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652:精霊は笑う


 二頭立ての馬車を駆り、中央霊府の南門をくぐって、街道をひた駆けること一時間ほど。

 はるか後方を振り仰げば、土煙をあげて追いすがってくる黒い騎影。いうまでもなくエロヒムの憑依体。刻一刻、こちらとの距離は縮まってきている。


「そろそろよかろう。停めてよいぞ」


 揺れる客車のシートにふんぞり返りながら、外見だけは可憐な黒髪幼女のツァバトが告げてきた。

 可愛らしいのは本当に外見だけだがな。さんざシャダイをコキおろしてたくせに、実はコイツも俺を利用する気満々とは、腹黒い精霊様よ。


 俺は馬車を街道脇の森林に乗り入れ、手綱を切って馬どもの足を止めさせた。

 そのまま御者台から飛び降り、地面を踏みしめる。シャダイも客車のドアを開け、すまし顔で降りてきた。


 現在位置は、中央霊府から南西二十キロほど離れた街道脇。新緑際立つ森の枝葉から、けぶるような朝陽がこぼれ落ちてくる。吹き寄せる微風が穏やかに下生えの草花を揺らしていた。


「絶好の対戦日和だな。健闘を祈っておるぞ」


 ツァバトは機嫌よさげに、にこにこ微笑みながら言う。


「いや、せめて何か手伝えよ。俺一人でどうにかできる相手じゃねーだろ」


 俺は苦りきった顔で応えた。一応、俺にもエロヒムと戦うべき理由はある。エロヒムはサージャを狙っているからな。それも(自主規制)的な意味で。外見四歳児といえども、また、たとえ政略結婚の具に過ぎずとも、ともあれサージャが俺の婚約者であることは事実。そのサージャに危害を加えさせるわけにはいかん。そういう意味では、遅かれ早かれ、いずれエロヒムとの衝突は避けられなかっただろう。勝てるかどうかはまた別として。

 しかし――そこにツァバトの思惑が絡むのならば、ちょっと話が違ってくる。俺様を利用するというなら、こちらも少しはツァバトの力をアテにしてもいいはずだ。


「遺憾ながら、我は、戦うための力など持ちあわせておらぬ」


 そう応えながら、ツァバトはやや表情をあらため、左右色違いの瞳を俺に向けてきた。


「この肉体も、並の人類よりは強化されているが、せいぜい、エロヒムの憑依体から逃げ回るのが関の山であろうな。さらにエロヒムは、物理的な力は弱いが、因果律にすら干渉する強力な権能を擁している。いまの我には、その権能に対抗する力はない。よって、我をアテにしても無駄であるぞ」


 えっへん、と、なぜか自慢げに胸をそらしてみせるツァバト。いやそこドヤ顔する場面じゃないから。

 エロヒムの権能、か。先日、ザグロス山で召喚魔法陣を張り、俺を過去に飛ばした張本人がエロヒムだという。あの時は森ちゃんに救われたが、今回はどうなることやら。さっぱり勝てる気がしない。


「しかしながら、打つべき手は既に打ってある。汝は他事など気に留めず、ただエロヒムをぶん殴ることだけを考えておるがよい。我の神器を見事砕いてみせた、あのときのようにな」


 ああ、地下で転生トラックを砕いたときか……って、あのときは、本当に本気でヤバい、もうギリッギリの限界の果てっつう状況だった。これからもう一回、あれをやれってのか? 気軽に言いおってからに。





 ほどなく、けたたましい馬蹄の響きとともに、若いエルフの男が森の木々の間から姿を現した。こちらの姿を認めるや、慌てて手綱を切って馬を止め、ひらりと鞍から飛び降りる。間違いない、エロヒムの憑依体だ。


「やーっと! やぁーっと! 追いついたァー!」


 地面にしっかと足を張り、大仰に両腕を左右に広げつつ、金髪を振り乱し、エロヒムは叫ぶように朗々と声をあげた。

 見た目は、まぁ……背格好といい顔つきといい、どこでも見かける普通の若いエルフという感じ。エルフの例に洩れず、金髪碧眼長耳白皙の繊細な美青年。体つきもスラリと伸びやか。昨日、森ちゃんのところで見た超キモいメッセージからは、かなりかけ離れたイケメンっぷりだ。もっとも、その眼光はギラギラ不気味な輝きを帯び、いかにも欲望と憎悪に燃える偏執狂という風情。


 エロヒムは、はったと俺を睨み据えてきた。おお、随分ご立腹のようで。


「おいっ、き、貴様ァ!」

「なんだ?」


 声を荒げるエロヒム。それをあえて涼しい顔して平然と受け流す俺様。ツァバトは、なぜか俺の腰もとにぴったりしがみついて、くんかくんか嗅いでいる。だからなんで嗅ぐんだよ!


「そっそそ、そのっ、カワイイ子を――どうっ、するつもりだ!」


 やけに口調がどもっている。なんだ? 


「どう、といわれてもな。いったい何者だ、おまえは」


 すっとぼけてみる。


「ぼぼっ、ボクは、エロヒムだぁッ! 精霊、だぞっ! きき貴様、勇者だろっ! ボクはなぁ、ゆ、勇者なんかよりぃ、ずっと、ずぅーっと、エラいん、だからなぁ……ッ!」


 エロヒムは何度も言いよどみ、言葉に詰まり、顔を真っ赤にしながら、かろうじて自己紹介を終えた。

 ……コイツはどうも、あまり他人とまともに話したことがないようだ。七仙に仕込んでたテキストの中ではキモさ全開の饒舌っぷりだったが、直接会話ではまともにコミュニケーションがとれない……そんなタイプかね。


「ぼっ、ボクは、貴様に誘拐されたっ、その子をっ、助けに来た……! 勇者っ、その子をっ、は、離せぇ!」


 え?

 誰が、誰を誘拐したって?


 ふいにツァバトが、ささっと俺から身を離し、飛びのいた。


「ああっ、そこのエルフのお兄ちゃん! わたし、このヒトに誘拐されちゃったの! 助けてぇ!」


 いきなり甲高い幼女声でエロヒムに呼びかけるツァバト。おい、なんのつもりだツァバト。


「おおお! や、やっぱり、そう……だったのかッ!」


 途端、エロヒムは歓喜の声をあげた。なにがやっぱりだよ。冤罪もいいとこだ。ツァバトも何を考えてやがる。


「いいっ、いま、助けてあげるから……ね。ぐふっ、ぐふふふ、フヒヒヒヒ!」


 せっかくのイケメン顔を醜く歪ませながら、なんとも気色悪い笑みを浮かべるエロヒム。

 ツァバトは再び俺のもとに身を寄せ、こそっと囁いた。


「ほれ、すっかり隙だらけだぞ。今のうちに一発ぶちかましてやるがよい」


 なるほど。なんだかんだ言いつつも、一応、手伝ってくれたと。

 では遠慮なく――挨拶がわりに、一発食らわしてやろうじゃないか。



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