613:俺とアイツ
がばと顔をあげ、周囲を見渡せば――。
そこは見慣れた、いつもの教室だった。
黒板には白いチョークで「自習」と大書きされている。
周りの席には、これまた見慣れた顔の男女が並んでいる。俺のクラスメートたち。机を挟んで馬鹿話をしてる奴らもいるし、真面目にノートに向かってる奴もいる。いつもの風景だ。みんな私服で、セーターや厚手のワイシャツを着込んでる。うちの高校、制服は無いからな。俺はモッコモコの赤い毛糸のセーター。ちょいケバ立ってるんで、そろそろ新しいのを買わないとな。
「おい、なにしてんだ。まさか寝てたのか?」
背後から、声がかかった。
振り向くと、いつものアイツが、後ろの席から、怪訝そうな顔で俺を見ていた。ここの自由な校風に真っ向から反発するような、きっちり詰襟の学生服を着込み、それでいて学業優秀スポーツ万能、校内女生徒に圧倒的人気を誇る、さわやか美形男子。天は二物を与えずなんて絶対嘘っぱちだ。こいつの実在がその証拠だ。
「……そうらしい。なんだか、長い夢を見てたみたいだ」
俺は応えた。どうも自習中に居眠りしてたようだ。やけに長い、そして面白い夢を見ていたような気がするけど……思い出せない。
「おまえなー、しっかりしろよ。俺たち、受験生だぞ?」
アイツは呆れ顔で息をついた。そんな仕草も、やけに様になっている。さすがイケメン。
高校三年の十二月。もう卒業も間近というこの時期。俺の居るこのクラスでも、およそ三分の二が大学入試を目前に控えている。俺もアイツもそうだ。自習中だからと教室で気楽に騒いでるのは、もう就職を決めてるごく一部の連中だけ。そんな状況で、受験生のくせに居眠りなど論外というべきだが……いつの間にか寝ちまってたようだ。そんなに毎日、根を詰めて勉強してるわけじゃないんだけど。少し疲れが出始めてるのかもしれない。
「でもオマエなら、そんなに勉強しなくても楽勝だろ?」
イケメンなアイツに、ちょっと軽口を叩いてみる。試験はいつでも学年上位、担任からは東京の一流大学のどこでも合格確実とお墨付きをもらってるような優等生だ。まったくもって羨ましい。俺なんていくら勉強しても、せいぜい地元の私立大に入れるかどうかってとこだ。
「俺だって苦労してるよ? センター試験対策も、あれこれ始めてるし。どこかの動物王国の人じゃあるまいし、さすがに勉強もしないで志望校に入るなんて無理だよ」
苦笑しながら首を振るアイツ。あの動物王国の人は、いわゆる地頭だけで日本の最高学府に入ったすごーいフレンズだからな。そりゃ比べるのが無茶ってもんだ。
「ほら、早く続きを始めろよ。わざわざ俺のノート貸してやってるんだから。今日中に全部写し終えろよ? おまえアタマ悪いんだからさ、書かなきゃ覚えられないだろ?」
ああ、確かに、それをやってる最中だった。急いで済ませて、ノートを返してやらないとな。それにしても相変わらず一言多い。どうせ俺は馬鹿だよ。
ところで、何か大事なことを忘れてる気がするんだけど……。思い出せない。気のせいだろう。受験生は一刻一秒も無駄にはできない。今は勉強に集中しなくては。
アイツとは随分長い付き合いだ。中学一年の頃からだから、もう六年近くになるんだな。
キッカケは、些細なことだった気がする。中学で同じクラスになって、初対面のとき……。
――おまえ、なんだか女みたいだな。
って、つい言っちまったんだよな。あんまりイケメンすぎて。男のクセに顔がやけに白くて、睫毛が長くて、詰襟の学生服じゃなかったら本当に女にしか見えないくらいだった。
ただ、背は高いし、肩幅も広くて、体つきは割合がっしりと男らしかった。それで余計にアンバランスに感じたのかもしれない。
アイツはこう応えた。
――よく言われるよ。
さらりと微笑んで返してきやがった。
以来、なんとなく、よく話すようになって、ふざけあったりもした。案外口の悪いところもあり、俺があまり勉強しないのをあからさまに馬鹿にしてきたり、意味もなくわざわざ絡んでくることもよくあった。……悔しかったら俺と同じ高校を受験してみろ、合格できたらなんでも奢ってやるよ、ゼッタイ無理だろーけどな! なーんて言われたこともあるな。俺も少々イラッときて、その後はかなり無茶な勉強をして、本当に同じ高校に入学することになったわけだけど。
アイツ、あのときだけは、心底嬉しそうに俺を褒めてくれたな。もちろん約束どおり、色々と奢ってもらったし。
俺はどちらかといえば、普段から無口で、あまり他人と関わりを持とうとしないほうだった。けれどアイツは例外で、高校に入ってからも、いつも何かと絡んで来て、いつも一緒に行動していた。中学高校の六年間で、まず友人といえるのはアイツ一人だけだったといってもいい。口が悪いのはずっと変わらないけどな。
下校時間――俺はアイツにノートを返し、筆記用具をカバンに放り込んで帰り支度。アイツは進路指導の先生に呼ばれてるとかで職員室へ向かい、俺は一人で廊下に出た。
屋内とはいえ真冬の校舎は寒い。俺はマフラーを首にかけ、今夜は何を食おうか――などと思案しながら、ふと窓の外を見た。
茶色い土の校庭に引かれたトラック上を、陸上部の連中がヒイヒイいいながら走ってるのが見える。あれは一年かな。もう三年の生徒は軒並み部活を引退してOBOGになってるし。俺も陸上部だったが、あまり部活には出ない、いわゆる幽霊部員だった。
ふと、背後に足音が聞こえた。振り向くと、カッカッと靴音高く廊下を歩く女生徒ひとり。顔に見覚えはないが……なんだろう、長い黒髪で、小柄ながら颯爽とコートの裾をひるがえして歩く姿がサマになっている。たぶん別のクラスだろう。
チラと、互いに目が合った。同時に、女生徒は、つと足を止め、じっと俺の顔を見つめてきた。
「気をつけなさい。これはただの夢ではありません。あなたは今、時系列を遡り、現実の事象に干渉しています。――いかに魔王といえど、この状況からの帰還は容易ではないでしょう」
言うだけ言うと、女生徒は、また靴音を響かせ、さっさと廊下を歩き去って行った。
……は?
魔王? いったい何の話だよ。




