142:黒翼降臨
北岸と東岸。距離的にはどっちへ向かってもそう変わらないが、いま光点が北にあるということは、ハッジスたちが危険に晒されている可能性もある。まずは北だな。
「どうかなさいましたか?」
エナーリアが訊いてくる。こいつは水沿いでないと力を発揮できないから、北へ連れていってもあまり役には立たんな。このまま中央霊府へ向かわせるとしよう。
「大したことじゃない。それより」
と、言いさして、アエリアが脳内に語りかけてきた。
──ハニー。チョット、オハナシ。サシテー。
む。そうか。ならば存分に語れい。
俺はアエリアを鞘ごと腰のベルトから外し、エナーリアに差し出してやった。
「ほれ。アエリアが話したがってるぞ」
「おお、そうでございますか。では……」
エナーリアは、恭しくアエリアを受け取り、両手で鞘を握り締めると、しばし黙然、うなずいたり微笑んだり。時折、噴き出しそうになるのをこらえる仕草も見せた。プーッ、クスクス、って感じで。こらおまえら、何の話をしてやがる。
「……お返しいたします」
ほどなく、エナーリアはやけに満足げな様子で、アエリアを返してきた。
俺はアエリアを腰のベルトに挟みつつ、話の内容を訊いてみた。
──ナイショー。プーックスクス。
だから何笑ってんだよ! まったくこれだから女ってのは。
もういい、気にしないことにする。どうせろくでもない話だろうし。
「……エナーリア。お前はこれから中央霊府へ向かえ。いずれ俺も行くからな。いい子で待っていろよ」
「ははっ! それでは!」
エナーリアは、俺に背を向け、だぷんっと水中に身を沈めると、そのまま泳ぎ去っていった。
今度あいつと会うときは、おそらく情勢は大きく動いているだろう。場合によっては、中央霊府の運河に突貫して暴れてもらうことになるかもしれない。そうなるもならぬも、長老の出方次第だがな。
今はそれより、北岸が気に掛かる。俺は地を蹴って空中へ舞い上がり、北方めがけ移動を開始した。
ビワー湖上空を疾駆しつつ、前方遥かに北岸をのぞむ。
手前に青い湖水、奥に緑の森林。両者を隔てる境界のように、左右うねり伸びる赤土色の街道。その真ん中あたりを、とことこ進む数両の荷馬車。
積荷は──と見れば、いずれも荷台にでっかい木製の樽を並べている。ありゃ酒樽だな。ということは、あいつらもしかして、緑林軍の荷駄隊か。
上空からゆっくり近寄ってみる。まだ誰もこちらには気付いていない。よくよく見れば、どいつもこいつも見覚えのある顔だ。
俺は、ぐっと息を吸い込み、地上へ向けて声を投げかけた。
「おぅーい! そこの馬車! 停まれ!」
荷駄隊の御者も人夫も、一斉にぎょっとしたように顔をあげた。いきなり空から怒鳴られりゃ、そりゃ驚くわな。
「ゆ、ゆ──勇者さまっ!」
先頭の馬車の御者を務めていたエルフのじじいが、驚きのあまり目をひん剥いて叫んだ。他の連中も、みな口々に驚声をあげている。このじじい、名前はなんつったっけな。えーと、そう。ベギスとかいったか。フルルのお付きをやってたという。この荷駄隊の奴ら全員、かつてフルルが率いていたエルフの追い剥ぎ連中だ。今は俺の指図で緑林の下働きに出向いているはず。この様子なら、ちゃんと仕事してるようだな。
「おまえたち、そこに停まれ。ちょっと聞きたいことがある」
俺の指示をうけ、荷馬車の列は大慌てで足を止めた。俺はその脇へひらりと舞い降りる。
「真面目に働いてるようだな。いや感心感心」
そう声をかけると、馬から降りてきたベギスが、やけに嬉しそうに応えた。
「ええ、それはもう。ありがたいことに、ハッジスどのも、大変よくしてくださいますんで。やりがいのあるお仕事をいただき、暮らし向きもよくなって、みな毎日、孜々として生業に励んでおります。これもすべて、勇者さまのおかげでございます。聞けば、フルルお嬢も、勇者さまのお力添えで、たいそう出世なさったとか。勇者さまには、本当にいくら感謝しても足りぬ気持ちでございますよ」
他の連中も、一斉に、うんうんとうなずいてみせた。どいつもこいつも、額に汗を滲ませつつ、充実しきった笑顔を浮かべている。いかにもこう、労働の歓びに目覚めました! って感じの。
おかしいなあ。俺はハッジスに宛てた手紙で、こいつら俺に刃向かった大罪人どもだから、奴隷と思って容赦なく死ぬほどコキ使え、って書いといたのになあ。それに、所詮は酒賊の手伝いだから、世間的には今でも追い剥ぎと大差ない汚れ仕事ってことになるんだが、コイツラそのへんわかってるんだろうか。いやどうでもいいけどな。
「ところで勇者さま。お聞きしたいこととは、何でございましょうか」
ベギスが訊いてくる。
「ああ。おまえたち、このあたりで竜を見なかったか」
ベギスは、軽く首をかしげた。
「はあ。竜でございますか。いえ、私どもは、とくに……」
不意に、周りの連中が騒ぎ出した。空を見上げながら、口々に何事か喚きはじめる。
「勇者さまっ! あ、あれあれ! あれが、その竜じゃないですかい?」
若いエルフが指さす先を、ふと見やれば。
確かに、いた。
ほんの数十メートル上空、禍々しい黒翼を広げて浮かぶ巨体。黒い鱗を陽光にギラギラ輝かせつつ、燃えるような金色の瞳を静かにこちらへ向けている。ついさっきまで、そんな気配はまるで感じなかったのに、いつの間に。
以前、移民街でやりあった連中より、図体はひと回り大きい。面構えも実に凶悪。これは歯応えがありそうだ。
ちょうどいい。長老の依頼の竜退治。こいつに、最初の一匹目になってもらおう。




