731:白い闇のなかで
レンドルの特別授業。
てっきり、その場で何か講義でも始めるのかと思ったが、そうではなかった。
レンドルはいきなり詠唱を始め、例の出来損ない瞬間移動魔法――リネスが命名するところのルミナリィ・ノヴァをぶっ放して、俺とリネス、レンドル自身まで、まとめて亜空間へと転移させた。
見覚えのある、白一色の空間――転移の瞬間、俺は咄嗟にリネスを庇うように抱きかかえていた。おかげで、この空間で互いを見失うという最悪の事態は避けられたが……あの野郎、いきなりなんつー真似を。
「おう、二人とも無事で何よりだぜ」
レンドルの声が響く。先ほどまでの念話と違い、よりはっきりとした声だ。振り向いてみれば、紫の長衣の中年エルフが、真っ白な背景の只中を、ふわふわ漂っている。相変わらずの霊体ではあるが。
「おまえ、どういうつもりで……」
「まあ聞けよ」
俺が問いかけるのを遮って、レンドルが語った。
「さっきの話じゃ、てめーら、あんまり時間がねえんだろ? だがよ、オイラの講義は一日や二日で済むような生ぬるいもんじゃねえ。だから、ここでやるんだよ。アーク、おまえならわかるだろ」
また質問を先回りされてしまった。本当、やな奴だなこいつ。
この亜空間というのは、次元の狭間にあたる特殊なエアポケット。上下左右前後、過去、未来、あらゆる方向性の概念が存在しない。すべてがただ虚無の中空に浮き漂うだけの空間。もちろん時間の概念も無い。
以前、リネスに亜空間へ吹き飛ばされ、アエリアとミストルティンの力で通常空間へ復帰するまで、体感で十数分ぐらいは掛かっていたが、実際に復帰してみると、ほとんどタイムラグはなかった。
つまり――ここに留まっている限り、通常空間では時間が経過しない。俺たちの時間は止まっているも同然ということだ。数日でも、あるいは数年留まっていようとも同じってわけだな。
「……でもさ、こんな何もないとこ、ボクたちそんなにいられるものなの? ゴハンとかトイレとか、どうすんの」
リネスが訊ねたところで、ふと、腰のアエリアの鞘が、カタカタ震えたと見えるや、そこから白い全裸の美女が、ぬるり……と、這い出てきた。天魔族の証といわれる見事な黒翼を背に負って、白空にふわり浮かんで、俺に向かって投げキッスひとつ。
「やっほー、ハニー」
「……まあ、そうなるな」
銘剣ミストルティンに宿る幽霊、天魔将軍アエリア。以前もそうだったが、この亜空間でのみ、ミストルティンの刀身から抜け出し、姿を現すことが出来るという。あくまで幽霊なので触れたりはできないが。
「へへへ、リネスちゃん、はじめましてだね! アエリアだよっ!」
「え……え?」
いきなり出現した全裸美女に微笑みかけられ、キョトンと目をしばたたくリネス。かまわずアエリアはまくしたてた。
「さっきの質問、アエリアが答えてあげるね! なんとっ! この空間じゃ、お腹はすかないんだよ! おトイレも行かなくてだいじょーぶだからね!」
……かつてアエリアは、レンドルの魔法で吹っ飛ばされて、亜空間漂流を経験しているという。あまり詳しく聞いてなかったが、ミストルティンの「どこまでも敵を追いかけ、必ず刺し貫く」能力で状況を打開するまで、おそらく自身の体感で相当な時間が掛かっていたはずだ。普通はそんなの、なかなか気付かんだろうからな。その当時の経験から、亜空間では食事も排泄も不要と言ってるんだろう。
もとより魔族は食事も排泄も不要だが、大気中の魔力を摂取しなければ生きられない。この亜空間に、そんなものはないが、それでも生きていられた……というアエリア自身の体験だな。
……つまり、過去にレンドルの手でここに飛ばされた魔族やら、リネスに飛ばされた連中やら……まだ普通に生きてる可能性が高いということでもある。おそらくもう正気ではないだろうが。
「それはわかったけど……で、いったい誰なの。なんか剣から出てきたけど」
リネスが問い返し、俺は腰の魔剣をぽんぽん叩きつつ答えた。
「見たままだ。これがレンドルの仇敵……天魔将軍アエリアの幽霊だよ。七百年前、二代目勇者に殺されたあと、魔族秘伝の鍛造法によって、この魔剣に霊体と思念を封じ込められた。今もその状態のままだ」
「え、じゃ、ボクらって、ずっとその幽霊と一緒に行動してたってこと?」
「そうなるな」
「ふん、だいたい予想はついてたが、やっぱな。その剣、たぶん、そういうこったろうと思ったぜ」
横からレンドルが声を浴びせてきた。
「柄や鞘の形状は変わってるが、そいつはたぶんミストルティンだろうってのは、漂う魔力から感じて取っていたのさ。そしてその刀身に、たいそう自然にフィットして、ぴったり貼り付いてやがる悪霊の存在も……な。まさか、またそのアタマ悪そうなツラぁ拝むことになるとは」
「ずいぶんごアイサツだねー、エルフの魔術師くん? また刺してやろーかー? その胸もとを、ぶさっと」
レンドルの悪態に、アエリアが氷刃のごとき微笑を浮かべて応えた。そりゃ仇敵どうしだし、当然の反応ではあるが……こんなことやってたら、いつまでも話が進まん。
「再会の喜びを語りあうのは後にしろ。リネスの特別授業とやら、さっさと始めろよ」
そう告げるや、レンドルはこちらへ向き直った。
「ん? おお、そうだな。ぼちぼち始めっとするか。んじゃーアーク、おまえもちっと手伝え」
「何をだ」
「なーに、助手をやってもらいたいのさ」
「助手?」
「上着を脱いで、こっちに背中を見せてくれ」
「ん? こうか」
「よしよし、それでいい。動くなよ。ではリネス、特別授業、始めるぞ」
言うが早いか、レンドルはどこからか白いチョークっぽいものを取り出し――俺の背中に、何やらカッカッと書き込みはじめた。
……ちょっと待て何が助手だ。人の背中を黒板がわりにするんじゃねえ。




