第94話 試聴機の激論と白身魚のポワレ
夏休みに入って一週間が過ぎたが、私立桜花学園では特別夏期講習が行われていた。
冷房の効きが悪い教室。窓の外からは、熱狂的なセミの声が降り注いでいる。
教壇に立つのは、生活指導と現代社会を担当する真田先生だ。昭和のスパルタ教育を体現する彼は、今日も不機嫌そうに黒板を叩いていた。
「……たるんでるな、お前ら! 夏休みだからって気が抜けている証拠だ!」
真田は振り返りざま、手首のスナップを利かせて白墨の欠片を放った。
狙いは、ノートパソコンの画面を見つめていた俺の眉間だ。
初速、角度、空気抵抗。
41歳の精神に蓄積された経験則が、瞬時にチョークの放物線を計算する。
俺は視線を画面から外すことなく、首をわずかに数センチ右へ傾けた。
ヒュッ。
風を切る音と共に、チョークは俺の耳の横を通り抜け、後ろの黒板に当たって粉々に砕けた。
「……西園寺! お前、また避けやがったな!」
「飛来物への危機回避は、生物としての本能です。……ところで先生、先ほどのケインズ経済学における有効需要の創出についてですが」
俺は静かに立ち上がった。
「公共事業による財政出動は、短期的には雇用を生みますが、長期的にはクラウディング・アウトを引き起こし、民間投資を圧迫します。現在の日本の膨大な財政赤字を踏まえれば、供給側の構造改革、いわゆるサプライサイド経済学のアプローチこそが急務ではないでしょうか」
教室が水を打ったように静まり返る。
高校1年生の補習レベルを遥かに超えた、マクロ経済の核心を突く指摘。
真田はピクリと眉を動かし、忌々しそうに咳払いをした。
「……理屈だけは一人前だな。座れ」
俺は淡々と着席した。知識は盾であり、時に最も鋭利な剣となる。
休み時間。廊下に出ると、生徒会の書類を抱えた霧島セイラ先輩とすれ違った。
夏服のブラウスに身を包んだ彼女は、相変わらず隙のない美しさだが、その表情は以前よりずっと柔らかい。
「ごきげんよう、西園寺くん。……また真田先生を言い負かしたそうね。職員室で少し話題になっていたわよ」
「ごきげんよう、霧島先輩。事実を述べたまでです。……生徒会の仕事ですか? 夏休み中もご苦労様です」
「秋の文化祭の予算折衝よ。……貴方の無駄のない立ち回り、少しだけ参考にさせてもらっているわ」
彼女はフンと鼻を鳴らし、少しだけ誇らしげに微笑んだ。
氷の女王の雪解け。彼女との関係性は、極めて良好な状態で維持されている。
放課後。
俺は花村結衣先輩と、学園近くの落ち着いたカフェにいた。
「夏休みの宿題で分からないところがある」という彼女のSOSに応えた形だ。
「えへへ……ごめんね、西園寺くん。せっかくの夏休みなのに」
結衣先輩は、アイスミルクティーのストローを咥えながら、申し訳なさそうに上目遣いをしてくる。
「構いませんよ。基礎的な部分の反復ですね。……ここをこう展開すれば——」
俺が数式を解説し始めた、その時だった。
「——やあ。相席、構わないかな?」
不意に、テーブルの横に人影が立った。
仕立ての良いサマースーツを着こなした、キザな風貌の男。
探偵、神宮寺レイ。
俺は警戒レベルを一気に引き上げた。だが、結衣先輩の前で不自然な態度は取れない。
「……お久しぶりです。奇遇ですね」
「ああ。近くで『調査』があってね」
神宮寺は勝手に椅子を引き、俺たちの向かいに座った。そして、驚いている結衣先輩に向かって、人好きのする完璧な笑みを向けた。
「驚かせてしまって申し訳ない。私は彼の……少し年上の友人、といったところかな。神宮寺と申します。お嬢さん」
「あ、は、はい! 花村結衣です……。玲央くんの、先輩で……」
結衣先輩は顔を赤らめ、ペコリと頭を下げた。
「花村さんか。可憐な名前だ。……玲央くんは優秀だが、少し頭が固いところがある。君のような優しい女性がそばにいてくれると、彼も息が詰まらなくて済むだろうね」
神宮寺の言葉は紳士的だ。しかし、俺の目を見つめるその瞳の奥には、残酷な知性が光っている。
(……僕の『大切な駒』を品定めしているのか)
「お褒めいただき光栄ですが、僕たちは勉強の途中ですので。……それに、探偵さんはお忙しい身でしょう?」
俺は冷徹な声で牽制した。結衣先輩を、これ以上この男の毒気に触れさせるわけにはいかない。
「ハハッ、冷たいな。……まあいい。今日はただの挨拶だ。またゆっくり話そう、玲央くん」
神宮寺は伝票も持たずに立ち上がり、結衣先輩に軽くウィンクをして店を出て行った。
「……なんか、不思議な大人の人だね。かっこいいけど、ちょっと怖いかも」
結衣先輩が小首を傾げる。彼女の直感は正しい。
「ええ。あまり関わらない方がいい人種です。……さあ、数式の続きをやりましょうか」
俺は彼女の意識をノートへと引き戻した。
神宮寺レイ。奴の目的が見えない以上、周囲への警戒はこれまで以上に厳重にする必要がある。
結衣先輩を駅まで送り届けた後、俺は渋谷の『TSUTAYA』に立ち寄った。
先日借りていたデヴィッド・フィンチャーの2作、『セブン』と『ゲーム』を返却ポストに滑り込ませる。どちらも、人間の心理の脆弱さを突いた傑作だった。
新たに新作コーナーとサスペンスの棚を巡り、2本のVHSを抜き出す。
『羊たちの沈黙』と、緻密な脚本で知られる『ユージュアル・サスペクツ』。
人間の持つ「悪意の深淵」と「視点の反転」を学ぶための教材だ。
帰宅後。
静まり返ったペントハウスのリビング。誰の気配もしない。
シャワーを浴び、夜景を見ながら冷たいミネラルウォーターを飲んでいると、携帯電話が震えた。
時刻は深夜23時。着信は、天童くるみからだった。
「……もしもし。遅い時間ですが、どうしました?」
『……レオ? ごめん、起こしちゃった?』
電話の向こうのくるみさんの声は、いつもの元気なトーンとは違い、酷く沈んでいた。
「起きていますよ。……何かトラブルですか?」
『ううん……。トラブルってわけじゃないんだけど。……なんか、急に怖くなっちゃって』
彼女はポツリポツリと語り始めた。
着メロサイトのプロモーションの顔としての重圧。新曲のレコーディングが上手くいかないこと。トップアイドルに返り咲いたからこそ感じる、底知れぬ孤独。
『……周りの大人はみんな、あたしを「商品」としてしか見てくれない。……レオの声が、聞きたかったの』
甘えと、SOS。
「……くるみさん。君は商品ではなく、唯一無二の才能を持つアーティストです。僕が保証します」
俺は低く、落ち着いた声で彼女を肯定した。
「焦る必要はありません。プレッシャーを感じるのは、君が真剣に音楽と向き合っている証拠です。……深呼吸して、今日はもう眠りなさい。大丈夫、僕がついています」
『……うん。……ありがと、レオ。なんか、落ち着いた』
電話越しの彼女の息遣いが、少しだけ穏やかになる。
『……おやすみ、レオ。大好きよ』
「おやすみなさい。良い夢を」
通話が切れる。
彼女を支えることも、プロデューサーとしての俺の重要な役目だ。
俺は携帯をテーブルに置き、静寂の夜に溶け込んでいった。
午後、俺は渋谷の『タワーレコード』にいた。着メロ事業のマーケティングとして、洋楽のトレンドを把握するためだ。
3階の洋楽フロア。
俺が試聴機のヘッドホンを耳に当て、新譜をチェックしていると、横から不意に手が伸びてきた。
「ねえ、これ聴いた? 今度来るUKロック! 絶対売れるから!」
休憩中なのか、エプロンを外した星野亜美だった。
17歳の元気なタワレコ店員。彼女は強引にヘッドホンの片方を引っ張り、俺の右耳に当てた。
近すぎる距離。彼女の髪から、爽やかなシャンプーの香りが漂ってくる。
流れてきたのは、ギターのディストーションが効いたノリの良いロックナンバーだ。亜美はリズムに合わせて首を振っている。
「どう!? アガるっしょ!」
俺は冷静に曲の構成を分析し、ヘッドホンを外した。
「……サビのフックが弱い。日本では流行らないでしょうね」
「はぁ!?」
亜美がムッとして頬を膨らませる。
「なんでよ! この疾走感、最高じゃん! 博士、耳腐ってんじゃないの!?」
「疾走感だけで売れるなら苦労はしません。日本の市場が好むのは、明確なメロディラインと、カラオケで歌いやすいカタルシスです。この曲はAメロとサビの高低差が少なく、平坦すぎる」
「っ……理屈っぽ! 音楽はノリとパッションでしょ!」
「パッションを届けるための、緻密な計算が必要です」
俺たちは試聴機の前で、「売れる音楽とは何か」について激論を交わした。
亜美は俺のロジカルな分析力に、悔しそうにしながらも次第に舌を巻いていった。
「……もう、ホント生意気。でも……博士の言う通りかもね。カラオケで歌いづらいのは確かだわ」
彼女は負けを認め、ため息をついた。
「……あーあ、なんか熱くなっちゃって喉渇いた! ねぇ、この後少し付き合ってよ。息抜き!」
亜美に半ば強引に連れ出され、俺たちが向かったのは、渋谷のセンター街奥に今年オープンしたばかりの大型ディスカウントストア『ドン・キホーテ』だった。
店内は、天井まで商品が積み上げられた「圧縮陳列」の迷宮だ。
蛍光灯の眩しい光と、エンドレスで流れるテーマソング。
「うわっ、これ超ウケる! 博士、これ被ってみてよ!」
亜美が馬鹿馬鹿しいパーティー用の被り物を持ってきて、俺の頭に乗せようとする。
「……丁重にお断りします」
「えー、ノリ悪いなぁ!」
彼女は楽しそうに店内を歩き回り、安い化粧品や輸入菓子をカゴに放り込んでいく。
俺はその雑多な空間を歩きながら、この店舗の凄まじい流通システムと、顧客の「宝探し心理」を煽る空間設計を分析していた。
「……悪くないビジネスモデルだ」
「またぶつぶつ言ってる。ほら、行くよ!」
亜美の弾けるようなエネルギー。それは、神宮寺の不気味さや、くるみの繊細さとは全く異なる、強烈な「陽」の力だった。
亜美と別れた後。
俺は渋谷駅の地下に広がるショッピングモールの一角、高級宝石店に足を運んでいた。
ショーケースに並ぶ煌びやかなジュエリーには目もくれず、俺は奥のカウンターへ向かった。
目的は、装飾品としての宝石ではなく、インフレヘッジとしての「ルース」の市場価格の視察だ。
店員に出してもらった数個のダイヤモンドのルースを、ルーペで確認する。
「……クラリティはVVS1、カラーはD。カットもエクセレントですね。流動資産としての価値は十分にあります」
「お目が高い。……学生さんとは思えませんね」
店員が驚いたような顔をする。俺は価格の推移を頭に叩き込み、店を後にした。金に続く、持ち運べる資産の候補として悪くない。
そのまま麻布十番へ移動し、『ナニワヤ』で夕食の食材を買い込む。
今夜は、一人きりの優雅なディナーだ。
メインは『スズキのポワレ』。
夏を代表する白身魚、スズキ。その分厚い切り身と、新鮮な夏野菜を購入する。
ワインコーナーで、フランス・ブルゴーニュ地方の最高級白ワイン『シャブリ・グラン・クリュ』を選ぶ。ミネラル感が豊富で、白身魚に完璧に寄り添う一本だ。
帰宅後。
静寂なペントハウスのキッチンに立つ。
まずは『ラタトゥイユ』から。
ナス、ズッキーニ、パプリカ、玉ねぎをサイコロ状に切り揃える。
オリーブオイルでニンニクの香りを出し、野菜を炒める。トマトの水煮缶を加え、タイムとローリエの香りを移しながら、野菜の水分だけでじっくりと煮込んでいく。
次にスズキだ。
切り身に塩胡椒をし、皮目に小麦粉を薄くはたく。
フライパンにオリーブオイルとバターを熱し、皮目から一気に焼き上げる。
パチパチという音。皮が縮まないよう、フライ返しで上から軽く押さえつける。
皮がパリッと黄金色に焼けたら裏返し、白ワインでフランベして香りをまとわせる。
「……完璧な焼き加減だ」
皿の中央に鮮やかなラタトゥイユを敷き、その上に皮目をパリッとさせたスズキを乗せる。
周囲に、バジルとオリーブオイルで作った特製ソースを回しかける。
軽くトーストしたバゲットを添え、テーブルに運ぶ。
ワインクーラーでキンキンに冷やしておいた『シャブリ』のコルクを抜く。
トクトクトク……。
グラスに注がれた淡い黄金色の液体。
一人きりのダイニング。東京タワーのオレンジ色の光が、静かに部屋を照らしている。
「いただきます」
まずはスズキにナイフを入れる。
サクッという皮の音の直後、中の真っ白な身がほろりと崩れる。
口に運ぶと、バターのコクと香草の香り、そしてスズキの上品な旨味が広がる。
そこに、ラタトゥイユの野菜の甘みが加わり、味の層が幾重にも重なる。
すかさず、冷えたシャブリを流し込む。
キリッとした酸味と、火打石を思わせる豊かなミネラルが、魚の脂を美しく洗い流し、口の中をリセットしてくれる。
「……至高だな」
誰にも邪魔されない、味覚との純粋な対話。
カリッと焼けたバゲットで、皿に残ったソースとラタトゥイユを拭うようにして食べる。
炭水化物と脂質の罪深いマリアージュ。
ワイングラスを傾けながら、俺は今日一日の出来事を反芻した。
チョークの弾道。神宮寺の不敵な笑み。くるみの弱音。亜美の情熱。
世界は複雑なノイズに満ちている。




