来た。

 ひどい頭痛をおして、俺はデイパックの中から昨日買っておいたスポーツドリンクを取り出して無理に口の中に流し込んだ。本当は水分すらほしくなかったのだが、一度、高一のときに脱水症状を起こしかけたこともあるから、洒落にならないのだ。ただ起きているだけでも体が辛いので、俺は子供のように目を固く閉じて、また眠りが訪れるのを待った。そして、死んだように長い時間眠っていた。再び目が覚めたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。いくらか熱は下がったようで、頭痛も和らいでいた。食欲は依然としてなかったけれど、渇きは感じていた。スポーツドリンクはもうすべて飲んでしまったので、俺は階下へと降りていった。

 日が落ちて、カーテンも下ろしているせいで、家の中は暗かった。ただシンクの作業灯の白い光だけが手近な周囲を照らしていた。光に背を向けるようにして、母親がぼんやりとダイニングの椅子に座っていた。母親は二階から降りてきた俺を物憂げに見遣った。

 俺はいつものようにぎこちない沈黙をどうしていいかわからないまま、その存在に気が付いていないふりをした。水道の蛇口をひねって、水がシンクの底を叩く音を聞きながら、背中では母親の行動の一つ一つを窺っていた。

「絆」

 俺の背中に向かって、母親が呼びかけた。

「具合は大丈夫なの?」

 さあ、どうだろう。体はだいぶん楽になっていたけれど、決して本調子まで回復したわけではない。俺は口の中で曖昧に返事をした。コップに水を汲んで、水を一杯半飲んでから部屋に帰ろうとした、そのときだった。

「もう、うんざりよ」

 母親が叩き付けるように言った。振り向くと、母親は正面から俺のことを見据えていた。

「夜中の三時には普通の会話ができるのに、それ以外はどうしてこうもまともにコミュニケーションが取れないの、おかしいでしょ」

 どういうことだ? 

「だって母さんと話しているのは俺じゃなくて縁だから……」

「バカなことを言っているんじゃないの」

 母親がぴしゃりと言った。頭がうまく働かない中でも気が付いた。もしかして、母親は縁の存在を信じていないではないだろうか。これじゃ幾ら何でも縁が可哀想だ。

「縁はもう五年前に死んだのよ、もう永遠に帰ってこないの!」

「いるんだよ、母さんはずっと縁と話していたんだ」

「いい加減にしなさい、絆」

「嘘じゃない、縁はずっと母さんに会いたくて……」

「いい加減に目を覚ましなさい!」

 母親がヒステリックに叫んだとき、俺は自分の中で、何か薄い氷が割れるような音がした。体が足元から溶けていくようなひどい虚脱感がする。それなら、毎晩のように縁に体を貸していたことに何の意味があったんだろう。夢じゃない、俺の狂言でもない。あれは本当に縁だったのに。

 そのとき、はっと気がついた。

 もしかして、縁はずっとそのことに気が付いていたんじゃないだろうか。毎晩のように、絆ではなく縁だと気が付いてほしくて、何度も、何度も。

 思考がどろりと溶けていく。母親と毎晩話していたのは確かに俺だ。何を話したか、全部覚えている。小さかった母親の体も、冷たかった手も、全部。そういえば、縁が見えるようになったのはいつだったっけ。いつから日常が戻ってきたんだっけ。縁は、本当に俺の幻想にすぎないのだろうか。

 違う。

 あの日、初めて縁が俺の前に現れたあの日、俺は約束したんだ。誰が信じてくれなくても、俺だけは絶対に、縁がここにいることを信じるって。ただ、信じるって。だって俺たちは、同じはじまりから生まれた、きょうだいなのだから。

 頭の中が混沌として、もうまともな考え方なんてできていなかった。

「お母さん、信じてください」

 自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。

「あのときは、本当に絆じゃなくて縁だったんです」

 そう言ったのは、縁だったのだろうか。それとも俺の意思だったのだろうか。

 もともと見えていたかよくわからなかった景色がふっつりと消えた。俺の体はつま先から柔らかな黒い沼の中にずぶずぶと沈んでいく。感覚が、境界線から死んでいく。じわり、じわりと固く凍り付いていく。やがて体は沼の中にすっかり沈み込んで、俺は真っ暗な無の世界にいた。



「絆」

 どこかで俺を呼ぶ声がする。近くなのか、遠くなのかわからない。全ての感受性を失った今、体全てがその声を感じていた。

「目を開けて」

 いつの間にか閉じていた目を開けると、目の前に縁がいた。依然として世界は暗いままで、俺は自分がどこにいるのかよくわからなかった。

「縁」

 不安になって名前を呼んだ、けれどその後に出てくる言葉が出てこなかった。縁は全てを包み込むようにそっと微笑んだ。

「俺のことを、ずっと信じてくれてありがとう」

 普段とは違う、ただならぬ気配を感じた。縁に触れようと伸ばした手は、やっぱり彼の体の幻影をすり抜けてしまう。

「すごく、嬉しかった。もう永遠にお母さんと話せないんじゃないかって思っていたから」

「そんな、当たり前だろ。きょうだいなんだから」

 俺は必死でそう言った。

「俺は、消えるよ」

 縁は力のない乾いた声で、少しだけ笑った。

「もう疲れちゃった。お母さんと絆のことを天国で待ってる。きっと今のお母さんには、どうしたって俺は見えないんだよ」

 平静を装っているつもりだろうか、縁はすごく悲しそうな顔をして、笑った。笑うたびに縁の輪郭が、少しずつぼやけていった。

「俺、自分が死んだってこと、ちゃんと理解できていなかったんだ。ほんとうは、五年前に全部終わっていたんだ。存在していない俺は無理に存在してはいけなかったんだ。お母さんにとってはずっと綺麗な思い出でいなくちゃいけないんだね。お母さん、ああ見えて本当は突っ張って立っているだけだから。死んだ俺と、生きているお前の存在で、何とか立っているだけなんだ」

 伸ばした手が空しく宙をかく。体の幻影がある場所を、どうやってもすり抜ける。縁を安心させてやりたいのに、今の俺には言葉も、触れられる実体もない。その間にも縁の体はどんどん消えていった。

「俺たちは、もうお互いがいなくても生きていけるよ。大丈夫、形が消えても、ずっと傍にいる。お前が死ぬまで、ずっと守ってやる。俺たちは住んでる世界が違うんだ、いつまでも依存しあってちゃいけないんだ」

 さよなら。



 そうだ、思い出した。

 縁が死んだ後、ずっと死んだように生きていた。縁は俺を庇って死んだ。縁のおかげで、俺はかすり傷一つしなかった。即死だったらしい。嘘みたいにあっけなく死んでしまった。事故の後、自分が生きているのが許せなかった。自分の体が無意識に生きようとしているのが許せなかった。いつも縁が死んだ時の光景が、脳裏にくっきりと焼き付いて、片時も離れなかった。

「絆は悪くないんだよ」

 縁の葬式のときに、母親は言った。けれど、どんな言葉も心の表面を上滑りしていくばかりで、俺の心には何一つ響かなかった。

 結局それ以降学校へ行くことなく春休みになった。急に広くなった部屋で、カーテンを閉め切って、ずっと閉じこもっていた。縁はもう戻ってこない。俺のせいで縁は死んだ。あのとき、多分一生分の涙を使い果たしたのではないだろうか、というくらい泣いた。追い詰められて、気が狂いそうになったので、デスクライトの明かりだけつけて机に向かった。勉強しているときだけ感情が空っぽになって、事故のことを考えずに済んだ。そうやって逃げている自分が大嫌いだったけれど、皮肉にも成績が上がった。縁に生かしてもらったような人生だったけど、もうこれ以上生きていても楽しいことなんてもうないし、楽しい人生を送ることは自分には許されないと思った。

 中三の冬のことだった。唐突に死にたいと思った。生きることが嫌だったけれど、死にたいと思ったことがなかったのは、多分縁に生かされたという意識が強かったからだろう。縁の死から二年近く経って、多分初めてのことだった。気が付けば死ぬことばかり考えていた。そんなとき、縁が現れた。

「何死んだような顔をしているんだよ、生きているくせに」

 その顔は、もう死んでいるくせに、はつらつとして、まぶしいくらいに輝いていたんだ。



  そこで、目が覚めた。リビングのソファの上だった。西日が部屋にまっすぐ差し込んでいてまぶしかった。熱や頭痛は嘘のように引いていた。頭の働きが正常になりすぎることが、逆に縁が本当にいなくなってしまったことを認めざるを得ない状況になって、ものすごく心の中が冷えこむような気がした。

「母さん」

 俺は黙って枕元に座っていた母親に向かって言った。

「縁は死んだんだね」

 母親は静かに頷いた。

「もう、どこにもいないんだね」

 口に出すと、言いようのない寂しさが込み上げてきた。

「俺たちは、生きているんだね」

 骨伝導で聞こえる俺の声が、自分の意志以外で聞こえることは、もうない。

「今までずっと心配かけてごめんね」

 母親の手に触れた。母親の手は、縁のようにすり抜けたりしなかった。温度をもって、しなやかで、強かった。母親は生きていた。俺も、そうだった。今は、それだけでよかった。

 赤い光の中で、俺たちはいつまでも、手を握りあっていた。


(終)

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― 新着の感想 ―
[一言] 入りだし付近の 気がつけば縁が二人で使っていた というのはどういうことでしょうか‥
2015/09/18 10:19 通りすがり
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