058:いにしえの伝承歌
ルードの白い指がするりと竪琴を撫でた。弦が震え、たちまち玄妙なる楽音を奏でだす。
俺は楽器などには詳しくないし、まともに音楽を聴きわける雅さも持ち合わせていないが──その俺でも、ルードの技量が並大抵でないことは即座にわかった。あんな古ぼけた竪琴から、こうも魅力的な音色を引き出すとは。
ルードの手は流れるように巧みに音を重ねあわせ、優美な旋律を紡いでゆく。俺もルミエルも、息すらつかず、ひたすら聴きいるばかりだ。
ふと、ルードはうたいはじめた。自ら奏でる楽の音に乗せ。語りかけるように。その歌声もまた、澄明でよどみがない。
壮士、草中に起こる
地下の深淵より出で
星の痣を身に宿し
天意を継ぎて剣をひっさぐ
期せずして修尼と会し
白馬車を負うて森を渡る
ルードの歌と竪琴の調べが一体となって、物語を織りなしてゆく。いにしえの勇者の物語を。ただ、古い伝承歌のはずなのに、この短い序節のなかにさえ、奇妙なほど俺の現状と似通った箇所があるのは何故か。
ときにおだやかに、ときに激しく。旋律は場面ごと変幻転調し、ルードの歌声もまた、ときに静かに、ときに凛呼として、起伏豊かに勇者の冒険譚をうたい続ける。
その男は地下から姿を現し、従者たる美しき修道女とともに、エルフの森を馬車で踏破する。エルフの長老と語らい、強大な魔法の武具を授かって、北のかた、魔王の居城を目指す。
翼なしといえども雲体風身
山川万里の隔たりも一跨
孤影天地を往来す
男は魔法の武具の加護によって空を自在に飛び回り、山も大河も飛び越え、魔物の大群をも蹴散らして、ついに魔王と対決の時を迎える。
両者の戦いは熾烈をきわめた。破壊的な魔力が解き放たれ、雷鳴と暴風が地を撃ち天を裂き、百余日を費やしてなお決着がつかない。力は魔王のほうが上回っている。魔王の放つ迅雷猛炎に、幾度となくその身を灼かれながら、男は決して倒れない。魔王は男に語りかける。
──汝、無力なる者。何をもって我を討たんか。剣を捨てよ。諦めよ。諦めよ。
男は応える。
──丈夫、義を布き、邪を退くは、ただ一片の勇気のみ。
男たるもの、勇気さえあればなんでもできる。そういう返答だ。
ここから、ルードの歌声は、いよいよクライマックスを語りだす。
男の勇気に応えるように、突如、魔法の武具が光り輝き、次第に魔王を圧倒しはじめる。男は猛然と反撃に転じ、稲妻のごとき剣の一閃が、ついに魔王の肉体を粉々に撃ち砕いた──。
魔王の消滅とともに、空を覆う暗雲は消え去り、明るい太陽が姿をあらわす。戦いを終え、男はひとり地上に降り立つ。
勇は神威なり
壮士、一吼して勇を振るえば
神威、たちまち闇を払い降魔を定む
日輪照々、煌く勇気を示す者……
深々と余韻を残しつつ、ルードの演奏と物語は、静かに終わりを迎えた。
内容そのものは、凡庸な英雄譚にすぎない。それでありながら、幻想的な調べと魅惑的な語り口が、ときに軽妙に、ときに重厚に、聴く者の意識を揺さぶり、心をとらえて離さない。ルードの技量は卓絶していた。なにせ俺ですら、眼前に初代勇者の幻がはっきりと見えたほどだ。ルミエルなど、もはや幽玄の境にでもいるように、演奏中、ずっと恍惚として、浸りきっていた。
竪琴の余韻も消え、忘我の一瞬が過ぎ去ると、俺は溜息ひとつ、ルードに語りかけた。ルミエルはまだ惚けたままだ。
「……いいものを聴かせてもらった」
「いえ、お恥ずかしい」
ルードはにっこりと笑った。
「これは、ちょうど千年ほど前、エルフの語り部から、ポルクスの民へと伝えられた歌なのです。物語自体は、それ以前から、エルフの伝承として、六千年もの長きに渡り、脈々と語り継がれてきたそうですが」
ほう。とすれば、初代勇者と初代魔王の戦いは、最低でも六千年前の出来事ということになる。そこまで昔のことなら、初代魔王について、魔族の記録がほとんど残ってないのも、うなずける話だ。
「エルフと人間は昔から友好関係にありますが、それは、人間の勇者がエルフに協力を仰ぎ、ともに力をあわせて世界の危機を救ったという、この伝承があるからです。ちょうど、今その再現が、私の目の前にいらっしゃいますが」
何事でもないようにルードは言った。なんだ、俺達のことは知ってたのか。後であらためてカッコよくカミングアウトしてやるつもりだったのに。とはいえ、あのフィンブルも俺の噂を聞きつけて、わざわざ待ち伏せしてたくらいだし、そう不思議な話でもないか。移民街でのサントメールの大演説以降、勇者出現の噂は、こちらの想像以上の速さでエルフの森全体に広まったものとみえる。
「……確かにエルフたちは協力的だな。いまのところは」
俺は肩をすくめて応えた。ここまで俺はエルフどもに敵対行動を一切取っていない。もともと中央霊府までは普通に行く予定だしな。今のところ、エルフどもはまだ俺を救世主と思い込んでるわけだから、友好的なのは当然だ。
これから先は、そうもいかなくなるだろう。伝承歌の中では、長老と勇者は親友といっていい間柄だったが、俺はその長老を服従させるか、さもなきゃぶっ殺すつもりでここまで来たんだ。ただ、そうやって中央を掌握した後、具体的にどうするかまでは、まだ決めていない。あくまで勇者として振舞い続けるか、それとも一気に掌を返し、魔王として強引に直接支配へ乗り出すか。そのへんは中央までの道すがら、利害得失をじっくり考えるとしよう。
「いかがです? もう一曲」
ルードが訊ねてくる。むろん、否やはない。何曲でもお願いしたいくらいだ。
「はいっ! お願いします!」
俺より先にルミエルが応えた。やけに熱心に。すっかりルードの演奏の虜になったようだな。
もう日は暮れきって、駅亭の周囲には漆黒の夜の帳が下りている。雨はやんだようだが、まだ空はどんよりと曇ったままだ。俺は焚火に薪を足しながら、ルードへ軽くうなずいてみせた。
「では……」
再びルードの手が銀の竪琴をかき鳴らす。流麗にひるがえる指先は、たちまちに神響の調べを奏でだし、俺たちを深い陶酔へと誘い込んでいった。
おや……何か、妙だ。
瞼が重い。いや、瞼そのものが、ゆるゆる溶けて視界を覆っていくような感覚。何だこれは。
繰り返される美しくも単調な旋律が、まるで赤子の頬を撫でる母親の手のように、ふわりふわりと意識を包み込む。
心地よい安らぎが、じんわりと俺の神経を浸し、とろかせてゆく……。
全身を蜜漬けにでもされたような、甘ったるい濁った夢のなかで、どこからか、ホー、ホー……、と、鳴き声がきこえはじめた。梟……?
俺は、ゆっくりと瞼を開いた。どうやら、いつの間にか、ベンチに座ったまま眠っていたようだ。まだ頭が痺れてるような感覚がある。
あたりは真っ暗だ。焚火はもう燃え尽きている。ルミエルは、俺の肩によりかかって、まだ気持ちよさそうにヒュピーヒュピーと寝息をたてている。よだれ垂れてるし。仕方ない奴だ。
周囲には、俺たちのほか、まったく人の気配は感じられない。響くのは梟の声ばかり。ルードもいない。俺たちが眠ってる間に立ち去ったのか?
あの最後に聴いた旋律……あれは普通じゃなかった。ひょっとすると、あれは一種の催眠術みたいなものだったんじゃないか。単調な旋律を何度も何度も繰り返すことで、眠気を催させる。子守唄の強化版のようなものかもしれない。魔法による状態変化には滅法強い俺様も、子守唄には勝てなかったということか。ルードの技量なら、そういう芸当ができても不思議じゃない。あいつは、わざわざ俺たちを眠らせておいて、別れも告げずに行ってしまったのか。もっと聴かせてもらいたかったが。
俺はルミエルを揺りおこした。
「んふゅみゅうぅ……。あれ……アークさま……」
「起きたか?」
「ふひゃい……んー、まっくら……」
欠伸しながら、周囲を見回すルミエル。
「ルードさんは……」
「もう行ったみたいだ」
「そ、そうですか……」
ちょっと残念そうに俯くルミエル。ずいぶんルードを気に入ってたようだしな。俺はその髪をそっと撫でてやった。
「ま、旅をしてれば、またどっかで会うこともあるかもな」
「……そうですね」
俺たちは一緒にベンチから立ちあがった。ルミエルは先に馬車へ戻り、ランタンを灯して箱車の中へ入った。今夜はこのまま、ここで一泊だ。俺は駅亭の屋根を離れて、ひとり夜空を見上げる。
厚い雲はすっかり消え去り、空は晴れ渡っていた。一面繚乱たる星々の海。月は天頂高くさえざえと輝いている。
俺は、ふとルードの微笑を思い出した。
まったく、不思議な奴だったな。結局、報酬も求めずに、黙って立ち去るなんて。
──と思ったら、馬車のほうからルミエルの奇妙な叫びがきこえてきた。
慌てて行ってみると、箱車の中に積んでおいた銀貨数十袋、そのおよそ半分が、ごっそりなくなっている。
あの野郎。いくら演奏の代価でも、こりゃぼったくりすぎだ。
……馬車ごと持って行かれなかっただけマシか。
楽士ルード。意外にちゃっかり者だったようだ。




