174:霊長類と爬虫類、南へ
ティアックが作業を終えるまで三日。中央霊府に潜入中の情報部員が帰還してくるのも、だいたいそれくらいになるはず。その間に俺のほうでも、もう一つの宿題を済ませておきたい。
ティアックの研究所から庁舎に戻る頃には、もう夕方近かった。
ぼちぼち晩秋にさしかかろうというこの時期。日暮れは早く、空気も次第に冷えびえとしてきている。とはいえ、ここは大陸南端にほど近いエルフの森。基本的に温暖な地方で、冬場でもそう極端に寒くなることはないらしい。
門をくぐると、前庭の一隅、トブリンが芝生の上にしゃがみこんで、むしゃこら飼葉を食ってる姿が見えた。あいつ普段は寝てるか食ってるかのどちらかだな。
庁舎本棟へ入り、長い廊下を抜けて市長公室へ。途中、すれ違う役人たちが、慌てて足を止め、ピシッと敬礼してくる。まるで軍隊だ。役人どもの様子は普段とやや異なり、庁舎内全体が少々ピリピリした空気に包まれている。非常時だからというのもあるが、なにより助役のルミエルがご機嫌斜めで、その気分が役人どもに伝染しているんだろう。
しかし──市長公室のドアを開けると、そんな空気など一切おかまいなく、ハネリンが豪快に寝こけていた。床で。全裸で。
なぜ全裸。しかも床寝。この部屋にも大きなソファがあるし、宿舎部屋にいけばちゃんと布団もあるのに。
「ほにゃへぇー……焼き魚カレー定食、おかわりぃ……」
どんな夢見てんだよ! ていうかそんなメニューねえよ!
俺はつかつかとハネリンのそばへ歩み寄り、おもむろに、その腹を踏んづけた。
むぎゅ! と面白い声をあげて、ハネリンは目を覚ました。
「はふぅん……。んぅー、もーちょっとで……お魚カレーが食べられたのにぃ……」
その組み合わせはどうなのかと。いや案外旨いかもしれんが。
「ほれ、さっさと服着ろ。晩メシ食ったら、出発だ」
「んー……? どこ行くの?」
「南霊府だ。そこの長に用事があるんでな」
南霊府の長、シャダーン──まだ詳しくは知らんが、オーガンの同志で、反長老派らしい。そいつから、結界魔法の発生源となるオベリスクの位置を聞き出すのが目的だ。フルルのことはむろん気に掛かるが、それについては、すでに手は打ち終えた。あとは情報部とティアックの頑張り次第。それらの結果を待つ間、こっちはこっちで長老との談判に先がけ、エルフの森の対魔族結界を潰す算段をしておこうというわけだ。
この程度の用事にわざわざハネリンを連れて行く必要もない気がするが、ここは翼人にとっては敵地も同然。こいつを一人で置いとくと、どんなトラブルに巻き込まれるかわからん。荷物持ちくらいの役には立つだろうし。
──夕食時。例によって庁舎食堂。今夜のメニューは、お刺身定食。鯨の刺身をメインに、マグロ、黒鯛、ハマチなどの刺身をどっさりと彩り豊かに盛り合わせてある。これはまた豪勢な。
いずれも南霊府の沿岸で獲れた食材だそうだが、残念ながら、すべて冷凍ものらしい。エルフも鯨なんて食うんだな。
マグロもあるが、赤味のみでトロはない。マグロのトロはエルフの味覚とはあまり合わない部位のようで、「猫もまたいで食わない」とかいって、食わずに捨ててしまうのだとか。なんたることだ。
ハネリンはご馳走を前にして大はしゃぎだが、ルミエルは相変わらず機嫌が悪い。いや、見ためには穏やかに微笑んでて、そうは感じられないんだが、その目もとがな。笑ってないんだよな。
ともあれ。三人揃って刺身をつつきながら、俺はルミエルにこちらの事情をかいつまんで説明し、今夜にも南霊府へ向かう旨を告げた。
「わかりました。では、こちらのほうはお任せください。すでに事件の詳細は市民にも公表済みです。すぐにも市街はフィンブルへの報復を叫ぶ声で充満することでしょう。その声に応えられるのはアークさまだけです。どうかお早いお帰りを」
ルミエルはうなずきつつ俺に告げた。こいつ、自分が助役となってから、無茶な税金を取り立てて、市民からぼちぼち不満の声が出はじめてるのを知ってやがる。で、この機会に、市民の不満を全てフィンブルのほうへ向けさせようとしてるらしい。転んでもタダでは起きん女だな。
「今度はそう長くはかからん。三日以内に戻ってくるからな」
「はい、お待ちしています。あ……ところで、南霊府といえば、あそこも竜の襲撃でひどい被害を受けていると聞きますが……大丈夫でしょうか?」
ふと思い出したようにルミエルが呟く。ああ、そういえば、どっかでそんな話を聞いたな。誰だったか……。
そうだ、西霊府の温泉で出会った子供。マナだ。あのちびっ子が、そんなことを言ってたな。それで南霊府から西霊府へ一家で避難してきたとか。
ひょっとして、今もその攻撃は続いてるんだろうか? だとしたら、少々急がねばならんかもな。シャダーンがナーガの攻撃で死んでたりしたら、目もあてられん。
夕食後、俺とハネリンは、連れ立って庁舎を出た。俺は平服にアエリアを佩き、あの轟炎の聖弓を背負っている。ハネリンは甲冑姿で、背に閃炎の魔弓と矢筒をひっかけ、さらに水と食糧の詰まったザックを背負っている。万一、ナーガと戦闘になった場合に備えての重装備。
今回、見送りはなしだ。どうせすぐ戻ってくるし。
前庭の隅でうずくまっているトブリンのもとへ、ハネリンが甲冑をカチャカチャいわせながら駆け寄る。トブリンはむっくり身を起こし、パサササッと翼をはばたかせた。どうやらハネリンに挨拶しているらしい。その仕草もまた実にキュートだ。
昨夜、ここに来たときと同じく、また夜陰にまぎれての出立。だが秋の夜空はよく晴れて、星々も月も眩しいほど蒼く輝いている。星の位置で方角もわかる。夜でも迷わず飛んでいけるだろう。
ハネリンは、トブリンの背にひょいっと飛び乗り、こっちへ手を振ってみせた。では、そろそろ行くか。おいアエリア、出番だぞ。
──ンホォォォー! アエリア、トンヂャウゥー!
わかったからさっさと飛べ。
──チッ。
アエリアの魔力が解放される。俺はゆっくりと空中へ身を躍らせた。続いて、ハネリンを背に乗せたトブリンが、バサバサと黒い翼を羽ばたかせ、巨体を宙へ浮き上がらせた。
「行くぞ」
「はーい!」
俺の呼びかけに、ハネリンの元気な声がこだまする。
二人と一匹は、月明かりをバックに、一団の影となって、星空へと舞い上がった。
いざ、南へ。




