第89話 青き電波と放送室の共犯者
関東地方の梅雨明けが発表されたこの日、東京は突き抜けるような青空と、容赦ない日差しに包まれていた。
アスファルトが熱気を帯び、セミの声が耳鳴りのように響く。
通学中のハイヤーの中、俺は、冷房の効いた車内で2冊の専門書を交互に読み進めていた。
『iモード・ストラテジー』。
2月に開始されたドコモのiモードサービスが、いかにして日本のライフスタイルを変革しつつあるかを論じた戦略書。
そして、『現代建築の潮流』。
都市開発とデザインの相関性を説いた大判の書籍だ。
「……モバイルという『個』の空間と、建築という『公』の空間。この二つを繋ぐのが、次のビジネスの鍵になる」
知識を脳内で統合しながら、俺は校門をくぐった。
今日は期末試験の結果発表日だ。
掲示板の前は、悲喜こもごもの声を上げる生徒たちで黒山の人だかりができている。
俺は人垣の後ろから、掲示板の最上段を確認した。
『1位 西園寺 玲央』
当然の結果だ。全科目満点に近いスコア。
41歳の経験値と効率的な学習メソッドがあれば、高校1年生のカリキュラムなど恐るるに足りない。
「あ、西園寺くん! おめでと~!」
人混みの中から、ふわりとした甘い声が聞こえた。
花村結衣先輩だ。夏服のブラウスを風になびかせ、満面の笑みで手を振っている。
「ありがとうございます、花村先輩。先輩の結果はいかがでしたか?」
「えへへ、聞いて驚かないでね? ……なんと! 赤点ゼロでした~!」
彼女はVサインを作って胸を張った。
ギリギリの勝利なのだろうが、彼女の笑顔を見ていると、それが偉業のように思えてくるから不思議だ。
「それは素晴らしい。勉強会の成果ですね」
「うん! 西園寺くんのおかげだよ~。……あ、ごめんね、私これから委員会があるの。またね!」
彼女は嵐のように去っていった。
平和な日常。だが、その平穏は唐突に破られた。
「……おい、あれ見ろよ! 校門のところに……!」
「マジか!? 芸能人じゃね?」
「天童くるみだ!!」
窓際からどよめきが広がる。
俺が窓から下を見ると、校門付近に人だかりができ始めていた。
その中心に、キャップを目深に被り、サングラスをかけた小柄な少女がいる。変装しているつもりだろうが、あのオーラは隠しきれていない。
「……馬鹿な。何をしに来た」
俺は舌打ちし、教室を飛び出した。
パニックになる前に回収しなければならない。
俺は教師たちが駆けつけるよりも早く現場に到達した。
「……道を開けてください! 生徒会です!」
人垣を割り、中心にいる少女の手首を掴む。
「……レオ!?」
「黙ってついて来い」
俺は彼女の手を引き、校舎裏の死角へと走り込んだ。
そのまま人目を避け、放送室へと滑り込む。ここは鍵の管理が甘く、今は無人だ。
ガチャリ。鍵をかける。
「……ふぅ。危なかった……」
くるみはサングラスを外し、肩で息をした。汗ばんだ髪が額に張り付いている。
「一体何を考えているんですか。学校にアイドルが一人で来るなんて」
「だって……! レオに会いたかったんだもん! ……メールしても返事遅いし」
彼女は頬を膨らませて拗ねた。
トップアイドルとは思えない、ただの恋する少女の顔。
「……寂しかったのよ。人気が出れば出るほど、孤独になるんだもん」
彼女は俺の制服の裾を掴み、上目遣いで見上げてきた。
薄暗い放送室。機材のランプだけが点滅している。
「……くるみさん」
俺は彼女の肩に手を置いた。
彼女が目を閉じ、顔を近づけてくる。
甘い柑橘系の香り。
唇が触れ合う寸前、俺の視界に『ON AIR』の赤いランプが飛び込んできた。
「……っ!」
俺は寸前で彼女の口を塞ぎ、ミキサー卓のメインスイッチを確認した。
……切れている。
だが、万が一ということもある。
「……ここは学校です。スキャンダルになりますよ」
俺が囁くと、彼女は顔を真っ赤にして離れた。
「……い、意地悪。……でも、ドキドキした」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「……ここを出ましょう。車を回させます」
俺たちは裏口から学校を抜け出し、待機させていたハイヤーに乗り込んだ。
向かった先は、お台場海浜公園。
夕暮れの海風が、二人の火照った頬を冷やしていく。
「……レオ。あたし、もっと頑張るから。……だから、ちゃんと見ててね」
レインボーブリッジの灯りを背景に、彼女は誓うように言った。
その瞳には、アイドルとしての覚悟と、俺への信頼が宿っていた。
1学期の終了式を明日に控えた放課後。
教室に残っていた俺は、廊下から聞こえる怒号に気づいた。
「おいマナ! 待てよ! 無視すんなって!」
日向翔太の声だ。
俺が廊下に出ると、階段の踊り場で翔太が桜木マナの前に立ちふさがっていた。
先日のテスト期間中に「さようなら」と告げられた事実を、彼はまだ受け入れられていないらしい。いや、理解する知能がないのかもしれない。
「なんで俺を無視するんだよ! ……金か? 西園寺の金がそんなにいいのかよ!」
醜悪な嫉妬。
自分から離れていくマナを繋ぎ止める術を持たず、最低の言葉で彼女を貶めようとしている。
マナは、以前のように怯えることも、怒って言い返すこともしなかった。
ただ、冷ややかな瞳で翔太を見つめている。
そこには、軽蔑すらなく、ただ「無関心」だけがあった。
俺は二人の間に割って入った。
「……そこまでだ、日向」
「西園寺……! またお前かよ! これは俺とマナの問題だ!」
「問題など存在しない。彼女はもう、君を見ていない」
俺は翔太を論破することすらしなかった。議論のテーブルに乗せる価値もない。
俺は背を向け、マナに向き直った。
「……行きましょう、桜木さん」
「……うん」
マナは頷き、翔太の脇をすり抜けた。
翔太が手を伸ばそうとしたが、俺の視線に射竦められて動けない。
「……マ、マナ……?」
「……私、子供扱いされるのはもう嫌なの」
マナは、背中の翔太に向けてではなく、自分自身の決意として呟いた。
「玲央くんと一緒に、大人になりたい」
それは、過去への完全な決別宣言だった。
翔太は呆然と立ち尽くし、俺たちはその場を後にした。
彼がこれ以上何を叫ぼうと、もう彼女の耳には届かない。ノイズは遮断されたのだ。
「……どこへ行こうか」
校門を出て、俺はマナに尋ねた。
彼女は少し考えてから、顔を上げた。
「……代官山に行きたい。……少し、背伸びしてみたいの」
俺たちはタクシーで代官山へと向かった。
旧山手通りに並ぶ、洗練されたブティックやカフェ。
高校生には少し敷居の高い街だが、今の彼女には不思議と馴染んでいた。
「綺麗だね……」
彼女はショーウィンドウに映る自分を見つめた。
翔太という呪縛から解き放たれ、自分の足で歩き始めた少女。
「似合っていますよ。君はもう、誰かの付属品じゃない」
「……ありがとう。玲央くんがいてくれたから、私、変われたんだよ」
彼女は俺の手を、そっと握った。
その手は震えていたが、温かかった。
帰宅後。
様々な感情が交錯した一日を締めくくるため、俺は一人、ペントハウスのキッチンに立った。
誰のためでもない、自分自身のための料理。
今日のメニューは『最高級の回鍋肉』だ。
四川料理の定番だが、俺が作るのは甜麺醤の甘みと豆板醤の辛味が絶妙なバランスで共存する、本格派だ。
食材は妥協しない。
豚肉は、脂の甘い黒豚のバラブロック。これを塊のまま茹でてから、薄切りにする。手間だが、こうすることで余分な脂が抜け、肉の旨味が凝縮される。これが「回鍋」という名の由来だ。
キャベツは、高原キャベツ。手で大きくちぎる。包丁を使わないことで断面が増え、タレがよく絡む。
ピーマンと長ネギも用意する。
中華鍋を限界まで熱し、煙が立つほどにする。
油を馴染ませ、まずは野菜をサッと油通しする。
ジュワッ!
一瞬で火を通し、ザルに上げる。これでシャキシャキ感を残す。
鍋に残った油で、茹でた豚肉を炒める。脂身が透き通り、カリッとしてきたら、豆板醤と豆鼓を加えて香りを立たせる。
ここに甜麺醤、酒、醤油、砂糖を合わせたタレを投入。
ジャアアァァッ!!
濃厚な味噌の香りが爆発する。
野菜を戻し入れ、強火で一気に煽る。
鍋を振るたびに、具材がタレを纏い、艶やかな飴色に染まっていく。
仕上げにラー油とごま油をひと回し。
「……完成だ」
皿に盛り付けると、キャベツの緑と味噌の黒赤色が食欲をそそる。
副菜は『中華風卵スープ』。
トマトとキクラゲを入れ、酸味を効かせたさっぱりとした味に仕上げる。
飲み物は、最高級の『鉄観音』。
深く焙煎された烏龍茶の一種。芳醇な香りと、口の中の脂を洗い流す力強い渋みがある。
ダイニングテーブルにつき、一人静かに手を合わせる。
「いただきます」
回鍋肉を一口。
豚肉の香ばしさと脂の甘み。それを包み込む甜麺醤のコク。
キャベツを噛むと、甘い汁が味噌と混ざり合う。
「……美味い」
白米の上に乗せてかきこむ。
これぞ男の中華だ。繊細なチンジャオロースも良いが、今日はこのガツンとくる味が欲しかった。
鉄観音を飲む。
熱い茶が、喉の奥の脂をさらりと流していく。
今日の出来事を反芻する。
くるみの情熱、翔太の哀れさ、そしてマナの決意。
人間関係は整理された。もう後戻りはない。
俺は箸を置き、窓の外に広がる東京の夜景を眺めた。
明日で1学期が終わる。
そして、長く熱い夏休みが始まる。
ファントム、神宮寺、そしてビジネスの拡大。
やるべきことは山積みだ。
だが、今の俺にはそれを乗り越えるだけの力がある。




