056:銀の竪琴
昼過ぎ、俺とルミエルは、マナたち一家やオーガンに別れを告げて馬車に乗り込み、西霊府の中枢を離れた。
別れ際、レイチェルは「はやくおとなになって、おにいちゃんのおよめさんになる!」と俺に言ってくれた。
ところがマナは。
「あたしねー、ルミおねえちゃんのおムコさんになりたいなー」
お前もあっちかよ!
ちくしょう、いつか矯正してやる。
次に目指すは当然、中央霊府ということになるが、当面の目的地は北東、ルザリクの集落。
西霊府から中央霊府まではきちんと整備された街道が通っており、ルザリクはその中継点になっているという。
リリカとジーナはひそかに先発している。ルザリクまで、街道だと馬車で一週間はかかるという道程だが、馬車では通れない間道があり、そこを最短距離で踏破すれば三日で到着できるそうだ。むろん忍者の快足あってのことだが。
二人には当座の活動資金として銀貨十袋を持たせておいた。一般的なエルフ役人の平均俸禄が銀貨三袋だそうだから、結構な大金のはず。二人はルザリク到着後、この軍資金で準備を調えてから、あらためて中央霊府へ向かう手筈になっている。
馬車はのんびりガタゴト進む。霊府の中枢は抜けたが、なお鬱蒼たる深林の田舎道。左右の樹々の向こうには、やはり藁のテントや粗末な掘っ立て小屋などが姿をのぞかせている。時折、大きな麻袋など担いで道を歩くエルフたちの姿も見かけられる。狩りの帰りだろうか。
「雲行きが怪しいですね。ひと雨きますよ」
ルミエルが手綱を握りつつ呟いた。
俺は箱車の窓から身を乗り出して、頭上を見あげた。張り出した枝々の隙間から見える空は、確かに暗雲一面、いまにも降り出しそうだ。
少々の雨なら問題ないだろうが、あまり荒れるようだと、道の状態が悪くなる。どこかで足を止め、休まざるをえなくなるだろう。
「降り出す前に、進めるだけ進んでおこう」
「わかりました」
ルミエルは鞭を振るい、馬車の速度を上げた。オーガンの話では、ゆっくりでも、半日も進めば広い街道へ出られるという話だ。街道には駅亭もあるという。そこを目標に進むことにしよう。
西霊府の森を抜けると、次第に視界がひらけてきた。街道に出たようだ。といっても道幅が広いだけで、舗装などはされておらず、砂利と赤土の田舎道であることには変わりない。
時刻はもう夕方近い。周囲の木々はすっかりまばらになり、遠くまでよく見渡せる。低い雲が垂れ込める空の下、彼方にはなだらかな丘陵が幾重にも連なっていて、街道はその間を縫うように曲がりくねりながら北東へと伸びている。
道の左右には麦畑が広がっている。青麦の穂がさわさわ揺れる向こうに、農家の藁葺き屋根がいくつか見えている。こんなどんよりした天候でなければ、うららかな風景なんだがな。
「あ……降りだしましたよ」
ルミエルが告げる。窓の外を見やれば、確かにぱらぱらと雨粒が落ちはじめていた。
「駅亭まで辿りつけるか?」
「ええ、なんとか。もう見えてきてますよ」
ルミエルが前を指し示す。行手はるか、大きな茶色い屋根がそびえ立っているのが見えた。あれが駅亭か。
──次第次第に雨粒は大きくなってゆく。箱車の屋根ごしにも、バタバタと叩きつけるような雨音が響きはじめた。ルミエルはいよいよ二頭の馬を急がせ、馬車は雨筋のカーテンを突っ切るように駆けていく。
ほどなく、馬車は街道脇の駅亭へと辿りついた。ここも屋根と柱だけの簡単な構造。ベンチもない。それでも大型馬車が二台くらいは収容できるスペースがあり、雨やどりには十分だ。馬を濡らさず休ませられるのが有難い。
箱車を降りる。少し離れたところに先客がいた。ひとり、ぽつねんと佇み、こちらを見つめている。
長い黒髪の……若い男だ。男だが、ぱっと見は女のようだ。細くしなやかな身体つき。亜麻の布衣を巻きつけるようにして、ゆったりと着込んでいる。おだやかな微笑をたたえた顔つきは柔和な印象。顔立ちは丹唇明眸、このうえもなく整っている。いわゆる白皙の美形だが、エルフではない。人間だ。耳はとんがっていないし、瞳は黒い。エルフは例外なく碧眼だからな。
人間でありながら、エルフ並、いやそれ以上といっていいほど完璧な美貌。雰囲気はどこか儚げながら、眼差しに暖かな生気がある。総じて浮世離れした容姿だ。思わず見とれてしまったぞ。いったい何もんだ、これは。見るから只者じゃない。
足元には小さな麻袋。と、右手に小さな竪琴を抱えている。銀製のようだ。左右対称の単純な形状だが、かなり凝った彫刻がほどこされている。
「やあ。雨やどりですか」
黒髪の男が、優美に微笑みながら、声をかけてきた。玲瓏たる美声とはこういうのをいうんだろう。それほど澄み切った声だ。俺の背後で、ルミエルが溜息をついている。無理もない。
「……そうだ。あんたもか」
「ええ。夜半までには止むでしょう」
「わかるのか?」
男はおだやかにうなずいた。いちいち仕草が上品だ。それがまた自然で、まったく鼻につかない。
「雲の動きで、おおよそ。このあたりの天候は変わりやすいのですよ」
「そういうものか。……ルミエル、火を起こしてくれ。今夜はここで野営しよう」
こいつが言うように、じきに雨が止むとしても、もう時間が時間だ。ここにとどまるのが無難だろう。ルミエルが箱車の中から薪と固形燃料を持ってきた。慣れた手つきで火をつける。
小さなオレンジ色の炎が上がり、パチパチと薪がはぜる。俺とルミエルは、めいめい地面に小さなゴザを敷き、焚き火を挟んで向き合うように腰をおろした。さて、干し肉でも焼こうかな。
「あんたも、こっちにきな」
火にあたるよう誘ってみた。ひとり突っ立たせておくのも、なんか間が悪いというか。ちょっと興味もあるしな。容姿といい雰囲気といい、こいつはそこらの旅人とは何か違う。
「彼の旅はまだ途上……」
静かに焚き火へと歩み寄りつつ、ふと、その黒髪の男がつぶやく。
「地下より出しその人。かたわらに美しき修道女。馬を走らせ、北へ北へ、進めど果てなき世直し旅。はるか彼方のエルフの森へ……」
雨音にまぎらすように、男の口から流れでる、韻律をともなう言葉。謡うように、縷々と語る、その内容。
「……それは?」
尋ねてみる。まるで俺とルミエルについて語っているように思えた。べつに世直し旅ってわけじゃないが。
男の返答は、ちょいと意外なものだった。
「伝承歌ですよ。とても古い……」
「伝承……? 何のだ?」
「はじまりの勇者……もはやその名も忘れられた、いにしえの勇者の旅。そして、はじまりの魔王との戦いの物語です。お聴かせしましょうか?」
そう応えて、男はおだやかに微笑んだ。




