614:桜はいまだ咲かず
光陰矢のごとし――。
冬休みも過ぎ、いよいよ高校卒業もすぐ間近に迫ってきた。
年末年始はひたすら受験勉強に明け暮れた。担任教師からは、地元の公立大学ならばギリギリ通るだろう、というようなことをいわれ、センター試験でもそれなりの手ごたえがあった。
結局、担任の勧めにまかせて、公立校を受験したものの、合格発表は高校の卒業式の後で、現時点ではまだわからない。先に滑り止めで私立を受けていて、そちらは問題なく合格通知を受け取ることができた。万一公立のほうで落ちても、浪人はしないで済みそうだ。
一方、アイツは。
東京のとある一流私大に既に合格し、そちらへの進学を決めていた。さすがとしかいいようがない。
「卒業したら、俺らもとうとうお別れか……」
放課後の教室で――アイツは、どことなく暗い顔で呟いた。
「本当は、おまえと同じとこを受験したかったんだ。でも家の事情で、どうしても東京の大学じゃないとダメだってね……」
机に頬杖ついて、溜息まじりに語る。
「なんだよ、そんなに俺と一緒がよかったのか?」
俺はちょっとからかい気味に言った。
「できれば……ね」
「おいおい、そんなマジな顔しなくても……卒業しても、たまに会うことくらいできるだろ?」
「東京だからね。さすがに距離が……でも、たまになら、なんとかなるかな。うん、会いに来るよ……卒業しても……」
アイツは、ちょっぴり辛そうに笑った。
さらに時は流れ、三月――まだ校庭の桜は固い蕾をまばらに芽吹かせるばかり。
卒業式は滞りなく終了し、俺たちはいったん講堂から教室に戻った。
クラスメイトたちの大半は笑顔で今後のことを話したり、別れの挨拶を交わしたり。泣いて目を真っ赤に腫らしてる女生徒も何人かいるな。そういえば、アイツの姿が見えないが……。
律儀にクラスメイト全員に声を掛けて回ってる奴もいる。クラスでも常に目立っていた剽軽な男子生徒だ。確か地元の中小企業の社長の息子とかで、進学せずに親の会社に入るんだとか。特に親しくはなかったが、俺ともごく普通に日常会話くらいは交わしていた。
そいつの様子を見てると、こちらの視線に気付いたか、俺のほうにぶらぶら近付いてきた。
「よー、進学組ぃ。桜は咲いたんかぁ?」
「まだわからん。でも滑り止めは受かったけどな」
「おぉ、そりゃ重畳。ていうかさ、気付いてた?」
「ん? なにが?」
「おまえさー、クラスの女子に、けっこう人気あったんだぜー。んでもおまえ、いっつもアイツとだけつるんでたから、みんな遠慮して、声もかけられなかったんだとさー」
「なんだそりゃ」
「だからさー……アレだよ、男同士、禁断の関係ってやつ? その疑惑があってさ。んで実際のとこ、どうなん? ん?」
「そんなわけねえだろ……」
俺は心底呆れ顔で、深々と溜息をついた。
「ははは、そりゃーそうだよなぁ。じゃあさ、あとでほれ、あっちのほうの、あいつら。ちょっと声かけてやれよ。たぶん喜ぶぞ」
そいつは黒板の脇で話しこんでる女生徒たちをそっと指差し、意味ありげに笑って立ち去っていった。
はあ。クラスの女子……ねえ。正直、あんまり興味ないんだけど……ほとんどマトモに話したことすら無いし。
そもそもアイツとの禁断の関係がどうのって、そんな理由で俺がモテなかったのなら、アイツだって同じのはずだ。でもアイツは普通にモテてたし。どうせテキトーなこと言って、俺をからかってみただけだろうな。
そういえば、机の中に、暗記用の英単語帳をいくつか置き忘れている――もう用済みの代物だけど、教室を出る前に回収しておかないと。
机の中を覗き込むと、その単語帳の上に、小さな紙きれが乗っかっていた。取り出してみると。
――話があるから、裏庭に来てほしい。
と、ボールペンで短く走り書きされていた。名前は書いてないが、ひと目でわかる。アイツの筆跡だ。今までさんざんアイツのノートを借りて書き写してたから、見間違えようがない。アイツ、裏庭にいるのか。なんだか大事な話っぽいし、行ってやらねば。
俺は手早く荷物をまとめ、教室を出た。
しばし廊下を早足で急いでいると、黒髪にハーフコートの女生徒が、靴音高く歩いて来るのといきあった。その顔と姿には見覚えがある――先日、俺に何か妙なことを囁いてきた奴だ。確か、魔王がどうとか。ラノベの読みすぎじゃねーのか。どうせ読書するなら、もっと有用な本を読むべきだ。月刊養豚界とか。
ふと、その女生徒は足を止め、じっと俺の顔をみつめてきた。またか。今度はなんだ。今急いでるんだけど。
「養豚業界誌なら、ピッグジャーナルというのもあります」
いきなり女生徒が口走った。俺は衝撃のあまり、その場に立ち止まり、女生徒の顔を見た。ふざけている様子は無い。ごく真面目な顔つきで、じっと黒い目を向けている。よく見ると、小柄ながら顔立ちは大人びていて、高校生離れしている。しかも、ものすごい美人だ。
「……なんで、俺の考えてることが?」
俺は、ぽそりと訊ねた。あと、そもそもなんでそんな養豚業界誌をピンポイントで知ってるのか。
「養豚はどうでもいいんです」
女生徒は、キッと目元鋭く俺を見据えた。あ、どうでもいいんですか。そうですか。
「気をつけなさい。運命の時が近付いています。あなたが我々のもとに帰還できるかどうか……その分岐点が、もう目の前に迫っていますよ。勇気を出して、立ち向かいなさい」
言うだけ言うと、黒髪の女生徒は、俺の視界から忽然と姿を消した。
……え? あれ?
俺は慌てて周囲を見回したが、もうどこにも、その姿は見えなかった。




