第96話 権威の証明とひまわりの微笑
猛暑の新宿。西口の高層ビル群の一角にある、無機質なオフィスビル。
俺は、そのフロアに設けられた『テストセンター』のパソコンの前に座っていた。
周囲には、疲れた顔をした背広姿のSEや、就職活動を控えた大学生らしき若者たちが、同じようにモニターと睨み合っている。
制服姿の15歳は、どう見ても場違いだ。入室時の本人確認では、試験監督の怪訝そうな視線を浴びることになった。
画面に表示されているのは、IT系ベンダー資格である『MCP(マイクロソフト認定プロフェッショナル)』の試験問題だ。
ネットワークの構築、Windows OSのシステム管理、セキュリティポリシーに関する専門的な設問が次々と表示される。
マウスをクリックし、淡々と選択肢を選んでいく。
41歳の精神を持つ俺にとって、この時代のITインフラの知識はすでに基礎教養として脳内に定着している。悩む要素は一つもない。
開始からわずか30分。
全問を解き終え、『試験終了』のボタンをクリックする。
CBT方式のこの試験は、その場ですぐに結果が判明する。
画面が切り替わり、『PASS(合格)』の文字と、満点に近いスコアが表示された。
「……計算通りだ。これで第一段階はクリアだな」
俺は静かに席を立ち、退出手続きを済ませてテストセンターを後にした。
そのまま渋谷区桜丘町にある『レオ・キャピタル』のオフィスへ向かう。
空調の効いた室内では、秘書の如月舞が書類の整理を行っていた。
「お疲れ様です、社長。……試験の方はいかがでしたか?」
「問題ありません。合格です」
俺は試験結果のプリントアウトをデスクに置いた。
「これで僕は、公式にマイクロソフト認定のエンジニアになったわけだ」
「さすがですね。ですが、社長の実力からすれば、今更そのような資格に頼る必要もないのでは?」
舞が冷たいハーブティーを差し出しながら、小首を傾げる。
俺はグラスを受け取り、喉を潤した。
「実務においてはこの資格などただの紙切れです。僕の技術を証明するものではない。……ですが、ビジネスにおいては最強の『バッジ』として機能します」
俺は現在進行中の「Y2K(2000年問題)対策代行サービス」の次のフェーズを見据えていた。
「年明けから展開する『社内SEのサブスクリプション事業』。ターゲットは、ITリテラシーの低い中小企業の経営者たちです。彼らは、技術の良し悪しを自分で判断できない。だからこそ、分かりやすい『権威』に弱いんです」
「……なるほど。『独学でPCに詳しい若者』ではなく、『世界的な大企業が認定したプロフェッショナル』として売り込むのですね」
「その通りです。名刺にこのロゴが印刷されているだけで、商談の通過率は跳ね上がり、単価も強気に設定できる。資格とは、自己研鑽の証ではなく、他者を納得させるための最も効率的なツールなんですよ」
「徹底した合理主義ですね。……すぐに名刺のデザインを修正し、秋からの営業用パンフレットに反映させます」
舞は感心したように微笑み、手帳にメモを書き込んだ。
盤石なスキームを構築するためには、使える権威は全て利用する。それが俺のやり方だ。
私立桜花学園の夏期講習。
午前中のカリキュラムを終え、俺は学園の近くにある落ち着いたカフェで、遅めのランチを兼ねた休息を取っていた。
カラン、とドアベルが鳴り、一人の少女が店内に入ってきた。
花村結衣先輩だ。
夏服のブラウスに、薄手のカーディガンを羽織っている。
柔らかな茶色の髪がふわりと揺れ、彼女が歩くたびに、甘いバニラのような香りが微かに漂う。
「あ、西園寺くん! 偶然だね!」
俺を見つけた結衣先輩は、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
その屈託のない笑顔は、まるで真夏の太陽に向かって咲くひまわりのようだ。
彼女が店に入ってきた瞬間から、店内にいた数人の男子学生や若いサラリーマンの視線が、無意識のうちに彼女に吸い寄せられているのが分かった。
男性に人気のある、天性の愛らしさと美貌。だが、当の本人はその視線に全く気づいていない。
「こんにちは、花村先輩。相席しますか?」
「うんっ! お邪魔しまーす」
彼女は向かいの席にちょこんと座り、アイスピーチティーを注文した。
「夏期講習、お疲れ様です。勉強の進み具合はいかがですか?」
「えへへ……。まあ、ぼちぼちかな? でも、西園寺くんに教えてもらった古文の単語、今日の小テストで出たんだよ! バッチリ書けた!」
彼女は嬉しそうに胸を張る。
「それは素晴らしい。努力の成果ですね」
「ううん、西園寺くんのおかげだよ。……なんだか最近、色んなことが上手くいってる気がするの」
結衣先輩はグラスのストローを弄りながら、ふと真面目な顔になった。
「セイラちゃんね、最近すごく穏やかな顔してるの。前みたいに、ピリピリして周りを威圧するような感じがなくなって。……生徒会の仕事も楽しそうだし」
「霧島先輩は元々、優秀で責任感の強い方ですからね。肩の力が抜けたのでしょう」
「うん。……それに、愛理ちゃんも。こないだの日曜日、なんかすごくご機嫌で帰ってきてさ。『西園寺くんに会ったの?』って聞いたら、顔真っ赤にして『別に!』って怒られちゃった」
結衣先輩はクスクスと笑う。
一昨日の水族館での一件が、愛理先輩の心境に確かな変化をもたらしているようだ。
「……西園寺くんの周りにいると、みんな少しずつ、素直になれるみたい。不思議だね」
「買い被りですよ。僕はただ、合理的な選択を提案しているだけです」
「ふふっ。そういう素っ気ないところも、西園寺くんらしくて好きだな」
彼女は悪戯っぽく微笑み、ピーチティーを一口飲んだ。
その無防備な笑顔に、周囲の男性客たちが再び目を奪われている。
本人は「普通の女子高生」を自認しているのだろうが、彼女の持つ天性の癒やしのオーラは、間違いなく一級品の魅力だ。
「そういえば、夏休み、みんなで海に行かない? 涼さんや、くるみちゃんたちも誘って!」
「海、ですか。スケジュールを調整してみましょう」
「やった! 楽しみにしてるね!」
彼女の明るい声を聞きながら、俺はアイスコーヒーの氷を揺らした。
冷徹なビジネスの世界とは違う、高校生としての穏やかな時間。この両輪があるからこそ、俺の精神は均衡を保っていられるのだ。
夕方。
ビジネスの打ち合わせを数件こなし、俺は麻布十番の高級スーパー『ナニワヤ』で買い出しを済ませて帰宅した。
静寂に包まれた広大なペントハウス。
誰の気配もないこの空間が、俺にとっての絶対的な「城」だ。
ネクタイを外し、シャツの袖を捲り上げてキッチンに立つ。
猛暑で火照った体を内側から冷ますための、涼やかなメニュー。
今日のメインは『完熟フルーツトマトとバジルの冷製カペッリーニ』だ。
まずはトマトの下処理。
糖度が極限まで高まった静岡県産のフルーツトマトに、包丁で浅く十字の切れ込みを入れ、熱湯に数秒くぐらせる。すぐに氷水に落とし、皮をツルリと剥く。湯剥きだ。
これを細かく刻み、ボウルに入れる。
そこに、エキストラバージンオリーブオイル、すりおろした少量のニンニク、塩、そして隠し味にバルサミコ酢を数滴。新鮮なバジルの葉をちぎって加え、ボウルごと冷蔵庫でキンキンに冷やしておく。
次にパスタ。
使用するのは、髪の毛のように細いロングパスタ『カペッリーニ』。
たっぷりの塩を入れた湯で、表示時間より少し長めに茹でる。冷やすと麺が締まるため、少し柔らかめに茹で上げるのが鉄則だ。
茹で上がったらザルにあけ、流水で粗熱を取った後、氷水に浸して一気に引き締める。
麺の表面についた水分を、キッチンペーパーで完全に拭き取る。この一手間を怠ると、ソースが水っぽくなってしまう。
冷やしておいたトマトソースのボウルにパスタを投入し、手早く和える。
副菜は『真ダコとホタテのカルパッチョ』。
新鮮な刺身用の水ダコと、北海道産の生ホタテを薄くスライスし、皿に並べる。
レモン汁、オリーブオイル、塩胡椒、そしてピンクペッパーを散らす。
飲み物は、よく冷えたフランス産の炭酸水『ペリエ』。ライムをひと絞りする。
「……完璧だ」
ダイニングテーブルに並んだ、鮮やかな赤と緑のコントラスト。
窓の外には、夕闇に沈みゆく東京の街並みと、ライトアップされ始めた東京タワーが見える。
「いただきます」
一人静かに手を合わせ、フォークでカペッリーニを巻き取る。
「……っ」
冷たく引き締まった極細麺に、フルーツトマトの強烈な甘みと酸味が絡みつく。オリーブオイルのコクとニンニクの風味が食欲を刺激し、バジルの清涼感が鼻を抜けていく。
暑さで疲労した胃腸に、スルスルと吸い込まれていく。
すかさず、ペリエを流し込む。
強めの炭酸とライムの苦味が、口の中をさっぱりとリセットしてくれる。
タコのカルパッチョは、吸盤のコリコリとした食感と、ホタテのねっとりとした甘みが絶妙だ。ピンクペッパーの軽い刺激がアクセントになっている。
「……美味い」
誰にも邪魔されない、味覚との純粋な対話。
資格試験による権威の獲得。結衣先輩たちとの関係性の深化。
盤面は、俺の描いたシナリオ通りに確実に進行している。
不確定要素である神宮寺レイの動きには引き続き警戒が必要だが、今の俺にはそれに対処するだけのカードが揃いつつある。




