第99話 太陽のバッジと祭典への招待
太平洋高気圧にすっぽりと覆われた日本列島は、朝から暴力的なまでの熱波に見舞われていた。
アスファルトが溶け出しそうな猛暑の中、俺は、冷房が過剰に効いた新宿のテストセンターにいた。
秋から営業を開始し、年明けから本格稼働させる『社内SEのサブスクリプション事業』。
その権威付けのための資格取得ラッシュも、今日が総仕上げとなる。
OSの『MCP』、ネットワークの『CCNA』、データベースの『Oracle Master』。
そして今日、俺が受けるのは、サン・マイクロシステムズ社が認定する『SCSA(Sun Certified System Administrator)』だ。
当時のIT業界において、サンの提供するUNIX系OS『Solaris』を搭載したサーバーは、まさに「ネットワークの太陽」として圧倒的なシェアと信頼性を誇っていた。この資格を持つことは、高度なシステムインフラを構築・運用できる本物のプロフェッショナルであることの証明となる。
指定されたブースに座り、モニターと向き合う。
UFS(UNIX File System)の構造、パッケージ管理、ユーザーアカウントのセキュリティ設定、そしてネットワーク構成。
コマンドラインベースのシビアな知識が問われるが、未来のITインフラを知り尽くした41歳の精神からすれば、古典的なパズルを解くようなものだ。
マウスをクリックし、迷うことなく正解を導き出していく。
約40分後。
『試験終了』のボタンを押すと、画面に合格を意味する『PASS』の文字と、満点に近いスコアが表示された。
「……これで、盤石だ」
俺は静かに席を立った。
マイクロソフト、シスコ、オラクル、そしてサン・マイクロシステムズ。
IT業界を牛耳る巨大ベンダー四社のロゴが並んだ名刺とパンフレット。これを見せられて、ITリテラシーの低い中小企業の経営者が「ノー」と言えるはずがない。
15歳の学生集団というハンデを完全に打ち消す、最強の理論武装が完了した瞬間だった。
午後。
俺は新宿から目黒へと移動し、人目につかない会員制のプライベートカフェに入った。
奥のゆったりとしたソファ席には、すでに一人の女性が待っていた。
天童くるみだ。
白い清楚なサマードレスに、顔の半分を覆い隠すようなツバの広い麦わら帽子。テーブルの上には、外した大きなサングラスが置かれている。
国民的トップアイドルとして、男性から圧倒的な人気を集める彼女の美貌は、こんな隠れ家的なカフェであっても隠しきれない華やかなオーラを放っていた。
「お待たせしました、くるみさん」
声をかけると、彼女はパッと顔を輝かせた。
「レオ! ……遅いじゃない、待ちくたびれたわよ」
「申し訳ありません。少し、ビジネスの『武装』を整えていたもので」
俺は向かいの席に座り、冷たいアイスコーヒーを注文した。くるみの前には、半分ほど飲まれた甘そうなアイスラテが置かれている。
「武装? 相変わらず物騒なこと言ってるわね。……でも、無事に終わったならお疲れ様」
彼女はストローで氷をカラカラと回しながら、少しだけ疲れたような、しかし充実した微笑みを向けた。
「くるみさんこそ、最近はテレビで見ない日がないほどですね。新曲のプロモーション、順調のようで何よりです」
「うん。……でも、毎日分刻みのスケジュールで、ちょっと目が回りそう。歌番組の収録に、雑誌のグラビア、それにドラマのゲスト出演……。周りの大人は、あたしを寝かせる気がないみたい」
彼女は頬を膨らませて愚痴をこぼすが、その瞳にはかつてのような「消費されることへの絶望」はない。
自分が価値ある存在として求められている喜びと、プロとしてのプライドが宿っている。
「それが、トップに立つ者の代価です。……ですが、倒れられては困ります。栄養と睡眠は、僕が管理している基準を必ず守ってください」
「わかってるわよ。……だから、こうしてレオの顔を見て、エネルギー補給してるんじゃない」
彼女は上目遣いで俺を見つめ、甘えるように微笑んだ。
18歳の、等身大の少女の素顔。
芸能界という巨大な虚構の中で戦う彼女にとって、15歳の俺が「唯一の現実」として機能している。
「……あたしね、絶対にトップを取り続けるから。レオが描いた『人生設計書』の横に、ずっと立っていられるようにね」
「期待していますよ」
俺たちは静かにグラスを合わせ、束の間の穏やかな時間を共有した。
午前中、俺は渋谷のオフィスに出社し、今後の営業戦略について舞と最終の打ち合わせを行っていた。
そこに、けたたましい足音と共にオフィスのドアが開いた。
「おい西園寺! いるか!?」
城戸隼人だ。
夏休みを謳歌している彼は、Tシャツにハーフパンツというラフな格好で、日焼けした顔に汗を光らせていた。
「ノックくらいしなさい、城戸。……どうしました?」
「いやさ、お前にどうしても頼みがあって! 明日、8月10日から幕張で始まる『サマー・デジタル・エキスポ』、一緒に行こうぜ!」
「サマー・デジタル・エキスポ……?」
俺は脳内のデータベースを検索した。
1999年の夏。PCメーカーやゲーム会社、そしてIT関連のベンチャー企業が一堂に会する、国内最大級のデジタル総合展示会だ。
「俺さ、どうしてもそこで発表される新作のアクションゲームが試遊したくてさ! でも、一人で行くのは寂しいし……。お前なら、そういうパソコンとかITのイベント、興味あるだろ?」
隼人が身を乗り出して力説する。
「……なるほど」
確かに、悪くない提案だ。
これから社内SE代行というITインフラ事業を本格展開するにあたり、最新のハードウェア動向や、競合他社がどのようなソリューションを展示しているのか、市場の熱量を直接肌で感じることは重要だ。
それに、ネットが未発達なこの時代、展示会で配られる名刺やパンフレットの束は、貴重な営業リストにもなり得る。
「……分かりました。市場の視察も兼ねて、同行しましょう」
「っしゃあ! さすが西園寺、話が早い! ……あ、あとさ、綺麗なコンパニオンのお姉さんもいっぱいいるらしいぜ!」
隼人がニヤニヤとだらしない笑みを浮かべる。
「……それが本命ですか。全く、呆れたバイタリティだ」
「男のロマンだろ! じゃあ、明日の朝、東京駅で待ち合わせな!」
隼人は嵐のように用件だけを伝え、風のように去っていった。
呆れながらも、俺はスケジュール帳の明日の欄に予定を書き込んだ。
最新のデジタル技術と、欲望が渦巻く祭典。少しは楽しめるかもしれない。
夕方。
明日のイベントに備え、俺は早めに帰宅の途についた。
麻布十番の『ナニワヤ』で夕食の食材を買い込む。
照りつける太陽の熱を、内側から冷ますような夕食が必要だ。
今夜のメニューは、『極上黒豚の冷しゃぶ』と『夏野菜の素麺』に決めた。
ペントハウスの静かなキッチンに立つ。
一人暮らしの城。誰の干渉も受けず、純粋に料理と向き合う時間は、俺の精神を最も研ぎ澄ませてくれる。
まずは冷しゃぶからだ。
使用するのは、鹿児島県産の最高級黒豚の極薄切り肉。
鍋にたっぷりの湯を沸かし、日本酒と少量の塩を加える。
ここが最大のポイントだ。湯をグラグラと沸騰させたまま肉を入れると、タンパク質が急激に収縮し、肉が硬くなってしまう。
火を止め、湯の温度を80度程度に下げてから、肉を一枚ずつ泳がせるようにして火を通す。
肉の色が変わったら、すぐにザルに上げる。
決して氷水には落とさない。氷水で急冷すると、肉の脂が白く固まり、食感が悪くなるからだ。常温で自然に粗熱を取ることで、豚肉本来の甘みと柔らかさが保持される。
つけダレは、自家製のゴマだれ。
練りゴマに、醤油、酢、砂糖、そしてたっぷりのすりゴマと、隠し味のピーナッツバターを少し加える。コクと香ばしさが段違いになる。
次に素麺。
揖保乃糸の特級品を使用する。
たっぷりの湯で短時間で茹で上げ、流水で一気に揉み洗いをしてぬめりを取る。最後に氷水でキリッと締める。
器に氷を敷き、その上に真っ白な素麺を美しく盛り付ける。
添える夏野菜は、湯剥きしてキンキンに冷やしたフルーツトマトと、薄切りのミョウガ、そして大葉。
「……完璧だ」
ダイニングテーブルに並んだ、瑞々しい夏の御膳。
飲み物は、よく冷えた麦茶だ。
「いただきます」
一人静かに手を合わせ、まずは冷しゃぶをゴマだれにたっぷりと絡めて口に運ぶ。
「……っ」
黒豚の脂の甘みと、常温で冷ましたことによる驚くほどの柔らかさ。
そこに、濃厚なゴマだれのコクが合わさり、絶妙なハーモニーを奏でる。
脂っこさは微塵もない。
すかさず、素麺をツユにくぐらせてすする。
ツルッとした喉越しと、氷水で締めた極細麺の強烈なコシ。
ミョウガと大葉の清涼感が、口の中をさっぱりとリセットしてくれる。
そしてフルーツトマトの暴力的なまでの甘さ。
熱気で疲労した体が、みるみると生気を取り戻していくのが分かる。
「……美味い」
静かなダイニングに、素麺をすする音だけが響く。
資格の制覇。くるみとの関係。そして明日からの新たな視察。
俺のビジネスと日常は、俺が設計した通りに、淀みなく進んでいる。




