675:地上へ
チーの話によれば、地下に収容した避難民の総数は三万八千人余り。
本来の住人である魔族はその五分の一程度で、あとの大半は人間や翼人の奴隷やら後宮の妾どもやらが占めている。もともと、城に常時詰めている魔族の数はそう多くない。魔王軍の主戦力は大陸中央、ゴーサラ関門の砦に駐留しており、現時点での消息はわからないが、おそらくベリス公爵の指揮下、いまも砦の守備を続けているはずだ。
この地下空洞についていえば、温泉と地熱によって、地上の寒波はかろうじて凌げるものの、衛生面や給排気の問題があり、おせじにも生活に適した環境とはいえない。実際、抵抗力の弱い人間の奴隷の間に感染症が蔓延して、百人以上の死人も出ていたという。あと数日、俺が来るのが遅れていたら、その十倍以上の人間が死んでいたかもしれない――と、これもチーの説明。なんせ魔族は病気にならんからなあ。当然、自前の医療だの治癒だのいった知識や技術は皆無に等しい。一方、翼人の奴隷や妾どもは……全員ぴんぴんしてるらしい。あれは魔族とはまた違う意味で、無駄に頑丈な脳筋種族だからな。
さて、俺とチーが天幕でいちゃいちゃ(?)してる間に、スーさんが避難民どもに声をかけて回り、さらに、もともとスーさんの部下にあたる五十名の上級魔族たち――外見は紳士淑女っぽいイケメンと美人のおねーちゃんたちの集まりだが、正体はヴァンパイアやサキュバス、インキュバスといった凶悪な夜魔たち――が、スーさんの指示を仰いで避難民どもの誘導を始めた。
その上級魔族の中に、ひときわ目立つ巨体の半魚人・エナーリアの姿もある。ちゃんと城に辿り着いてたんだな。
エナーリアは、でっかい魚のボディーに人間の四肢が生えたような姿で、魚の顔の下に、小さな老婆の顔がついている。人間の老婆が魚の着ぐるみを負ったような格好、という表現が一番近いか。前大戦時代には水魔将軍という地位にあったが、現在はスーさんの意向により、ミーノくんの後釜として近衛長官なる役職につき、城内の下級魔族を取りまとめているという。あの隻眼の人狼グレイセス率いる黒狼部隊の面々も、忙しく避難所を駆け回っている。エナーリアの直属として配備されたものの、これという仕事もないため、城内で雑用をやっていたそうな。
俺とチーも、スーさんとともに誘導作業にあたった。動けない病人どもには、わざわざ俺様じきじきに治癒魔法を叩き込み布団を引っぺがして尻を蹴飛ばす大サービス。そんな扱いに、なぜか喜悦の表情で悶えながら動き出すおっさんおばはんが続出し、避難所はしばし混沌たる様相に。おまえら全員マゾかよ! だから俺の尻を凝視するなッつーの!
スーさんが言う。
「彼らはみな、魔王神宮に日々欠かさず礼拝しておった者どもですからな。いわば陛下の信奉者たち。その陛下に蹴りをいただくなど、この業界ではご褒美でございますよ」
どこの何の業界だよそれは。
スーさんの言うことにゃ、こいつら奴隷どもは、城内の魔族と同様、俺が人間の勇者に転生していた事実を知らされていたらしい。神魂のライブ映像も、時折、閲覧を許されて、城内の大広間で見ていたとか。ゆえに現在の俺の姿についても既に知ってるわけだ。
わざわざ事情を説明する手間が省けるのは有難いが……つまり、こいつらも見ていたわけか。俺様が人間の少年として、すくすく育ってゆく様子を。十歳くらいで色々おぼえはじめて、こっそり盗んだ幼馴染のレオタードをくんかくんかしながらひとりベッドで悶えていたあの日々のこととかも……あああイカン! 思い出したら無性にいたたまれない気分に! 穴があったら入りたい! いや、ここがその穴の中か! 言い訳するならば、当時は俺自身の記憶はまだ封印されていたので、それらはあくまでアークという別人格のガキがしでかしたことではあるが! なんでこんな変態チックに育ちやがったアークぅ!
……って、俺まで奴隷どもと一緒に悶えてどうする。落ち着け。忌まわしい過去のことはもうどうでもいい。いまはただ、未来のことだけ見据えて前進したい所存。いいじゃないか昔のことなんて!
地下避難所からの慌しい大移動も、数時間がかりで、ようやく一段落ついた。地下に置かれていた燃料や生活物資なども、奴隷どもの手で、すべて地上へ運び出されている。
避難所から地上へと続く階段のひとつは、王宮の内苑のど真ん中に通じている。これはもともと、俺が魔王として城に君臨していた頃からあった階段だ。あの避難所って、本来は城内のガラクタを放り込むための地下倉庫だったんだよなぁ。
ともあれ、俺はチーとスーさんを連れて階段をのぼり、その内苑へと出た。外気が実に清々しい。
晴れ渡った青空のもと、初夏のような陽光が燦々と内苑へ降り注いできている。かつて、この広大な内苑を鮮やかに飾りたてていた芝生や梅並木は既になく、ただ茶色い地面に、黒く朽ち果てた枯木がまばらに横たわるばかり。だがこれでも、地面が泥に覆われていないぶん、さっき通った前庭の惨状に比べれば、ずいぶんマシだな。さっきスーさんが言っていたように、王宮の敷地周辺にはチーの物理結界が張られており、多少は被害も抑えられてるようだ。
「うっひゃー、太陽の光が、あったかーい! こんな明るい景色、久しぶりだよー! あはは、なんだか走り回りたくなるねー」
チーが嬉しそうに声をあげた。ちょっとはしゃいでるようだ。お子様かおまえは。いや外見はお子様だが。
俺たちの後ろからも、避難民どもの誘導を終えた上級魔族たちが続々と列をなして階段をのぼってくる。あいつらにとっても、実に久々の青空だ。サキュバスやインキュバスといった、本来は夜魔に属する連中でさえ、皆どことなく浮ついてるように見える……。
そこでふと、あることに気付き、俺は慌てて背後を振り返った。
「おい、ちょっと待て。オマエらはまだ上がってくるな――」
と、声をかける間もなく、ちょうど意気揚々と階段をのぼりきったヴァンパイアども十数名が、まばゆい陽光を浴びて即座に灰化し、さらさらと崩れ落ちていった……。だからいわんこっちゃない。
なんかいつぞやも、こんなことがあったような。どうせスーさんの特殊能力で復元できるし、ま、いっか。




