翼なき闇
「なあに、あなたもわたしのこと、怖い?」
顔の半分を白にした、真っ暗な背景に映えるような、真白な包帯を目の周りにぐるぐると巻きつけた少女は、放課後にしてはあまりにも静かな教室で僕にこうたずねた。
「いや、そんなことないよ」
僕はそう答え、ニッコリと微笑んで見せようとしたけど、最後の言葉じりは震えていたと思う。僕って怖がりかな?いや、そんなことはない。いたって仕方のない反応だ、だって、彼女は魔女なのだから。
「そう、本当かしら?じゃあ、アナタは、わたしの目、ちゃんと見て話してくれる?」
喉が鳴った、ヒュウって。僕は苦い味のするツバを、無理矢理に飲み込んだ。
「もちろんだよ。何ならその包帯、僕が後ろに回って外してあげようか?」
強がりだった。だけど、僕の口から出た言葉はもう戻ることはない。僕は根でも生えたように動かなくなってしまった足を無理に引きずるようにして、ゆっくりと動かしてみた。ガシャン、ヒステリックな、硬いモノ同士がぶつかる音が教室一杯に響いて、彼女が僕から一歩身を引いた。僕が近くにあった椅子を倒してしまったのだ。
「大丈夫、椅子が倒れただけだよ。心配しないで、この教室には僕と君しかいない。まあ、目の見えない君に僕の言葉を信用してくれなんて言うほど僕はずうずうしくはない。だけど、その目だってもうすぐ治るんだろう?」
僕の目に、彼女の身が一層、固くなったように感じた。表情も半分しか見ることが出来ないが、彼女の口元は、まるで動物園の柵の中に閉じ込められた山羊のように引きつっている。
「本当にそう、思ってるの?」本能的に、僕は教室から逃げだすために、体の比重を後ろに反らした。「なら、あなたが確かめて、噂が本当かどうか?この包帯の下に何があるのか」
彼女はそう言って、包帯を外すためにか手を頭の後ろに回した。僕は咄嗟にそこから目を逸らし、後ろを振り返って、教室のドアまで急いで走りだそうとした。走りだそうとした、逃げだそうとしたはずなのに、僕の視線は彼女のその場所から一向に離れることがない。何故だ?動かそうとするのに、体は一向にいうことを聞いてくれない。僕の体が僕のモノじゃなくなっていく感覚、僕の体が彼女に支配されていく感覚。
その間にも、目の前では、彼女の顔からゆっくりと白いモノが落ちていく。
するする、するする、真白な包帯が、教室の無味な木の床の上に、不穏な白い山を築いていく。
初めて見た、ああ、初めて正視した、その包んでいたモノの下の彼女の顔は、不気味なほど白いその包帯よりもさらに白い気がした。だけど、彼女はまだ目を瞑っている。彼女の長い前髪のせいでその顔の上半分はほとんど窺うことが出来ない。動けない、いや動けないのではない。捕らえられた、僕は彼女の包帯の下に捕らえられたのだ。僕の瞬きはあまりにも遅い。だけど、彼女の瞬きもあまりにもゆっくりだ。その一つの暗転の度に彼女は白くなっていく。
ああ、僕は渇いていく、僕の体から、その瞬きの度に水分が蒸発していくのが分かった。僕は目から干乾びていくのだ。まるで何もない砂漠に横たわった焼死体のように。
その木乃伊にでもなっていくような、永遠とも思える渇きの中で僕はゆっくりと思い出していた、ことの始まりを、その本質であり、原因を持った魔女である彼女の登場を。
「オラー、立ってるヤツ、今すぐ席つけよ」
ただでさえ慌ただしい、長期休暇明けの高校の教室は、誰が書いたのか黒板にある「転校生参場⁉」の文字に、いつもよりもざわついていた。
陸上部の顧問であるせいか、休暇前よりも幾分日焼けした顔を、薄くなりかかった頭部に年相応の油気でテカらせている担任教師は、まだ自分では若いつもりなのか、その頭髪に不相応な馴れ馴れしい態度で、机に着いた僕たち見回して、そうまくしたてた。
「エー、今日は転校生を紹介します。オラー、そこ。転校生が女子だからって興奮してんじゃねーぞ」
教室の後ろでギャハハと下品な笑いが起こり、担任も自分が受けたとでも思ったのか肩を引くつかせているのが僕には分かった。僕は周りにあわせて一瞬笑ってみせた後、目だけは笑っていないいつもの顔に戻して、教室の廊下側の窓を見た。何がおもしろいのか、教室は未だ担任の肩の筋肉と同期して騒々しくも小刻みに震えている。話し声が一向に止むことはない。しかし、そんな微笑ましい田舎の公立校に相応しい光景は一転、彼女が扉を開けて教室に侵入してきた瞬間に別物に変わった。
まず見えたのは棒だ。これは後に杖だったのだと僕は知った。そして、次に入って来たのは踝まで隠れている長い長いスカートで、僕たちの学校では見慣れない黒いセーラー服。まあ、ここまでならここらにはあまりいないにしても、まだ有り得る範囲。しかし、最後に現れたのはこれまた黒くて長い髪に、それを無理矢理巻き込むよう、上半分に包帯を巻かれた白くて小さな頭部。
これを見た瞬間に僕たちは静かに息を飲んだ。何て言うか、それはちょとあまりにも、僕たちの日常には異様だったのだ。当たり前に僕たちの町の、人けのまばらな商店街を歩いても、飼い猫に似合わない天使の羽を付けて散歩している人には出会っても、こんな異様な人間にはとてもじゃないが出会いそうにはない人種だった。教室はさっきまでの騒々しさが嘘のように静かになっていた。
しかし、担任教師はそんなことまるで気に入らないかのように平然としゃべり続ける。
「エー、これは隣の県から今月、転校してきたxxxxさんだ。今はちょっと、少し前にあった事故で目が不自由になって、こんな恰好をしてるがみんな仲良くしてやってくれ」
教室はやはり静まり返っていた。僕はそんな中、平静を装って、これが何でもないことのように校庭側の窓に目を首を傾げ、皮肉っぽく口笛を吹いた。ヘッて感じで。だけど、心臓はフルのマラソンを走り切ったのに汗を全くかかなかったランナーみたいに速く脈打っていた。だって、僕は、僕たちはこんなモノ見たことがなかったのだもの。
その時だ、一瞬の挙動を悟られたかのように、目元を布で覆われ何も見えないはずの彼女の顔が僕の方を急に振り向いて、片頬だけで笑ったのだ。ニッと。
肌が粟立った。背筋は冷たいのに頭の天辺が沸騰した気がした。
何かが僕の表面を流れた。冷たいのに汗が滝のように流れる。
しかし、そんな僕の気持ちとはお構いなしに、その瞬間、教室にいつものざわざわした空気が戻った。僕の周囲が彼女を受け入れたのが僕には分かった。
担任教師もそれを察したのか普段の新学期の始まりのように何事もなく授業を開始する。荷物から教本を開き、周りもそれに促されるよう教科書とノートを開き出す。彼女もただ言われるがままに後ろの方の席の机に座り、周囲と同じよう、見えているのか分からないが真新しい教科書を鞄から取り出す。僕はそんな彼女を最後まで目で追っていたが、急にさっきの笑みを思い出し、怖くなって落書きだらけの自分の教科書に急いで目を落とした。
最初の異変は次の週の、休暇明け最初の月曜日に起こった。
僕たちの学校では、もう高校生だというのに未だに学校の敷地内で兎を飼っている。面倒は係のものが順番にいているのだが、一部はある筋の医療系企業に実験用として売られているともっぱらの噂だ。それが は一限明けの休み時間、クラスの女子のリーダー格、とまではいかないが、まっとうな常識人、友達も多い笑うと右頬にだけ靨ができる女の子だった。
僕には分かりきっていたことだが、会話ははずまなかった。なぜなら、彼女は一言もしゃべらなかった。女の子がいくら熱心に話しかけても彼女は何の反応もしめさなかった。それでも、女の子はしゃべり続けた。ざらざらと一定の音だけが僕の耳を右から左に通り過ぎて行く。僕には不毛なことにしか思えなかったが女の子にはそんなこと関係ないようだった。僕は彼女の笑顔を見るのが嫌だったので極力そちらを振り向かないようにしたが、声だけを聞いていても僕には女の子の気がフレているようにしか感じなかった。
異変は翌日に起きた。
その彼女に気がフレたように話しかけていた女の子が眼帯をして教室に入って来た。短く、うなじの辺りに切りそろえられた黒髪に白い眼帯はやはり映えていた。
クラスの話題は彼女からその女の子へと移った。
彼女の周りは閑散として、その女の子の周りには、僕には五月蠅い蠅としか思えないような人ごみがわぉんわぉんとできた。「なぜ」、「なんで」、「どうして」、当たり前のような疑問の言葉が女の子の周りを飛び交った。僕は気になっていいない振りをして、目だけで女の子を追った。
「黙って」
大声だった。僕は口笛を吹くように唇を尖らして、目線を窓の外にやった。女の子はそう叫ぶと、息するのも辛そうに椅子から立ち上がっていた。
「お願いだから、黙って」女の子はそれだけ言うと再び自分の椅子に座った。そして、しばらくして深く息を吸うと、「うん、本当に何でもないの。ただ目に物もらいができちゃって、すぐ治るんだけど、ちょっと腫れちゃってるから」
しかし、女の子は、目線だけはずっと昨日転校してきた彼女ばかり見ていて、態度もとても落ち着いているとは思えなかった。感情の波は激しく、彼女を怯えているのがありありと分かった。
その日はずっと空気が重かった。誰も口数が少なく、教室も普段とは比べ物にならない程静かだった。
噂はすぐに広まった。
噂とは、こういうものだ。
この間転校してきたxxxxという女は魔女だ。あいつの包帯の下の目を見たら視力を奪われるぞ。