第95話 雨音のカンバスと水槽の矛盾
7月最後の日。私立桜花学園では、夏休みを利用した特別夏期講習が行われていた。
外では容赦ない日差しがアスファルトを焦がしているが、教室の冷房は少し効きすぎているくらいだ。
世界史の講義。
教壇の教師は、黒板に19世紀のヨーロッパ地図を描きながら、チョークを止めた。
「……さて。1848年の『諸国民の春』において、各地で自由主義・国民主義の運動が連鎖的に勃発した。だが、この運動が最終的にどのような政治的結果をもたらし、その後のビスマルクの体制構築にどう繋がったか。……西園寺、説明できるか?」
高校1年生の範囲を超えた、歴史のダイナミズムを問う設問。
周囲の生徒たちが安堵の息を吐く中、俺は静かに立ち上がった。
「はい。1848年の革命は、一時的に保守体制を揺るがしましたが、労働者階級とブルジョワジーの対立により自壊し、結果的に軍部や官僚機構といった旧勢力の温存を許しました。この『下からの革命』の挫折が、後のビスマルクによる『鉄と血』――つまり、強力な軍事力と権威主義的な上からの近代化によるドイツ統一を正当化する土壌を作り上げたと言えます」
「……見事だ。歴史の因果関係を完璧に捉えている」
教師は満足げに頷き、授業を再開した。
歴史は繰り返す。人間の欲望と妥協のパターンを知れば、未来のビジネスの動向すら予測可能になる。
講義が終わり、携帯電話の電源を入れると、一通のメールが届いていた。
差出人は早坂涼。
『SOS! 大学の前期試験がヤバい! 心理学のレポート、マジで手伝って! 奢るから!』
18歳の現役早大生だが、勉学に関しては俺を頼りきっている。
『明日の夕方以降なら時間が取れます』と返信を打ち、俺は学園を後にした。
午後。俺は江東区、清澄白河にいた。
緑豊かな木場公園に隣接する、『東京都現代美術館』のエントランスへと向かう。
「……遅いぞ、西園寺」
入り口前の巨大なオブジェの陰で壁に寄りかかっていたのは、少しサイズの大きい麻のシャツを着た白鳥恒一だった。
「待たせましたね。夏期講習が延びてしまって」
「いいさ。建築の『直線』と空の『曲線』の対比を観察していたところだ」
俺たちは広大な展示室へと足を踏み入れた。
ここは前衛的な抽象画から、空間そのものを使った巨大なインスタレーションまで、現代アートの最前線が集まる場所だ。
「新しいプロジェクトのサイトデザインに、少しノイズを入れたくてね」
白鳥はスケッチブックを持たず、ただ作品の放つ熱量と色彩の反逆を網膜に焼き付けている。
「デジタルの画面は完璧すぎる。そこに、こうした現代アートのような『意図的な不協和音』を取り込むことで、人間の感情を揺さぶる有機的な温かみが生まれる。……君の会社が目指しているのも、単なる便利さではなく、そういう心の動きだろう?」
15歳の天才画家は、アートを通じてビジネスの本質まで見抜いている。
「その通りです。……予定調和を壊すデザインを期待していますよ」
「ふっ、任せておけ」
美術館を出た後、俺たちは近くのカフェで、抽象表現とユーザーインターフェースの関係について小一時間ほど議論を交わした。
彼に何かを買い与える必要はない。対等な知性と感性を持つ彼とのこの時間自体が、最高の投資だ。
夕方。
俺は渋谷の『レオ・キャピタル』のオフィスに顔を出した。
週末だが、秘書の如月舞は出社して書類の整理を行っていた。
「お疲れ様です、社長」
「休日は休めと言っているのですが。……まあ、君がいてくれると助かるのは事実ですがね」
「恐縮です。……仕事をしている方が、性に合っているのです」
舞は涼しげな笑顔で、俺に冷たいハーブティーを出してくれた。
「……そういえば、社長。先日、沙耶と食事をしたのですが、彼女、最近少し様子が変わったんです」
「柚木さんが?」
「ええ。以前は将来に漠然とした不安を抱えていたようですが、最近は『人の心に寄り添う仕事をしたい』と、大学の勉強にも熱を入れているようで。……これも、社長が相談に乗ってくださったおかげかと」
舞の親友である柚木沙耶。彼女が自分の道を見つけつつあるのは喜ばしいことだ。
「僕がしたことは、ほんの少し背中を押しただけですよ。……彼女自身が、聡明だからです」
「……社長は、本当に不思議な方ですね。誰かの人生の『結び目』を、いとも簡単に解いてしまう」
舞は嬉しそうに微笑んだ。
彼女との穏やかな世間話は、社長としての鎧を少しだけ下ろせる貴重な時間だ。
夜。
麻布のペントハウスに帰宅した俺の携帯が鳴った。城戸隼人からだ。
『おう西園寺! なあ、夏休みの宿題、数学のプリント終わったか!?』
「初日に終わらせましたが」
『マジかよ! 頼む、明日オレん家で勉強会しようぜ! っていうか教えてくれ! 天童ちゃんも来るってさ!』
「……涼さんからも泣きつかれているので、時間を調整して顔を出しますよ」
『っしゃあ! 助かる!』
通話が切れる。
高校生たちの「夏休みの宿題」と、大学生の「試験対策」。
頼られるのは悪くないが、少し予定が過密になってきた。
シャワーを浴び、静寂に包まれた広大なリビングで、俺はサイドテーブルに向かった。
そこには、木製の立体幾何学パズル『ソマキューブ』が置かれている。
7つの異なる形状のブロックを組み合わせ、3×3×3の立方体を作るパズルだ。
コト……コトッ。
木と木が触れ合う温かい音を響かせながら、空間を埋めていく。
視点を変え、空間認識を反転させながら、一つひとつのピースの役割を確定させていく。
人間関係も、ビジネスも、このパズルと同じだ。
……コトン。
最後のピースが見事に収まり、完全な立方体が完成した。
「……最適な配置は、必ず存在する」
俺は完成したパズルを置き、東京タワーのオレンジ色の光を見つめながら、静かに眠りについた。
午後から、空は急激に暗くなり、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨に見舞われた。
俺はビジネスの視察を終え、ハイヤーを待たせて路地裏を歩いていた。
黒い蝙蝠傘に打ち付ける雨音は激しく、視界は白く煙っている。
ふと、公園の入り口付近に、うずくまっている人影を見つけた。
見覚えのある、艶やかな黒髪。
瀬名愛理先輩だ。
傘もささず、ずぶ濡れになりながら、彼女は自分よりもずっと小さな「迷子の女の子」を抱きしめ、自分の着ていた白いカーディガンを被せて雨から守っていた。
「……愛理先輩」
声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、振り返った。
その顔には、普段の冷静でドライな「監視役」の面影は微塵もなかった。
雨と涙でぐしゃぐしゃになった、必死な少女の顔。
「西、園寺、くん……」
「何をしているんですか。二人とも風邪を引きますよ」
俺は無言で、自分のさしていた大きな傘を、彼女と子供の上に差し掛けた。
自分の肩が濡れるのも構わず。
「この子、親とはぐれちゃったみたいで……。急に雨が強くなってきて、泣き止まなくて……どうしようかって……」
彼女は震える両手で、泣きじゃくる幼い女の子の背中をさすっている。
俺は即座に携帯電話を取り出し、舞の直通回線に繋いだ。
「舞、俺だ。……緊急で、所轄の警察署に迷子の保護連絡を入れろ。それから、近くの系列ホテルのデイユースか、ラウンジの個室を押さえろ。体を温める場所が必要だ。今すぐだ」
『承知いたしました。すぐに手配します』
電話を切り、俺は愛理先輩の隣にしゃがみ込んだ。
「大丈夫です。すぐに警察が親御さんを探してくれます。……ハイヤーを近くに停めてある。まずは暖かい場所に行きましょう」
俺の迅速な対応に、彼女は呆然としていたが、やがてギュッと唇を噛み締めた。
そして、雨に濡れた顔を少しだけ背け、照れと感謝、そして自分の弱さを見られた恥ずかしさが入り混じったような表情で呟いた。
「……見ないで。子供の相手なんて、キャラじゃないの」
「ええ。貴女はいつも、論理的でドライな『保護者』ですからね。……ですが、その情の深さは、貴女の美徳です」
俺は彼女の肩に、自分のジャケットをふわりと掛けた。
強がりな彼女が、初めて見せた無防備な素顔。
その矛盾こそが、彼女の本当の魅力なのだと知った。
1時間後。
手配したホテルの個室で暖を取り、無事に駆けつけた両親に女の子を引き渡した後。
雨宿りも兼ねて、俺たちは池袋にある『サンシャイン国際水族館』へと足を運んでいた。
日曜日の水族館は混雑しているが、薄暗い館内は、今の彼女が落ち着きを取り戻すには最適な場所だった。
服は、近くのブティックで一式買い揃え、着替えてもらった。
シンプルな紺色のワンピース。少し大人びた装いが、彼女によく似合っている。
「……西園寺くん。服代からホテル代まで、本当に何から何まで……。ごめんなさい」
巨大な水槽の前。
青い光に照らされながら、愛理先輩が小さな声で言った。
「謝る必要はありません。僕が勝手にお金を使っただけですから」
「……そういう可愛げのない言い方、相変わらずね」
彼女は小さく笑い、水槽の中で優雅に泳ぐエイを見つめた。
「私ね……いつも、ちゃんとしなきゃって思ってたの。セイラや結衣が危なっかしいから、私がしっかりして、論理的に物事を判断しなきゃって」
彼女の横顔は、水槽の青い光を受けて、透明な美しさを放っている。
「でも、あの泣いてる子を見た時、何も考えられなくなった。……計算とか、合理性とか、全部吹っ飛んで。ただ、助けなきゃって」
「それは当然の感情です。論理の前に、弱者を守ろうとする本能がある。貴女の行動は間違っていません」
俺が言うと、彼女はふと、俺の方に向き直った。
「西園寺くんは……どうしてあんなに冷静でいられるの?」
「冷静に見えるだけです」
「嘘。貴方はいつだって、何歩も先を読んで、完璧に動いてる。……今日だって、私がパニックになっている間に、魔法みたいに全部解決しちゃった」
彼女は一歩だけ、俺に近づいた。
「……悔しいけど、貴方がいてくれて、本当に良かった。……ありがとう、玲央くん」
初めて、下の名前で呼ばれた。
彼女の瞳には、かつての警戒心はなく、一人の男性に対する確かな信頼と、微かな熱が宿っていた。




