第97話 資格の連鎖とアンニュイな午後
都心のビル群は、今日も強烈な夏の日差しを照り返し、街全体が巨大なオーブンのように熱を帯びていた。
俺は、新宿のテストセンターの冷房が効いた待合室で、名前が呼ばれるのを静かに待っていた。
二日前に取得した『MCP(マイクロソフト認定プロフェッショナル)』。
だが、権威付けのバッジは、一つよりも複数あった方が効果が高い。
今日は、ITインフラストラクチャにおけるもう一つの覇者、シスコシステムズの認定資格『CCNA(Cisco Certified Network Associate)』を受験しに来ていた。
「……西園寺様、3番のブースへどうぞ」
試験監督の女性が、怪訝な視線を隠しきれない様子で声をかけてきた。
周りにいるのは、疲れ切った顔をした社会人ばかり。制服姿で、夏休みの補習の合間に抜け出してきたような15歳が受ける試験ではない。だが、俺は涼しい顔で会釈をし、ブースへと向かった。
パソコンの前に座り、試験を開始する。
ネットワークの基礎、ルーティングプロトコル、スイッチングの概念。
MCPがOSやサーバー管理に特化しているのに対し、CCNAはよりハードウェアとネットワークの土台に近い知識を問われる。
当時の最新技術とはいえ、41歳まで生きた俺の脳内にあるIT知識からすれば、基礎中の基礎に過ぎない。
画面に表示されるネットワーク構成図を読み解き、適切なコマンドやプロトコルを選択していく。
マウスをクリックする音だけが、無機質な空間に響く。
わずか40分。制限時間を大幅に残して、俺は最後の問題を解き終えた。
『試験終了』のボタンを押す。
画面が切り替わり、合格ラインを余裕で超えるスコアと共に『PASS』の文字が表示された。
「……これで、サーバーとネットワーク、両方の基礎的な権威付けが完了したな」
俺は小さく息を吐いた。
年明けからの本格稼働に向け、秋から営業を仕掛ける『社内SEのサブスクリプション事業』。
ITリテラシーの低い中小企業の経営者に対し、「マイクロソフトとシスコ、二つの世界的企業から認定を受けたプロフェッショナル集団」という看板は、絶大な威力を発揮する。
中身が学生のアルバイト部隊であったとしても、入り口の権威さえ強固であれば、契約は面白いように取れる。
退出手続きを済ませ、テストセンターを出る。
照りつける太陽の下、俺のビジネスの盤面はまた一つ、強固なものになった。
午後。俺は表参道のケヤキ並木を歩いていた。
洗練されたブティックやカフェが立ち並ぶこの通りは、渋谷や原宿の喧騒とは違う、落ち着いた大人の空気が流れている。
通りに面したオープンカフェのテラス席。
そこに、待ち合わせていた女性の姿を見つけた。
柚木沙耶。
彼女は、深いネイビーのサマーニットに、風に揺れる白いリネンのワイドパンツを合わせていた。
日差しを避けるように少しだけ首を傾け、アイスティーのグラスに添えられた水滴を細い指先でなぞっている。
19歳の大学2年生だが、彼女の纏うアンニュイな雰囲気と整った美貌は、道行く男性たちが思わず振り返るほどに際立っている。
「お待たせしました、柚木さん」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、ふわりと微笑んだ。
「あら、玲央くん。……暑い中、ごめんなさいね」
「構いませんよ。ちょうどこの近くで、ビジネスのリサーチがありましたから」
俺は向かいの席に座り、ペリエとライムを注文した。
「相変わらず、忙しそうね。夏休みくらい、普通の高校生みたいに遊べばいいのに」
「僕にとっては、事業を組み上げることこそが最大の娯楽ですので。……それに、こうして美しい女性と向かい合ってお茶を飲む時間も確保できています」
俺がさらりと言うと、沙耶さんは少しだけ目を丸くし、それからクスリと笑った。
「……玲央くんって、本当に息をするようにそういうこと言うわよね。15歳にからかわれるなんて、私もまだまだだわ」
彼女はストローで氷を回し、少しだけ真面目な顔になった。
「……ねえ、玲央くん。この間、私が『人の心の澱を掬い上げる仕事』について話したの、覚えてる?」
「ええ。心理学の専攻を活かした道を見つけつつあるのだと解釈していましたが」
沙耶さんはこくりと頷いた。
「私ね、児童福祉や、家庭環境に問題がある子供たちの支援をするNPO法人のボランティアに参加してみることにしたの。……まだ見学段階だけど」
「素晴らしい決断です。……ですが、それは感情の消耗が激しい、過酷な現場でもありますよ」
俺はあえて、厳しい側面を提示した。
彼女のように他人の痛みに敏感な人間は、共感しすぎるあまり、自分自身が壊れてしまうリスクがある。
「分かってる。……でもね」
沙耶さんは、まっすぐに俺の目を見た。
「舞が、貴方という絶対的な存在のために完璧な盾として生きているように。……私も、私だからできる『不器用な寄り添い方』を見つけたいの。誰かの役に立ちたいって、心から思えたから」
その瞳には、以前のようなモラトリアムの迷いや、親友に対するコンプレックスはもうなかった。
自分の弱さを認め、それでも前に進もうとする、大人の女性の静かな強さが宿っていた。
「……良い目になりましたね、柚木さん」
「え?」
「貴女のその優しさは、必ず誰かの救いになります。……もし、活動の中で資金や法的なサポートが必要になった時は、いつでも僕の会社を頼ってください。投資対効果は、貴女の笑顔で十分です」
俺がペリエのグラスを掲げると、沙耶さんは少しだけ頬を染め、嬉しそうに目を細めた。
「……もう。本当に、敵わないわね」
木漏れ日が彼女の笑顔を照らす。
穏やかな世間話。だが、彼女の人生の歯車が力強く回り始めたことを確認できた、有意義な時間だった。
夕方。
沙耶さんを青山学院大学の近くまで送り届けた後、俺は食材を買い込んでペントハウスへと帰宅した。
静寂に包まれた広大なリビング。
誰の干渉も受けない、俺だけの城。ネクタイを外し、冷房の設定温度を少しだけ下げる。
今日の夕食は、夏の暑さを乗り切るための特効薬だ。
買ってきたのは、静岡県産の最高級の『鰻』。
すでにプロの手で白焼きと蒲焼きにされた、上質な国産ウナギだ。土用の丑の日は過ぎたが、疲労の溜まりやすいこの時期のウナギは、理にかなった選択だ。
俺はキッチンに立ち、ウナギの美味さを極限まで引き出すための「火入れ」を行う。
まずは『白焼き』だ。
魚焼きグリルの網を熱し、皮目から軽く炙る。すでに火は通っているため、目的は表面の水分を飛ばし、香ばしさを蘇らせること。
パチパチと、ウナギ自身の脂が弾ける微かな音が聞こえる。
炙りすぎない絶妙なタイミングで引き上げ、一口大に切り分ける。
添えるのは、おろしたての生の本わさびと、上質な岩塩、そして少しのすだち。
次に『蒲焼き』。
こちらはフライパンに少量の酒と付属のタレを入れ、ウナギを乗せて蓋をし、弱火でふっくらと蒸し焼きにする。
タレが焦げる甘辛い香りが、一気にキッチンに広がる。
炊きたての魚沼産コシヒカリの上に、タレを纏って艶やかに光る蒲焼きを乗せ、粉山椒を散らす。
副菜は『焼き茄子とミョウガの冷鉢』。
直火で真っ黒になるまで焼いた茄子の皮を剥き、キンキンに冷やした一番出汁に浸しておいたものだ。
飲み物は、冷えた『ウィルキンソン』の炭酸水。
俺は未成年だ。一人きりの夕食であっても、アルコールに頼る必要はない。
「……完璧な布陣だ」
ダイニングテーブルに並んだ、黄金色の白焼きと、飴色の蒲焼き。
俺は席につき、静かに手を合わせた。
「いただきます」
まずは、白焼きから。
箸で持ち上げると、皮はパリッと、身は驚くほどふっくらとしている。
本わさびを少し乗せ、岩塩をわずかにつけて口に運ぶ。
「……っ」
ウナギ本来の濃厚な旨味と、上品な脂の甘みが、舌の上でとろける。
そこに、わさびの清涼感と岩塩のミネラルが輪郭を与え、見事な調和を生み出す。
タレの味に誤魔化されない、素材そのものの暴力的なまでの美味しさ。
すかさず、強炭酸のウィルキンソンを流し込む。
口の中に残った脂が、弾ける気泡と共に綺麗に洗い流されていく。
続いて、蒲焼きと白米のコンビネーション。
甘辛いタレが染み込んだご飯と、香ばしいウナギ。粉山椒の痺れがアクセントになり、箸が止まらなくなる。
合間に食べる冷たい焼き茄子が、火照った身体を内側から冷ましてくれる。
誰かと語り合いながらの食事も素晴らしいが、こうして自分のためだけに用意した最高級の食事と、無言で向き合う孤独な時間もまた、俺の精神を研ぎ澄ませてくれる。
食事を終え、グラスに残った炭酸水を揺らしながら、俺は窓の外の夜景を見つめた。
東京タワーのオレンジ色の光が、夜の闇に浮かび上がっている。
資格の取得、新規事業の滑り出し、そして周囲の人間関係の好転。
俺が描いたシナリオ通りに、全ては進行している。
だが、盤面が平穏であればあるほど、俺の中の警報は静かに鳴り続ける。
神宮寺レイという、底知れぬ探偵の存在。
彼がもたらすであろう「次の一手」は、俺のこの静かな城にも影響を及ぼすかもしれない。




