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626:レース開始の銅鑼が鳴る


 魔獣スレイプニル。いうまでもなく、本来は魔族の勢力に属する、いわゆる魔物のたぐいだ。

 とはいえ、その存在はあまり世に知られてはいない。基本的に魔王城の近辺から離れたことがなく、過去の戦争でも戦場に出て暴れたような例はないからな。だからこそ、今回の試練に引っ張り出すには都合が良い。エルフの誰も、こいつが魔王の愛馬だなんて事実は知らんわけだし。


 本来は気性の難しい魔獣で、こいつを扱えるのは飼い主の俺か、あとはせいぜいスーさんくらい。ただ最近は少々事情が変わってきて、メルとコブシを交わして心を通じあわせたり、アル・アラムにはなぜか普通に懐いたり、あげくに、ただの馬の黒井馬夫に口説かれて、つがいになったりしている。魔王城を離れて色々と経験を積んだことで、コイツなりに何か成長なり変化なり遂げているということかもしれない。

 メルを除く相手側の関係者一同全員、言葉もなく、そのスレイプニルの禍々しい姿を前に、ただ呆気にとられている様子。あらかじめ事情を知ってるメルはニヤニヤ笑ってるが。


「スレイプニル。狭いところに押し込めて悪かったな。だがおかげで、みんなすっかり驚いてるぞ」


 俺はそう語り掛けつつ、青黒い鼻面を撫でてやった。


「ぶふん!」


 スレイプニルは、鼻から瘴気を噴き、赤い両眼を爛々と輝かせながら、力強くうなずいた。ドヤッ! といわんばかりに。おうおう、可愛いやつよのう。


「勇者さま、これを。頼まれていたものです」


 横からアル・アラムが数枚の羊皮紙をそっと差し出してきた。


「お。さすが、いい仕事してるな」


 羊皮紙には、今回の馬車レースのコースについて記されている。ルートだけではなく、減速が必要になる危険箇所や、相手側が罠を仕掛けていそうなポイントと、罠の種類の予測、それらへの対処法、逆に全力で駆け抜けられる場所など、こと細かに註釈がほどこされている。もちろん作成者はアル・アラム本人。

 アル・アラムがコンテナ内に身を潜めて中央霊府に入ったのは既に述べたとおり。そして昨日、アル・アラムは潜伏先のメルの私邸を出て中央霊府の街並みを自由に調べ歩き、予定されているコースの状況をつぶさに下見して回った。あとは、得意の天然予測能力をフルに発揮して、相手側の思惑を想定し、この地図に註釈を書き込んでいった――という次第。わざわざアル・アラムの存在を相手側の目から秘匿しておいたのは、まさにこの下見を自由にやらせるためだ。


「あ、もちろんこれはあくまで予測ですので、絶対こうなるという保証は無いのですが」


 そう言いつつも、アル・アラムの顔つきは、ぽわぽわと穏やかで、一点の曇りも無い。おそらく自信があるのだろう。今回はその自信に賭けさせてもらおう。





 まず大型馬車をここまで牽引してきた馬四頭を外して、そちらはアル・アラムに委ね、あらためてスレイプニルに綱をかけて大型馬車と繋いだ。その間、元老会議の連中がムザーラに「あれは馬といえるのか」「ルール違反ではないか」「勇者の尻の美しさだけは認めざるをえない」と必死に訴えかけていたが、ムザーラはにべもなく、それらをはねのけていた。いや、なんかドサクサに紛れて変態発言してる奴もいるようだが。なんでそう尻なんだよ! 俺の尻に何があるってんだよ!

 それはともかく。スレイプニルは魔獣であって厳密には馬ではない。だがそれを知るのは、この中では俺とメルとアル・アラムの三人だけ。ムザーラは言う――そもそもこの試練、馬が四本足でなければならないというルールはない。八脚八蹄だろうと、口から瘴気を吐こうと、たとえ実は鹿であろうと、持ち主が馬だというならそれは馬であり、ルール上は何ら問題とはならない……。


 ムザーラの言いようは、屁理屈そのものだが、ルールがそうなんだから実際どうしようもない。元老会議の連中も、ムザーラのすげない態度に、さすがに諦めざるをえなかったようだ。なんで馬鹿の語源みたいな話が引き合いに出て来るのかわからんが。趙高か貴様。

 その元老どもの忌々しげな眼差しを受け流しながら、俺は涼しい顔して御者台に乗り込み、手綱を取った。この台も特注品だ。通常の馬車の御者台ではスレイプニルの巨体で視界を遮られてしまうため、構造を工夫して、かなり高いところに座席を据え付け、スレイプニルの背中ごしに前方を眺められるようになっている。


 相手側の若いエルフも、俺とほぼ同時に、流線型の御者台を備えたレース用馬車に乗り込んだ。しかし明らかにスレイプニルを意識している様子。そりゃ怖かろう。こいつを普通に可愛がってるアル・アラムや、初見からベタ惚れなクララの感性のほうがおかしいんであって、常人にはスレイプニルの姿は禍々しい悪夢の化身か何かとしか見えまい。


「そろそろ始めますぞ。制限時間はありませぬ。所定のコースを辿り、先にここまで帰ってきたほうが勝ちとなりまする。双方、準備はよろしいですかな?」


 ムザーラが朗々と宣言する。俺と若いエルフは大きくうなずいてみせた。ここからは見えないが、メルいわく、すでにコース沿いの各地には大勢のギャラリーが押し寄せているらしい。まるで都市マラソンのノリだな。もっとも、そいつら見物人どもも、スレイプニルの雄姿にはさぞ魂消ることだろう。


「では――スタート!」


 ムザーラの声とともに、銅鑼が打ち鳴らされる。俺が手綱を打つと、スレイプニルは大きくいななき、八つの蹄で地を叩くように、力強く駆けはじめた。



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