629:風と雨と脳筋娘
二日後、早朝――。
中央霊府の天候は大荒れ。
夜半から降り出した雨は次第に勢いを増し、夜明けとともに風も強まってきた。
空は一面、薄墨を流し込んだような暗雲で覆いつくされ、びょうびょうと風が唸り、大きな雨粒の連なりを横殴りにすっ飛ばしてゆく。
中央霊府、北門。その構造物の下に集ったボートレース関係者一同を前に、進行役のムザーラは、いとど難しげな顔をして、状況を説明していた。むろん俺やメル、アル・アラムも関係者のなかにいる。元老会議の八人も、例によって白いローブ姿で身を寄せ合い、相変わらずひそひそと陰謀めいた話を囁きあっている。
「……ですので、この天候では見物人も集まらぬでしょうし、中止にすべしという意見もあったのですが、これまで悪天候を理由として中止となった前例はありませぬ。その伝統にのっとり、あくまで予定どおり、レースを開催いたしますぞ」
この強風と雨に曝されながら、手漕ぎボートでレース。常人の感覚では正気の沙汰ではない。そもそも、そんな状態でどう漕いだって前に進めないだろうし、風に煽られればあっさり転覆してしまうだろう。
元老会議の連中は、またもこちらをチラチラ盗み見しながら、ヒヒヒッといやらしい笑みを交わしている。こっちにゃ全部聴こえてるんだがなあ。――いくら勇者でも、これは転覆必至であろう。ずぶ濡れの勇者など、そうそう見られるものではない。ひょっとしたら裸が見るられるかも……あるいは生尻すら拝めるかもしれんて……。
ウヒヒヒヒッ、と笑いあうジジイババアども。もうアイツらいったい何がしたいのかわからん。だからなんで俺の尻がそんなに好きなんだよ。一応、仙丹を祀る神官どもの元締めと聞いてるが、こんなアホどもに祀られてる仙丹が気の毒に思えてくるわ。
「わたくしは問題ありませんわ!」
キリッと言い放ったのは、俺の対戦相手となる若いエルフの女。身体にぴっちりと張り付くゴムっぽい黒いボディースーツに黒いグローブとハーフブーツ。おかげでボディーラインがくっきりはっきり。胸はほどほどだが、腰はきっちりくびれ、尻はきゅいっと引き締まり、腹筋がガッチリ割れている。無駄のない身体つきだが、四肢は筋肉の鎧で覆われてでもいるように隆々とたくましい。まさにボートレースのために鍛え上げられたアスリートの肉体。
「悪天候もレースの華ですわ。こんなときのために、日々鍛錬してまいったのですから」
なんとも意気軒昂なことだ。馬車レースは男だったが、今回は女か。なんかもう、何もかも馬車レースとは逆の状況になってきてるな。
「ふむ。カレン嬢はやる気ですな。勇者さまも、よろしいですかな?」
ムザーラが確認してくる。いちいち訊くまでもなかろうに。俺は当然のごとくうなずいてみせた。
この対戦相手のカレンとやら、サージャの遠縁で、手漕ぎボートにかけてはエルフの森でも屈指の記録を持つエキスパートだとか。そりゃ、それくらいでもなきゃ、俺の相手は務まらんだろうな。
しかし確か、このレースは魔法が使い放題で、肉体的な能力よりは、そちらのほうが重要だと思うんだが。あるいは、あんな外見で、実は魔法のほうも凄かったりするんだろうか? だとしたら、なかなかの強敵かもしれん。気を引き締めねば。
北門の脇から濠の水面に二艇の手漕ぎボートが浮かべられている。この時点ではハシケに繋留されているが、それでも風雨に煽られて激しく揺れている。
俺とカレンは雨に打たれながら、同時にボートに乗り込んだ。オールは一本、両端に木製の櫂が付いたタイプだ。川くだりのカヌーなんかによく使われるやつだな。……もちろん、俺はこんなものをまともに扱った経験はない。手漕ぎボート自体、いつぞやウメチカの公園でスーさんとデートしたときに乗ったぐらいだ。素人どころの騒ぎではない。
一方、相手のカレンは手漕ぎボートの専門家。強敵どころか、普通に考えれば、こちらに勝ち目などない。普通に考えれば、な。
だが我に秘策あり――。
ぐらりぐらり揺れるボートの上で、俺とカレンはバランスを取るのに苦労しながらも係留索の縄を解き、オールを抱えて位置についた。
「では……うぷっ、ひ、ひどい風ですな! はっ、はじめますぞっ!」
ムザーラが強風に煽られながら開始を宣する。続いて、北門に据えつけられた銅鑼が盛大に鳴らされた。これがスタートの合図となる。
「おおおおおおおーっ!」
カレンは風雨をものともせず、凄い勢いでオールを操り水面を蹴って、猛然と進みはじめた。なかなか素晴らしいスタートダッシュ。ボディースーツの下で全身の筋肉が躍動している。しかし残念ながら逆風であり、どれほど優れた肉体と技量があろうと、さほど速度は出ないようだ。てっきり何か魔法を使ってくるかと思ったが、そんな素振りさえ見せない。……あの娘、実はただの脳筋か?
一方、俺は完全に出遅れている。まだ一ミリも前進してないっていうかむしろ逆風を受けてスタート地点から後退すらしている。
顔をあげ、ちらと北門のほうへ目をやれば、元老どもは額を寄せ合ってウシシシ……と、あざ笑っていやがる。ムザーラは無表情だ。だが俺の秘策を知るメルは不敵に微笑み、アル・アラムもにこにこ笑っている。
では、そろそろ始めよう。
俺はボートの上でズボンに手を突っ込み、ふたつの小さな石ころを取り出した。ひとつは青い勾玉のような形、いまひとつはエメラルドっぽい緑色のつやつやした小石だ。
俺はおもむろに、まず緑のほうを指先につまんで、腕をあげ、高々と天へかざしてみせた。
ムザーラや元老どもが、何事か――と目を剥くなか。緑の小石が光り輝き、俺の周囲だけ風がおさまり、後退し続けていたボートは、ひたと水面上に静止した。
続けて青い小石を前方へかざすと――ボートの周りの水面が、ざんぶと大きく脈動し、水流が生じて、ボートを前へ前へと運びはじめた。




