823:背に当たる感触は
行手にそびえる黒い石造建築。
ずいぶん年季の入った古屋敷のようだ。外周の石塀から窓のある外壁にいたるまで、いたるところ黒いシミだらけで、蔦蔓もみっしりと貼りついている。
「あれが、メイヤー未亡人の現在の住居です」
ケーフィルが告げる。ブラストの妻はメイヤーという名前らしい。
「大きい屋敷だな。あそこに、一人で住んでるのか?」
と、俺が訊くと。
「こちらに入ってきている報告では、使用人三名とともに暮らしているそうです」
「ほう」
俺は少々、意外な感を抱いた。
そのメイヤー未亡人のお屋敷、目には見えないものの、途方もない瘴気が周辺一帯にまで渦巻いている。とくに霊感とか魔力とかを持たない常人でも、触れれば精神に変調をきたしかねないほど猛烈な、憎悪と怨恨の念が。
そんな場所で、おそらく凡人であろう使用人たちが、まともに働けるものだろうか?
そもそもメイヤーとやらがどういう女なのか、俺はよく知らんが、ケーフィルやアクシードは一応、以前から顔見知りであるらしい。
で、ケーフィルがいうには。
「少なくとも、ブラストが騎士団にいた当時は、ごく普通の女性であったように思います」
とのことで。
それにしては、いま俺が肌に感じている瘴気の強さは異常だ。
本当に、たった一人の呪いが、これほどまでに現実空間に影響を及ぼすものだろうか? 高位魔族でも、これほど強烈な怨念を発する者はそうそういない。
「これは……どうも、悪寒がしてきました。先ほどから頭痛も……。馬たちも、近づくのを嫌がっています」
ケーフィルが呟く。そりゃまあそうだろうな。街路のホームレスどもも、屋敷の周辺には姿が見えない。異常を感じて遠ざかっているのだろう。むろん俺は平気だ。
いったい、いま屋敷の内部はどんな状況なのか。かえって興味が出てきたぞ。
「ここでいい。俺とスーさんで行ってみる。卿は王宮へ戻っていてくれ」
そう指図して、屋敷手前の路上に馬車を停めさせると、俺はスーさんをともなって客車を降りた。
ケーフィルは「お気をつけて」と言い残し、急いで引っ返していった。
「スーさん。これ、どういう状況かわかるか?」
「そうですねぇ」
スーさんは、ちょいと困り顔で首をかしげてみせた。かわいい。
……ああ、いつも骸骨でやってる、鎖骨や頚骨で変な音を鳴らす仕草が、生身ではそういう風になるのか。今更だが。
「呪術のたぐいだとは思うのですが、はっきりしたことは、私にもわかりません。たかだか人間が、こうも異様な圧力を広範囲に振りまいている事例は、経験がありません」
なんとまあ。現行の魔族で最高齢のスーさんでも見たことのない事例とは。
ますます興味深い。
「行ってみよう。俺が前に立つ。ついてきてくれ」
「は。おともします」
スーさんを従えて、屋敷の正門前に立つ。
がっしりした鉄製の格子扉に手をかけると、あっさり左右に開いた。鍵はかかってなかった。
前庭に踏み込む。
もともとは、きちんと整備された庭だったのだろう。しかし今は、芝も植木も枯れて、無残なことになっている。なかには立ち枯れて、幹の真ん中から朽ち折れている大木もある。すぐにも地面からボコボコとゾンビでも出てきそうな雰囲気。
このなんともおどろおどろしい空間をまっすぐ抜けて、玄関口へ。
両開きのドアは木製のガッシリしたもの。手前に土埃が溜まっており、足跡などの痕跡は見られない。おそらく一ヶ月以上、ここは人が通っていないようだ。
「いくぞ……」
ちょっと緊張しながら、両手でドアの取っ手を掴み、引いてみる。
ここも鍵はかかっておらず、あっさり開いた――。
途端、壮絶な瘴気が、物理的な圧力をともなって、俺の全身へと押し寄せてきた。見えざるコールタールの津波とでもいおうか。
俺はそれでも平気だが、後ろにいるスーさんが……。
「ぐっ、これは、厳しいです……」
最高位アンデッドをここまで怯ませるとは。とんでもねえ威力だ。
「スーさん。俺の背中にしっかり貼り付いていろ。俺が盾になってやる」
「はっ、はいぃ……!」
スーさんは俺の背後にピッタリくっついた。これで一応、瘴気の直撃を避けることができるはず。同時に、ぷにゅーんとした、素晴らしい感触が、俺の背中に当たっている。着ぐるみとはいえ、限りなく本物に近いな。サイズは……D、いやEかな?
「わざと当てております」
うん。そうだろうな。やっとる場合か。
ともあれ、屋敷のエントランスへと踏み込む。
広々とした空間。天井や壁面には魔力球による照明があり、意外と明るい。床にはしっかりしたカーペットもあり、調度類はなかなか豪華だ。
ホール内部は、左右から上階に続く階段が斜めにカーブを描いており、正面奥には長い廊下が見えている。
猛烈な瘴気の奔流は、廊下のほうから来ている。おそらくその先に、件の未亡人がいるのだろう。
「進もう」
「はい」
俺とスーさんは、うなずきあい、意を決して一階奥の廊下へと進みはじめた――。




